今年に入って各方面で賞賛を浴びている別冊少年マガジン連載中の漫画「進撃の巨人」を遅ればせながら読んだ。面白い。4月にコメントした「テルマエ・ロマエ」といい昨年から今年にかけては漫画の当たり年のような気がする。さて、この作品に対しては素人・玄人を問わずネットの世界を中心に惜しみない賛辞が書き込まれているのでまず参考にされたい。
それらの書き込みを読むとこの漫画は「風の谷のナウシカ」「ベルセルク」「寄生獣」「GANTS」などの作品に影響を受けているらしいことがわかる。GANTSはまだちゃんと読んでないのでわからないが、独特の世界観を作り上げていることとその世界観がある種のテーマ性を帯びている点においてとりわけ「ナウシカ」に似ている。
緻密なプロットにより、いたるところに張り巡らされた伏線が今後のストーリー展開を推理する上でのヒントになったり、設定された世界観の中であれば必然的にそうなるであろう各種アイテムのディティールへのこだわりがあったりと、とくにアニオタ、ゲームオタなどにとっては垂涎ものの作りとなっている。が、そんなことは誰もがコメントしていることなので私としては、作者の意図しているか否かに関わらず、この作品をこのように捉えるとまた違った意味で味わい深くなる、という話をしてみたい。それは先述した「ある種のテーマ性を帯びている」ということについてである。
作品で設定された人類の生きる舞台は、50mもの高い塀に囲まれた閉ざされたフィールド。この中で100年もの間生活してきた人類は平和ボケに陥り、塀の外に出て行こうとする人間を異端扱いする。そんなぬるい世界を一掃すべく、ある日突然、50mを越す大巨人がこの塀を破壊し、死と隣り合わせの絶望的な人類の生き残りがはじまる。というのが物語りの序盤。
主人公のエレンは平和ボケの社会の中、塀の外に出ることを望んでいた。「安全に暮らしていけるけど、ただ生きているだけ、それなら家畜と同じじゃないか」と言って。
翻って考えよう。安心・安全であることが最も正しく一番最初に優先されるべきことという風潮がある今の世の中。教育の現場では学校の畑で生徒が自分たちで育てて収穫した野菜を食べることができないケースがある。ビジネスの現場では利益をしっかり確保できるという保証がもてない危険な仕事は最初から請けない、という企業が増えてきている。リスクを管理する、と言えば聞こえはいいが、リスクを負わない確実で安全な社会がユートピアだと、いつのまにか我々は洗脳されている。そうなのだ。この社会で暮らすわたしたちはすでに「家畜」になっているのだ。
この作品への多くのコメントが、巨人に怯える社会を「どうしようもない絶望の世界」と捉えていたが、私の解釈は真逆。死と隣り合わせだからこそ危険を冒す勇気を持てるし、生きるために戦う意思を持てる。人が「家畜」ではなく「人間」たらしめるには、もっと勇気を持って塀の外に飛び出していかなければならない、そのようにこの物語は訴えている、と勝手に解釈をしてみた。
それらの書き込みを読むとこの漫画は「風の谷のナウシカ」「ベルセルク」「寄生獣」「GANTS」などの作品に影響を受けているらしいことがわかる。GANTSはまだちゃんと読んでないのでわからないが、独特の世界観を作り上げていることとその世界観がある種のテーマ性を帯びている点においてとりわけ「ナウシカ」に似ている。
緻密なプロットにより、いたるところに張り巡らされた伏線が今後のストーリー展開を推理する上でのヒントになったり、設定された世界観の中であれば必然的にそうなるであろう各種アイテムのディティールへのこだわりがあったりと、とくにアニオタ、ゲームオタなどにとっては垂涎ものの作りとなっている。が、そんなことは誰もがコメントしていることなので私としては、作者の意図しているか否かに関わらず、この作品をこのように捉えるとまた違った意味で味わい深くなる、という話をしてみたい。それは先述した「ある種のテーマ性を帯びている」ということについてである。
作品で設定された人類の生きる舞台は、50mもの高い塀に囲まれた閉ざされたフィールド。この中で100年もの間生活してきた人類は平和ボケに陥り、塀の外に出て行こうとする人間を異端扱いする。そんなぬるい世界を一掃すべく、ある日突然、50mを越す大巨人がこの塀を破壊し、死と隣り合わせの絶望的な人類の生き残りがはじまる。というのが物語りの序盤。
主人公のエレンは平和ボケの社会の中、塀の外に出ることを望んでいた。「安全に暮らしていけるけど、ただ生きているだけ、それなら家畜と同じじゃないか」と言って。
翻って考えよう。安心・安全であることが最も正しく一番最初に優先されるべきことという風潮がある今の世の中。教育の現場では学校の畑で生徒が自分たちで育てて収穫した野菜を食べることができないケースがある。ビジネスの現場では利益をしっかり確保できるという保証がもてない危険な仕事は最初から請けない、という企業が増えてきている。リスクを管理する、と言えば聞こえはいいが、リスクを負わない確実で安全な社会がユートピアだと、いつのまにか我々は洗脳されている。そうなのだ。この社会で暮らすわたしたちはすでに「家畜」になっているのだ。
この作品への多くのコメントが、巨人に怯える社会を「どうしようもない絶望の世界」と捉えていたが、私の解釈は真逆。死と隣り合わせだからこそ危険を冒す勇気を持てるし、生きるために戦う意思を持てる。人が「家畜」ではなく「人間」たらしめるには、もっと勇気を持って塀の外に飛び出していかなければならない、そのようにこの物語は訴えている、と勝手に解釈をしてみた。