「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました
今回は“滋賀の伝説&昔話”の中でも最も有名なエピソード、俵藤太の百足退治(たわらのとうたのむかでたいじ)についてのお話をいたしたいと存じます。
「滋賀県民なら誰もが知っている」・・・と言いたいところですが、昨今は県外から移住されている方も多いので、これを機会に是非知っていただければ嬉しいです(^^)
今から約1100年前の平安時代中期、延喜18(916)年10月のことです。その昔、栗太郡(くりたぐん/現在の栗東市)の出身で俵藤太(たわらのとうた)という弓術に秀でた武将がおりました。
ある時、藤太は瀬田川に掛かる瀬田の唐橋(からはし)が渡れないとの噂を聞きつけやってきました。なんと橋の中央には長さ二十丈(約60m)もあろうかという大蛇が横たわっているのです。
人々は大蛇を怖れて橋を渡れずにいましたが、藤太は臆することなく大蛇を踏みつけて通って行ってしまいました。
さてその夜のこと。藤太はとある宿に泊っていましたが、そこへ見知らぬ美女(一説には老翁)が訪ねてきて、こう申しました。
「私は今日橋の上にいた大蛇で、そもそもはこの橋の下に住む龍神なのです。昨今三上山(みかみやま)に百足(ムカデ)が出るようになり、獣や魚を喰い散らし、あろうことか私を家来にしようと狙っています。私の力ではどうすることも出来ず、退治してくれるつわものが現れるのを待っていたのです。どうかお力をお貸しください。」
三上山とは野洲市にある標高432mの山で、その山容から別称『近江富士』と呼ばれています。
藤太が百足退治を快諾すると、龍神の化身である女は喜びつつ姿を消しました。
早速藤太は、弓矢と刀を携え再び瀬田に赴きます。
三上山を見遣ると、そこは凄まじい稲光と風雨が荒れ狂い、天地は激しく鳴動していました。そして山を七巻半して口ら火を噴く大百足が現れます。
百足がこちらに近付くと、藤太は矢を放ちました。しかしまるで鋼鉄にでも当ったかのように跳ね返されてしまいます。
二射目も同様。
とうとう最後の矢となってしまった時、藤太は矢尻に唾を付け、心を鎮め八幡神に祈念し、よくよく狙いを定めて渾身の力で放ちました。
すると矢は百足の喉を貫き、見事退治に成功します。その後藤太は百足をズタズタに切り裂き、琵琶湖に流してしまいました。
翌朝再び美女が藤太のもとに訪れます。
そして大変晴々とした声で礼を述べると、「無尽の米俵」と十種の宝器を送りました。
この俵藤太こそが後に朝廷の命により平将門(たいらのまさかど)を討伐した、藤原秀郷(ふじわらのひでさと)なのです。
なおこの瀬田の龍神からアドバイスを受け、将門の弱点を見抜いて討ち果たしたとも伝えられています。
唐橋の東詰を瀬田川沿いに50m程下ったところに、勢田橋龍宮秀郷社があります。ここには唐橋の守護神である大神霊龍王(おおみたまりゅうおう)と藤原秀郷が祭神として祀られています。
またここは俳優・大川橋蔵の代表作として名高い時代劇『銭形平次』の撮影地としても、知る人ぞ知るスポットです。
ちなみにこの百足退治の一節が、古典落語『矢橋船』の中で引用されています。「三上山を七巻き半と聞けばすごいが、実は八巻き(鉢巻)にちょっと足りない」・・・なかなかウィットに富んだ洒落ですね。
さてこの伝説にはもう1つ逸話があるのですが・・・それは次回のお楽しみということで(^^)
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