発毛治験報告書

あれから5年。ついに「禿」として生きていく覚悟を固めた不惑男の徒然。

進撃の巨人

2010年09月10日 | 甘辛シネマ道場破り
 今年に入って各方面で賞賛を浴びている別冊少年マガジン連載中の漫画「進撃の巨人」を遅ればせながら読んだ。面白い。4月にコメントした「テルマエ・ロマエ」といい昨年から今年にかけては漫画の当たり年のような気がする。さて、この作品に対しては素人・玄人を問わずネットの世界を中心に惜しみない賛辞が書き込まれているのでまず参考にされたい。

それらの書き込みを読むとこの漫画は「風の谷のナウシカ」「ベルセルク」「寄生獣」「GANTS」などの作品に影響を受けているらしいことがわかる。GANTSはまだちゃんと読んでないのでわからないが、独特の世界観を作り上げていることとその世界観がある種のテーマ性を帯びている点においてとりわけ「ナウシカ」に似ている。

緻密なプロットにより、いたるところに張り巡らされた伏線が今後のストーリー展開を推理する上でのヒントになったり、設定された世界観の中であれば必然的にそうなるであろう各種アイテムのディティールへのこだわりがあったりと、とくにアニオタ、ゲームオタなどにとっては垂涎ものの作りとなっている。が、そんなことは誰もがコメントしていることなので私としては、作者の意図しているか否かに関わらず、この作品をこのように捉えるとまた違った意味で味わい深くなる、という話をしてみたい。それは先述した「ある種のテーマ性を帯びている」ということについてである。

 作品で設定された人類の生きる舞台は、50mもの高い塀に囲まれた閉ざされたフィールド。この中で100年もの間生活してきた人類は平和ボケに陥り、塀の外に出て行こうとする人間を異端扱いする。そんなぬるい世界を一掃すべく、ある日突然、50mを越す大巨人がこの塀を破壊し、死と隣り合わせの絶望的な人類の生き残りがはじまる。というのが物語りの序盤。
 主人公のエレンは平和ボケの社会の中、塀の外に出ることを望んでいた。「安全に暮らしていけるけど、ただ生きているだけ、それなら家畜と同じじゃないか」と言って。

 翻って考えよう。安心・安全であることが最も正しく一番最初に優先されるべきことという風潮がある今の世の中。教育の現場では学校の畑で生徒が自分たちで育てて収穫した野菜を食べることができないケースがある。ビジネスの現場では利益をしっかり確保できるという保証がもてない危険な仕事は最初から請けない、という企業が増えてきている。リスクを管理する、と言えば聞こえはいいが、リスクを負わない確実で安全な社会がユートピアだと、いつのまにか我々は洗脳されている。そうなのだ。この社会で暮らすわたしたちはすでに「家畜」になっているのだ。

 この作品への多くのコメントが、巨人に怯える社会を「どうしようもない絶望の世界」と捉えていたが、私の解釈は真逆。死と隣り合わせだからこそ危険を冒す勇気を持てるし、生きるために戦う意思を持てる。人が「家畜」ではなく「人間」たらしめるには、もっと勇気を持って塀の外に飛び出していかなければならない、そのようにこの物語は訴えている、と勝手に解釈をしてみた。

 


悪人

2010年09月08日 | 甘辛シネマ道場破り
 映画作品の良し悪しは総合力で決まる、ということを改めて思い知らされる。
脚本と監督とキャストを中心に全スタッフが一つのゴールに向かって突っ走っているかどうか、それが総合力ということだと思うのだが、この映画はまさにそうした総合力のレベルが高い。モントリオール映画祭で主演女優賞を受賞した深津はいうまでもなく、妻夫木の演技もすごいのでとりわけ役者の演技が作品をひっぱっている印象を受けるが、脚本、演出ともに完成度高し。ラストシークエンスのディティールに至るまで全スタッフの研ぎ澄まされた集中力を感じ取ることができる。

 人間は孤独である。孤独だからこそ誰かと繋がっていたいと思う。自分の孤独に対する不安や恐怖が強ければ強いほど、出会いを求める気持ちは強いものとなる。富もない、名声もない、学もない、ユーモアもない、劣等感に苛まれた人間ほどその気持ちは強い。必死で求め必死で欲しがる。一方でそうやって必死になって孤独から抜け出そうとする人間を醜いものと嘲笑する人間がいる。

 孤独や貧困、極度のストレスに直面し追い込まれた人間はそこから必死で抜け出そうとする。ドラッグ・出会い系サイト・窃盗・アルコール。手の届く場所にある逃げ道は決まって犯罪の温床となるそんな「堕ちた世界」。でも違うのだ、堕ちるのではない。這い上がろうとしているのだ。這い上がろうと必死にもがいている人たちを簡単に笑い飛ばす人がいるから「悪人」は生まれるのだ。

 この物語は社会的弱者の物語である。と同時に「社会的な生き物である人間の宿命」の物語でもある。「悪人」とは一体なんなのか?「何故人間はだれかと繋がっていたいと思うのか」?いろいろと考えさせられるテーマを孕んでいる。秋の夜長に「人について」哲学的思索に更けるのもいいかもしれない。トライしてみようとする方には、この映画とセットでキェシロフスキ監督のデカローグ全10話を観ることをおススメする。私も15年以上前に観たので改めて観てみたいと思う。


君に届け

2010年09月07日 | 甘辛シネマ道場破り
 現在、最も絶大な支持を得て、連載中でありながら早くも映画化された「君に届け」。原作は読んでいないが映画を観ての第一印象は「無駄のないシンプルでかつ王道の恋愛物語」といったところか。この作品は、時代性やファッション性などの特殊要件を排除し、女子であれば誰でもが、時代を超えて、趣味嗜好性を超えて万人が憧れる恋愛の形といってよい。「初恋の人」というのはほとんどの場合、クラスの同姓のだれもが同じ人を好きになってしまうような傾向があると思う。小学生の時の実体験からいくと、一番モテる男子はクラスの半分くらいの女子の気持ちを独占していたし、一番モテる女子はクラスの男子ほぼ全員の心を奪っていた。あまのじゃくな人間はどこにでもいて、全員の気持ちを独占するのは至難の業だが、小学3.4年の時の三上さんは本当にみんな好きだった。

 決してモテるタイプではない普通の主人公が、そんなモテモテの人気者と両思いになるという、なんのひねりもないこの物語。世の中のフツーの女子が感情移入しやすいそんなフツーの主人公の設定が実はこの作品の胸キュン度を倍増させている。
 この構造は「プリティウーマン」と一緒である。プリティウーマンの場合はどんどんいい女に変身していくところがこの映画のハイライトであり、そうすることで男の気持ちに変化が起こって行くというところが痛快なのだが、実際、そんな変身などできはしない、自分にはムリ、なんて思ってしまう世の中の女子は多いだろう。
 「君に届け」の場合は大きな変身はない。誰も気づいてくれない自分の長所を、憧れのあの人はしっかり見てくれる、という、なんとも主人公にとって都合のよい設定こそが、多くの自分勝手な女子の心を捉えるのであろう。そういえば、ここまでは「花より男子」なんかも似たような設定だといえる。「君に届け」と「花より男子」の違いは、誠実さ・真摯さではなかろうかと思う。あるいはリアリティのあるなしか。もちろんどちらもまったくリアリティなどないのだが「君に届け」の場合は、自分の経験に照らし合わせて楽しむことができそうでそこがキュンキュンのツボとなっているのだろう。

 モテ男の風早くん。こちらはもう説明するまでもなく優しくてまっすぐな男子。爽やかから生まれてきた、爽やかでできている男子である。これはすでに神の領域であり、感情移入の対象にはなりえない。

 したがって基本的には世の中の女子のための映画である。しかし、友情をテーマにして作中ひとつの大きなヤマを作っている部分があり、100%恋愛っていうわけでもないので、そういう意味では見所は多く、だからといって散漫な印象もなくしっかりとまとまった作りになっている。大衆娯楽作品としては申し分のない完成度で、おそらく今年の興行収入トップ10には入るヒットは間違いないだろう。