後藤奇壹の湖國浪漫風土記・淡海鏡

~近江の國は歴史の縮図である~滋賀の知られざる郷土史を後世に伝える渾身の激白?徒然紀行アーカイブス(^o^)

OLD POWER 炸裂!“老蘇の森”の伝説 後篇

2015年06月24日 12時00分00秒 | 滋賀の伝説

後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました。

 

OLD POWER 炸裂!“老蘇の森”の伝説 後篇をお届けいたします。 

 

この森の中心には奥石神社(おいそじんじゃ)があります。国道8号を通っていれば上下線共に国土交通省の案内板がありますので直ぐに解ります。

 

本題の前に珍百景を1つ。この国交省の看板をよ~く見てみると、ローマ字読みのところに修正シールの痕があります。コレ、設置当初は“oiso”ではなく“okuishi”と表記されていたんです。後で指摘されて訂正したんですね~(^^)

 

あっ、タレこんだのは私じゃないですよ(笑)。では本題に戻します。

 

この神社は先にご紹介しました石部大連が社壇を築き、今から約2100年前に吉備津彦命(きびつひこのみこと/孝霊天皇の第3皇子)により社殿が造営されたと伝えられています。また繖山(きぬがさやま)にある磐座(いわくら/日本古来の自然崇拝の対象となる巨岩)を遠拝するための祭祀の場が創祀ではとの意見もあります。

 

社伝によりますと、日本武尊(やまとたけるのみこと/景行天皇の皇子で古代大和朝廷の日本平定に貢献)が蝦夷征伐に向う際、上総國(かずさのくに/現在の千葉県)で荒海に行く手を阻まれた時のこと。妃であった弟橘媛(おとたちばなひめ)は夫の危機を救うために、荒ぶる海神を鎮めるべく身代りとなり、走水(はしりみず/現在の東京湾口・浦賀水道)の海に身を投げました。その時懐妊していた妃は、波間に消える前に「自分は老蘇の森に留まって女人安産を守る」と言い残したと言われています。

 

この伝説から奥石神社は古くから安産の神として広く信仰を集め、鎌倉・室町期には近江源氏・佐々木氏が、江戸期にはこの地を領した旗本の根来(ねごろ)氏が代々に渡り手厚く保護しました。旧縁のある越前福井藩・松平氏も崇敬しています。

 

現在の社殿は織田信長の命により、家臣の柴田家久(しばたいえひさ)が造営したものです。

 

幕末には幕府政事総裁職を務め、かの坂本龍馬が人生の転機に拝謁した第16代越前福井藩主・松平春嶽(まつだいらしゅんがく)も、息子とともにここへ参籠したと記録されています。

 

さてここで豆知識。

 

大半の方が「奥石神社」と認識しているのですが、現地に赴きますと何故かこの神社は「鎌宮(かまみや)奥石神社」と表記されています。

 

“鎌宮”とは一体何でしょう?

 

かつてここは鎌宮神社・鎌宮明神と呼ばれていました。「蒲生野宮(かまふのみや)」が訛ったものだとも言われています。

 

古くは竃(かま)大明神とされ“火除けの神”として崇められていました。それが竃から“釜”に変わり、いつしか“鎌”となって“狩猟神・農業神”としても信仰されるようになったそうです。

 

1915(大正4)年に延喜式(えんぎしき/平安時代中期に編纂された法令の1つ)の記載の旧名に従い、それまでの鎌宮から奥石神社に改称されたのです。いわば“鎌宮”はかつての名称の名残という訳でして、現在でも社紋は「左右一対の鎌」があしらわれています。

 

昭和24年7月13日に老蘇の森は国の史跡に指定されました。残念ながらその後の国道8号の拡幅工事や東海道新幹線の建設工事に伴い、森は分断されてしまいます。

 

ですが神秘の森の佇まいは現在に至っても保たれ、安産の神の鎮守の森に相応しく奥石神社の境内は清浄な空気に包まれ、いつも近所の子供たちの笑い声で溢れています。

 


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2015年06月10日 12時00分00秒 | 滋賀の伝説

後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました

 

今回は、近江八幡市の安土町エリアにあります老蘇の森(おいそのもり)についてのお話をいたしたいと存じます。

 

近江八幡市と東近江市の境界近く。国道8号と東海道新幹線が並走する両脇に、こんもりと茂った森があります。これが老蘇の森です。

 

昔々、今から約2300年前の孝霊天皇(こうれいてんのう/第7代天皇で実在が疑問視されている8人の天皇の一人)の御代のことです。

 

かつてこの辺り一帯は湖岸に近い湿地でした。地は裂け、水は湧き、とても人の住める環境にありませんでした。

 

当時この地の近くに、石部大連(いしべのおおむらじ)という老人が住んでおりました。

 

大連は「この地裂や湧水が無ければ、どれほど平穏に暮らせるだろうか」と考え、一心不乱に神に祈りました。さらにその助けを仰ぎたいと願を込め、地裂の激しい箇所に松・杉・檜などの苗木を植えるのです。

 

すると不思議なことにそれらの苗木はたちどころにすくすくと成長し、辺り一面昼でも薄暗い程の大森林となりました。この一帯に住む人々は、大連に大変感謝しました。

 

その後大連は110歳を超えてもなお息災に過ごしておりましたので、人々はこの老人のことを老蘇(老いて蘇る)と呼び、いつしかこの一帯の地名ともなったのです。

 

現在でも近江八幡市安土町東老蘇地区には、森を中心として「東沢」「西沢」「北沢」の小字名(こあざめい)が残っているところからも、この一帯が以前は湿地帯であったことを偲ばせます。

 

また老蘇の森は古くから和歌の歌枕(うたまくら/和歌に多く詠み込まれる名所旧跡)としても有名で、ホトトギスの名所とされ、想い出または老いの哀しみを森に託して用いられていました。歌への引用では、老蘇を“おいそ”“老曾”“追初”“息磯”とも表記しています。

 

主な歌をご紹介いたしますと・・・

 

東路の 思ひ出にせむ 郭公
 おいその森の 夜はのひとこゑ
【大江公資朝臣(後拾遺和歌集)】

 

郭公 なおひとこゑは おもひ出よ
    老曾の森の 夜半のむかしを
【藤原範光(新古今和歌集)】

 

かわらじな わがもとゆいに 置く霜も
 名にし老蘇の 森の下草
【作者不詳(東関紀行)】

 

一声は おもひ出てなけ ほととぎす
 おいその森の 夜半のむかしを
【紀伊守教光(平家物語)】

 

夜半ならば 老蘇の森の 郭公
 今もなかまし 忍び音のころ
【本居宣長(鈴屋集)】

 

があります。

ちなみに和歌では「郭公(カッコウ)」をホトトギスと読んでいます。これはホトトギスとカッコウがよく似ていることからくる誤りであるとされています。またしばしば「夜」のシチュエーションとセットで歌に詠まれるのは、稀にホトトギスが夜に鳴くという習性を持つところに由来しています。

 

近世までは中山道(東山道)が森の東側を通り、平安時代以降は沿道の観光地としても賑わっていたようです。

 

(OLD POWER 炸裂!“老蘇の森”の伝説 後篇もお楽しみに・・・)

 


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