コニタス

書き留めておくほど重くはないけれど、忘れてしまうと悔いが残るような日々の想い。
気分の流れが見えるかな。

便乗しつつ、具体的に考える。

2011-03-07 11:13:30 | 
彦星先生のブログ。
「学」よ目を覚ませ  ~慶応大学名誉教授 矢作恒雄先生の示唆に富む見解  2011/03/06

私は「静岡新聞」を購読していないのだけれど、食事で立ち寄ったところに複数の新聞・雑誌があれば、取りあえず「静岡新聞」を読む。
身近な情報と面白いコラムが目当て。
で、気になったモノは、記憶して、言語文化の会議室でコピーするか、少し古いモノなら譲って貰うこともある。
実は、この矢作氏のコラムは、その日の内にコピーして研究室のパソコンデスクの上におき、ブログのための下調べもしてある。
共同通信か何かの配信記事かと思って検索し、静岡新聞用の記事らしいと言うことも判って驚いた。
この文章は埋もれてしまってはいけない」。
彦星先生と全く同じ判断と行動を私もしていたわけだ。

もう一ヶ月も前になるというのは驚きだけれど、こうやって、“ブログのネタ”にしようと準備して埋もれているコピーや下書きはほかにも大量にある。


今回は、そう言うわけで、彦星先生が紹介して下さったのに便乗して、ひと月前に書こうとしたことを、改めて整理しようと思う(というわけで、矢作氏コラム本文は孫引き御免)。

彦星先生は、
わたしがここ数年ずっと違和感を持ち続けてきたことが、この文章によってみごとにあぶり出さされている。
と書かれている。
ご本人の“違和感”の内実については触れていないが、彦星先生は、「ここ数年」実務家として、静岡大学の非常勤講師を務めてこられた。
そして、私は大学の専任教員として、彼をお招きした立場にある。

問題意識を共有している上で、立っている場所は反対側。
そこから見える風景は自ずと異なるに違いない。


実務家を講師に招くリレー講義というのは、全学でどの程度あるのか判らないが、人文学部で言うと、法経でかなり行われているように見受けられる。
先駆けになった企業の寄付講座では、資格審査後に企業側から講師変更の申し出があって問題になったこともある。
就活やキャリアデザインなどの授業も社会人講師が多いらしく、言語文化学科卒業生の木下学君(ベネッセ)が講師を務めた授業は好評を博したと聞いている。

私が3年間続けた“茶の世界”も、“実務家”を招いてリレー講義をし、わたしが“司会”をした。
しかし、それが、矢作氏の言う「「オムニバス方式」と称し、毎回実務家の面白い「講演」を繰り返し、教員は司会に徹する授業」でなかったことは、受講生は理解してくれていると思う。そうでなければ、あれだけ幅広く、質の高いレポートは出てこないはずだ。
“茶の世界”にとどまらず、学際科目では、専任教員個々の問題意識と教育に対する志に基づいた授業展開が可能な自由度があった(勿論、それは、制度がしっかりしていた、と言うことではないので、毎回職員に面倒を掛けることになり、私も、ゲスト講師の方も消耗することになった)。

非常勤講師として“実務家”を呼ぶ場合、専任教員は、学生に対して、その人の言葉や行動が、特に専門領域の学問とどう繋がっているのか、と言うことを可視化して示す必要がある。特に、教育現場どころか人前で話す事にさえ慣れていない人たちをお招きする場合は相当な工夫も必要だ。
そう言う努力を怠ると、「先生は自分の体験を通して何を僕たちに伝えたいのですか」という質問が出てくるというわけだ。

“茶の世界”では、吉野亜湖さんが茶人として、私が大学人としての文脈から、講師の人たちの話をどう捉えればいいのか、と言うことを、不親切ながらも示し得たと思う。私自身、かなりしつこく“学際科目”と言うことの意義を説き、自分の担当する回も設けて、学問の境界線を取り払うことの実例を示した(そもそも、“江戸文学”が専門の教員が何故こういう授業と担当するのか、と言う話が必要だったし)。

自画自賛は見苦しいし、不満がないわけではない。
実際に、学生達の専門の学問に対する取り組み方に変化があったかどうかは検証してないので、絶賛するわけにも行かないのだけれど、この授業は、吉野さんと私の“キュレーション”の成功例だと言う“実感”はある。


彦星先生に非常勤講師をお願いしたのは、あべの古書店、AYAMEさんに紹介された初対面の席でのことだ。
この人は、“実務”と“学問”、特に、文科系基礎学と社会生活のコミュニケーションを繋げることが出来る、と言う印象を受けたからで、しかも、既に大学以外での“教育実績”は十分にあった。
法人化の嵐の中、“アッパレ会”の結成、“市民開放授業”の前倒し実施、さらに“静岡の文化”の開講も抱き合わせという形で“情報意匠論”がスタートし、その後の華々しい成果は多くの人の知るところで、ここで述べるまでもない。

ただ、その間、私が思い描いていた方向に進まなかったのも事実だ。
彦星先生は、再三に亘って、スキルを伝授する授業ではないのだ、古典に学び、自らの問題に対処する姿勢や方法を修得して欲しい、“大学を元気にする授業”を、と語り、シラバスにも古今東西の古典を読め、と書いている。

学生達はどうだったのだろう。
これも、検証はこれからしなければならないのだけれど、楽しい授業、魅力的な情報、社会との繋がりの実感……。それらの、「大学の授業では学べないこと」の魅力の中で、厳しく、心地よく過ごした上で、“専門”を学ぶ意義を“正しく”理解してくれたかどうか。

今年度“情報意匠論”受講者の感想のなかに、“彦星ゼミ”はないのか、という質問が7件あった、と彦星先生のブログにある。
これは、困った事態だ。
学生達は勘違いしている。

彦星先生に非常勤講師をお願いした最初の年、私のゼミの学生数が最大になった。翌年もその傾向が続いた。
この時期、私はコースガイダンスや面接で、「彦星先生に教わりたいから日文、コニ研、というのは意味がないのでやめるように」と言う事を何度も念押ししている。
私は、学外のネットワークと学生を繋げる事にかなり積極的だったけれど、それは、どのゼミに所属しているか、と言うのとは全く関係ない。自分の学問にとって必要だと思ったら言ってくれれば仲介はする、と言う態度でずっとやってきた。
実際、どのコースでも、“情報意匠論”と関わりながら卒業研究をすることは可能だし、そう言う実例も既にある。
それが、学科の学問を更新し、元気にする力だ。

今年の1年生だけの問題ならいいんだけれど……。

このことも含め、先日彦星先生に少し申し上げたのは、言語文化学科の教員達との意思疎通をはかる機会をもちましょう、ということだった。


話はやっと矢作氏のコラムに戻る。
受け入れる側に、教育に関する毅然とした理念があり、堅牢な方法論により実務教員をサポートするシステムがなければならない。

受け入れ主体である言語文化学科が、“情報意匠論”“静岡の文化”に対して、今まで全くコミットしてこなかった事実。
それは、一義的には私の責任になるのだろうから、“情報意匠論”を学科の学問の中にどう位置づけるか、と言う話をもっとしつこく受講生に発信すべきだったと思う(戯作の授業などでは“情報意匠論”という言葉が何度も出ていたと思うが)。そこまで任せてしまった事は反省しなければならない。

そのうえで、やはり、言語文化学科の教員達が、この、希有な授業を自分たちの基礎学との有機的な連関の中で捉え、意味づけていく作業が必要だ。
遅きに失した、と言う印象はぬぐえないのだけれど、来年度はそう言う意識を持って再出発したいな、と。


ところで、“情報意匠論”と“静岡の文化”という二つの授業は、“アッパレ会”という市民組織が支えている。
これは、元々、法人化の中で言語文化学科、というか、文科系基礎学を軽視する風潮に対する対抗軸を学外に求め、大学に迫るという目的があった。
しかし、現実のアッパレ会は、市民と大学の連携という、更に大きなテーマに向かって拡大し、結果的に、文科系基礎学は置き去りにされた。

やはり、他力にすがるのは甘い。
そう言う問題意識もあって、昨年度から“言語文化学科活性化プロジェクト”が動き出した事もあり、私は、今年度でアッパレ会を退会する事が決まっている。

大学の専任教員である我々は、考えられるあらゆる材料の中から、目の前の学生達に何を伝えたいのか、何を学んで生きていって欲しいのか、と言う明確なビジョンを持って、適切なモノを、適切な方法で与えた上で、その“意味”も適切に提示しなければならない。

過剰ではないか、と言う疑問を常に抱えつつ、しかし、まだ足りないのだと、現実は突きつけてきているらしい。

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2 コメント

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つながりますね (I.M)
2011-03-08 00:50:01
1ヶ月遅れでこの新聞記事を紹介するのは、ルワンダ報告、カンニング事件を待っていたから?と思えるほど、グッドタイミングではないでしょうか。

国際協力では、まさに現場の人が「実務家」であり、人類学と密接に繋がることで、現地での「支援」が生きてくるという議論だった。
カンニング事件では入試で問いたい「学力」は何なのかということが問題提起された。一つの回答を当てるのではなく、断片の知識のつなげ方、活用の仕方を測る「入試」に変えられないか・・・。

私自身、外国人支援という現場に長らくいて、「学者」たちに腹を立てることも多くあり、「原因治療が必要なのはわかるけれど、まずは対症療法をしなければ」が口癖でした。が、行政学、労働法、社会学・・・専門家の切り口に「おお!」とうなることもあり、「知らない」ことが原因で対症療法も誤ってしまうことがあることを痛感しました。

社会に出てから痛感して「学問をもう一度」と学びなおすケースは一般的だと思います。平野先生の「情報意匠論」が、先に「現場」を経験して、学問との繋がりを実感できるのであれば、うらやましい限りです。
そうなんですよねぇ。 (コニタ)
2011-03-08 08:21:30
一ヶ月前に用意してた部分は少しだけだったせいもあって、かなり変わりました。
そうやって“お蔵入り”が増えるわけです。


卒業してから「あのときもっと……」と思わないように、というのは結構重要なテーマです。


どんな事でも同じなんでしょうが、反対側からどう見えるのか、と言う視点をどれくらい恣意的にならずに想像できるか、ということが大事だし、それ以前に、お互いが十分な意思疎通をし続けること、なんですよね。

色々反省する事が多いです。

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