公開から一週間遅れで、後編を観てきました。
ナナチ、いいですね。
繰り返しますが、僕はナナチでは初登場時の完全武装した姿が好きです。理由は端的にかっこいいから。寄せ集めばかりで出来ていて、手作りのボロっとした感じ。あの姿ならそのままでスターウォーズにも出演できそうですしね。だから、ナナチがミーティを抱きしめているビジュアルはナナチの気持ちの一端をよく表現してはいるものの、いささか情緒の方に偏りすぎていて、むしろナナチらしくないと思います。ナナチの心理には例のビジュアルだけでは語り尽くせない屈折した表と裏が隠されているはずです。だから、あれだけでは不十分だと思うのです。
テレビシリーズで言うと第10話のオープニング。前話の後半でナナチはすでに登場しますが、第10話では少し時間を巻き戻して、ナナチの側から怪我に倒れたリコと悲嘆に暮れるレグの姿を見せています。ナナチの感情を押し殺した冷徹な視線、カットバックで挿入される元気だった頃のミーティの姿、立ち上がるナナチ。これらの情景で描かれたことは後にナナチ自身の口から語られますが、総集編ではすべてカットされました。物語の進行上それが自然ですが、残念でした。しかし、逆に、それだからこそテレビシリーズというフォーマットは重要だなと改めて思いました。劇場版総集編では、構造上(構成上?)、テレビシリーズのように前回の末尾を反復するということが出来ません。今回の後編では、冒頭のシーカーズキャンプからの再出発の場面がそれに該当しますが、もしこの総集編が前後編を合体したものだとしたら、後編の冒頭は当然ながら削除されるでしょう。もう10年近く前に、やがてテレビアニメは衰退して劇場アニメが残るだろう、という「予言」を聞いたことがありますが(素人の世迷い言ではなく、あるベテラン監督の私的な発言)それが的中するかどうかは別にして、今回の後編を観て、やはりテレビシリーズでなければ表現できない情緒性があると僕は確信しました。
脱線しますが、文学の小説作品では前章の最後のセンテンスを次章の最初に一言一句正確に再現する、という技法が存在します。この技法を批評の用語で何というのか知りませんが、たしか村上春樹の初期の作品にそのように書かれたものがあったはずです(と記憶しています)。純文学作品で決して珍しい手法ではありませんが、かと言ってありふれているのでもありません。ライトノベルではなおさらでしょう。ラノベでも、純文学寄りの作品でなら幾つか試みられているかも知れませんが、まずお目にかかることはないのではないでしょうか。
さて、ナナチがリコの「ガンキマスの揚げ焼き」を食べる場面がもっとも印象的です。
子育てを経験した立場から言わせて貰うと、ちょうどこの場面のナナチのように、一口頬張った瞬間に「おっ、これは!」という表情になり、次いでもの凄い勢いでパクパクパクと平らげてしまう。幼い子供の成長の場面で、そのようなことが一度や二度は必ず訪れるものです。
私の娘の場合、生まれて初めてカルボナーラのパスタを食べたときがそうでした。娘は現在でもカルボナーラが大好物で、本人は覚えていないに決まっていますが、その起源は三歳の正月の一日に遡ることが可能で、その事実を親はしっかり覚えているというわけです。
またこの場面では、言葉で表現するなら「こんなに美味いもの、生まれて初めて食べた」という体験が描かれているわけですが、そのようなわかりきったセリフを排したクールな演出を、作画も声優も立派にやり遂げていると思います。仮に同じような場面を実写ドラマで再現したとき、俳優たちは果たしてこれをセリフ抜きで演じることが出来るでしょうか。僕はきっと不可能ではないかと疑っており、これがアニメが実写に対して持っているアドバンテージのひとつだろうと考えています。たぶん漫画でも不十分ではないかと思います。実写では役者も演出家もそのセリフを口にしないことに耐えられず、一方で漫画では同じことをやると読者が欲求不満を起こすのではないか、と。その理由を上手く説明できませんが、少なくとも今のところは、このような場面をセリフ抜きで過不足なく表現できるのがアニメという表現形式なのだろうと考えています。
以上、楽しく観てきました。今から2期が楽しみです。
ナナチ、いいですね。
繰り返しますが、僕はナナチでは初登場時の完全武装した姿が好きです。理由は端的にかっこいいから。寄せ集めばかりで出来ていて、手作りのボロっとした感じ。あの姿ならそのままでスターウォーズにも出演できそうですしね。だから、ナナチがミーティを抱きしめているビジュアルはナナチの気持ちの一端をよく表現してはいるものの、いささか情緒の方に偏りすぎていて、むしろナナチらしくないと思います。ナナチの心理には例のビジュアルだけでは語り尽くせない屈折した表と裏が隠されているはずです。だから、あれだけでは不十分だと思うのです。
テレビシリーズで言うと第10話のオープニング。前話の後半でナナチはすでに登場しますが、第10話では少し時間を巻き戻して、ナナチの側から怪我に倒れたリコと悲嘆に暮れるレグの姿を見せています。ナナチの感情を押し殺した冷徹な視線、カットバックで挿入される元気だった頃のミーティの姿、立ち上がるナナチ。これらの情景で描かれたことは後にナナチ自身の口から語られますが、総集編ではすべてカットされました。物語の進行上それが自然ですが、残念でした。しかし、逆に、それだからこそテレビシリーズというフォーマットは重要だなと改めて思いました。劇場版総集編では、構造上(構成上?)、テレビシリーズのように前回の末尾を反復するということが出来ません。今回の後編では、冒頭のシーカーズキャンプからの再出発の場面がそれに該当しますが、もしこの総集編が前後編を合体したものだとしたら、後編の冒頭は当然ながら削除されるでしょう。もう10年近く前に、やがてテレビアニメは衰退して劇場アニメが残るだろう、という「予言」を聞いたことがありますが(素人の世迷い言ではなく、あるベテラン監督の私的な発言)それが的中するかどうかは別にして、今回の後編を観て、やはりテレビシリーズでなければ表現できない情緒性があると僕は確信しました。
脱線しますが、文学の小説作品では前章の最後のセンテンスを次章の最初に一言一句正確に再現する、という技法が存在します。この技法を批評の用語で何というのか知りませんが、たしか村上春樹の初期の作品にそのように書かれたものがあったはずです(と記憶しています)。純文学作品で決して珍しい手法ではありませんが、かと言ってありふれているのでもありません。ライトノベルではなおさらでしょう。ラノベでも、純文学寄りの作品でなら幾つか試みられているかも知れませんが、まずお目にかかることはないのではないでしょうか。
さて、ナナチがリコの「ガンキマスの揚げ焼き」を食べる場面がもっとも印象的です。
子育てを経験した立場から言わせて貰うと、ちょうどこの場面のナナチのように、一口頬張った瞬間に「おっ、これは!」という表情になり、次いでもの凄い勢いでパクパクパクと平らげてしまう。幼い子供の成長の場面で、そのようなことが一度や二度は必ず訪れるものです。
私の娘の場合、生まれて初めてカルボナーラのパスタを食べたときがそうでした。娘は現在でもカルボナーラが大好物で、本人は覚えていないに決まっていますが、その起源は三歳の正月の一日に遡ることが可能で、その事実を親はしっかり覚えているというわけです。
またこの場面では、言葉で表現するなら「こんなに美味いもの、生まれて初めて食べた」という体験が描かれているわけですが、そのようなわかりきったセリフを排したクールな演出を、作画も声優も立派にやり遂げていると思います。仮に同じような場面を実写ドラマで再現したとき、俳優たちは果たしてこれをセリフ抜きで演じることが出来るでしょうか。僕はきっと不可能ではないかと疑っており、これがアニメが実写に対して持っているアドバンテージのひとつだろうと考えています。たぶん漫画でも不十分ではないかと思います。実写では役者も演出家もそのセリフを口にしないことに耐えられず、一方で漫画では同じことをやると読者が欲求不満を起こすのではないか、と。その理由を上手く説明できませんが、少なくとも今のところは、このような場面をセリフ抜きで過不足なく表現できるのがアニメという表現形式なのだろうと考えています。
以上、楽しく観てきました。今から2期が楽しみです。