BLOG 思い遥か

日々新たなり/日本語学2020

教育の歴史

2021-08-28 | 日本語教育史

日本語教育史は日本語教育における日本語研究と日本語歴史とともにある。教育に、とりわけ語学教育に歴史認識は必要かどうか、議論が分かれる。日本語教授法の歴史ということであれば語学教師の研鑽につながるだろう。歴史を知ることの難しさがある。日本語教育史を語ることはこれでもうなくなってしまうか。



日本語教育史のトピックを加えよう。カテゴリーに足すだけにするか、blogのタイトルに入れるか、日本語学2020も期間限定だから、ただ2021年もありそうで、この記事が手控えのようになってしまうのは申し訳ないことである。現代語の中に歴史を入れるのは、ソシュールの記述では、共時に対する通時の手法を厳しく戒めたもので、現代語記述に歴史は入れないという研究法を示しているが、けだし諸言語において同様かどうか、日本言語だけか、日本語はおよそ1600年を連続する列島の地域での言語使用であるから、その分別で取り上げるには難しい言語である。
いま話題は日本語教育史の歴史記述であった。現代語と古典語の研究のことではない。
さてそれで、どのようになるか。云々となるのは、横のページに縦を入れるような、そういう誤謬を起こしかねないから、歴史とは何かを横にして考えることになる。日本史の教科書もいつからか、早くに横書きで、縦の史料が多い中で言えば奇妙なことである、と、随分前に、5,60年になる、そう思ったものであったから、世界史科目ような、きわめて鵺的なものよりは、少しは教育史として成り立つか。
日本語教育の経験を、自らの歴史物語としよう。

2020-10-28
日本語教育の歴史は漂流民の話しでもある。と、何ごとかとおもわせて、ロシア大陸にも、アメリカ大陸にも、最初の日本語教師は漂流して流れ着いた、最初かどうかはともかく、そういえば、遣唐使のような交流の歴史にも遡って、遣隋使、遣新羅使、遣渤海使などの前史もあって、留学僧の難破、漂流覚悟の往来は言葉の不自由さも難なく超えたろうか。さて漂流民には尽きないことを想像しても、流されてからまた帰ってきた人として、北槎聞略の記録は貴重である。

www.digital.archives.go.jp › category › categoryArchives
北槎聞略. 天明2年(1782)、江戸への航海中に遭難、漂流の後ロシアに渡り、寛政4年(1792)に帰国した伊勢国の船頭大黒屋光大夫等の体験を、蘭学者桂川甫周が幕府の命を受けて聴取したロシア・シベリアの地誌・見聞録です。持ち帰った ...

北槎聞略―大黒屋光太夫ロシア漂流記 (岩波文庫) | 桂川 甫周 ...www.amazon.co.jp › 北槎聞略―大黒屋光太夫ロシア...
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北槎聞略(ほくさぶんりゃく)www.komazawa-u.ac.jp › kokugo-hokusabunryaku66
しかし、そのなかで最も劇的なのが、この『北槎聞略(ほくさぶんりゃく)』に描かれた大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)の場合である。 光太夫は伊勢白子(しろこ)村(現在三重県鈴鹿市白子町)の生れで、裕福な商家の出身だったが、いつの ...

www.bunka.pref.mie.lg.jp › asp › arekore › detail
ロシアを見てきた最初の日本人・大黒屋光太夫
> 漁船や廻船が時化のため外国へ流されるのはしかたのないことで、中国や朝鮮などへ漂流した人がたくさんいます。
 現在の鈴鹿市の南若松という地に生まれた大黒屋光太夫は、ロシアに漂着し、帰国した最初の日本人でした。天明2年(1782)、光太夫31歳の時、江戸に向かって白子を出帆した彼らは駿河沖で遭難し、北へ流されて小さな島で寒さや飢えと闘いながら4年間をすごしたあと、ロシアに渡りました。彼を日本語学校の教師に、というロシアの望みをふりきって帰国願いを繰り返し、数年後、ついに帰国の許可を得たのです。出帆時には17名だったのが3 名になってしまっていましたが。
 ロシアで世話になった人の息子アダム・ラクスマンが、日本との貿易を求める使節となり、寛政4年(1792)9月、光太夫を連れて北海道の根室に着きました。しかし、前例のないことに幕府は大混乱となって、使節と役人の長い交渉ののち、松前で光太夫が幕府側に引渡されたのは翌年6月のことだったのです。
 ロシアを見てきた最初の日本人として、彼は将軍や老中松平定信の前で様々な質問を受けましたが、彼はそれに的確に応えました。ロシアでも名を知られていた蘭学者の桂川甫周は、光太夫の知識をもとに『北槎聞略』という書物を著しましたが、甫周を満足させるだけの見聞を一介の商人である光太夫がしてきたことは驚くべきことです。鎖国政策を守ろうとする幕府は、彼を危険人物のように扱い、江戸番町の薬草場へ閉じこめてしまいました。ロシアの女帝エカテリナ2世に謁見し、勲章までもらった彼だったのですが。
 煙草と帳面を離さなかったという彼。彼はどんなつもりで見聞きしたことを書き留めていたのでしょうか。当時はヨーロッパ諸国が本格的にアジアに進出し出した時代です。もしかしたら光太夫は、そうした世界の波を敏感にかぎとって、彼の得た知識を日本に伝えるために帰ってきたのかもしれません。
(昭和61年6月 鈴木えりも)


2020-10-21
日本語教育史に古代と近世を取り上げる。いずれも日本語学習があったかどうか、また日本語教育になるトピックがあったかどうか、と言う。その時代ではないけれど、日本の対外的な始まりと、その歴史に鎖国の時期が到来するエポックがある。近世は外国語学習として蘭学があった。幕末に日本語の文典が英学の影響であらわされる。時代を上がって古代には、遣隋使、遣唐使となれば留学僧であり、大国にだけでない遣新羅、遣渤海、遣耽羅の記録がある。一方で、新羅使、新羅より倭あるいは日本を訪問した公式の使節、渤海使、渤海より日本を訪問した使節、>728年から922年までの間に34回(このほか東丹国(契丹、遼)による派遣が1度)の使節が記録に残っている。とみえるので、ほかに周囲が海に囲まれた我が邦への渡来はあったであろう。訳語、通事の語を、ヲサとよみ、その言語にかかわる人々もいた。あるいは、万葉集の歌人に渡来者が見えるのを、記録と合わせて、日本語学習の証左とする報告が出された。

http://nihongo.hum.tmu.ac.jp/~long/longzemi/hosaka.htm
古代日本での言語接触   保坂 秀子

日本大百科全書(ニッポニカ)
訳語  おさ
> 古代の官職名、氏(うじ)の一つ。通訳の意で、通事(つうじ)とも書く。また曰佐(おさ)とも書き、その語源は百済など朝鮮諸国の氏姓に由来する古代朝鮮語と考えられる。当初は遣隋使小野妹子(おののいもこ)の通事鞍作福利(くらつくりのふくり)のように、渡来系氏族が登用されたが、次第に留学経験者などで会話に堪能な者が登用されるようになった。初見は『日本書紀』雄略7年是歳条。『延喜式』には遣唐使の訳語・新羅訳語・奄美訳語、遣渤海(ぼっかい)使、遣新羅使の訳語や大・小通事が見える。官職名から氏名に転じた例もあり、曰佐氏は山城国相楽(さがらか)郡、大和国添上(そうのかみ)郡、近江国野洲郡など畿内とその周辺に分布した(『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』など)。 [森 公章]


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