後藤奇壹の湖國浪漫風土記・淡海鏡

~近江の國は歴史の縮図である~滋賀の知られざる郷土史を後世に伝える渾身の激白?徒然紀行アーカイブス(^o^)

湖國に春を呼ぶ不思議な花“ハナノキ”の伝説

2015年03月18日 12時00分00秒 | 滋賀の伝説

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました

 

さて今回は滋賀に梅より遅く桜より早い(笑)春の到来を告げる花、ハナノキについてのお話をいたしたいと存じます。皆さん、“ハナノキ”という花木をご存知でしょうか?

  

「花が咲く木なら、みんな“ハナノキ”なんじゃないの?」と言われればそれで終わりになってしまいますので、もう少し説明させてくださいまし(*^_^*)

  

日本固有種の花木で、何と自生しているのは長野・愛知・岐阜・滋賀の僅か4県のみ。とても希少な植物で、環境省のレッドデータブックでは絶滅危惧Ⅱ類に指定されています。また愛知県の県木にもなっているのです。

  

ただ最近は栽培技術が発達し、街路樹としてや公園の花木としても植栽されるようになっています。

 

樹高はおおむね20m。カエデ科に属する落葉樹で、花期は3~4月。

 

新芽が出る前に赤い花を付けるという珍しい性質を持っていますが、短命で1週間程で散ってしまうため、見頃を捉えるのは相当難しいようです。また秋は秋で葉が紅葉&黄葉し、とても風情ある光景を見せてくれます。

 

そして滋賀は、このハナノキの巨木の自生最西端に当るのです。

 

東近江市北花沢町/南花沢町の国道307号沿いに、自生樹の中でも特に有名なハナノキの巨木があります。

 

「北花沢のハナノキ」は樹高17m・樹幹周囲3m。樹齢は約250年と言われています。こちらはまだ比較的若い木です。

 

対して八幡神社境内にある「南花沢のハナノキ」は大樹としての貫録十分!

 

樹高21m・樹幹周囲5m、樹齢は約450年と言われ、こちらは平成2(1990)年に大阪・鶴見緑地で開催された「花と緑の博覧会」の事業として企画された『新日本名木100選』にも選ばれています。

 

・・・と言いたいところですが、去る2010年8月4日。

 

国内で最も太い主幹を誇っていた南花沢のハナノキでしたが、空洞化による樹勢の衰えにより、残念ながら倒壊してしまいました。幸い若い幹は残り延命措置が施されているほか、主幹の一部も境内で大切に保存されています。

 

未だ大正天皇が皇太子であらせられた明治43(1910)年。滋賀を訪問された際、このハナノキにいたく興味を抱かれたそうです。そこで翌年10月、地元から苗木2鉢が皇室へ献上されました。これが縁となったかは定かではありませんが、共に大正10(1921)年3月3日に国の天然記念物に指定されています。

 

さて南花沢のハナノキが自生する八幡神社には、江戸時代中期の享保5(1720)年に奉納された『当社八幡宮竝花木記(とうしゃはちまんぐうへいかもくき)』という文献が残っています。これにはこのようなお話が書かれています。

 

聖徳太子が未だ厩戸皇子(うまやどのみこ)と称していた頃のことです。

 

河内國(現在の大阪府)に四天王寺(してんのうじ)を創建するにあたり、蘇我馬子(そがのうまこ)に命じてこの近江國で瓦の土の選定並びに生産を命じていました。現在、東近江市にある箕作山(みつくりやま)にある瓦屋禅寺(かわらやぜんじ)がその拠点であったと伝えられています。

 

皇子はそこから遥か遠くの山を眺めていました。すると東方にある高い山に不思議な光明を見付けました。近習の者にその山の名を尋ねると、「それは釈迦山です」と教えられます。

 

早速その光明の源を辿っていくと、何とそれは杉の霊木だったのです。皇子は立木のままの杉に十一面観世音菩薩を彫り、これを中心として東西南北の4つの谷に分けて300の堂塔を建立しました。

 

これが湖東三山の1つ、百済寺(ひゃくさいじ)の創建であると伝えられています。

 

百済寺の造営を終えた皇子は大和國・小墾田宮(おはりだのみや)への帰り道。2人の家来を連れ近くのとある村を訪れ休憩をとります。

 

南北に分かれたまだ無名であった村に、「仏法が末長く隆盛するなら、この木も成長するであろう」と皇子は霊木を一株ずつ植えました。そして村を「花沢村と命名し、2人の家来をそれぞれの村の領主として住まわせたそうです。

 

また『近江名所案内記』や『淡海木間攫(おうみこのまざらえ)』では、皇子が昼の弁当を食べた際に使用していた2本の箸をそれぞれに差したものであるとしています。

 

さて2つの村に植えられたこの霊木ですが、誰も名前を知りません。春になると葉の新芽が出るよりも先に花は咲かせるのですが、実はなりません。そこで村人たちはこれを“ハナノキ”と呼ぶようになったのだそうです。

 

ただ前述しました両方のハナノキの樹齢から考えますと、伝説と現実には約950~1150年のギャップが発生します。

 

事の真偽はともかく、近郷の人々からは葉一枚すらここから持ち出さず、代々尊い存在として崇められているのです。

 

この記事を公開する頃には、ちらほらと花は咲き始めていることでしょう(この冬はとても寒かったのでちょっぴり心配ですが…)。梅や桜の前に、是非不思議な“ハナノキ”の花見をおススメいたします(^^)

 

また秋の紅葉シーズンも違った趣が堪能できます。モミジとはまた異なる“メープルっぽい”紅葉をお楽しみください。

 

今回の記事編集に写真をご提供いただきました滋賀県庁広報課様。この場を借りまして厚く御礼申し上げます。


史実は鏡の宿にあり!“源義経元服”の伝説

2015年03月04日 12時00分00秒 | 滋賀の伝説

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました

 

今回は清盛とも因縁浅からぬ源義経の元服についてのお話をいたしたいと存じます。

 

元服(げんぷく)とは今でいう成人式のことです。特に武家では、烏帽子(えぼし/平安期から近代までの和装礼装時に成人男性が着装する帽子)を烏帽子親(元服に於ける後見人で通常は2名で執り行う)から戴冠してもらい、それまでの幼名から元服名に改名するという儀式があります。

 

義経は平治元(1159)年、源義朝(みなもとのよしとも)の九男としてこの世に生を受けました。幼名は皆さんご存知、牛若丸です。

 

しかし翌年、平治の乱の謀反人として父が敗死。まだ乳呑児であった牛若丸は、母の常盤御前(ときわごぜん)が敵将・平清盛に身を任せて助命嘆願したことから、生き延びることが出来ました。

 

牛若丸11歳の時。継父の一条長成(いちじょうながなり)からの出家の勧めもあり、鞍馬寺に預けられ、名も遮那王(しゃなおう)と改めます。ですが自分が源氏の嫡流であることを知ると、独自に剣術の修業に励むようになります。そして承安4(1174)3月3日早暁、16歳の遮那王はついに出家を拒絶し鞍馬寺を出奔。

 

金売吉次(かねうりきちじ/奥州産出の金を京で商うことを生業としていた商人)と堀頼重(ほりよりしげ/源光重の三男で約1年に渡り自領にて義経を保護)の手助けを受け、藤原秀衡(ふじわらのひでひら)を頼るべく、一路奥州・平泉を目指します。

 

京を出て、まずは鏡の宿(かがみのしゅく/現在の蒲生郡竜王町鏡にあった東山道の宿駅)に宿泊します。江戸時代以降は中山道の宿場として指定されず衰退しましたが、当時は遊女も多くとても繁盛していました。

 

一行は宿駅の長で長者でもあった澤弥傳(さわやでん)の屋敷&旅籠の「白木屋」に泊まることとなりました。

 

しかしあろうことかその夜、大盗賊・熊坂長範(くまさかちょうはん)が白木屋に押入ろうとします。これをいち早く察知した遮那王が盗賊たちを追い払い、弥傳から大いに歓待されることとなります(このお話は他にも「美濃青墓宿説(幸若舞『烏帽子折』より)」「美濃赤坂宿説(謡曲『烏帽子折』『熊坂』より)」が存在します)。

 

白木屋は戦後まで昔ながらの屋敷が残っていましたが、昭和30(1955)年の台風で倒壊し、現在はその跡に石碑が残るのみです。

 

さて表で早飛脚の話し声に耳を傾けますと、鞍馬よりの追手か平家の侍たちかが、稚児姿(ちごすがた/寺院で召し使われている子どもの姿)の者を探しているとのこと。

 

このままでは捕まってしまうと考えた遮那王は、烏帽子親の無いまま元服することを決意します。宿駅の烏帽子屋五郎太夫(えぼしやごろうだゆう)のところで烏帽子を調度し、鏡池の岩清水で前髪を落としました。そして鞍馬の毘沙門天と氏神の八幡菩薩を烏帽子親とし、太刀と脇差をそれに見立てて元服を執り行いました。

 

ここで遮那王は名を源九郎義経(みなもとのくろうよしつね)と改め、源氏の武将となり平氏打倒を誓うのです。

 

松の木に烏帽子を掛けた後、鏡神社に源氏の再興と武運長久を祈願しました。

 

その義経烏帽子掛けの松が鏡神社境内の入り口に残っています。残念ながらこちらも明治6(1873)年10月3日の台風で折損してしまい、現在は幹株を残すのみです。

 

翌朝白木屋を出立する際に、義経はあらためて元服した姿を鏡池の水鏡に映します。

 

そして決意も新たに奥州へと旅立つのでした。

 

前述の鏡池は現在義経元服池と呼ばれ、道の駅「竜王かがみの里」の正面にあります。

 

裏山の石清水が滲み出して生まれた池で、水道が整備されるまでは近隣住民の生活用水として利用されていました。

 

国道整備の際に若干の移動を余儀なくされ、昔ながらの面影はやや薄れましたが、今でも水をたたえ神秘的な様相を呈しています。

 

今回の記事では詳しく触れませんが、この鏡の宿は義経元服の地であり、また義経自らの手で平家にピリオドを打った地でもあります。偶然の出来事だとは思いますが、私がこの事実を知った時「何という因縁だろう」と痛感しました。

 

最後にこんなお話で締め括りたいと思います。平成17(2005)年にNHKで大河ドラマ『義経』が放送されたのですが、何と“元服の地”を巡ってこんな騒動があったのです。

 

実は義経元服の地については諸説あるのですが、史実としては平治物語(へいじものがたり/平治の乱の顛末を描いた軍記物語)に記述のある鏡の宿説が最も有力視されています。

 

しかし作品では全く説の存在しない尾張國・内海庄(うつみしょう/現在の愛知県南セントレア市)を採用したのです。内海庄は義経の父・義朝最期の地であるためストーリーに躍動感を与えたかったというのがNHK側の見解ですが、地元・竜王町は猛反発したそうです。

 

後に10月16日放送の本編後に義経ゆかりの地を紹介する「義経紀行」で採り上げられることにはなり一段落しましたが、どちらかと言えば“平家終焉の地”としての解説がメインでした。果たして町民が切望していた内容であったか否かは定かではありません。

 

今も昔も大河ドラマは地域活性の起爆剤と捉えられていますから、竜王町民が浴びせられた冷や水に対する気持ちは十二分に理解出来ます。史実をとるか、視聴率獲得のための脚色をとるか・・・やっぱり“史実”は曲げちゃあいかんでしょうねぇ。

 

鏡の宿は現在国道8号が縦断し、頻繁にクルマが行き来しています。当時の面影はほとんど失われてしまいましたが、宿場町であった雰囲気はそこはかとなく残っています。

 

ご散策の際は道の駅・竜王かがみの里を拠点とされるのが大変便利です。但し交通量が非常に多いので、くれぐれも事故には遭われませんようご注意ください。

 

ちなみに…道の駅・竜王かがみの里では、2010年9月にこんなイメージキャラクターが誕生しました。

 

その名も何と『近江うし丸』君です!義経の幼名である“牛若丸”と滋賀の名産“近江牛”をコラボレートしたそうです。

 

私からのコメントですか?う~んう~ん……また別の機会にということで(>_<)

 

なお来る3月4日(日)に、竜王町鏡の鏡神社並びに道の駅「竜王かがみの里」にて、古式ゆかしき中世の成人式を再現した鏡の里元服式が開催されます。

 

昔の成人式である“元服”とはいったいどのようなものであったかを知る絶好の機会です。13歳以上の方ならどなたでも参加OK!3月13日が応募の締切ですのでお早めに。

 

源義経が元服したとされる時期に合わせて行われるこのイベントをお見逃しなく!

 

鏡の里元服式

【日       時】 3月22日(日)9時50分~14時00分

【会    場】 鏡神社/道の駅「竜王かがみの里」

【お問合せ】 竜王町観光協会 TEL.0748-58-3715