近代になって国語研究は文献実証方法を実践してきた。文字による国語の歴史は1600年に及ぶ.が、国語意識には万葉集の編纂に始まる、8世紀。万葉仮名で国語表記する実験である、そこに、国語の助詞、六箇の辞をとらえ、言葉の違いを意識して記録する。
成立は天平宝字3年、759年正月、大友家持の巻軸歌、これ以降。
集歌は持統朝による、在位690年 - 697年より以前のころ、壬申の乱を劇詩にする。。
文法意識は、その萌芽に、漢文移入とともに芽生えた。
中国渡来の字書、漢籍漢語の翻訳に、音韻をとらえて文法を詞辞に分析する。
文法書となると、歌学の作法書物に見られたという、テニヲハの用法になる。
歌句に表現をみて、大和言葉とした。
言葉を用いる主体者の表現方法は句法にあったのである。
伝統歌学の和語国語に迎えるのは漢語と対比する洋語のやわらげにあった。和字としてのものである。幕末から近代の黎明期には国語の外に言語を見るようになるのであるが、そこにある言葉には句法でなく、外来の文法があった。
国語には文章としてのものについて、文を析出する展開となった。近代の国語研究に見えるようになるのは、その文法には漢語訓読の語法、和歌の句法と異なってあたらしい概念を必要とするようになる。
近代国家の言語に国語が統一された。
和語は京都にあった中央語である。日本語の特徴を表していた。
漢語は訓読語法に共通する国語であった。
そのいずれにも国語の論理を内在させたままに、外国の文法という概念がもたらされ、文の分析を導入するようになる。主語と述語の捉え方である。
国語文法は外来のことばをいれて、文法を作り上げてきた。文とは何かを求めて、文の成立する要件として陳述作用の議論を始めた。理論という文法論を必要としたが、一方では文の成立に寄与する発語、語気、文末が句法のままに分析が残されたままとなった。
そして、国語文法から日本語文法へのシフトが起こる。
陳述、統覚作用に述語があり、それに対応する論理は、言語主体にあったにかかわらず、主語述語を併せ持った説明となる。
述語は主語と題目において西欧の文法論理に合わせてきた。国語文法はその理論の整合性に、当てはまらない。膠着語現象による文法機能を見るからである。
いまその理論は、叙法における文末表現に向けられて、話し手の意図、表現意図からモダリティーという視点の解釈に及んでいる。