発毛治験報告書

あれから5年。ついに「禿」として生きていく覚悟を固めた不惑男の徒然。

ブランディングとは

2011年06月28日 | 薄毛以外の話

 ブランディングとかクリエイティブという言葉にはどこか信用ならない、空虚で軽はずみな響きがある。しかも物凄く偉そうでもある。モノゴトの本質を見極めようとするときに、たやすくその言葉を使うとどこか薄っぺらな印象を与えてしまうことになりかねないことは理解している。しかし、その言葉に代わる適切な表現が見当たらないことも事実で、私の仕事は「北海道の一次産業のブランディング」です、と言わざるを得ない。

 多くの農家に会った。儲かっている農家もいれば貧乏な農家もいる。その貧富の差は「作物の良し悪し」とは直接は関係なさそうだということがわかった(間接的には関係ある)。「自分の作物が、どこの家の食卓にのせられるのか、そこでどのような会話がされるのか」そのイメージができている農家か、できていない農家かで、同じ農家でも貧富の差が発生してしまうということがわかった。これがほぼ間違いなく真実だと思う。

 しかし、イメージのできない農家に「イメージしろ!」と言えば途端に売上が伸びるようなそんな魔法はどこにもない。私の仕事はその「イメージの仕方」を困っている農家と一緒になって考えていくことだ。そしてできあがったイメージ通りの食卓にたどり着けるように、ひとつひとつの階段を作って一緒に登って行くことだ。もちろんボランティアなどではない。ここに「コミュニケーションスキル」が活かされるマーケットの可能性を感じたからこそこの仕事を選んだ。成功の喜びをシェアするために基本的には成功報酬方式で。自信がなければ決して成功報酬方式はとらないわけで、自分の中では「成功できるスペックや資質を持つ農家」の見極めさえ間違わなければ絶対に成功できるという自信を持っている。まぁ、成功に導くまでに破産しなければ、の話だが。


書かない理由

2011年06月24日 | 治験ドキュメント

じゃ、おまえは一体何をやってるんだ?

そうだった。自分の仕事の中身について触れたことってまだ一度もなかった。「あまりプライベートなことは書くべきではないか」とプライベートなメディアで家族の話とかしちゃってる癖になんとなくそう思っていたのは事実。「プライベートなこと」という表現はちょっとちがう、「自分のまわりの人のこと」という表現の方が正しい。家族の話は、万が一家族の誰かが非難されるような結果になることを書いてしまったとしても自分がフォローできる立場にいるが、仕事の話になるとそうはいかない。書きたくても書けない。理由はこうだ。サラリーマンが仕事の話をする時は「その会社の社員の立場」で話をしなければならないから。それは会社の広報を担うということではない。仕事の話を書く時にはブログですら「社長や上司の顔色をうかがう必要がある」ということだ。よほどのバカでない限り、多くのサラリーマンは無意識的に「会社のルールや上司の顔色をうかがっている。」それが面倒だからブログで仕事の話をしない。もう一つ理由があるとすれば「多くの立場に配慮する面倒臭さ」。広告の仕事はたくさんの人が関わっている。仕入れ先や得意先、制作や営業、立場が違えば視点も違う。リアルの世界では同じことを伝える場合でも相手によって伝え方は異なるし、そういったコミュニケーションで全体を調整することがある意味営業が担うべき役割だったとも言える。つまり、広告営業の仕事は1対1のコミュニケーションの積み重ねの上になりたつもので、ブログは1対大勢のコミュニケーション。フィットするわけがないのだ。

私が前回の投稿で述べた「営業職に与えられた役割」と「会社の看板を背負う窮屈さ」ということがどういうことかご理解いただけたと思う。

でも今は違う。当然いろいろな配慮は必要にせよ、基本は自分の責任でやってるし、調整型ではなく主張型でやっている。だから普通に仕事の話が書ける。ずいぶんもったいつけている感じがするが、そのような狙いは一切ない。


最近のこと

2011年06月23日 | 薄毛以外の話

独立して三ヶ月が過ぎた。「前の会社からお客さんを奪ってはいけない」というのは職業人として最低限のマナーなので、そのようなインモラルな活動は一切していない。とはいいつつも背に腹はかえられないので、お客さんの方からオファーが来れば、それはそれで受けるだろうなぁ、なんて思っていたが、そんなオファーは一切ない。まぁ、前職場からも極々限られた信頼できる人たちしか顔を合わせなくなったので、ぶっちゃけ「俺って、自分が思ってたより不人気だ!」というのが最近の実感である。そうなのだ。自分という人間を第三者の視点でよくよく見てみたら、なるほど確かに「好かれるように見えて実のところそんなにどっぷりつきあいたいと思うタイプではない。」というのが第三者の見方なのだろう。わかる。

しかし侮るなかれ、今の自分の置かれている全体の雰囲気は、そんなネガティブさとは対極にある、チョー楽しい毎日である。

「営業職に与えられた役割」「広告代理店としてのビジネスの落としどころ」「会社の看板を背負う窮屈さ」それらすべてから解放されて自由な発想をできる環境。またそれを理解して任せてくれるクライアント。さらにかつてはその存在すら知らなかった暗躍するプロフェッショナルたちとのパートナーシップ。あぁ、毎日が新鮮な驚きなのである。水を得た魚のように泳ぎ回り、今日なんかは鮮魚を扱うお店にまで行く始末。今はまだ1人で、しかも売上なんてほんのちょっとで、まだまだ産まれたての産毛しか生えてないような状態だが、ひょっとしたらひょっとするぜ!と2.3年後の予告だけしておこう。


涙のプレスリリース

2011年06月07日 | 薄毛以外の話

 マンチェスターユナイテッドの悪童「ルーニー」が植毛手術をしたというニュースが世界を駆け巡った。サッカー選手には若ハゲが多いが、有名人がカツラや植毛をする場合は普通「ハゲだとバレないウチから見た目はほぼ変化のない状態で地毛から人工毛にスイッチする」というパターンがほとんどだと思う。中山秀征や神田正輝なども然り。しかし、ルーニーにようにあからさまなハゲの状態で人工毛にスイッチするというケースはレアだ。これは新しい!断然支持する。この流れがトレンドになってくれるともっと気軽に、フレキシブルに「人工毛」をまとえる社会が訪れるはずだ。

 今回は、ルーニー自身も苦渋の決断だったろう。何も事前にアナウンスすることなく手術した場合、術後、何食わぬ顔で人前にフサフサの髪をさらけ出すハメになるわけで、それはさすがに抵抗があったに違いない。不本意とは思うが、やむなく「植毛手術します」という内容を報道関係にリリースしたのだろう。もちろんマンチェのオーナーや監督ファーガソンの同意のもとに決断されたオフィシャルなプレスリリースとして。

 そんな恥ずかしい手続きを経て獲得したフサフサの髪。早く、拝見したいものだ。


これからのスンス

2011年06月05日 | 薄毛以外の話

 私の頭の中では80年代、90年代というように10年単位(ディケイド)で過去を振り返ってしまう習性があるのだが、もちろんこれは自分に限った時代の捉え方ではないだろう。しかし、2000年代に入り、それが無理な感じになってきた。10年はあまりにも長い、あまりにもデカいど(ディケイド、言ってみたかっただけ。) 時代の変化のスピードはもはやドッグイャーと言われて既に久しいが、3年単位くらいで捉えなければ正確に過去をプレイバックすることができなくなった。

 ウィリアムギブスンがニューロマンサーで示してくれた電脳空間とリアルの世界の関係性を、ついにfacebookは追い越してしまった。サイバースペースが上、リアルが下という区別された世界ではなく、サイバーとリアルが相補的な関係を保ちながら発展していくコミュニケーション。私はmixiよりもツィッターよりもむしろ、現実世界のコミュニケーションに最も大きな影響を与える驚異的な存在はfacebook以降のSNSにある気がしてならない。GPSを使ったフォースクエアもしかり、ARもしかり、リアルのコミュニケーションをどう楽しむか、というツールがこれからのSNSのあり方だろう。ネットで別人格を楽しむというコミュニケーションももちろん存続はするが、メインストリームのコミュニケーションとしては役割を終えた感がある。

 

 


やはり厄年

2011年06月03日 | 薄毛以外の話

自転車通勤を始めて一週間が過ぎた。

 iphoneアプリのサイクルメーターを600円で購入し、Facebookと同期させると自分がいつ、どれくらいのタイムで、どのルートを走ったのかがゴール時に共有されるように設定した。Facebookの場合はなんらかのリアクションがあるため、なんとなく続けないといけない義務感が発生してしまう上に、毎日タイムを短縮して記録を更新しなければカッコ悪いという気持ちから、朝から血ヘドが出るような全速力でサイクリングロードを疾走する毎日。(写真はサイクリングロードの南郷10丁目あたり)おかげでほぼ北広島といってよい里塚から南1西6丁目まで、車よりも早い35分で到着できるほどまでになった。

 この義務感からもう逃れることはできない。その全速力のために、この2.3日で大事故に巻き込まれるようなヒヤッとする瞬間に遭遇している。しかしである。朝の早い時間、7時くらいで車通りもまばらなタイミングで、およそ20秒に1台通るかどうかの道でばったり車と出くわすというのはおかしい。しかもそれが5回連続くらいの運の悪さ。20の5乗分の1という天文学的な確率で、これは明らかに事故へいざなわれているということになろう。これは偶然の一言で片付けられる問題ではない。人知を超えた巨大な悪の力が働いているとしか考えられないのだ。

「厄年」である。大きな厄災が降り掛かろうとしている今、これはタイム重視の激走よりも「安全運転」を選択しなければならない、と思い直し、苦しい自分との戦いよりも、楽しいレジャー的感覚で自転車通勤しよう。