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ジョン・リー・フッカー

2010-08-16 | musica
Boom! Boom! - John Lee Hooker
http://www.youtube.com/watch?v=wSnQ0bdHW0s

John Lee Hooker - Boom Boom (ジョン・ランディス監督「ブルース・ブラザース」/1980より)
http://www.youtube.com/watch?v=_NcADJAKoPc

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「宝田豊 新マネー砲談」番外編|「娼婦のブルース」 2010年3月20日 (土)
http://tokyoutlaws.web.fc2.com/takarada/blues.html


・・・・・英単語のフッカーは売春婦を意味するスラングで、男性の場合はチンピラとか使い走りをいう。

ここでフッカーの大御所、ジョン・リー・フッカーの登場だ。

ジョン・リー・フッカーは東洋人そっくりのブルース歌手で、映画「 ブルースブラザース」 にも登場した。

Crawlin' Kingsnake  John Lee Hooker

You know I'm a crawlin' kingsnake baby, and I rules my den

You know I'm a crawlin' kingsnake baby, and I rules my den

I don't want you hangin' around my mate,

Wanna use her for myself

You know you caught me crawlin' baby

When the, when the grass was very high


はち切れそうな一物が分かるかい ここは俺のシマだぞ

はち切れそうな一物が分かるかい ここは俺のシマだぞ

俺のスケの周りをうろつくんじゃないよ 

あの子は俺のもんだから 

おれの一物を掴まえられるかい

ぼうぼうに生えた草の中で

http://www.youtube.com/watch?v=KHHT6jOs0sE&feature=related

歌手はフッカーの弟子、バディー・ガイ


フッカーの由来は南北戦争時代、北軍のジョセフ・フッカー将軍 Joseph Hooker にさかのぼる。

ジョセフ・フッカーは兵士の待遇を良くすることで全軍の士気を高め、進駐先で住民に乱暴を働かないよう気を配った。

その一環が “ 慰安婦の拡充 ” という、呆れるようなアイディアだったのである。

Started in the civil war When Gen.Hooker of the Union Army (the first pimp) tried to protect his troops from VD by buying

the best chicks and pimping them to his corps of 20,000 men. originally hooker's girls. Hooker is the pimp of hookers.

南北戦争が始まったとき、北軍のフッカー将軍(最初のポン引き)は、作戦の一環として最上級の娼婦を用意した。

彼が率いる20,000人の部下を、性病から保護したのである。フッカー将軍はパン助(フッカー)の便利屋と云われる。

http://en.wikipedia.org/wiki/Prostitution

http://www.militarymuseum.org/Hooker.html


軍司令部が前線兵士の性欲処理に気配りした頂点は日本陸軍といわれるが、150年以上も昔のアメリカに凄い趣味人がいたと驚かされる。

軍人専用の売春婦、いわゆる従軍慰安婦は戦後日本の造語で、それまでは単に慰安婦と呼ばれていた。

性奴隷を意味する Sex Slave あるいは婉曲な表現のComfort Women などは、補償金目当ての事件屋が発明した概念であろう。

売春婦出身で後世に大きな影響を与えたレディーは数多くいる。

ビリー・ホリディーは東京アウトローズで御紹介した。

http://outlaws.air-nifty.com/news/2008/11/post-89bf.html


国民からエヴィータの愛称で親しまれたマリア・エバ・ドゥアルテ・デ・ペロン(Maria Eva Duarte de Perón)も、我が国でいう花柳界の出身だった。

第二次大戦直後、貧困と混乱の中で生まれたフアン・ドミンゴ・ペロン大統領と結婚し、ファーストレディーとなる。

アルゼンチンのド田舎で私生児として生まれた彼女は、貧困者の救済政策を進めた。

1947年に早くも女性参政権を実現したことから、労働者階級の圧倒的な支持を受ける。

しかしながら字の読めない労働者の支持と軽蔑され、貴族階級( Aristocracy )から猛反発を買ってしまう。

エスタッブリシュメントからみれば不愉快きわまりなく、以下のミュージカルではボロクソの陰口が叩かれる。

マドンナ扮するエヴィータが社交界デビューする場面で、娼婦( Whore, Bitch, Slut, Jade )を意味する罵詈雑言が乱発されるのだ。

Madonna - Evita - 09 Peron's Latest Flame (1996)

http://www.youtube.com/watch?v=qMxUaLtvDYU

1952年7月、以下の写真に見られる素晴らしい美人は癌で死去(享年33歳)

http://images.google.co.jp/images?q=Maria+Eva+Duarte+de+Per%C3%B3n%E3%80%80photo&um=1&hl=ja&rlz=1T4DAJP_jaJP314JP314&tbs=&lr=lang_ja&ei=Bd2iS75zlJ6RBdfjxLoI&sa=X&oi=lrtip&ct=restrict&cad=7&start=0

熱狂的な支持者から国母と慕われ、博物館まで作られた。

http://www.evitaperon.org/index.htm

必然的にアンドリュー・ロイド・ ウェーバー作のミュージカル 「 エヴィータ」 はアルゼンチンで、猛烈に評判が悪い。

スーツケース一個で住み替えを強いられた娼婦時代

Madonna - Evita - 06 Another Suitcase in Another Hall (1996)

http://www.youtube.com/watch?v=x4SYWmwVIVo&feature=related

住み替えとは稼ぎの悪い娼婦が、置き屋を追い出されること

ナイトクラブのバーテンダー役を演ずるアントニオ・バンデラス。

様々な場面で主人公の背景を紹介する狂言回し役。

社交界デビューの場面ではソフト帽を被って葉巻を吸う。
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ウィキペディア(Wikipedia)|ジョン・リー・フッカー
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC


ジョン・リー・フッカー (John Lee Hooker, 1917年8月22日 - 2001年6月21日)は、米国のブルース・シンガー、ギタリスト。50年以上に渡るキャリアの中で、独特のリズム感覚を持ったブギ・スタイルを確立し、「キング・オブ・ブギ」の名でも親しまれた。1984年には来日公演も行っている。代表曲は"Boom Boom"、"Boogie Chillen"など。

[編集] 来歴

ミシシッピ州クラークスデイル生まれ。生まれた年については、1915年、1920年など諸説あるものの、1917年説が最も一般的である。1943年、デトロイトに移住。1948年にレコード・ディーラのバーニー・ベスマンの誘いを受け、初レコーディングを経験する。翌年1月、モダンより発表となった"Boogie Chillen"がR&Bチャートを昇りつめる大ヒットとなった。このヒットにより、他のレーベルからも誘いを受けるものの、モダンとの契約で縛られていたジョン・リーは、様々な変名を使い、複数のレーベルに作品をレコーディングしていった。

1955年、モダンとの契約が終了しヴィージェイ・レーベルと契約する。同レーベルには1965年まで在籍し、計8枚のアルバムを発表した。それまでの弾き語りスタイルから、R&B色の濃いバンドスタイルへと発展し、"Dimples"や"Boom Boom"といった代表曲を生み出す。1962年には、初のヨーロッパ・ツアーを行う。現地ではブルース・ブームが起こっていた頃で、彼は熱烈な歓迎を受けたという。

1965年、ABCレコードへ移籍する。同レーベル並びに傘下のブルースウェイ、インパルス!レコードなどからも作品をリリースしていった。

1970年代に入ると、デトロイトを離れ、カリフォルニア州に移住する。この頃から、ロック・ミュージシャンとの共演を活発化させている。キャンド・ヒートと共演した『Hooker 'N Heat』 (1970年) を始め、『Endless Boogie』 (1971年) では スティーヴ・ミラー、ジェシー・エド・デイヴィスらと共演、翌1972年にはヴァン・モリソンとの共演盤『Never Get Out Of These Blues Alive』を発表している。

1970年代半ば頃までABCに在籍するが、その後は暫く新作からは遠ざかっている。1980年の映画『ブルース・ブラザーズ』に出演し、シカゴのマックスウェル・ストリートのストリート・ミュージシャンを演じた。1984年7月には、ブラック・ミュージック・リヴュー招聘で、ロバート・クレイとともに来日を果たし、全国6都市で公演を行う。晩年ツアーを嫌ったジョン・リーにとって、結局これが唯一の来日公演となった。

新作から遠ざかっていたジョン・リーだったが、1989年、カルロス・サンタナ、ボニー・レイット、ロス・ロボスら豪華ゲストを迎えたアルバム『Healer』で華々しくカムバックを果たす。このアルバムは、グラミー賞を獲得し、再び存在感をみせつけることになった。翌1990年にはロックの殿堂入りも果たしている。

続く『Mr. Lucky』 (1991年) にもライ・クーダー、ジョニー・ウィンター、キース・リチャーズらが参加。旧知のヴァン・モリソンとの共演も実現している。モリソンは『Chill Out』 (1995年)、『Don't Look Back』 (1997年) にも参加している他、モリソンのアルバム『Too Long In Exile』(1993年) へのジョン・リーのゲスト参加もあった。

2001年6月21日、ジョン・リーはカリフォルニア州サンフランシスコ近郊ロス・アルトスの自宅で、就寝中に老衰のため死去した。

カムバック後は、幅広いアーティスト達との共演を重ねた。デニス・ホッパー監督の映画『ホット・スポット』のサウンドトラックでのマイルス・デイヴィスとの共演、ピート・タウンゼントの『Iron Man』 (1989年)、ビッグ・ヘッド・トッド& ザ・モンスターズの『Beautiful World』 (1997年)などへの参加がある。トミー・カストロの2001年のアルバム『Guilty Of Love』への参加は、ジョン・リーの最も晩年のゲスト参加のひとつである。

自己名義の作品としては、前述の『Don't Look Back』がラストとなったが、その翌年1998年リリースのベスト盤『The Best Of Friends』にも新録が3曲収録されている。また、没後の2003年発表の『Face To Face』は、未発表音源にゲスト・ミュージシャンのオーバーダブを施した作品であり、事実上のラスト・アルバムとも言える内容である。