コニタス

書き留めておくほど重くはないけれど、忘れてしまうと悔いが残るような日々の想い。
気分の流れが見えるかな。

そろそろ次の議論へ。

2011-03-04 20:06:30 | 
近頃人々は物憶えが悪くなった。これも文字の精の悪戯である。人々は、もはや、書きとめておかなければ、何一つ憶えることが出来ない。着物を着るようになって、人間の皮膚が弱く醜くなった。乗物が発明されて、人間の脚が弱く醜くなった。文字が普及して、人々の頭は、もはや、働かなくなったのである。
 中島敦「文字禍」(青空文庫による)。



大学生の時、その年新人だった武井和人先生の言葉(記憶違いだったらごめんなさい)。

「教師と学生の違いが判るか? それは、答えを持ってる人と持ってない人ってことだけだよ」

教壇に立つ我々は、喋る内容を全部諳んじているわけではない。
勿論、驚異的な記憶の持ち主はいて、武井先生の前任だった、そして私の進路を決定づけた長谷川強先生の授業は衝撃だった。私には、全部頭の中にある人に思えた。
そして、その後、そういう人と何人も出会った。
しかし一方で、私が学生をしている数年間の内に、データの電子化が異様に進み、紙媒体での検索作業より、電子化されたデータベース類を使う方が遙かに多くなり、今世紀に入ると手書きのメモさえ殆ど作らなくなった。

しかし、例えば、冒頭に引用した一節が「文字禍」の中にあることを、私は記憶している(もちろん、内容を諳んじているわけではない)。
私の所蔵するそこそこの書物を、私は殆ど読破していないけれど、それでも、必要があれば、どの本に関連することが書かれているかはおおよそ見当が付く。


ウィキペディアによれば、「カンニング」は和製英語だそうだ(英語として単語が存在する物をそう分類する根拠には疑問があるけれど)。
英語の cunning (ずる賢い)より。ただし、cunning には日本語のカンニングの意味は無い。英語ではcheating(チーティング)という。
日本語におけるこの意味での用法としては、1923年(大正12年)に芥川龍之介が書いた『大正十二年九月一日の大震に際して』に、また1934年(昭和9年)に発表された夢野久作の短編小説『木霊』にも、この意味での「カンニング」という言葉が出てくることから、戦前から流布していたことが分かる。)


“ずる”。
公正平等であるべきところに、誰かだけが特別な何かを持ち出すのは“ズル”だ。
ボクシングで片方が素手、とか。

教師は“正解”を見ながら質問し、学生はそれを禁じられたまま答えねばならないのは、教室という場所がそういう不平等を制度として持っているからで、“ガチ”の勝負をする場所ではない。あたりまえのことだけれど。

最近は、かなり改まった場所(と私が思うような場面)でも、話の途中で携帯端末を取り出して“検索”する人がいる。私の授業では、時々電子辞書を持っている学生に調べさせることもある。
この流れは止められそうにない。

ITの発達が、知のあり方を変えるのは当然のことで、文字の発明どころか、言語がうまれ、絵が描かれて以来、我々の認識や思考の様式はメディアと共に変化し続けている。
だから、21世紀にあって、脳の中に“知識”をため込んでおく記憶の達人は、殆ど意味が無くなりつつある(芸人にでもなるか)。
これは、善悪に関係なく、認めざるを得ない。


今回の事件は、単純にカンニングが不正だからどう対処するか、と言う問題で留めてはならない。
逮捕されるまでは犯人捜しや犯行方法、逮捕したら京大に抗議殺到とも報じられている。
それはそれではっきりさせる必要はあるのだろうけれど、その陰で、私的な携帯使用による不正など、発覚しないカンニングもかなりあるだろうという事も妄想ではなくなってきた。

それを完全に封じ込めることが可能かどうか。
携帯電話を封筒に入れさせた大学があるとニュースで言っていたけれど、二台持ってきたらどうするのだろう。
“ズル”は、かしこい。
そして、ITは、日進月歩。

こういう時代に我々は“入試”をやっているんだと言うことを、否応なく受け入れた上で、“ズル”出来ない、する気にならない入試を創造しなければならない。

“ユビキタス”というよく判らない言葉が跋扈している。
情報は遍在している。

多分、ある時期、“情報を記憶する力”は我々の想像する以上に重要だった。我々が生きて来たのは、“情報を探し出す力”と“答えを考え出す力”が重要な世界だ。
今でもそれらの重要性に変わりはないはずだけれど、“知恵袋”の教えたがり(正解を提供するとは限らない)が存在するように、これらの“学力”は、ほぼ外在化できる時が確実に近づいている。

そういう時代にあっても、“人々の頭”が働かなければならないのは、そうして得られた情報の有効性(必ずしも真偽の問題ではない)を評価した上で、それらを組み合わせ、それらを伝えたい相手に誤解無く伝える表現の現場だ。
これまでも、これからも、この力は、間違いなく必要だ。
それは多分、我々が“教養”と呼んできたものなんだと思う。

佐々木俊尚『キュレーションの時代――「つながり」の情報革命が始まる』(ちくま新書)は、その辺の現状をかなりうまく伝えているように思う。まだ読み終わってないけれど、一見関係なさそうな例を枕に持ってくる手法は、主張の実践としても評価できる。



冒頭に話を戻そう。
私がこの文脈で「文字禍」を引用したのも、“キュレーション”みたいなものだ。
武井先生の仰ったことは、一つの真実だけれど、情報を平等に与えても、プロとアマでは操作能力に歴然とした差がある(今のところ)。
少なくとも、私の接した驚異的な記憶力の先達たちは、クイズ王的記憶力がすごいのではなく、それらの脳内情報を縦横無尽に検索し、関連づけて提示する力がすごかったのだ。


さて、今必要な“学力”のビジョンは見えてきた。
それで、入試問題は、授業は、どうしましょうか、と言うことについてはまた改めて。

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