BLOG 思い遥か

日々新たなり/日本語学2020

弥陀のもとの願い 0317

2024-03-17 | まさしこと
  



 
念仏という修行を説くに罪業による生きざまに地獄を言いそれもまた階層に仕立てたものでどのように生きているかを諭す挙句には浄土の道しるべを西方に向けるべくそこに住する仏を念ずるとよいと方法を導く教えであるから、信仰するものの、称名による帰依がある。パーリsaraṇaは、保護所、避難所という意味らしい。三帰のことになる。

南無と言えばそこにいるわけでまことに有り難い。わたしに人生における無力非力にこの教えは尊いもので輪廻を思想とする救いは10代にあった。大病はその原因不明ということにあったから療養休養に3年をその思いに過ごした。歎異抄に拠って過ぎ去った、いまにして思えば、このかた60歳も前のことの転生だったろう。

2歳ー4歳のころ、生地延岡から西宮に。5歳の幼稚園はわすれられない。
6歳に読書が始まって8歳に語ることを覚え10歳には想うことあり、12歳で議論をした。日記は11歳から続く。13歳にして哲学思索に考える公式を案ずる。15歳で無常、17歳で幸福者は果て、18歳で自力禅から他力信心へ病を得て動く。心臓は神経から来るんだなぁと120日のあと1000日に及ぶ体力の回復に読書があった。病い明けの受験勉強は根本義に目を向ける習性となっていた。


設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯徐五逆 誹謗正法
たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲おもひて、乃至十念せん。 もし生ぜずは、正覚を取らじ。 ただ五逆と誹謗正法とをば除く。
>私が得たとしましょう 一切の生あるものが 至心にに信楽して わがくに生れようと欲し わずか十の念仏でも称えたひとを 救えないならば、仏とはならない
 『大無量寿経』に説かれる四十八願の中の第十八番目の「至心信楽の願」
 http://labo.wikidharma.org/index.php/第十八願

さて、22歳からこの方、南無阿弥陀仏とその本願に心を寄せて、32歳までを務めるのは文学研究となった。以降は、研究職になる。
源氏物語に宿世を知ると。
日本霊異記には国語のあるを。
日本語教育文法で考えるとは。










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