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郡役所(ぐんやくしょ)???・・・耳にした方は余りいらっしゃらないでしょう。“軍役所”の変換ミスではございません。間違いなく“郡役所”です。
皆さんがご存知の役所が設置されている行政区画は、「都道府県」。その下に「市区町村」ですよね。その他に以前北海道には「支庁」(現在は振興局に再編)なんてのもありました。
さて、町村では“○○郡××町”とか“△△郡□□村”なんて言い方しますよね。その中の「“郡”ってナ~ニ?」と疑問に思われたことはありませんか?
実は昔、郡役所というお役所が存在していたのです。
そもそも“郡制度”は飛鳥時代(7世紀・「大化の改新」の頃)から存在していたと言われています。最初は“ぐん”ではなく、“こおり”と呼んでいたようです。以後趣旨は変われども、この制度は江戸時代まで続きます。今回お話します“郡”は古代~近世のそれとは関連がございませんので、説明を割愛いたします。
1878(明治11)年、政府は「郡区町村編制法」を制定し、ここに”行政区画としての郡”が正式に誕生します。この法律では府県の下に郡を置き、郡長を任命することが定められていました。またこれを機会に近世までの地理的区分であった”郡”を見直し、郡の分割・合併も行われました。郡長以下郡の行政に携わる者は全て中央の官僚が担い、彼らの勤務する場所が郡役所だったのです。
1890(明治23)年には「郡制」が公布され、郡は府県と町村の中間の地方公共団体として規定されます。これにより自治体としての機能が与えられ、”郡”にも郡会(議会)を設置。郡会議員の選挙も行われました。しかし、郡制度に関しては特に自由民権運動の系譜を引く政党勢力を中心に批判が多く、衆議院で郡制廃止を議決、それを貴族院が否決するという事態が繰り返されるようになります。
そして1921(大正10)年に「郡制廃止法」が公布され、1923(大正12)年に郡会が廃止。1926(大正15)年には行政官庁としての郡役所が廃止となり、再び”郡”は単なる地理的区分となってしまったのです。こういう経緯があり、現在”郡”には役所が存在しないのです。今は住所表記や広域行政圏の範囲、また都道府県議会選挙区の区割などに用いられるに過ぎません。また「平成の大合併」でも、市制への移行合併・合体によって多くの郡が消えていきました。
かつて滋賀県にも12の郡が存在しましたが、現在は3郡(犬上・蒲生・愛知)しか残っていません。その中の1つである愛知(えち)郡は、かつて4町2村を擁していました。しかし現在では1町のみという、県内で最も小さな郡になってしまいました。
その愛知郡に、今から84年前に廃止となった郡役所の建物が残っているのです。
1922(大正11)年に竣工した愛知郡役所は、木造2階建・寄棟造・桟瓦葺。棟は箱棟、外壁は下見板張で、桁行30m、梁間11.8mの規模を誇ります。建築様式にはゼツェッション(分離派のこと。19世紀末~20世紀初頭にドイツ語圏で起こった、古典主義から離れようという総合的な芸術運動。イギリスのアーツ・アンド・クラフツや、それを受けて欧州一円に広まったアール・ヌーヴォーからの流れを指す。アール・ヌーヴォー運動の一部とも解釈される)芸術の影響が見られ、近代公共建築の” 生き証人”として高い評価を得ています。
郡役所としては僅か4年しか機能せず、廃止後庁舎は郡教育会や県に移管します。その後、建物は郡農会に無償譲渡され、戦後になって土地も農協(現・JA)の所有となり、愛知郡産業会館と呼ばれた時期もありました。現在は愛荘(あいしょう)町文化振興課が管理し、町史編纂事業などで収集した歴史資料や民具などの保管に活用されています。
かつては誰もこの建物に注目しませんでした(恥ずかしながら私も、つい数年前までここの存在を知りませんでした)。しかしこの土地・建物の所有者であるJA東びわこが、支店再編に伴う同地での統合支店開設計画を表明したため、5年前から市民団体を中心とした保存運動が活発化しました。
愛荘町も保存に向けた動きを示していますが、「統合支店を平成24年4月に開設するという動かざる時間的制約の問題」「土地取得に約1億円、改修工事費に約3,000万円を要するという予算捻出の問題」「JAに対する支店建設のための代替地斡旋の問題」がネックとなり、中々前に進まないのが現状のようです。
現在、郡役所の建物は全国で30余りしか残っていません。その中でも旧愛知郡役所は京都・滋賀エリアで唯一現存する郡役所施設であり、また建築物がほぼ完全な形で残る全国的にも大変貴重な存在とされています。内部は「非公開」となっていますが、以前限定公開された際には、議場の看板や奉安殿(戦前の日本において、天皇・皇后の写真と教育勅語を納めていた建物)も残っていたことが認められたそうです。
かつて隣接する豊郷町では住民の力でヴォーリズ建築の「旧豊郷小学校校舎」が解体を免れ、現在は『萌えパワー』(^^)による多くの来訪者で賑わっています。平成24年4月開設を強行するかとみられたJAも、文化的価値の重要性に対する理解への包囲網に配慮してか、未だ手付かずの状況にあります。「形あるものはいつかは滅びる」などと申しますが、滅びたものは二度と再生することはできません。何とか人々の英知によって、この建物が後世に伝えられることを願って止みません。
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