後藤奇壹の湖國浪漫風土記・淡海鏡

~近江の國は歴史の縮図である~滋賀の知られざる郷土史を後世に伝える渾身の激白?徒然紀行アーカイブス(^o^)

御存知!秀郷出世物語“俵藤太の百足退治”の伝説・前篇

2015年04月29日 12時00分00秒 | 滋賀の伝説

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました

 

今回は“滋賀の伝説&昔話”の中でも最も有名なエピソード、俵藤太の百足退治(たわらのとうたのむかでたいじ)についてのお話をいたしたいと存じます。

 

「滋賀県民なら誰もが知っている」・・・と言いたいところですが、昨今は県外から移住されている方も多いので、これを機会に是非知っていただければ嬉しいです(^^)

 

今から約1100年前の平安時代中期、延喜18(916)年10月のことです。その昔、栗太郡(くりたぐん/現在の栗東市)の出身で俵藤太(たわらのとうた)という弓術に秀でた武将がおりました。

 

ある時、藤太は瀬田川に掛かる瀬田の唐橋(からはし)が渡れないとの噂を聞きつけやってきました。なんと橋の中央には長さ二十丈(約60m)もあろうかという大蛇が横たわっているのです。

 

人々は大蛇を怖れて橋を渡れずにいましたが、藤太は臆することなく大蛇を踏みつけて通って行ってしまいました。

 

さてその夜のこと。藤太はとある宿に泊っていましたが、そこへ見知らぬ美女(一説には老翁)が訪ねてきて、こう申しました。

 

「私は今日橋の上にいた大蛇で、そもそもはこの橋の下に住む龍神なのです。昨今三上山(みかみやま)に百足(ムカデ)が出るようになり、獣や魚を喰い散らし、あろうことか私を家来にしようと狙っています。私の力ではどうすることも出来ず、退治してくれるつわものが現れるのを待っていたのです。どうかお力をお貸しください。」

 

三上山とは野洲市にある標高432mの山で、その山容から別称『近江富士』と呼ばれています。

 

藤太が百足退治を快諾すると、龍神の化身である女は喜びつつ姿を消しました。

 

早速藤太は、弓矢と刀を携え再び瀬田に赴きます。

 

三上山を見遣ると、そこは凄まじい稲光と風雨が荒れ狂い、天地は激しく鳴動していました。そして山を七巻半して口ら火を噴く大百足が現れます。

 

百足がこちらに近付くと、藤太は矢を放ちました。しかしまるで鋼鉄にでも当ったかのように跳ね返されてしまいます。

 

二射目も同様。

 

とうとう最後の矢となってしまった時、藤太は矢尻に唾を付け、心を鎮め八幡神に祈念し、よくよく狙いを定めて渾身の力で放ちました。

 

すると矢は百足の喉を貫き、見事退治に成功します。その後藤太は百足をズタズタに切り裂き、琵琶湖に流してしまいました。

 

翌朝再び美女が藤太のもとに訪れます。

 

そして大変晴々とした声で礼を述べると、「無尽の米俵」と十種の宝器を送りました。

 

この俵藤太こそが後に朝廷の命により平将門(たいらのまさかど)を討伐した、藤原秀郷(ふじわらのひでさと)なのです。

 

なおこの瀬田の龍神からアドバイスを受け、将門の弱点を見抜いて討ち果たしたとも伝えられています。

 

唐橋の東詰を瀬田川沿いに50m程下ったところに、勢田橋龍宮秀郷社があります。ここには唐橋の守護神である大神霊龍王(おおみたまりゅうおう)と藤原秀郷が祭神として祀られています。

 

またここは俳優・大川橋蔵の代表作として名高い時代劇『銭形平次』の撮影地としても、知る人ぞ知るスポットです。

 

ちなみにこの百足退治の一節が、古典落語『矢橋船』の中で引用されています。「三上山を七巻き半と聞けばすごいが、実は八巻き(鉢巻)にちょっと足りない」・・・なかなかウィットに富んだ洒落ですね。

 

さてこの伝説にはもう1つ逸話があるのですが・・・それは次回のお楽しみということで(^^)

 


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近江聖人の一番弟子“熊澤蕃山”の伝説

2015年04月15日 12時00分00秒 | 滋賀の伝説

春本番、新年度のスタートですね(^^)

 

さてよく面接試験やアンケートで、「あなたの一番尊敬する人物は?」などと質問されることがあります。最近の若い世代の方々は「両親」と答えることが多いと聞きます。 まぁそれはそれでエライことなのですが、もう少し視野を拡げて「歴史上の人物」だったらどう答えますか?

 

織田信長?徳川家康?マザー・テレサ?ももクロ?(^^)

 

・・・まぁ人それぞれですが、私なら迷わず中江藤樹(なかえとうじゅ)と答えます。えっ?誰それ?・・・なんて言われること、 想定の範囲内です(^^)

 

中江藤樹は近江國高島郡小川郷(現在の高島市安曇川町上小川)出身で、江戸時代初期に日本の陽明学(ようめいがく)の第一人者となった人物です。陽明学とは今から約500年前に、中国(当時は明代)の王陽明(おうようめい)が提唱した儒教の新しい教えの1つです。

 

陽明学の教えの主旨を一言ではなかなか説明しにくいのですが、 “心即理”(しんそくり/生まれた時から心と身体は一体のものである) “致良知”(ちりょうち/私欲に曇っていない心を推し進めよう) “知行合一”(ちこうごういつ/行動と意識は一体のものである)おおよそこの3つの命題を根本思想として、真理を追及する学問なのです。

 

藤樹はその立ち居振る舞いと身分の上下を超えた平等思想。そして何より母親への孝行振りが多くの人々の共感を呼び、近江聖人と称されるまでになりました。現在でも出身地である高島市(特に旧安曇川町地区)では、藤樹の偉業を今に伝え、市民や子供たちの情操教育にまでその理念が浸透しています。

 

スイマセン、いつもの如く前置きが長過ぎまして

 

さて今回の本題でございます熊澤蕃山(くまざわばんざん)ですが、こちらも江戸時代初期の代表的な陽明学者です。

 

京都の浪人の子として生まれますが、母方の祖父(熊澤家)の養子となり、16歳の時に備前國(現在の岡山県)岡山藩主・池田光政の児小姓役として仕えていました。寛永15(1638)年、独学のために一旦池田家を離れ、老いた母親を岡山に残して、学問の師を求め旅に出ます。

 

そして人づてに中江藤樹の噂を聞きつけ、小川郷に赴き弟子入りを申し出ました。しかし藤樹は「私は弟子を持てるような立派な人間ではない」「母の面倒も見ず勉学とは如何なものか」と断ります。蕃山はなお諦めずに、二日二晩藤樹の家の門前に座り込んで弟子入りを懇願しました。

 

するとそんな蕃山の姿を見るに見かねた藤樹の母が、「そなたの気持ちも解ります。そこで師弟ではなく、共に学問を学ぶ仲間として迎えてはどうですか」と藤樹に提案しました。その提案に深くうなずいた藤樹は蕃山を自宅に迎え入れ、共に学問に励む事となったのです。“弟子”というよりも“学友”と言った方がしっくりとくるでしょうか。

 

蕃山は母親を岡山から連れ、叔母(一説には祖母)の里を頼って桐原郷(現在の近江八幡市中小森町他)を訪れます。そして伊庭定右衛門の邸宅に下宿して、小川郷の藤樹の私塾・藤樹書院まで通ったそうです。蕃山は勉学に熱中するあまり食事に事欠くもあり、近在の百姓から 揺り子 (ゆりご/粗悪で砕けた屑米のこと)を買って食べていたと言います。

 

桐原郷から木浜(このはま/現在の守山市木浜町)までは歩き、そこから堅田(かたた/現在の大津市北部)までは渡し船に乗り、そこから 小川郷まで 再び歩いて毎日通った のだそうです。距離で換算すればおよそ片道45km! 現代ならクルマを利用しても裕に1時間以上は要します。兎にも角にも、勉学に対する熱意は計り知れない程のものであったことは想像に難くありません。

 

藤樹と共に学んだのは僅か8ヶ月程でしたが、その後池田家への帰参が許され、当時陽明学に傾倒していた池田光政に重用されて藩政に尽力し、後に世に知られる国学者として活躍しました。当時蕃山が下宿していたこの地に住む人々で弟子になり池田家に取り立てられた人も多かったそうです。

 

屋敷跡はやがて竹藪となり、いつしか「備前國に行った人々の屋敷跡に生えた藪」ということで備前やぶ と呼ばれるようになったとのことです。

 

現在その備前やぶは、近江八幡市立桐原小学校の北東約400mの位置にあります。大正時代末期に蕃山の顕彰と青少年の向学の志を養う目的から、当時の桐原村青年団の事業として「蕃山先生勉学処 」と記した記念碑が建立されました。

 

また毎年「蕃山祭」を行い、青少年の教育と蕃山の顕彰に努めていましたが、大東亜戦争の終結とともに催されることは無くなったのだそうです。

 

今となっては当時を思い起こさせるものは数少ないですが、かつての蕃山の苦学ぶりに思いを馳せようと、大学関係者が時折訪れるのだそうです。

 

なお備前やぶは私有地であり、近くに駐車場もありませんので、訪問の際はご注意ください。

 

最後に前述いたしました熊澤蕃山と中江藤樹の出逢いのシーンは、映画・近江聖人中江藤樹の中でも描かれています。

 

中江藤樹生誕400年を記念して、旧安曇川町(あどがわちょう)が平成16(2004)年に約7,000万円の巨費を投じ、東映太秦映像によって制作された大作です。

 

ちなみに時代劇好きの我らが敬愛して止まない、生涯大部屋の大御所役者 ・ 日本一の斬られ役 “福本清三”先生も出演されています。在庫僅少ではありますが、現在高島市の近江聖人 中江藤樹記念館で映画のDVD及びVHSビデオが頒布されています。時代劇にはちょっとウルサイ私も太鼓判を押す内容ですので、興味のある方は是非ご覧になってください。

 

共に学び、共に歩む・・・いまを生きる私たちに最も重要なことではないでしょうか(^^)v

 

近江聖人中江藤樹記念館 
滋賀県高島市安曇川町上小川69番地
【TEL】0740-32-0330


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大津市歴史博物館“江若鉄道の思い出 ”展、開催中!

2015年04月01日 12時00分00秒 | 浪漫回廊探訪.

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました

 

今回は県内の博物館の中でも実に個性的な企画を展開する大津歴史博物館で現在開催されている『江若鉄道の思い出』をご紹介致します。

 

江若鉄道(こうじゃくてつどう)とは近江(滋賀)と若狭(福井)を結ぶことを企図して、大正10(1921)年に開業した滋賀を代表する地方鐵道でした。

 

最終目的であった福井への延伸は叶えることが出来ませんでしたが、国鉄湖西線建設を理由として昭和44(1969)年に廃業となる約半世紀の間、県都・大津と湖西地方とを結ぶ重要な交通インフラとして、また戦中までは陸軍・饗庭野(あいばの)演習場への兵器・物資輸送の重要な手段として、そして戦後は琵琶湖・比良山系へのリゾートアクセスライナーとして、激動の昭和を駈け抜けました。

 

廃線から実に46年の歳月が経過しました。半世紀近くも経つと、かつてのよすがは勿論、人々の記憶からもその光景が薄れつつあるのが現状です。

 

平成18(2006)年夏に『ありし日の江若鉄道 -大津・湖西をむすぶ鉄路(みち)-として、江若鉄道を題材とした初の企画展が同館で開催。

 

予想を上回る反響を得たため、前回の企画内容から更に鉄道関係者並びに利用者からの貴重な写真、遺品、証言、さらにかつての駅構内を再現したジオラマも展示。何倍もボリュームアップして9年振りに満を持して還ってきました。


なお今回は図録ではなく、写真集として、企画展と同タイトルの書籍も発刊。書店でも購入は可能ですが、同館では数量限定でかつて江若鉄道で活躍した車輌(キハ5120形)のペーパークラフトが特別付録として購入者に配布されます。

 

江若鉄道に馴染みのある50代後半以降の方も、また40代以前の全く馴染みのない方も、激動の昭和を駈け抜けた一地方鐵道の生き様、息遣いに触れてみては如何でしょうか。

 

なお企画展は4月12日で終了となりますのでお早めにお出掛け下さい。次回は京阪電鉄・大津線の企画展に期待したいですね(^^)

 

大津歴史博物館

・滋賀県大津市園城寺町246
【TEL】 077-521-2100


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