コニタス

書き留めておくほど重くはないけれど、忘れてしまうと悔いが残るような日々の想い。
気分の流れが見えるかな。

歴史の中にいる自分を知覚すること

2011-04-09 09:40:48 | 
去年は『わが町』イヤーだった。
それは、私にとって、であって、何十年もの間この芝居は世界中でひっきりなしに上演されていたんだけれど。

311のあと、『わが町』に触れたコラムを一つだけ読んだ記憶があるけれど、今すぐに見つけられない。

*検索して、震災を機に“わが町変奏曲”が行われていたことを知った。
別役実「神戸 わが街」レビュー / 長岡市芸術文化振興財団「夜明けのフェニックス」わが町長岡プロジェクト(広報記事PDF)
別役実のは見てみたかった。



喪ってから解る“何でもない日”の大切さ、愛おしさは、確かに今認めないわけにいかない。
ただ、『わが町』は、一方で。“何でもない日”なんか無い、いつでも特別な日だ、とも言っているようにも思う。

“一期一会”。
日々、一瞬一瞬を大切に生きようと言うスローガンは、“何でもない日”の積み重ねの中で記憶の彼方に消え、昨日何を食べたのかさえ俄には思い出せない生活をしている。
それが平和だ、と言うことも出来るのかも知れないけれど、やっぱりそれは“平和ボケ”に他ならないのだと、今は猛省するしかない。


「過ちは繰り返しません」と言ったヒロシマはなんだったんだろう。
“過った”のはだれ?
戦争と天災は違う、核兵器と原発は違う、被爆と被曝は違う、軍隊と東電は違う。

それが、これだ。

東京新聞、4/7日付コラム「洗筆」
リンク切れになるといけないので、申し訳ないが全文引用させて頂く。

 庶民感覚で本質を突く本紙の時事川柳には、はっとさせられることが多い。<専門家こんなにいたのに事故起こる><原発を薦めたタレント知らん顔>。その通り、と膝を打った▼<マスメディア原発後押し一休み>。「原発ルネサンス」などと浮ついた言葉を吐いて、政府が進めてきた原子力政策に無批判だった新聞やテレビへの痛烈な批判と受け止めた▼いま、こんなことを考えている。殺人や汚職事件の取材にかける百分の一の労力を、政局の取材に使う百分の一の知恵を、プロ野球や五輪、サッカーのワールドカップの取材に向ける百分の一の情熱を、国の原発政策の監視に注いでいれば、この人災は防げたのではないか、と▼大地震が起きた場合、原発が暴走する危険性を指摘するなど、原発問題と真摯(しんし)に向き合っている記者は本紙にもいた。残念ながらその警告は大きな流れにはならず、大半の記者は目の前の事象を追うのに精いっぱいで原発の危険性に大きな関心を寄せなかった▼高レベル放射能に汚染された大量の水が海に排出され、漁業への被害も深刻化している。暴走する福島第一原発は解決の道筋が描けない迷宮に入り込んでしまったかのようだ▼マスメディアとして、原発の「安全神話」をつくることに加担した責任を自らの手で問い直さなくてはならない。新聞の再生はそこから始まるのだと思う。

ジャーナリストの真摯な反省の弁として、好意を持って受け止めたいと思う。
「受け止めたい」とは思うが、素直に「よく言った、頑張れ」とは言えない。

大半の記者は目の前の事象を追うのに精いっぱい」と言う時、“目の前の事象”は、何処にあったのか。記者クラブの中、東電本社ビルの中だったのではないか。“現場”は、“目の前”には来てくれない。

戦場カメラマンは非常線をかいくぐって原発に行ってこいよ、と思う。

いや、そうじゃない。
我々は、欺された善良な市民なんかではない。

 第二次大戦を検証する多くの発言が「大本営発表」を批判し、被害者としての“だまされた国民”像を受け入れさせようとしたけれど、今のところ、それは繰り返されてるとしか言いようがない。
 天皇や政府や軍部や財閥の責任だけじゃなく、それを伝えた報道のせいでもなく、やっぱり国民も“当事者”で、責任があったんだ、ということをちゃんと反省しなかったんだと思う。
当時は民主主義じゃなかった、と言うなら、今だってそうだ。“自由”とか“民主”とか言う名前にだまされ続けてる。

4月5日の朝日夕刊で池澤夏樹が「今は戦後と同じ雰囲気だ」という叔母の言葉に触れて、「戦時中と同じ、ではない。我々は殺すことなくただ殺され、破壊することなくただ破壊された」という。
本当に“我々”は殺しも破壊もしてないんだろうか。

震災は“天罰”であるわけがない。しかし、原発の事故は、人が神になろうとした驕りに対する罰だったかもしれない(だから東電や政府も国民も一緒だ、と言う気はない。勿論)。


朝日新聞は、随分長いこと、戦争に協力したジャーナリズムの歴史を検証する連載をしていたけれど(そして多分、何処でも同じような事をやっていたに違いないが)、報道機関は、今度は、自分たちがどうやって原発に荷担していたのかを検証して欲しい。

と同時に、我々、“受け手”の側も、“何故欺されたのか”をしっかり検証しなければ、次は戦争に参加することになるだろう。
私たちは、“仮想敵国”の動向の報道(の仕組み)にどれほどの注意を払っていただろうか。
被害者面で通すのはやめよう。
我々は、この災害に荷担した。
このままでは次の戦争にも荷担する。


反対運動をしていた人たちも、「だから言ったじゃないか」と、今言っても仕方ない。
あなた方の蓄積は貴重だし、行動は正しかった。しかし、それが、多くの国民を説得できなかったのは何故なのか、もう一度真剣に考えて欲しい。
大企業や政治の仕組みが悪いからどうしようもない、というのでは、前に進めない。
「原発が嫌なら電気は使うな」「経済を回さなければ復興はない」……。そういう“論理”が、論理に見えてしまうのは何故なのか。



市民運動は“市民運動家”のものでなはく、“日常”を生きることの中にある。

電力が足りないから原発を、とか、代わりになる新しい仕組みを作ろう、ではなくて、これで足りる世界を作ろう。

“不謹慎”な比喩かも知れないけれど、311は歴史の中の大きな断層になった。
それでも「3月10日までの日々の未来に僕らは立っている、はずだ。」(朝日新聞4/7「リセットされてたまるか」《社説余滴 石橋英昭》)


そして明日。
「想定外」という逃げ口上を使いたがる人たちのフレーズを借りれば
「千年に一度の災厄」を体験しても変われないのなら、
この国はこの先千年経っても変わりっこないと言うことだ。
そして、大変慌ただしいことではあるけれど、明日、そのチャンスがやって来る。



新しいモノガタリを始めなければならない。



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2 コメント

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早速コメント有難うございます。 (小二田)
2011-04-09 10:47:02
すべて同意できる話ではありませんが、興味深い議論です。ゆっくり拝読させていただきます。
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casualties (noga)
2011-04-09 10:11:21
自分に必要なものがあるならば、自分自身でそれを取得する算段をしなければならない。
それが、大人というものである。
http://sns2.sasayama.jp/modules/topic/topic_view.phtml?id=70572&grpcd=112695

他力本願・神頼みでは、自分の理想はひとりでに実現しない。
言霊の効果を期待して無為無策を決め込んでいれば、閉そく感は増すばかり。
そこで、伝統的な諦観に入るか。浪曲師・語り部となるか。
http://sns2.sasayama.jp/modules/topic/topic_view.phtml?id=70269&grpcd=112695

日本人には、意思がない。
意思のあるところに、方法はある。
意思は、未来時制の内容である。
日本語には、時制がない。だが、英語にはある。
http://sns2.sasayama.jp/modules/d/diary_view.phtml?id=68993&y=2010&m=1

意思があれば責任がある、罪もある。
意思がなければ、罪もない。子供・アニマルと同じである。
犠牲者が出れば、日本人は意思がないので加害者になることはなく、被害者になる。
そして、他人を非難する。
http://sns2.sasayama.jp/modules/topic/topic_view.phtml?id=74119&grpcd=112695

日本人には、世界観がないので、未来社会を念頭において建設を進めようとする意欲がない。
政治の大局を見て良しとする考え方がない。
議論も重箱の隅を楊枝でほじくるように非建設的なものになる。

内閣も短期間で次々と変わる。
政局を安定させ建設に励もうとする国民的な内容は見当たらない。
どうしても建設が必要となれば、日本人の批判そのものを禁じるしかない。
このようなメンタリティでは、国がひっくり返っても学習は進まない。
http://sns2.sasayama.jp/modules/topic/topic_view.phtml?id=71357&grpcd=112695

世界観がなければ建設計画もなく、日本人同士でも議論は不毛となる。
ピントはずれの議論下手では英米との外交などできるはずもない。
会議では、発言もなく、微笑んで、居眠りをするばかり。
http://sns2.sasayama.jp/modules/topic/topic_view.phtml?id=73354&grpcd=112695

日本人は、知的能力改善のために日本語と英語を併せて学ぶべきである。
大人になるためには、英米の高等教育の助けが必要である。
日本独自の励みでは、子供にも理解可能なマンガ大国にしかならない。
http://sns2.sasayama.jp/modules/d/diary_view.phtml?id=68478&y=2009&m=12
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