後藤奇壹の湖國浪漫風土記・淡海鏡

~近江の國は歴史の縮図である~滋賀の知られざる郷土史を後世に伝える渾身の激白?徒然紀行アーカイブス(^o^)

きぬがさやま夜話外伝“シガイの森”の伝説

2015年11月25日 12時00分00秒 | 滋賀の伝説

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました

 

先々週完結しました「きぬがさやま夜話」シリーズですが、最終章の桑實寺(くわのみでら)の記事に関する取材の延長線上で奇妙な情報を入手しましたので、今回はそのお話を致したいと存じます。

 

ここで桑實寺に関する織田信長にまつわるエピソードを、もう一度おさらい致します。

 

1582(天正9)年4月10日。信長は少数の小姓衆を従えて、琵琶湖の竹生島(ちくぶしま)に参詣します。

安土城に詰める女房衆(にょうぼうしゅう/主君の身の回りの世話をする女性)は、遠路であるから途中の羽柴秀吉の長浜城に宿泊し、今日は帰城しないと考え自由に過ごしておりました。

ある者は城の二の丸に出掛け、ある者は桑實寺の薬師参りに出掛けていました。しかし大方の予想に反し、信長は異例の速さで安土城に戻ります。城内は大騒ぎとなり、この状況に激怒した信長は、怠けていた者を残らず縛り上げさせました。

桑實寺に出掛けていた者たちは信長の罰を恐れて、寺の長老に助けを請いました。長老は「慈悲をもってお助けを」と懇願しますが、かえって信長の逆鱗に触れ、女房衆とそれを擁護した高僧たちを処刑したのです。

 

以上が『信長公記(しんちょうこうき)』に所載されている桑實寺事件(竹生島事件とも)の概要です。前回の記事でこのお話は桑實寺の当時の寺伝にその出来事の記載がないことから、昨今は“いささか歪曲された内容”ではないかとの意見もあると申し上げました。

 

その後色々と調べを進めていると、女房衆と高僧たちを処刑したと伝えられる場所が存在するとの情報を得たのです。

 

近江八幡市安土町常楽寺(じょうらくじ)。県道2号西側に拡がる広大な田園地帯に、極めて不自然な存在感を示す森がポツンと存在します。

 

桑實寺から西に約3km、安土城から南西に約2kmの場所に位置する周囲約240m(敷地面積約3,200㎡)のこの小さな森は、新開の森(しんがいのもり)と地元では呼ばれています。

 

何故ここだけ残されたかと申しますと、この森の樹木を伐採すると“祟り”があるとの噂があるからなのだと言われています。

 

一見ただの雑木林ですが、ここから南に約700m先にある今宮天満宮神社(近江八幡市浅小井町)の御旅所(おたびしょ/神社の祭礼において祭神が巡幸の途中で休憩または宿泊地或いは目的地)に指定されています。

 

森の南側に参道らしきものは存在しますが、昼間でも薄暗く、お世辞にも整備されているようには見受けられません。

 

実は先の桑實寺事件での女房衆と高僧たちの処刑がここで断行され、遺骸を埋められたという説があるのです。神域の聖地で俄かに信じ難いことなのですが、それにはこのような裏付けがあるのです。

 

この森の西側に小さな祠がひっそりと佇んでいます。その祠の傍らには建部紹智(たけべしょうち)大脇傳助(おおわきでんすけ)殉教碑と書かれた碑があります。

 

安土城築城から2年後の天正7(1579)年の5月中旬のこと。安土城下で法華宗と浄土宗との間である騒動が勃発しました。当時城下で浄土宗の長老が説法をしていたところ、法華宗の信徒である建部紹智と大脇傳介が議論を吹っ掛け、これが引き金となり両宗派の僧侶が問答合戦を執り行うことになってしまいます。

城下がこの噂で騒然となり、当初信長は事態の収拾を両宗派に命じますが法華宗側が承知せず、遂に全面対決の騒動にまで発展してしまうのです。

町外れにある浄土宗・浄厳院(じょうごんいん)を論議の場とし、信長は審判者と警護の兵を派遣しました。両宗派より各々4名の僧侶が臨席して進められましたが、法華宗側が返答に詰まった時点で浄土宗側の勝利が言い渡されます。

この結果に接し、たちまち法華宗の僧侶や信徒達は逃げ散りましたが、織田信澄らがによってことごとく捕えられ、宗論の記録は信長の下へ届けられました。

早速信長は浄厳院へ出向き、両当事者を召し出します。そして浄土宗側に恩賞を与え、騒動の張本人である大脇傳介と、その師であり宗論にも臨席していた妙国寺普伝(みょうこくじふでん)を即刻斬首。またもう1人の騒動の張本人である建部紹智を大坂・堺で捕縛。連行の上これも斬首。法華宗側には今後他宗を誹謗しないとの誓約書を提出させて騒動は終結しました。

 

これが世にいう安土宗論(あづちしゅうろん/安土問答とも)です。その騒動の起因となった者たちの処刑が、この地で執行されたといいます。このお話も桑實寺事件同様、『信長公記』に所載されている一篇ですので、どこまでが真実でどこまでが虚飾なのかは定かではありません。

 

いつしかこの森はシガイの森と呼ばれるようになり、現在県内でも有数の心霊スポットと知られています。確かに霊感の全くない小生ですら、周囲の空気に禍々しさを感じました(決して興味本位で訪問しないでください)。

 

信じるか信じないかは、アナタ次第です!


本家「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」にも是非お越しください!


きぬがさやま夜話(3)“桑實寺”の伝説

2015年11月11日 12時00分00秒 | 滋賀の伝説

 「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました

 

今回は「きぬがさやま夜話」最終章としまして、繖山の西面中腹にあります桑實寺(くわのみでら)についてお話をいたしたいと存じます。

 

寺名が何とも素朴で面白いです(^^)


桑實寺を開基した定恵(じょうえ/中臣鎌足の長男で護持僧)が、唐から持ち帰った桑の実をこの地の農家にて栽培し、日本で最初に養蚕を始めたことに由来するのだそうです。

 

ちなみに護持僧(ごじそう/御持僧とも)とは、天皇の身体護持のため祈祷を行っていたお坊さんのことです。

 

このお寺が創建されたのには、このような経緯がありました。

 

天智天皇の御代のこと。当時大津京では悪病が流行り、天皇の四女であった阿閉皇女(あへのひめみこ/後の元明天皇)も同じく病に伏せってしまいます。

 

すると皇女が夢の中で湖の波の声として観音経が聞こえ、その波の止まるところを見ようと舟を出したら、瑠璃(るり)の光が見えて目が覚めたと訴えました。

 

そこで天皇は定恵にこの夢のことを話し、どういう訳かと尋ねます。すると定恵は次のような話を思い出しました。

 

「昔、役行者(えんのぎょうじゃ)が富士山に登り、西方に瑠璃色の琵琶を見た。そして琵琶の傍らに天蓋があり、その東方で美しい女が音曲を奏でていた。それは何かと調べてみたら、琵琶と見たのは近江の湖であり、天蓋と見たのは繖山であった。天女は弁財天であり、これは八大龍王の化身、湖底には龍宮城もあった。」

 

夢がこの話によく似ているというので、定恵は大津の膳所(ぜぜ)の浜で病気平癒のための祈願法要を営みました。すると薬師如来が現れ、お陰で阿閉皇女を始め国中の人々の病が治りました。


程なくして湖より大白水牛
(だいびゃくすいぎゅう/白い水牛)が現れ、薬師如来を乗せて繖山の麓へと飛んで行きます。麓からは岩駒(いわこま/白い馬)が薬師如来を乗せ、山腹に降り立ちます。

 

その降り立った場所に瑠璃石がありました。

 

このことに感激した天智天皇は、勅願により瑠璃石の近くにその薬師如来を本尊として堂塔を建立しました。それが桑實寺なのです。


薬師如来が降臨した瑠璃石と呼ばれる巨石が、繖山の山腹にあります。

 

桑實寺本堂から向かって左側にある登山道を行き、途中観音寺城方面への険しい山道を約20分進むと、桑實寺本堂裏手に巨石群が右手に現れます(注:ピカピカとは光っていません!)

 

特に案内板がある訳ではないのですが、モノリスのような2つの石柱を門に構え、一際大きな岩が山腹に張り付いています。

 

ここには岩駒が降り立った時の蹄(ひづめ)の跡も残っています。

 

このお話は国重要文化財に指定されている『桑實寺縁起絵巻』に網羅されています。

 

なお、この桑實寺の開基にはある疑惑が・・・。

 


天智天皇の勅願で定恵が創建したと伝えられているのが677年。『藤原家伝』によれば、定恵が亡くなったのが666年。

 

何と没後11年に開基?・・・いやいや最早これは“怪奇”です(>_<)

 

なお鎌倉時代に撰せられた日本初の仏教通史『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』では没年を714年としていますので、これなら辻褄が合います。

 

どちらにせよ、中臣鎌足の長男でありながら僧であることといい、何かと謎多き人物であることは確かなようです。

 

最後に、織田信長にまつわるお話を1つ(どこかでお聞きになったかもしれません)。

 

1582(天正9)年4月10日。信長は少数の小姓衆を従えて、琵琶湖の竹生島(ちくぶしま)に参詣します。

 

安土城に詰める女房衆(にょうぼうしゅう/主君の身の回りの世話をする女性)は、遠路であるから途中の羽柴秀吉の長浜城に宿泊し、今日は帰城しないと考え自由に過ごしておりました。

 

ある者は城の二の丸に出掛け、ある者は桑實寺の薬師参りに出掛けていました。しかし大方の予想に反し、信長は異例の速さで安土城に戻ります。城内は大騒ぎとなり、この状況に激怒した信長は、怠けていた者を残らず縛り上げさせました。

 

桑實寺に出掛けていた者たちは信長の罰を恐れて、寺の長老に助けを請いました。長老は「慈悲をもってお助けを」と懇願しますが、かえって信長の逆鱗に触れ、女房衆とそれを擁護した高僧たちを処刑したのです。

 

これが世に言う桑實寺事件(竹生島事件とも)です。このお話は豊臣秀吉の命により執筆された『信長公記(しんちょうこうき)』に所載されているのですが、桑實寺の当時の寺伝にその出来事の記載がないことから、昨今は“いささか歪曲された内容”ではないかとの意見もあります。

 

なお桑實寺の500段の階段は「心臓破りの丘」以上の難関です。体力や足腰に自信のない方にはおススメできません。更に「瑠璃石」への道のりは、下手しますと“遭難”してしまいます。探訪には事前の入念な準備が必要です・・・ちなみに私は桑實寺でお借りした“竹の杖”なしでは登れませんでした(>_<)

 

でも・・・ロケーションはサイコーです!(^^)

 

本家「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」にも是非お越しください!