久万 ほうねんじ のブログ

法然寺でのスローなできごと。

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2019年05月24日 | 日記


人の心 もとより 善悪なし
道元


多くの人は「これは良い事」「これは悪い事」というように、日常的に物事を善悪で分別しながら生きている。

テレビ番組などでも、まず悪(敵)を作り出し、それを映像や音楽の編集によって見る人に不安を煽る。
テレビだけではない。時には国が国民の心を操作することもある。

日本でも、かつてそういう過去があったことは、戦争を知らない私でも知っている。

そして世界の国々の中には、今まさに「我が国は善」「あの国は悪」と一触即発な状況なところもある。

道元のこの言葉は、
「どんな人間でも生まれた時は善人だ」
というようなことを言いたいわけではないだろう。

「その人が善か悪かを決め付けるのは私(受け手)なだから、本来、その人自身は善でも悪でもないのだ。善か悪かは、人が一方的に作り上げたものなのだ。」

という意味をはらんでいるのではないか。

いや、それもちょっと違うのかもしれない。
なぜなら、仏には善か悪かという区別する概念もないはずである。

道元の歌に

春は花 夏ほととぎす 秋は月
冬雪さえて 冷しかりけり

がある。

道元は「あるがまま」を生きた人である。

「他人がどんな人で何をしているのか?に関心を持つのではなく、自分の「今」をあるがままを見て、あるがままに生きるんだ!」

と言ってくれているのではないだろうか。
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