狭き門より入れ

スペイン在住クリスチャン。聖書にある救いとは?罪の赦しとは? 礼拝などから、福音メッセージを載せています。

犯罪人のひとりとして

2021年04月22日 | 聖書
「ですからキリストは、この世界に来てこう言われました。…
“今、わたしはここに来ております。…神よ、あなたのみこころを行うために。“」(ヘブル10 : 5, 7)

「彼が自分のいのちを死に明け渡し、
罪人のひとりに数えられたからである。
彼は多くの人の罪を負い、
背いた者たちのために、とりなしをする。」 (イザヤ53 : 12)

イエスキリストが、二人の犯罪人と共に十字架につけられたとき、
「罪人のひとりに数えられた」という上記の預言が成就しました。

この二人の犯罪人は、神の戒めの違反者でした。 そしてイエスキリストは、彼らとともに、それも、まるで彼らの中で最も悪い犯罪人と言わんばかりに、彼らの真ん中で十字架につけられたのです。

イエスキリストは、神の戒めの違反者だったのでしょうか?いいえ、この地上において、彼以上に、神様に従順な人はありませんでした。

“…わたしが父を愛していて、父がお命じになったとおりに行っていることを、世が知るためです。…“(ヨハネ14 : 31)と、イエス様自身がおっしゃっているとおりです。

イエス様は、父なる神の意志を実行するという明確な目的を持ってこの世に来たのです。 父なる神こそが、イエス様にとってのすべてあり、イエス様の
その全ての行動は、父なる神様のみこころそのものでした。
彼のすべての考えと行動は、彼の従順、彼の献身、そして彼の神への愛を表しています。 しかし人々は、そのイエス様を、神の戒めを破り、悪を行う犯罪人に仕立てあげたのです。
この人として完全なるイエス様の敏感な心にとって、それは、どんな苦しみ、どんな屈辱だったでしょう!
そして、イエス様は、なぜそんな仕打ちを黙って受け入れたのでしょう?
なぜ父なる神様は、こんな事が起こることを許されたのでしょう?
かつて、父なる神様はイエス様のことをこう言ったではありませんか!
「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」(マタイ 17: 5)

なぜ?…

なぜなら、この地上には、神の御心を全く気にかけない、神の戒めの違反者、神に不従順な、私たち人間がいたからです。
イエス様は、自ら、私たちの代わりとなって、私たちが死後受けるべきだった、全ての罪の罰を、十字架上で、その身に受けてくださったのです。 それは、私たちが、全ての罪を許されて、永遠の地獄から救われ、永遠の天国に行けるようになるためだったのです。

どうか、このイエス様という、尊い犠牲によって与えられている、この神様の恵みを無駄になさらずに、罪を悔い改めて、イエス様を救い主として、受け入れて下さいますように。

(La buena semilla より)

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