久万 ほうねんじ のブログ

法然寺でのスローなできごと。

25日の法話会

2020年03月26日 | 日記
昨日は夕方から雨になり、今もまだ降り続いています。

25日はお念仏の日。定例の法話会を開きました。

お話の内容は、今月の掲示板「ほとけも昔は凡夫なり」という平家物語にある言葉を深掘りしたものです。

この言葉には続きがあります。

『ほとけも昔は凡夫なり われらも終(つひ)には仏なり いずれも仏性(ぶっしょう)具せる身を 隔(へだ)つるのみこそ悲しけれ』

この歌は平清盛に寵愛を受けていた白拍子の祇王(ぎおう)が、清盛の心が同じ白拍子の仏御前(ほとけごぜん)に移ってしまったことを悲しんでよんだものです。

また、次の言葉もご紹介しました。

『衆生本来仏なり、水と氷の如くにて、水を離れて氷なく、衆生のほかに仏なり』

これは白隠禅師の言葉です。衆生というのは凡夫(人)のことです。先の祇王の歌にも共通してますね。

人は誰でも仏性(仏となる性質)を備えています。
仏になるには「人」であることが前提条件であり、人と仏は水と氷のように表裏一体ということでしょうか…。

また、人は状況によって仏にもなり得るけれど、一方で悪人にもなり得るということでしょうか。

      仏←人→悪人

法話では、是枝裕和監督の映画「万引き家族」を取り上げました。

この映画の中で、血の繋がりが無い家族が貧しいながらも幸せに暮らしています。
ただ、社会的な弱者が故に、生活の(生きていく)ために万引き等の犯罪をしてしまうという状況にいるのです。

この場合、この万引き家族は社会的に見て弱者であり法律的には犯罪者ではあるのですが、「悪人」なのでしょうか。
気になった方は、是非本編をご覧になって下さい。

人は与えられた環境によって生き方が変わります。

我々は状況次第で悪にも仏にもなるし、それを判断するのは、いつも我々の心なんだ。。




ここで法話は終わりました。

でも、法話を聞いて頂いた皆様、申し訳ありません。
準備不足でした。自分の中でしっくり来ないまま終えてしまったのです。。
その場にいた弟に法話の感想を聞くと、一言…「長かったね…。」でした。(笑)

その後、ずっと何が府に落ちないのか考えていました。

ここでは、その続きを付け足させていただきたいと思います。


浄土宗の教えでも、悪人は犯罪者という意味ではありません。
「悪人」とは「自分の力では救われない者」ということです。
つまり、我々の大半は、悪人であるといえます。
それをふまえて、悪人こそがお念仏によって救われるという、いわゆる『悪人正機』を考えて頂きたいと思います。

映画「万引き家族」を見て、

仏と人と悪人…その関係は

仏←人→悪人

という縦の関係ではなく、

仏=人=悪人

という並列関係ではないのか。と思うようになりました。

ここで今一度、白隠禅師の言葉を出します。
『衆生本来仏なり、水と氷の如くにて、水を離れて氷なく、衆生のほかに仏なり』

白隠禅師は、
人は状況よって仏や悪人に「ナル」のではなく、人は常に仏でもあり悪人でも「アル」のだと言いたいのではないでしょうか。


長文の独り語りでした。。
法話の時に話さなければ意味はありませんが、以上補足とさせて頂きます。




来月4月25日は、法話に加え、甘茶を用意して「花まつり」を予定しております。
桜が持ってくれれば良いのですが、チョット難しい気がしますね〜。

ウィルス…私にできることは、いつも通りお念仏を称えるしかありません。

合掌 十念
コメント