goo blog サービス終了のお知らせ 

博覧こうき

信頼のK&S行政書士受験教室

道義的責任論と社会的責任論

2006-06-16 03:07:17 | Weblog



 刑法の世界に、「道義的責任論」と「社会的責任論」の対立があります。簡単にいいますと、道義的責任論とは、犯罪者には自由意思があり、違法な行為の選択と適法な行為の選択の分かれ道に立った場合、自分の自由な意思で違法な行為を選択したのだから、それから生じた結果に対して責任がある、というものです。適法な行為を選択することも可能であったからです。
 これに対して、「社会的責任論」とは、犯罪者の自由な意思などというものは認めない、行為者は犯罪を犯さずにはいられない、という反社会的な性格をもっている。社会はこういう者に対して一定の処分をする。犯罪者はこのような処分を受けざるを得ない地位にあるというものです。

 最近、この「道義的責任」が流行っていますね。もっとも、新聞とかマスコミでは「道徳的な責任」という意味で使っているようです。「道義」というのは、「道徳・倫理」などという意味ですからね。

 福井日銀総裁の道義的責任。総裁に就任する前に、あの「村上ファンド」に激励の意味で1000万円投資していた事実が話題をよんでいます。たしかに、民間人であった時代には誰に、どこに投資しようが自由ですからとやかくいう必要はないと思います。
 しかしながら、おおかたの意見にあるように総裁に就任した際、資金を引き上げるべきだったと思います。日銀法には触れない。だから、問題はない。貧困な発想ですね。法に抵触しなければなにをやってもいいというわけではありません。やっぱり道徳的な責任はありますよね。いやそれどころか、「人格形成責任」を問題にしたほうがいいのかも知れません。

 日銀は市場金利の基準を決定する立場にあるわけですから、公正さを疑われるようなことはすべきではないでしょう。その福井総裁。参議院の予算委員会で「日銀は合議制で私の独断では決まらない」と言ってましたね。そういう問題でもないでしょう。影響力はあるでしょうから。

 与謝野金融相(特命大臣)の答弁もふるっていましたね。「福井さんは、信頼できる人。だから、発言していることも正しい」なんて。子どもじゃないんだから。もうちょっと、説得力のある弁護をしてやらないと。これじゃ、草葉の陰から「おじいちゃん、おばあちゃん」も泣いていることでしょうに。

 ふたたび福井総裁。「いくら利益があがったか」という議員の質問に「うろ覚えで答えられない」とか。まあ、1000万円もポンと投資できる人ですから、ン百万、ン千万単位の利益など覚えちゃいないのかも知れません。でも、そんなことを覚えていないほどの「お年」なんですから、やっぱり辞任すべきでしょうね。庶民が低金利にあえいでいたときに、高利益をあげていた可能性だってあるのですから。
 なんだか「食糧メーデーのプラカード事件」(1946年)を思い出しちゃいましたよ。「国体は護持されたぞ。朕はたらふく食ってるぞ。汝人民飢えて死ね!」(不敬罪に当たるとして起訴されたが、最高裁は免訴)。「オレはこんなに儲けたぞ。お前たちはビンボーせよ」なんてね。

 でも、その運用利益は自分のために使わないと。言いますなあ。だったら、また、まったく悪くないと開き直るのであれば、「いくら利益があがった、それを○○に役立てる」とはっきり言えばいいのに。

 こんな趣旨の発言もありましたね。「ヤル気のある若者には投資は惜しまない」と。私と三瓶は若いとは言えませんが、K&Sにはヤル気があります。うちに投資してほしいですよ。有能な行政書士を誕生させる。日本の将来が明るくなります。なんとかその場をしのいで…という政治屋よりはよっぽどいいでしょう。

最新の画像もっと見る