BLOG 思い遥か

日々新たなり/日本語学2020

語の分析

2021-06-18 | 日本語学2021

日本語文法の品詞で話部と分析すると、いわゆる付属語は分析対象とならない。付属語に分類した助詞、助動詞はいかなる産出によるものか。
助動詞は日本語の単語にない、というようなことは、明治になってからの文法学者によって整理されたもののようにも見えるが、品詞意識の背景にあったものが何かを知るべきだろう。西洋文法の影響と、いまこのことは大槻文法で助動詞に命名し、瓢箪から駒のように、助動詞仕立てになった。くわしくその由来を見れば、それまで文法書の多くに見える語である。
これは、テニヲハとともに漢文を訓読するときに読む、いうところの助詞、助動詞、用言の語尾、接尾語などの総称にあったものから、取り出されようとしたのである。それがまた、助詞、助動詞の使い方とも見られ、現在は言葉の用法を覆う。「てには」である。
助詞助動詞は話部にならない、品詞建てに入りえない。それであるから、自立語に対する付属語となっていたから、それを語であるかどうかと議論をして、さらに、詞の名称を、助詞助動詞とすることも避けられたであろうが、付属するゆえんをもって語の扱いに入っている。それをよいとして、助詞、助動詞の文法意味の働きでわかりよいが、助詞、助動詞ともに話部ではない。

ウイキペディアより

文語文法
格助詞 (が、の、を、に、へ、と、より、から、にて、して)
接続助詞 (ば、とも、ど、ども、が、に、を、て、して、で、つつ、ながら、ものの、ものを、ものから)
副助詞 (だに、すら、さへ、し、い、のみ、ばかり、など、まで)
係助詞 (は、も、ぞ、なむ、や、か、こそ)
終助詞 (な、な、そ、ばや、なむ、てしがな、に、しが、もがな、かな、か、し)
間投助詞 (や、よ、を)

口語文法
格助詞 並立助詞 副助詞 係助詞 接続助詞 終助詞 間投助詞 準体助詞

日本語助詞、用途グループ
(1)格助詞 (2)副助詞 (3)接続助詞 (4)係助詞 (5)終助詞 (6)間投助詞

国語の文法
助詞の性質と働き

格助詞
が の を に へ と より から で や
接続助詞
ば と ても(でも) から ので が けれど(けれども) のに て(で) し ながら たり(だり) なり つつ ものの ところで
副助詞
は も こそ さえ でも だって しか ばかり など まで だけ ほど きり(ぎり) くらい(ぐらい) なり やら か だの なんて ずつ とか すら
終助詞
な(なあ) や よ わ こと な ぞ ぜ とも か の ね(ねえ) さ かしら もの ものか





5 コメント

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文構造 (Maria)
2021-06-19 22:46:12
先生、「話部」と言っても金田一京助先生の著作を読みこなしていない世代には通じにくいと思いますよ(笑)。
「まず、主部を含めた文構造があって、その骨格にあたる要素として『話部』がある」「それに対して修飾部」という発想は、基本的に「科学的」であり「化学的」な発想なので、われわれのような有機化学の素養のある情報処理屋にとっては、すっきりと腑に落ちます。
有機化合物(アンモニアのように、炭素を含まない「有機物」もあるので、若干不正確なところもあるのですが)というのは「炭素と炭素のつながり」という「骨格」がまずあって、それを「修飾」するもろもろの「基」があるというのが、常識的な認識です。実用的にはそれで充分であり、そこから先は研究者の領域だというような共通認識があります。
そういう観点からいうと、「話部」というのは「文構造を規定する骨格」なので、それ以外の部分は捨象するというアプローチもあると思います。有機化学の方面では細矢治夫先生という「骨格の分類」の権威がいらっしゃって(「細矢インデックス」といって、国際学会もあるそうです)、それはそれで重要な研究分野です。
ただ、骨格と骨格をぶつけても化学反応は起きないわけで、それだけだと有機化学は成立しません。骨格の外側に、「反応基」がくっついているから化学反応が起きるわけです。
明治時代には、諸外国のテキストを「所与のもの」として、その「骨格」を理解するという「解剖学的なアプローチ」が重要視されたと考えることもできて、日本人は日本人どうし日本語でコミュニケーションが取れるので、「(日本語における)治療学的なアプローチ」は、「とりあえず、横に置いておこうか」というので後回しにされていたのかもしれません。
漱石先生(夏目金之助先輩。といっても府立一中時代なので日比谷の先輩とは言いづらいのですが)の『吾輩は猫である』は、漱石先生が英語教師だったので、日本語における「コピュラ」の位置に「である」を据えたのではないかとも思います。
「吾輩は猫なり。名前はまだござらん。」ではなかったところに、文体や文章の「新しさ」があったのだろうと思います。
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話部である (ksky)
2021-06-20 06:05:41
話部は、語り部ではない、話しの部分、談話の断片でない、まして、京助さん、修飾部、骨格とか、炭素と炭素、常識的な認識、解剖学的なアプローチに治療的なアプローチもない。それに、吾輩は猫であるをもって、また混ぜ返すのを聞いても、「猫デアル」は「ねこなり」とはなりえないよ(猫目線によるとーわたしはにんげんなり??)。
話部は言葉を単位にわけるだけのことで、声を出して読んでみようよ、日本語の文章を、ということに過ぎないので、読んでみて、ポーズを入れてみてください。
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金之助先輩について。 (Maria)
2021-06-20 17:39:40
Maria です。
> それに、吾輩は猫であるをもって、また混ぜ返すのを聞いても、「猫デアル」は「ねこなり」とはなりえないよ(猫目線によるとーわたしはにんげんなり??)
お孫さんである夏目房之介さん(漫画家)によると、「書斎に籠っている祖父は、『障子を隔てて虎が座っている』ような心地がした」そうです。
『吾輩は猫である』は新聞小説なので抑制が利いているのでいいんですが、『草枕』や『坊ちゃん』になると、そもそも「朗読」にならなくて、ほぼ「落語」になってしまいます。
> 話部は言葉を単位にわけるだけのことで、声を出して読んでみようよ、日本語の文章を、ということに過ぎないので、読んでみて、ポーズを入れてみてください。
ということには全面的に肯定しますが、うちらは怪談とか語らせたら「オチを知ってるやつでも悲鳴を挙げて泣く」という凄腕揃いです。「ひたひた」という鉄板ネタがありますので、うちの WebLog に公開しようかと思っています(たしか前にもやってなかったかな?)。
そもそも、「話部」の定義を明示していない時点で、「後出しじゃんけん」という批判は免れえない、という批判はあるうるわけで、
> 「吾輩は猫である」をもって、また混ぜ返すのを聞いても
と言われても「当方としては、混ぜっ返したりごまかしたりする気はまったくないので、真正面からぶつかってきてほしい」と考えています。

まぁ、ぶっちゃけ負ける気はまったくないのですが(笑)。
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例題 (ksky)
2021-06-20 23:47:11
それでは、金之助さんは人間なり、なんなり、よろしく、読み分けてみましょう。
「日本語文法の品詞で話部と分析する」と言っているのだが、まあ、ともかく。
>話部は言葉を単位にわけるだけのことで、声を出して読んでみようよ
そして、次を分けてください。
例文:
あらゆるしゅうだんにはそれぞれのぶんかがありそれをふかいところまでりかいするのはやさしくないあるぶんかについてひょうめんてきだけではなくいっぽふみこんだところまでしるためにはなにかしてんをさだめてかんさつするひつようがあろうじょうじゅつのようなごいのとくちょうのけんとうもそのようなぶんかりかいのひとつのほうほうになりうるのではないだろうか

回答をお待ちします。
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例文 (Maria)
2021-06-21 14:58:29
> あらゆるしゅうだんにはそれぞれのぶんかがありそれをふかいところまでりかいするのはやさしくないあるぶんかについてひょうめんてきだけではなくいっぽふみこんだところまでしるためにはなにかしてんをさだめてかんさつするひつようがあろうじょうじゅつのようなごいのとくちょうのけんとうもそのようなぶんかりかいのひとつのほうほうになりうるのではないだろうか
「"あらゆる集団"には、"それぞれの文化"があり、それを深いところまで理解するのは容易(やさし)くない。
ある文化について、表面的(な理解)だけではなく、一歩踏みこんだところまで知るためには、何か(=何かしらの)視点を定めて観察する必要(性)があろう。(じょうじゅつ)叙述(?)のような語彙の特徴の検討も、そのような文化理解のひとつの方法になりうるのではないだろうか。」
金之助先輩は、『草枕』では「坂道を登りながら、かふ考えへた」から、「智に働いたら、角が立った」「情に棹さしたら、流された」みたいな恨み節を脳内でぐるぐるしていたら、足を滑らせて尻餅を搗いた、みたいなオチを用意していました。『坊ちゃん』では、「東京人の田舎蔑視」を、東京人の(傍観者としての、俯瞰的な視点による)目で表現しています。
そもそも、「漱石」という号は、たしか正岡子規せんせいから譲られたものだという話があります。「子規」は(もちろんご存知でしょうが)「ホトトギス」で、結核を患われてから「鳴いて血を吐くホトトギス」から号していたとか。
そもそも「流石」の故事に倣っているので、「漱石」というと、「意固地」「臍曲がり」という居直りだと思うのですよ。
漱石先生は、おそらく寺田寅彦さんを含めた弟子たちを持たれてから、本来の持ち味を発揮したのではないか、と思います。
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