BLOG 思い遥か

日々新たなり/日本語学2020

日本語教育史の古代

2021-10-19 | 日本語教育史

共時の言語教育に通時は捉えがたい。
現代、近代、中近世と逆年表にして歴史研究の禁じ手をあえてとると、そのいずれも始まりを見つけることになる。歴史が結果だとは言わないが因果による思考法で歴史に現在を見ることは過去の現在字の出来事をおさえることになる。
現代は留学生の教育に日本語、外国語学習がある。それは10万人計画から30万人計画となって、そもそも留学の始まりはどこか。受け入れは1978年の友好条約による中国留学生の渡日に現代史の画期があれば近代の清国留学生にさか上ることになる。
留学生を留学僧にシフトすると中近世を超えて古代に及ぶ。奈良、平安朝の交通にある。遣唐使にまでになると、これは留学生の派遣で、日本語教育外国語習得のいずれかということであるから、留学僧の古代に見れば、果たして大和言葉についてヲサの学習はどうだったろう。

ここには、実は次の交通史を見る。
遣唐使  7~9世紀に朝廷が唐に派遣した公式の使節。目的は中国文化の輸入であった。使節は,大使,副使,判官,録事から成り,留学生,留学僧を伴い,多いときには 500人にも達した。 
遣渤海使  728年から811年までの間に14回(うち1回は渤海経由の遣唐使。このほか操舵手等の派遣が1回。)の使節が記録に残っている  
遣耽羅使  679年(天武天皇8年)と684年(天武天皇13年)には日本から耽羅への使者が派遣されている

新羅使  新羅より倭あるいは日本を訪問した公式の使節
渤海使  渤海より日本を訪問した使節である。728年から922年までの間に34回(このほか東丹国(契丹、遼)による派遣が1度)の使節が記録に残っている。

遣隋使、遣唐使派遣時代の通訳は「をさ」と呼んで、「訳語」「通事」と表記

世界大百科事典
訳語  おさ
> 古代の通訳。通事とも書く。〈ヲサ〉は古代朝鮮語であろう。大化前代に中国大陸や朝鮮半島諸国との通訳を職掌として世襲する渡来人系氏が生まれ,のちに姓(かばね)としての日佐(おさ)を帯びた。しかし,時代の変化により,これらの氏と異なる訳語・通事が任命され,遣隋使小野妹子には通事鞍作福利(くらつくりのふくり)が随行し,701年(大宝1)任命の遣唐使の大通事には垂水広人(たるみのひろひと)がみえる。また722年(養老6)には,蝦夷・隼人の征討に訳語がみえている。730年(天平2)に粟田馬養(うまかい)ら5人に弟子を取って訳語を養成させ,761年(天平宝字5)には新羅征討を企図して,美濃・武蔵国の少年たちに新羅語を学ばせた。《延喜式》には大宰府に大唐通事,新羅訳語がみえ,813年(弘仁4)に対馬にも新羅訳語が置かれた。また来朝する渤海使の対応にも訳語が任命され,新羅使・渤海使側の通訳も通事・訳語と呼んだ。  [野村 忠夫]

日本大百科全書(ニッポニカ)
訳語  おさ
> 古代の官職名、氏(うじ)の一つ。通訳の意で、通事(つうじ)とも書く。また曰佐(おさ)とも書き、その語源は百済など朝鮮諸国の氏姓に由来する古代朝鮮語と考えられる。当初は遣隋使小野妹子(おののいもこ)の通事鞍作福利(くらつくりのふくり)のように、渡来系氏族が登用されたが、次第に留学経験者などで会話に堪能な者が登用されるようになった。初見は『日本書紀』雄略7年是歳条。『延喜式』には遣唐使の訳語・新羅訳語・奄美訳語、遣渤海(ぼっかい)使、遣新羅使の訳語や大・小通事が見える。官職名から氏名に転じた例もあり、曰佐氏は山城国相楽(さがらか)郡、大和国添上(そうのかみ)郡、近江国野洲郡など畿内とその周辺に分布した(『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』など)。 [森 公章]



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