「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました
今回の園城寺余話は天台寺門宗の宗祖・圓珍(智証大師)にまつわる村雲橋(むらくもばし)の伝説についてご紹介したいと存じます。
圓珍(智証大師)まずは圓珍(えんちん)について簡単にご紹介致します。最澄(伝教大師)が日本で開いた天台宗の僧で、讃岐國(現在の香川県)の出身。あの真言宗の宗祖・空海(弘法大師)の甥とも言われています。
平安時代初期に唐(中国)へ留学僧として海を渡ったことから、入唐八家(にっとうはっけ/最澄・空海を始めとする代表的な唐への留学僧)の1人に列しています。
わずか14歳で比叡山に入り、初代天台座主(てんだいざす/延暦寺の住職)・義真(ぎしん)に師事。853年、唐に留学し、天台山(天台宗の聖地)で天台宗の教義を本格的に学びます。その後、かつて空海が留学した長安(ちょうあん/唐の都で現在の西安市)にある青龍寺で密教を学び、およそ5年間の留学生活を終えて帰国します。
帰国後再び比叡山に戻りますが、868年、第5代天台座主に就任。859年、朝廷の許可を得て園城寺を再興し、ここを天台密教の道場として整備しました。これが現在の園城寺の始まりです。圓珍の死後、教義の違いから延暦寺と園城寺は一気に宗教的対立を迎え、朝廷の政治的な思惑も複雑に絡み、天台宗は約700年間の長きに渡り混迷の時代を送ることとなるのです。
さて何処にでも存在することなのですが、開祖・宗祖にまつわる伝説というものは定番でございます。ここで圓珍ゆかりの代表的なお話を1つ。
村雲橋金堂から観音堂に向かう参道の途中、勧学院の美しい石垣の築地堀の手前に村雲橋(むらくもばし)と呼ばれる小さな石橋があります。
橋の下の川はとても小さいのですが、常に美しい水が流れています。
ある日のこと。圓珍がこの橋を渡ろうとした時、ふと西の空を見遣り大変驚きました。
かつて唐の長安で学んだ青龍寺が火事に遭っていることを察知したのです。 圓珍は早速真言を唱え、橋上から閼伽水を撒くと、橋の下から一条の雲が湧き起り、 西に向かって飛び去りました。その光景をその場にいた弟子たちはあっけにとられて、ただただ見とれていたそうです。
それから幾日か経ち、青龍寺より園城寺へ鎮火の礼状が送られてきました。「当寺が火災の際、大変お助け頂き、お陰で重要な仏典が全て焼損することを免れました。厚く御礼申し上げます」と。
弟子たちは改めて圓珍の神変摩訶不思議な力に感動し、以来この橋を“ムラカリタツクモの橋”、村雲橋と称して、その徳をいつまでも忘れぬようにしたと伝えています。
今回の記事作成に際し、寫眞をご提供頂きました西安觀光様、この場を借りまして厚く御礼申し上げます。
(園城寺余話、次回もお楽しみに・・・)