香竹日記

書道の奥深さを楽しんでいます

古都奈良三人旅ー2(東大寺ミュージアム、春日大社)

2020-03-12 14:57:33 | 国内旅行
奈良の旅1日目ー2    
2019年11月9日(土)

〇 東大寺ミュージアム
〇伝月光菩薩立像(国宝)奈良時代  ・ 伝日光菩薩立像(国宝)奈良時代
                             
東大寺 日光・月光菩薩立像  写真:(株)飛鳥園



こちらの二体の仏像も必ず見たかったものなので、かなり疲れてきていましたがここでゆっくり面会できました、

菩薩像とも2メートル以上もあり、材質は粘土なので衣類の曲線の美しさ、そして首から肩のラインはまるで生身の人間のような柔らかい流れ、、、

胸の前で合わせた両手の指の表情はこちらから触れたくなるような、ふくよかさで安心感が漂います。  
ずっと見ていたい 穏やかで清楚な雰囲気♡

    ↓

〇 東大寺南大門(国宝) 高さ25メートルにも及ぶ山門

門の左右に「金剛力士像」 正面から見て門の左側には阿形像、右側には吽形像が安置されていますが、これらは鎌倉時代の天才仏師である運慶が指揮をとり、快慶らとともにに彫り上げたものがダイナミックに配置されている。。

    ↓

〇 春日大社(平城京鎮護の神様・藤原氏の氏神)768年 奈良時代

平城京遷都にともない茨城の鹿島から 武甕槌命(タケミカズチノミコト)を迎えたのが春日神社のはじまりと言われています。

その後千葉の香取から 経津主命(フツヌシノミコト)、
大阪の枚岡から天児屋根命(アメノコヤネノミコト)と 比売神(ヒメガミ)を迎え
768年4つの神をまつって、今のような社殿ができました。


「藤原氏」の氏神として知られる春日大社はその「藤」にちなむ形で
「藤の神紋」を使用したり、「藤」づくしの神社として知られています。

有名な「砂ずりの藤」は鎌倉時代に近衛家から献木されたと言われており樹齢800年程だそうです。
20品種、200本の藤の花の季節には多くの人で賑わうことでしょう。。。

    ↓

さて、 朝 早かったせいで疲れてきて、ざっと見て帰ることとする。

    ↓

道路に出て路線バスに乗り🚌 奈良県庁前のバス停で下車

   ↓

又、興福寺の前を通って

   ↓

日も暮れて、興福寺の五重塔がライトアップされていて、折しも満月でした。

                           


〇 興福寺・五重塔(国宝)・・730年 光明皇后(藤原不比等の娘)が建立
塔は仏教の祖 釈迦の舎利ををおさめる墓標。
    
     ↓

「猿沢の池」の畔を歩き、
今宵と明日、二連泊するお宿「飛鳥荘♨」に到着

好立地のお宿で良かった♪ 食事は勿論お部屋で🍶🍚

お宿の露天風呂からは、すぐ近くの真正面に、先ほど通った興福寺五重塔のライトアップされた姿が ジャジャジャジャーン! 

素晴らしいです 感激(^_-)-☆


こうして一日目の夜は更けていきました。。

  
    
                  ー2日目につづくー




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古都奈良三人旅ー1(東大寺、興福寺~)

2020-03-10 23:06:18 | 国内旅行
令和元年(2019年)11月9日(土)~11日(月)の3日間 古都奈良の旅
この3日間の行程を記録として書き留めておくこととします。
おぼろげに去っていく記憶の片鱗を少しでも拾っておこうと思い綴ってみます。。

地元下吉田の中央区にて 平成7年に地域の婦人会の役員として始めて顔を合わせて知り合い、すぐに意気投合し、いいご縁を頂いたのでそれ以来食事をしたり、旅行に出かけたりの気ままな女性三人組として、今もお付き合いが続いていて、とっても大切な友人となっております♡

☆奈良の旅1日目-1

朝 6:00   中央銀行前・集合
          ↓  🚙 Cさんの車で出発🚙 
       7:15 三島駅着
    ↓       🚙 駅前の駐車場に入れます
  7:57 三島駅発
    ↓  🚅 新幹線「こだま」   
   11:50 近鉄奈良駅着
    ↓
  昼食 ※有名なお店はほとんど満席 予約無しでは無理かもね

  13:00 興福寺


〇 興福寺・・・藤原氏の氏寺として発展 710年 奈良時代

京都山科の藤原鎌足私邸に建立された山階寺が前身、
その山階寺(やましなでら)は天智8年(669)に藤原鎌足が重い病気を患った際に、夫人である鏡女王が夫の回復を祈願して、釈迦三尊、四天王などの諸仏を安置するために造営したものと伝えられており、

その後壬申の乱(672年)の後、飛鳥に都が移った際に、山階寺も移築され、その地名をとって厩坂寺(うまやさかでら)とされました。

さらに平城京遷都に伴い、藤原不比等の計画によって現在地に移転、以後藤原氏の氏寺として大いに繁栄。


国宝仏像は全国の13%が興福寺の仏像だそうです。

〇 興福寺   国宝館※阿修羅立像(国宝)734年 奈良時代

こちらの阿修羅像は聖武天皇と光明皇后との間の子で 基(もとい)親王 がモデルではないかと言われています、一歳にも満たないで夭逝され幼くして皇太子でした。そんな訳で優しい少年のような顔つきなのでしょう。
    
          




〇興福寺 北円堂(国宝) 721年 奈良時代

現存する八角円堂のうち最も美しいと称賛されるお堂
元明上皇と元正天皇が「長屋王」に勅命を発し藤原不比等の一周忌に建てたものと言われております。
ここは平城京を一望の下に見渡すことのできる一等地で、平城京造営の推進者であった藤原不比等の霊を慰めるには最良の場所とのこと。

〇北円堂・無著立像(国宝)

※この北円堂につきましては後日調べました。
次は是非とも訪れたいと思っております。



〇 東大寺・・・華厳宗大本山

〇 盧舎那仏坐像(国宝)752年 奈良時代
盧舎那仏は「華厳経」に説く「蓮華蔵世界」の中心的存在であり、世界の存在そのものを象徴する絶対的な仏である。

「続日本記」によれば河内国の知識寺(大阪府柏原市)でご本尊である盧舎那仏像を拝した光明皇后が聖武天皇に大仏造立を勧めたと言われております。
なおここで言う知識とは信仰を同じくする人々の集団である「同志」と言った意味です。

又、聖徳太子を専門に慰霊するために建立された「金鐘寺(こんしゅじ)」が、東大寺の前身といわれています。


聖武天皇とそのご母堂 藤原宮子(藤原不比等の子)は、災害・飢餓・疫病が継続したことにより、聖徳太子への慰霊をすることで収まると信じたようです。

その結果は、国家予算の大半を東大寺の建設に投入するという常識外れなことをなされました。

このように聖徳太子のご一族が滅ぼされたことは、歴代の天皇の畏れとして現代にまで影響をし続けたのです。

           
外国の方も多勢いて賑わっています  鹿はすっかり人になついて♪




〇 東大寺戒壇堂※広目天立像(国宝)・持国天・増長天・多聞天
        (四天王)他

戒壇堂の広目天像は帝釈天に観察と報告を行うために筆と巻物を持っています。
眼を細めにして遥か遠く、この世の隅々までも観察の眼を行き届かせているかの様である。

私は今回の旅でこの広目天像に会うのが楽しみで心躍る思いでおりまして、実は大好きな写真家大江泰吉氏の厳しい表情を想像しておりました。

そうしたらなんと、どの角度から見ても、又お堂の中を何回まわって来てみても、いつも優しい表情・・・

穏やかで 静か 温かくて やっぱり優しい・・・不思議

今度またここを訪れる機会に恵まれたなら、どんな感じの広目天にお目にかかれるかしら・・・と思う。。

 
  

うわぁーカッコイイです (⋈◍>◡<◍)。✧♡

       
                        ーつづくー
コメント (1)
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