後藤奇壹の湖國浪漫風土記・淡海鏡

~近江の國は歴史の縮図である~滋賀の知られざる郷土史を後世に伝える渾身の激白?徒然紀行アーカイブス(^o^)

園城寺余話(4)“村雲橋の伝説”

2014年10月29日 12時00分00秒 | 滋賀の伝説

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました

 

今回の園城寺余話は天台寺門宗の宗祖・圓珍(智証大師)にまつわる村雲橋(むらくもばし)の伝説についてご紹介したいと存じます。

 

圓珍(智証大師)まずは圓珍(えんちん)について簡単にご紹介致します。最澄(伝教大師)が日本で開いた天台宗の僧で、讃岐國(現在の香川県)の出身。あの真言宗の宗祖・空海(弘法大師)の甥とも言われています。

 

平安時代初期に唐(中国)へ留学僧として海を渡ったことから、入唐八家(にっとうはっけ/最澄・空海を始めとする代表的な唐への留学僧)の1人に列しています。

 

わずか14歳で比叡山に入り、初代天台座主(てんだいざす/延暦寺の住職)・義真(ぎしん)に師事。853年、唐に留学し、天台山(天台宗の聖地)で天台宗の教義を本格的に学びます。その後、かつて空海が留学した長安(ちょうあん/唐の都で現在の西安市)にある青龍寺で密教を学び、およそ5年間の留学生活を終えて帰国します。

 

帰国後再び比叡山に戻りますが、868年、第5代天台座主に就任。859年、朝廷の許可を得て園城寺を再興し、ここを天台密教の道場として整備しました。これが現在の園城寺の始まりです。圓珍の死後、教義の違いから延暦寺と園城寺は一気に宗教的対立を迎え、朝廷の政治的な思惑も複雑に絡み、天台宗は約700年間の長きに渡り混迷の時代を送ることとなるのです。

 

さて何処にでも存在することなのですが、開祖・宗祖にまつわる伝説というものは定番でございます。ここで圓珍ゆかりの代表的なお話を1つ。

 

村雲橋金堂から観音堂に向かう参道の途中、勧学院の美しい石垣の築地堀の手前に村雲橋(むらくもばし)と呼ばれる小さな石橋があります。

 

橋の下の川はとても小さいのですが、常に美しい水が流れています。

 

ある日のこと。圓珍がこの橋を渡ろうとした時、ふと西の空を見遣り大変驚きました。

 

かつて唐の長安で学んだ青龍寺が火事に遭っていることを察知したのです。 圓珍は早速真言を唱え、橋上から閼伽水を撒くと、橋の下から一条の雲が湧き起り、 西に向かって飛び去りました。その光景をその場にいた弟子たちはあっけにとられて、ただただ見とれていたそうです。

 

それから幾日か経ち、青龍寺より園城寺へ鎮火の礼状が送られてきました。「当寺が火災の際、大変お助け頂き、お陰で重要な仏典が全て焼損することを免れました。厚く御礼申し上げます」と。

 

弟子たちは改めて圓珍の神変摩訶不思議な力に感動し、以来この橋を“ムラカリタツクモの橋”、村雲橋と称して、その徳をいつまでも忘れぬようにしたと伝えています。

 

今回の記事作成に際し、寫眞をご提供頂きました西安觀光様、この場を借りまして厚く御礼申し上げます。

 

(園城寺余話、次回もお楽しみに・・・)


園城寺余話(3)“三井古流煎茶道とは?”

2014年10月22日 12時00分00秒 | 浪漫回廊探訪.

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました

 

さて今回の園城寺余話は前回お伝えした閼伽井にも縁の深い、三井古流煎茶道(みいこりゅうせんちゃどう)についてご紹介したいと存じます。

 

さて皆さん、煎茶道ってご存知ですか?

 

茶道といえば一般的には抹茶を用いる抹茶道のことを指しますが、実は煎茶を用いた茶道もあるのです。

 

煎茶道のルーツは中国文化に由来しますが、日本では江戸時代初期に禅宗の一派である黄檗宗(おうばくしゅう)の開祖・隠元隆(いんげんりゅうき)が始めたとされます。

 

現在でも全日本煎茶道連盟が黄檗宗の総本山・萬福寺(京都府宇治市)に設置され、連盟の会長は萬福寺の管長が兼務することが慣わしとなっています。

 

形式に囚われず煎茶を飲みながら清談を交わすというカジュアルなスタイルが、茶道の世界において形式化が進みつつあったことへの反発もあって、文人たちや江戸・京都・大坂を中心とした上流階級の間で急速に普及しました。

 

江戸時代後期、文化・文政の頃。

 

園城寺に壷井軒(つぼいけん)という年老いた居士(こじ/出家をせずに家庭において修行を行う仏教の信者のことで千利休が代表例)が住むようになり、悟りを開いて真理を会得することに精進。三井の霊水(閼伽井)をすくって金堂に奉安する弥勒菩薩に献茶し、また参詣の善男善女にも茶を振る舞っていました。これが三井古流煎茶道の始まりであるといわれています。

 

明治・大正期に入ると文明開化の潮流の中で西洋文化がもてはやされ、中国文化に由来する煎茶道は一時衰退を余儀なくされます。しかし昭和、特に大東亜戦争終結後に入り煎茶道を復興しようとする動きが各地で活発となり、1960~70年代には隆盛を極めました。

 

近年は煎茶の大衆化が進行したことにより煎茶道への関心は薄れつつあり、現在その動静は停滞しています。そのような理由もあって、煎茶道の知名度が低いのかも知れません。

 

そんな時代の流行り廃れに流されることなく、三井古流煎茶道では独自の流儀を保ち、今でも閼伽井で水を汲み、毎日金堂に献茶し、参詣者に煎茶道の愉しみを伝えています。

 

上の寫眞でもお解り頂けるかと思いますが、我々が見慣れている茶道具とは趣が全く異なります。抹茶道の作法とは全く異なるので少し戸惑いますが、一般の方々へのお点前ではスタイルをとやかく言われることはありませんので気軽に体験することが出来ます。

 

金堂から参道を南へ約300m下ったところに、三井古流煎茶道本部が置かれている宝寿院があります。ここで煎茶道を体験することが可能です。でもこの入口の風格に、敷居の高さを感じるのは致し方無きこと。

 

そこで三井古流では、広く一般に開放して煎茶道に親しんでもらおうという行事を桜が満開となる4月、金堂と宝寿院の中間点にある唐院の敷地内で催されます。それが三井古流青山茶会です。

 

通常宝寿院の茶室で施茶されるものを、気軽に屋外で体験して貰おうという年に1回のイベントです。毎年実施日が異なりますし、たった1日のみの行事ですので、興味のある方は事前に問い合わせされることをおススメ致します。

 

小生もまだ一度しかお点前に参加したことがなく、その時は“何が何やら”の状態でしたので、今度施茶戴く際はじっくりとその神髄に浸ってみたいと思います(^^)

 

(園城寺余話、次回もお楽しみに・・・)

 

園城寺宝寿院 三井古流煎茶道本部

・滋賀県大津市三井寺町246
【TEL】 077-522-9580

 


園城寺余話(2)“閼伽井の伝説”

2014年10月15日 12時00分00秒 | 滋賀の伝説

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました

 

さて今回の園城寺余話は、閼伽井(あかい)の伝説についてご紹介したいと存じます。

 

前回の内容と少し重複致しますが何卒ご容赦下さいませ。

園城寺のもともとのルーツは飛鳥時代後期に大津京を造営した天智天皇の孫にあたる大友与多王(おおとものよたのおおきみ)が、父・大友皇子(弘文天皇)の菩提を弔うため、資材を投げ打って建立したものと伝えられています。

 

その園城寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたことから御井(みい)の寺と呼ばれ、それが転じて三井寺と呼ばれるようになったとされています。

 

一般的な寺院での本堂にあたる金堂(こんどう)。その西隣に三井寺の名の由来となった井戸の閼伽井屋(あかいのや)があります。

建屋が金堂と僅か数メートルしか離れていないので、残念ながら正面からの撮影が不可能となっています。何故こんなにも隣接して金堂が建造されているのかは皆目謎です。

 

ちなみに閼伽(あか)とは仏教において仏前などに供養される水のことで、天台寺門宗の宗祖・円珍(智証大師)により三部灌頂が奉修されたので、閼伽井と呼ばれるようになりました。

 

現在でもこんこんと湧き出る井戸の水は、園城寺の様々な営みで供されています。

現在の建屋は後に豊臣秀吉の正室・北政所(おね)の命により建立されたもので、もともとは石庭の一部でした。園城寺は大友与多王の邸跡に建立されたのではとの説もあります。このため閼伽井を中心とする石庭はそもそも大友氏邸の庭園とされ、現存する日本最古の石庭とも考えられています。

 

さてこの園城寺界隈には、この他にも霊泉と呼ばれる井戸の伝説が残っています。

 

園城寺大門より南東へ約300m。琵琶湖疏水に程近い場所に大練寺(だいれんじ)があります。ここに練貫井(れんがんのい)があります。

 

かつてここには大津京があり、この井戸の水で練った衣を宮中に献上し、その衣を天智天皇が着用されていたことからその名が付いたとされています。

 

またかつて天智天皇が行幸された古道がこの練貫井の前を通っていて、豊臣秀吉が京の聚楽第から毎日この井戸の水を汲みに来て、点茶(てんちゃ/抹茶をたてること)に用いたとの言い伝えも残っています。

 

園城寺の閼伽井、逢坂関の走井と並び大津三名水の1つに列せられる程の名水でしたが、明治20(1887)年、琵琶湖疏水の掘削工事で水脈が断たれ、残念ながら現在はその跡しか残っていません。

 

もう1つ。

 

園城寺から北方へ約3km、近江神宮の裏山手に宇佐八幡宮(うさはちまんぐう)があります。ここの境内に金殿井(かねどののい)があります。

 

大津京遷都直後、天智天皇が重い病気を患われます。当時天皇の側近の1人(右大臣)で中臣(藤原)鎌足の従兄弟でもあった中臣金(なかとみのかね/?~672年)は、夢で「都の西方にある大木の根本から湧き出る清水を汲んで献上せよ」とのお告げを受けます。

 

早速山中に分け入り泉を発見、この水を献上するとたちどころに平癒されたとか。

 

以降疾病に霊験あらたかな霊泉として守られてきましたが、宇佐八幡宮の創建(1065年)に際し、御神水として一般に公開。特に難病諸病に効果が顕著であると、次第に広くその効が伝えられました。 現在毎年8月上旬に霊泉祭が行なわれ、土用の日にこの水を頂くと特に効験があると言われています。

 

水都とも呼ばれる滋賀に相応しい、“水”にまつわるお話でした(^^)

 

(園城寺余話、次回もお楽しみに・・・)

 

泉涌山 大練寺 (練貫井)

・滋賀県大津市三井寺町9−3
【TEL】 077-522-0318

宇佐八幡宮 (金殿井)

・滋賀県大津市錦織1-15
【TEL】 077-522-6812


園城寺余話(1)“二つの総本山”

2014年10月12日 13時00分00秒 | 浪漫回廊探訪.

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました  

 

久し振りに滋賀を題材とした話題をお届け致したいと存じます。今回から園城寺余話(おんじょうじよわ)と題しまして、シリーズで園城寺にまつわるお話を展開して参ります。 

 

まずは序章としまして、園城寺について簡単にご紹介したいと存じます。

 

 

園城寺とは勿論滋賀でも有数の古刹の名称なのですが、一般には通称である三井寺(みいでら)の名で知られています。

 

最澄(伝教大師)を開祖とする天台宗の寺院なのですが、実は天台宗には総本山(俗に民間企業で言うところの本社)が2つ存在するのです。  一般的に知られる比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)と、ここ園城寺なのです。

 

正確に申しますと延暦寺が天台宗山門派、園城寺が天台宗寺門派となり、教義のルーツは同じくするものの宗派が異なるのです。分派の経緯は全く異なりますが、浄土真宗で言うところの東/西本願寺に分かれているような感じでイメージして戴ければ良いかと存じます。

 

 

かつては延暦寺とは激しい対立関係にあり、互いの宗徒や僧兵による争いは絶えず、室町時代末期迄に大小合わせて実に50回近く焼打ちに遭っています。

 

また理由は定かではありませんが豊臣秀吉の逆鱗に触れ、寺領を没収され廃寺寸前までに追い詰められたこともあったとか。その度に奇跡の復活を遂げてきたので、不死鳥の寺とも称されていました。

 

いつも思うことなのですが・・・宗教的対立は今の時代にも形を変えて存在しますが、開祖・宗祖のただひたすら衆生を救うという崇高な教えが、なぜこうも人間の我欲剥き出しに対立の構図を生むのか不思議でなりません。

 

さらに日本三不動の1つに数えられる黄不動の寺院としても知られています。但し、原則非公開の秘仏ですので滅多にご尊顔を拝することは出来ません。小生も残りの高野山明王院の赤不動、京都・青蓮院門跡の青不動は参拝の栄華を得ることが叶いましたが、県内に在住していながら未だ黄不動にはお目に掛かれません。それ程「近くて遠い」存在なのです。

 

この秋、宗祖・智証大師生誕1200年慶讃大法会(10月18日~11月24日)が奉修され、その際期間限定(11月21日~11月23日)で国宝・金色不動明王像(黄不動尊)が公開されるのですが、それには結縁潅頂会(:けちえんかんじょうえ/出家・在家を問わず広く信者が仏縁を結ぶために潅頂壇に入り、曼荼羅の諸尊像に華を投じてその人の守り本尊を得るための密教儀式)に参加するという条件があります。しかし・・・その志納金が10,000円・・・信心のためとは申せ、平民にはかなりハードル高いです(T_T)

 

ではこの序章の最後を締め括るお話を1つ。何故園城寺のことを『三井寺』と呼ぶのか?

 

実は現在の天台寺門宗の寺院としてのスタートは平安時代中期ですが、もともとのルーツは飛鳥時代後期に大津京を造営した天智天皇の孫にあたる大友与多王(おおとものよたのおおきみ)が、父・大友皇子(弘文天皇)の菩提を弔うため、資材を投げ打って建立したものと伝えられています。

 

次回より園城寺並びにその門前にまつわるお話をぼちぼちご紹介して参ります(^^)

 

(園城寺余話、次回もお楽しみに・・・)

 

長等山 園城寺 (三井寺)

・滋賀県大津市園城寺町246

【TEL】 077-522-2238

【Web】 こちらへ


試験運用開始しました!

2014年10月12日 12時00分00秒 | ご挨拶

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」をご愛読の皆様、こんにちは(^^)

 

本日より新規ウェブサーバーでの試験運用を開始しました。

 

これまで接続不安定であったサーバーのバックアップが主目的でございます。

 

これに伴いアドレスも新規追加となります。


新しいアドレスはこちら

 

 

本運用まで今暫くお時間を賜りますようお願い申し上げます。

 

管理責任者:後藤奇壹