BLOG 思い遥か

日々新たなり/日本語学2020

主語か、主格か

2021-08-08 | 日本語学2021

三上論文に、主格の優位性を説く主張がある。相対的優位である。
主語マッ殺を言えば、主格の否認をも言うかと心配する向きに主格に優位を認める、論文に議論して次のように言う。
>「文は主語と述語から成る」というのは、明らかに事実に反するが、そう言いたがる人の心持も生かして言えば、「コトは必ず主格を含む」のである。短文主義には私も賛成であるが、それと、各文に主格を一つずつ配給するという方針とは少し食い違うはずである。センテンスとコトの違いを心得ることが必要である。  国語学 58・6 東京
西洋の尺度を用いる失敗を二重主語の説明に当てはめて、西洋には認められない議論はだめだとする論が展開する。
センテンスは、modous、コトは、dictum である。
あえてmodus、dictumの訳語、言表態度、言表事態に充てるなら、モダリティを議論の流れに見る。


https://www.dc.ocha.ac.jp/comparative-cultures/jle/saizensen/saizensen2002/PDF-kiji/02-KurotakiM-re051110-final.pdf
日英対照・認識的モダリティの研究動向
黒滝 真理子
言語文化と日本語教育 2002 年 5 月特集号

伝統的国語学の陳述論者達、例えば金田一(主観的/客観的表現)、芳賀(伝達的陳述/述定的陳述)、時枝(辞/詞)、シヤルル・バイイのmodus/dictumの訳語(言表態度/言表事態)、渡辺(陳述/叙述)、寺村(ムード/コト)等は、目的意識の相違からモダリティ概念の捉え方に統一性はみられない。則ち、それが意味範疇なのか、言語形式の名称なのかが明確ではない。

山田(1936)は文末形式、時枝(1950)は文末形式と非文末形式(副詞等)をとりあげた。渡邊は1953 年に文末形式、1954 年では文末形式と文機能(=文類型)即ち、話者の内容把握と聞き手への伝達との 2 側面を捉える。金田一(1958)は「う」「だろう」の主体的把握のものを不変化助動詞(辞の中に主観的/客観的意味両方ある)とする。更に、渡遽(1971)では、「[叙述機能]と[陳述機能]の統合で[文]は成立する」となる。
 これが「ポスト陳述論」の流れとでもいうべき現在の日本語研究となると、欧米諸国の影響が非常に強く、用語・概念や方法論までをも取り入れる傾向にある。まず、日本語研究に mood「ムウド」という用語を持ち込んだのは恐らく三上(1959)であろう。日本語にはないにもかかわらず、西欧語の動詞の屈折範疇を十分意識して、文末形式のみが扱われた。それを引き継ぐ形で寺村(1981)が「ムード」として一般化させた。


1 コメント

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表層格と深層格 (Maria)
2021-08-10 14:37:17
「述節に対応する表層格としての主語は現れない(省略される)」けれども、「述語から要求された深層格の主格」というものはある、という話だと思います。
「あいつは恥ずかしい」は、「あいつは私をして『恥ずかしい』と感じせしめる人物である」という意味なので、深層構造としての主格が表層格の主語として表沙汰になることはありません。
日本語でも命令文は、「命令している私(主体)」が動詞の命令形にかかっているので、一般的に省略されます。
英語でも、命令文や日記体だと、主語は省略される場合がほとんどです。
戸田 正直『感情』でいう、「ムード」によって、省略されるかされないか、が影響されるように思います。

うーん、「理系で自閉」の私としても「無粋な物言いだなぁ」とは思うのですが、なにせ無粋の極みであるコンピュータに日本語を処理させようというスタンスなので、ご容赦願います m(_ _)m
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