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始皇帝と大兵馬俑 展

2015-12-10 14:45:39 | 一期一絵

  • 11月27日に東京国立博物館内の平成館にて鑑賞しました。

    紀元前200年頃の中国の歴史には個人的に親しみを感じてます。去年映画やドラマで見た「項羽と劉邦」の物語に繋がる時代だから。
    映画やドラマごとに登場人物に思いを重ね厳しい時代に思いを馳せ、心躍らせ、腹を立てたり涙ぐんだりと物語のダイナミズムを堪能しました。
    兵馬俑の姿はその当時の実際の人を表したとされており、紀元前200年の兵士の息遣いを直接感じとれるまたとない機会なのでとても楽しみにしていました。

    だから兵馬俑以外の展示品にも、とても興味をもって鑑賞できました。

    まずは、西の奥地の小国秦が中国中央まで勢力を広げ、大国になるまでの時代の遺品が展示されてました。
    秦は北の匈奴、西の西戎(せいじゅう)との交流が盛んで、国の中も多民族が住み、騎馬の技術などを取り込んだそうです。
    (匈奴も西戎も中国人はひどい漢字をあてたもんだ)
    秦は、紀元前770年頃から約500年続いた春秋戦国時代の中で形骸化した西周王朝を吸収し、西周の都だった咸陽を拠点とし、そこで文化の影響を受けて行きます。
    展示は大きな作品はなく生活用品や楽器、アクセサリー類が並んでました。それがとても興味深かったです。


    「秦公鐘」春秋時代・前8~前5世紀 青銅製
    「編鐘」という鐘を並べてハンマーでたたいて音を鳴らす楽器の一部。西周の文化の影響を受けて作られている。
    鐘には秦の初期の国王の名前や繁栄を祈る言葉が刻まれている。
    鐘の周りのぼつぼつは大きい鐘にだけつけられているそうですが、音の響きに何か効果があるのだろうか(?_?)


    「玉胸飾り」西周時代・前10~前9世紀 玉、瑪瑙
    西周王朝の王侯が身に着けていた玉(ぎょく)の胸飾り。秦の人たちは文化的に進んでいた西周の豪華なアクセサリーにあこがれたそうです。

    玉に施す模様は、秦で細工された物はひっかいたようなぶっきらぼうな模様でしたが、やはり文化的に進んでいた楚の国の玉に施された文様は滑らかで曲線が綺麗でした。
    そんな洗練された楚の文化にも憧れたそうです。・・とつい楚の武将の項羽を思い起こしました。項羽は秦の始皇帝が崩御したのち活躍したのですが。
    (ドラマ「大漢風」より)
    うん、豪華なしつらえでとてもしゃれている。

    それから

    会場には玉を触ったり、玉に光をあてると透ける様子がわかるコーナーがありました。
    玉は触るとするりと滑らかな感触でした
    中国の方々は今も翡翠をとても愛してますもんね。
    壁に書かれている文章は
     
    「さわってみよう!玉の質感」
     玉は硬いながらも潤んだような光沢をもつ鉱物で、ほのかに光を通す特徴があります。中国の人々はこの玉の独特な質感に神秘性を見い出し、約8000年前の新石器時代から、様々な形の装身具や祭器などに使ってきました。
     ここでは、玉の質感と光を通す特徴を体感することができます。いまなお中国の人々を惹きつけてやまない玉の見直をお楽しみください。

    2012年にやはり平成館で開催された北京故宮博物院展で玉の展示品の横の壁に書かれていた”玉”に対する中国人の想いの説明書きをここに記します

    「玉質の美 The Beauty of Jade」
    表面の光沢は柔らかく、触れると蝋のように滑らかで、光をあてると中が透ける。このような質感の石を、古来、中国の人は玉と呼んで珍重してきた。玉は様々な形に研磨、彫刻されて祭祀、儀礼の器物や、調度品としても使われた。曲がったり折れたりしない芯の強さを温柔な光沢に包み込んでいる玉の性質を、後漢時代(25-220)の学者・許慎は『説文解字』のなかで、人が修めるべき徳目になぞらえている。以来、玉の輝きは、持ち主の修養を象徴するという考え方が普及した。そのため、中国の人々は玉器を身につけ、書斎などの手近に置くことを好んだ。玉の光沢は中国文明と磨きつづけてきた心の輝きであるといえる。

    玉への思い入れは紀元前の王朝に深く浸透していたようです。


    「玉剣・金剣鞘」春秋時代・前8~前7世紀
    玉を愛する中国と金を愛する匈奴、西戎の融合のような短剣。
    短剣本体は玉。刀身と持ち手のつなぎ目に想像上の生き物が彫られている。刀を治める鞘は金で精緻な模様を彫り込んでます。裏側は模様はなく刀が収まるように簡単に横に支えを渡してます。


    そのほか、図は見つかりませんでしたが、西戎の煮炊きに使う土器が印象深かったです。
    壺の下部は羊やヤギのお乳みたいな形になって4つに別れているのです。とても不思議な形で、この壺をどういう風に使ったのだろうといろいろ想像しました。

    他にも武将が腰のベルトを止めるピンのような帯鉤(たいこう)が意匠を凝らしてオシャレにしつらえていたのも面白かったです。だんだんと秦も文化が洗練されていったのですね。



    そして天下統一
    秦王嬴政(えいせい)は王を越える存在、皇帝を初めて名乗る始皇帝となる


    始皇帝が歩く階段には龍の模様が

    始皇帝のインフラ整備がすごいんです。
    咸陽の都では、水道管を地中に配したそうです。紀元前3世紀と思うと驚きます。


    それから屋根瓦も現代も中国や日本で使われている形状になったのもこの始皇帝の時代だそうです。

    貨幣の統一

    「半両銭」
    当時お金の形状は長方形や刀の形や国によって様々だったのですが、始皇帝は丸い形の中に四角い穴をあけた形状に統一します。この後この形状は続き、日本も奈良時代から江戸時代までこの形を継承します。
    凄いね、銭形平次が投げる銭も始皇帝が定めた形だったとは

    測りの統一

    「両詔権」青銅製
    国によってまちまちな秤や重しを周王朝の基準に統一したそうです。この重しには始皇帝の詔勅と二世皇帝の詔勅が刻まれているので両詔権と呼ばれてるそうです。
    ん?二世皇帝といえばあの胡亥・・
    (「大漢風」より)
    始皇帝崩御後わずか3年で秦は滅びます。いかに胡亥がしょうもなかったか


    「封泥」
    当時は文章は木や竹を細く切った木簡や竹簡に書き、紐でつなげて丸めて粘土をあてて印を押して他者が勝手に改ざんしないようにしたのだとか。
    その印が見本となる木簡と一緒に展示されていました。老中令の趙高の部下の印だそうです。
    趙高は始皇帝の側近。正式な跡継ぎ扶蘇を謀殺してぼんくらな胡亥を皇帝にして滅茶苦茶な政治をおこなって滅亡をさせてしまった人です。
    (やはり「大漢風」より)
    もう名前が出るたびにドラマで見た映像が脳内で再現されてこの人たちが実際に使ったものだと思うと面白くてたまらないです。

    始皇帝の年表に統一前に荊軻に暗殺されかけたと書かれているとやはり思い浮かぶのは中華ドラマの荊軻。
    (「始皇帝暗殺 荊軻」より。)

    咸陽の宮殿には御者が馬車を走らす壁画がたくさん描かれてたそうです。ずっと領地内を皇帝の権威を見せつけるため馬車に乗って旅をし続けた始皇帝。

    不老不死を熱望した始皇帝は50歳で亡くなり、生前から作られた稜に葬られる

    そして1974年始皇帝陵の近くの地中から兵馬俑が発見される。
    他にも始皇帝陵の周辺で始皇帝の死後を快適に暮らすための遺品が出土されたそうです。


    1号銅車馬


    2号銅車馬・・・この輿の中に皇帝が入る
    本物の1/2スケールで作った青銅製の馬車。展示されていたのはレプリカですが、とても精巧な作りでした。
    始皇帝の霊魂は死後も領土を馬車で巡回するつもりだったのだろうか・・・

    そして兵馬俑
    まず兵馬俑より100年前の人俑(素焼きの人形)や当時の米蔵を模った俑などが展示されてました。

    「騎馬俑」戦国時代前4~前3世紀
    素朴で小さいのですが、なかなかの味わい。これが100年後に等身大の大きさでまるで生きているような表情を持つ兵馬俑に。


    一体一体顔立ちが違って、役割ごとにポーズが違う。本来は彩色されていて手には武器を持っていたそうですが地中で埋められて木は腐食してなくなり金属部分だけが周辺に残っていたそうです。
    広い展示室内では展示された兵馬俑の後ろに沢山のレプリカを配し、発掘現場の雰囲気を再現してました。少し高い通路から兵馬俑を見下ろすと壮観でした。
    鎧を付けている兵士、つけてないで動きやすくしている兵士、槍をもったり弩を構えたり。
    当時の人の顔立ちとはこんな風だったのか、現代のアジア人と変わりませんでした。中国にも韓国にも日本にも今でも見られる顔立ちでした。


    真中にいる将軍はさすが知的な風貌です。

    他にも石製の鎧、馬の俑、水鳥の俑も展示されてました。
     

    そうそう頭が欠損してますが雑技団の力士の像もありました。始皇帝を楽しますために作られたのでしょうね。お顔を見てみたかった。いずれも原寸大です。
    その大きな素焼きの形を作り上げるのも大変な技術。
    大変な財力と労力も要したでしょう。民は圧政で苦しんだでしょう。


    会場ではレプリカの兵馬俑を撮影できるコーナーがありました。よく見るとさすがに一体一体違う人には作ってなくて何パターンかの模型を複数作って組み合わせてます。それでもなかなかの力作でした。

    始皇帝亡き後、3年で項羽軍によって秦は滅亡し、その項羽軍も劉邦によって滅ぼされ、漢王室が建てられ・・・始皇帝が熱望した永遠はあり得なかったけど、兵馬俑は皇帝を守り続け名前は生き続けている



    会場を出た後、同じ平成館内で日本の埴輪や銅鐸の展示も楽しみました。古代中国文化の影響をやっぱり色濃く受け継いでたんだなあと実感しました。

2 コメント

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風蕭蕭として・・・ (遵命)
2015-12-18 20:54:13
兵馬俑は以前、江戸東京博物館で観たから急いで観に行かなくても良いや~
来年ゆっくり観に行こう…と思っていたのに嬴政に呼び出されて初日に行きました。
兵馬俑の如く観客が整然と並んで入場を待っているのではないかと思って
いたら、アッサリと入場(爆)水道管を念入りに観ている人もいれば、再現した
エラい先の鋭い鉄剣を燃え萌えの瞳で観ている人。展示物を真剣に
観ている人を観察するのも面白かったです(←どれだけ空いていたんだよ
肝心の兵馬俑の場所に人が殆どいない…。ヲイ!触っちゃうゾ!!
な誘惑を理性で押さえつけ、いざ会場を後にしようとしたら、撮影可能コーナー
に人が沢山いるじゃん!!こっちで皆様写真撮る為に兵馬俑みたいに
並んでいたのネ・・・


  因みに我が家は「始皇帝暗殺 荊軻」のDVD有ります・・・が残念ながら
只今行方不明です。始皇帝を暗殺しに行っちゃったのかな
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兵馬俑たちはのびのび (blueash)
2015-12-19 08:58:36
遵命さん
展覧会は期間限定展示の時以外は、早めに見に行くほうが、確かにすいてますもんね☆さすが始皇帝嬴政様のお呼び出しで参じた甲斐がある(^^)v
私が参じたときは結構人がいましたが、混雑というほどではなくゆっくり干渉できました。兵馬俑は本当に良い作品を選んでいたし、レプリカとはいえ銅車馬は精巧で圧倒されました。2000年以上隊列をしていた兵馬俑さんたちは一人ひとり離れて立っていたので風を感じたかな?
そして私のささやかなツボは玉を直に触れたり、スイッチで光を通すと透けて見えることを実際に確認できたことです。
玉も大きく美しくて存在感もあったです。
兵馬俑レプリカの撮影コーナーも楽しんで写しました
会場外の写真コーナーは漫画の主人公たちが等身大の型紙に貼って立っていましたが、その漫画をしらなくて・・・

荊軻のDVD、今頃始皇帝の身辺近くに潜んでいるのかな・・・|д゜)

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