「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました
初秋に掛け涼を求める旅をご案内する『湖國納涼散歩』シリーズ。思いのほか残暑は厳しくなく、意外にも秋は早く訪れましたね。
完結篇である第7回目は、近江源氏の中で激動の戦国を生き抜いた一門・京極家の一大メモリアルである徳源院(とくげんいん)を訪ね歩きます。
JR東海道線・柏原駅から西北西の方向へ徒歩約30分の位置に、天台宗の寺院・徳源院があります。鎌倉時代中期の弘安9(1286)年、近江源氏・佐々木氏の別家で北近江を支配していた京極氏の初代・氏信(うじのぶ)によって建立されました。
ちなみに“京極”の家名は、氏信の宿所が京都の京極高辻(きょうごくたかつじ)にあったことに由来すると言われています。
京極氏は浅井氏の台頭とともに一時期勢力が衰え、当時清瀧寺(きよたきでら)と呼ばれていたこの寺院も荒れるに任せる状態でした。
江戸時代初期の寛文12(1672)年。讃岐國・丸亀藩主であった京極高豊は、播磨國(現在の兵庫県)の所領2村とこの地一帯の所領換えを幕府に請願。同地にあり京極氏の菩提寺であったこの清瀧寺を復興します。
付近に散在していた墓碑を1箇所に集めて整理し、三重塔を寄進。歴代当主の墓を並べ、この時父・高和の法名にちなみ、院号を徳源院と改めました。一族全ての墓を1箇所に集中安置しているのは、全国的にも極めて珍しいケースなのだそうです。
国の史跡に指定されている京極家墓所は本堂裏手の山麓にあります。
墓所は年代別に大きく2つの階層に分かれています。まず上段には始祖・氏信を筆頭に、南北朝時代に活躍した道誉(どうよ)を含む歴代当主(18代・高吉まで)の宝篋印塔が18基。
上は京極(佐々木)道誉の墓碑です。心なしかとても立派に見えますよね(^^)
そして下段には淀殿の妹・初を娶った中興の祖・19代高次(たかつぐ)を始めとして、江戸時代後期までの当主(25代・丸亀藩主高中)並びに分家当主(多度津藩)の宝篋印塔16基と一族の墓が存在します。
上はその中興の祖である京極高次の墓碑。流石京極家を存亡の危機から救った功労者だけに、墓碑は立派な石廟の中に安置されています。
小生の意図的な物言い(笑)で既にお気付きかも知れませんが、実は墓碑の大きさは京極家の栄枯盛衰を如実に表している、すなわち貢献度によって大きさがまるで異なるのです。よって京極家を存亡の危機に陥れてしまった高次の父・高吉の墓碑といったら、それはそれは惨めな程に小さいのであります(>_
その他に、本堂の奥には位牌殿と呼ばれる場所があります。こちらには歴代当主の位牌と、何とその木像が安置されています。
「位牌のみ」「肖像画」が通例なのですが、これも徳源院ならではの特徴といえます。
京極家の菩提寺としてのイメージの強い徳源院ですが、もともとはここに初代・氏信が築いた柏原館がありました。
本堂裏には裏山を取り込んだ池泉回遊式庭園があります。現在は枯池と枯滝になっていますが、本来は“清瀧”と呼ばれた滝から水が落ち、池には水が湛えられていました。
しかし、昭和34(1959)年の伊勢湾台風の際に水源の川ごと崩れてしまったとのことです。
もう1つの名勝として、バサラ大名として名を馳せた京極(佐々木)道誉が愛したと伝えられているしだれ桜、道誉櫻があげられます。
現在残っているのはその2代目と3代目です。今回の取材が残念ながら“サクラの季節”ではありませんでしたので可憐な姿をお見せすることは出来ませんが、是非とも春には訪れたいものです。
さて、今回のこの記事のタイトルは“The mononofu's memorial ”といたしておりますが、この徳源院には1つだけ“武家ではない墓”があります。
その人物の名は、公卿・北畠具行(きたばたけともゆき)。この人物のお話でもって最後を締め括りたいと思います。
公卿(くぎょう)とは、朝廷に仕える貴族の中でも日本の律令の規定に基づく太政官の最高幹部にあたる職位です。そんなお公家さんの墓が、何故武家の菩提寺にあるのでしょう?
具行は鎌倉時代末期に後醍醐天皇に仕えた側近で、村上源氏の流れを汲み、知略・和歌にも優れたバリバリのエリート貴族でした。元弘元(1331)年。後醍醐天皇を首謀者とする鎌倉幕府へのクーデター計画(元弘の変)に主要メンバーの1人として参加します。
しかし山城國(現在の京都府南部)の笠置山合戦で笠置城落城の際、幕府軍に捕縛されます。翌年、佐々木道誉により鎌倉に護送される途中、幕府の命により近江國柏原で斬首されました。その最期の地が、徳源院より南へ約700m、旧東山道沿道の丸山(標高285m)です。
現在その地には北畠具行卿墓(国指定史跡)があります。
道誉は公家である具行のことを忌み嫌っていましたが、死に臨んでの具行の神妙な態度には道誉もいたく感服し、当時道誉の別邸であった清瀧寺に1ケ月ほど逗留させ丁重にもてなしました。
幕府に対しては再三に渡り助命嘆願しましたが聞き届けられず、その別れを惜しんだと伝わります。
処刑前日の晩、2人はしばし談笑。翌日具行は剃髪(出家)後に処刑されますが、処刑前に道誉に対し、丁重な扱いに感謝の意を述べたとそうです。
この時の出来事が、後の鎌倉幕府打倒へ道誉を駆り立てる原動力のひとつとなったのかも知れません。 この墓は死後16年を経て建立され、今もなお6月19日の命日には地元の人々によって手厚く供養されています。このような経緯があり、京極家の菩提寺にも北畠具行の墓碑が存在するのです。
おまけとしてこんなエヒソードをご紹介しましょう。大東亜戦争終結後、皇室ゆかりの遺跡や文化財が次々と国指定の解除を受ける中、こちらは珍しくその地位を守り抜きました。
その具行の持つ皇室への想いの力(?)の影響か真偽は不明ですが、にわかに埋蔵金伝説が持ち上がったことがあるのです。北畠具行卿墓から約10mの地面に、何故かやや窪んだ箇所があります。かつて地元住民の1人が「ここに眠る財宝を掘り当てよ!」という夢のお告げを得て、トンネルを掘った跡なのだそうです。
しかし残念ながらその方は具行卿の崇り!?か志半ばで亡くなられたそうです。トンネルは放置すると危険であるとのことで埋め戻されたのですが、何度土を補充しても窪んでしまうのだそうで、地元の怪奇話のネタになっています。勇気ある方は是非チャレンジを!(>_
今回徳源院の山口光秀住職、御令室には全面的にご協力を賜りました。この場を借りまして厚く御礼申し上げます。
滋賀県米原市清滝288番地
TEL.0749-57-0047
入場料:300円
※写真撮影は取材にて特別に許可されたものですので予めご了承ください。
★本家「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」にも是非お越しください!
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます