3/6 天晴れ門前塾 第4期成果発表会 @静岡県教育会館
何はともあれ、お疲れ様でした。
しかし、「ともあれ」で済ませて良いのかどうか。
良くできましたよ。
でも、これでホントに満足なの? と言う疑問。
特に、「静岡の文化」や「情報意匠論」で頑張った姿を見ている連中が本気で全部出し切ったようには見えないよ。
これは自分の授業や仕事にも言えることだけれど、他に忙しい要因があるかどうかじゃないのだ。
広報活動も同様。
ホントに打ち込んだことだったら人を呼ぶ熱意も違うはず。
色々課題は見えてると思う。
彦星先生が、この発表会の告知をせずに、「脳内探訪」で“「もう一度、学校へ行こう」~プレゼンの神様Edward Tuffeは云う”と言っている事の意味をもう一回考えて欲しいなぁ。
なぜ伝わらないんだろう。
なぜ伝わらないのか?
多分、この辺が、一番の課題。
「教室に戻れ!」の話はまた別の機会にしよう(前に書いたの見てね)。
彦星先生はずっと“説得”ではなく“共感”、ということ、スキルじゃないぞ、ということを言い続けている。
今日は、満井さんも手際が良いのが良い発表だとは限らない、と言うことを仰った。
「耳にタコ」だと思うのだけれど、それだけみんなに言われてることの意味をちゃんと受け止めてくれないと、先に進めないよ。
今回は、同志社ショックもあって、PBLの有効性、あるいは“ご案内ゼミ形式”の難しさ、と言うのがその場での感想なのだけれど、終わってみると、やっぱり“感染力”の問題なんだよなぁ、と思う。
個別の感想は後回しにして、全体のこと。
どの発表も(と言うか、どの活動も)、受身の「連れて行っていただいた」「紹介していただいた」「教えていただいた」ばっかりで、主体的な、“意志のある学び”に見えなかったのだよなぁ。
それぞれの“組長”さんたちも、紹介された人達も、きっとみんな、日々、充実した生き方をしてるはずだ。
“学徒”たちも、きっと、そこで、驚いたり感動したりしたと思う。
なんだけれど、それが、こっちを感動させるまでに消化し切れてない。
“学徒”という語り手が居る。
我々聴衆が居る。
我々が学徒から聴きたいのは、実は、「どこに行って、誰から何を学んだか」ではない。
連中が、どんな人になったかを見たいんだと思う。
“門前の小僧”として、オトナ達と一緒にいて、感化されて、私はこんな事を考え、こんな事をする人になりました! と言ってくれれば、たどたどしくても伝わる物がある。
発表は「感想」じゃなく、「提案」だったり「意見」だったりの「成果」になるはずだ。
何でそうなのかなぁ、と言うのを考えると、やっぱり、自分たちで見つける歓びが足りないんじゃないか、と言うところに行き着く。
お手盛りだものなぁ。
来年以降続けるなら“組長”の選び方、根本的に変えた方が良い。
私だったら、学生(スタッフではなく、学徒になる人)が提案する形にするなぁ。
よし、名前。
「この人の小僧さんになりたい」プロジェクト。
門前塾事務局に、「この人(一応静岡限定)から学びたいことがある」、と言う熱い提案をしてもらって、書類審査して、交渉は事務局がやる。
門前塾じゃ無理かねぇ。
こういう事を俺に言われる前に提案できる人がいたら未来は明るいんだけどねぇ。
「静岡の文化」も、提案してくれる人いないかなぁ。
1年生の前期じゃ無理かぁ。
何はともあれ、お疲れ様でした。
しかし、「ともあれ」で済ませて良いのかどうか。
良くできましたよ。
でも、これでホントに満足なの? と言う疑問。
特に、「静岡の文化」や「情報意匠論」で頑張った姿を見ている連中が本気で全部出し切ったようには見えないよ。
これは自分の授業や仕事にも言えることだけれど、他に忙しい要因があるかどうかじゃないのだ。
広報活動も同様。
ホントに打ち込んだことだったら人を呼ぶ熱意も違うはず。
色々課題は見えてると思う。
彦星先生が、この発表会の告知をせずに、「脳内探訪」で“「もう一度、学校へ行こう」~プレゼンの神様Edward Tuffeは云う”と言っている事の意味をもう一回考えて欲しいなぁ。
なぜ伝わらないんだろう。
なぜ伝わらないのか?
多分、この辺が、一番の課題。
「教室に戻れ!」の話はまた別の機会にしよう(前に書いたの見てね)。
彦星先生はずっと“説得”ではなく“共感”、ということ、スキルじゃないぞ、ということを言い続けている。
今日は、満井さんも手際が良いのが良い発表だとは限らない、と言うことを仰った。
「耳にタコ」だと思うのだけれど、それだけみんなに言われてることの意味をちゃんと受け止めてくれないと、先に進めないよ。
今回は、同志社ショックもあって、PBLの有効性、あるいは“ご案内ゼミ形式”の難しさ、と言うのがその場での感想なのだけれど、終わってみると、やっぱり“感染力”の問題なんだよなぁ、と思う。
個別の感想は後回しにして、全体のこと。
どの発表も(と言うか、どの活動も)、受身の「連れて行っていただいた」「紹介していただいた」「教えていただいた」ばっかりで、主体的な、“意志のある学び”に見えなかったのだよなぁ。
それぞれの“組長”さんたちも、紹介された人達も、きっとみんな、日々、充実した生き方をしてるはずだ。
“学徒”たちも、きっと、そこで、驚いたり感動したりしたと思う。
なんだけれど、それが、こっちを感動させるまでに消化し切れてない。
“学徒”という語り手が居る。
我々聴衆が居る。
我々が学徒から聴きたいのは、実は、「どこに行って、誰から何を学んだか」ではない。
連中が、どんな人になったかを見たいんだと思う。
“門前の小僧”として、オトナ達と一緒にいて、感化されて、私はこんな事を考え、こんな事をする人になりました! と言ってくれれば、たどたどしくても伝わる物がある。
発表は「感想」じゃなく、「提案」だったり「意見」だったりの「成果」になるはずだ。
何でそうなのかなぁ、と言うのを考えると、やっぱり、自分たちで見つける歓びが足りないんじゃないか、と言うところに行き着く。
お手盛りだものなぁ。
来年以降続けるなら“組長”の選び方、根本的に変えた方が良い。
私だったら、学生(スタッフではなく、学徒になる人)が提案する形にするなぁ。
よし、名前。
「この人の小僧さんになりたい」プロジェクト。
門前塾事務局に、「この人(一応静岡限定)から学びたいことがある」、と言う熱い提案をしてもらって、書類審査して、交渉は事務局がやる。
門前塾じゃ無理かねぇ。
こういう事を俺に言われる前に提案できる人がいたら未来は明るいんだけどねぇ。
「静岡の文化」も、提案してくれる人いないかなぁ。
1年生の前期じゃ無理かぁ。
オルベアさんのコメント。
>参加学生の意識はもちろんですが、サポートする側の人間の意識や立ち位置に関してももっと注意を払わなくてはいけないと感じています。
この視点!
昨日どう書けばいいのか迷ってスルーしてしまったんだけれど、ここも気になりました。
オルベアさんは、この時点で“組長”になるとは思ってなかったと思うんですが、かなり試行錯誤されてたのは伝わってきました。
あ、解ってると思うけど、「駿生山」さんですよ。
個人的には、最初「やりたくない」って断った時の予感は的中しちゃいましたが、中に1人・2人、僕の意図を感じてくれた?学生がいました。
まぁ、「今回はこれでよしとしようかな?!」という感じです。
「サポート」「コーチ」「フォロー」……。
しかしやっぱり第一に学生の主体的な動機が必要。
勿論、動機付けのための仕掛けも必要なんですが。
世間のオトナたちは学生が何かやると大抵褒めるので、私はダメ出し係を続けます。