黄金色の日々(書庫)

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公と私の葛藤

2016-06-09 23:54:38 | アメコミ映画

一部のシアターを除きそろそろ公開も終了なので、先日見納めしてきました。
ヤ○ー映画評を見直すと、おおむね好評ですね。低評価の言い分に多いのが、「アベンジャーズとしては、一番偏っていて詰まらなかった。キャップが酷すぎて嫌いになった。トニーが可哀想すぎる」というもの。

これらはよく見かける意見なので、今更やっきとなって反論する気もないですが。この映画は『キャプテン・アメリカ』であって『アベンジャーズ』ではないぞえというのは、タイトル見ねえ人に言っても仕方ないんだなとあきらめている(苦笑)

スティーブのトニーへの手紙で、『両親のことを黙っていたのは君を守るためだった。でも本当は自分を守るためだったかもしれない』のところ。
あそこは色々な憶測ができるんだけど、一つにはスティーブはバッキーをウィンター・ソルジャーにしたのには自分にも責任があると思ってること。これはパンフのクリスのインタビューにも少し出てますね。
友の手を掴めず、谷底に置いてきた。生きていたことを知らず、殺人マシーンに変えさせた。だからウィンター・ソルジャーの罪状には自分も責任の一環があるという思い。そう思ってるならなおさら、バッキーと一緒にトニーに謝って、公の裁きを受けさせろと言われるだろうけど。

元をたどれば、スティーブが落ちたバッキーを追えなかったのは、彼が公の存在であるキャプテン・アメリカであり、軍においてはロジャーズ大尉だったからなんですよね。
あれほどの断崖から落ちて、よもやバッキーが生きてるとは思わなかった。けれどスティーブは親友の亡骸を見つけて、ブルックリンのバーンズ家に連れ帰りたいと心底思ってたはず。
だがあの際、ロジャーズ大尉はゾラの身柄を本国に連行するのが課せられた任務だった。他の部下たちをそのまま残して飛び降りることもできない。帰還したキャプテン・アメリカには、レッドスカルとヒドラを殲滅する使命が待っていた。

かつてバッキーや仲間と飲んだ酒場は爆撃で壊され、その廃墟で一人酔えない酒をあおるスティーブ。ペギーが来て支えてくれ、きっとバッキーも先に進むことを望んでいると思っても、本当は飲んでる暇があったら遺体を探しに行きたかったはず。
でもできない。彼は軍にあり、命令をを待つ身だから。
それはスティーブに限らず、軍人なら、部下を持つものならば皆同じ。どれだけの兵士が全体のため、人々の、仲間のために命が残っていても取り残され死んでいったか。その命令を下した上官が、その後その思いを抱え続けたか。これは当時に限らず、今もあること。
もし彼があそこでバッキーの後を追って飛び降りていたら、キャプテン・アメリカは私情で任務を放棄したことになる。沢山の打ち捨てられた者たちを差し置いて、超人の力を個人的に利用したことになる。だからそれを選べなかった。
軍隊、組織に身を置く、ヒーローとして生きる、どちらも個人の望みは捨てること。

そのあと自分も身を捨てて北海に突っ込み、世界を救ったスティーブ。
けれど70年後に目覚めたとき、祖国も世界の状況も複雑に悪化するばかりだったことを知る。
恋した女性は人生の終わりを迎え、後を追わなかった親友を暗殺兵器に変えていた。

国連であろうが、善き意図を持つものであろうが、組織の管理下に入って自己の望みを抑えても、それがのちにどういう結末を迎えるのかは予想つかない。
巨大な力を持つ者の自己判断は確かに危険だ。けれど自分にとって絶対に譲れないものは、今度こそ何があっても選ぶ。間違っているという正論にも「おまえこそどけ」と言うしかない。そしてそのリスクは負う。スティーブの選択はそういうこと。
トニーは今まで他者に管理されてきたことがない。もしどちらかの場所を優先して、片方は捨てろと命じられた場合、捨てる方にペッパーがいたとしたら? トニーはどうする。彼女を守るために自分も協定を破るかもしれないけれど、どちらにせよ選択の痛みは受けざるを得ない。

スティーブはバッキーが息があると知っていたら、必ず飛び降りて見つけ出し、お互い満身創痍でも二人で脱出しただろう。それができなかった後悔と苦悩は、たちまち飛んで降りて救える科学と力を持ったトニーには、想像はできても本当には理解できなかった。
でも今回、目の前でローディが“落ち”、手が届かなかった。九死に一生を得たけど、深刻な障害が残った。あれは完全にスティーブとバッキーを踏襲している。トニーもまた、その苦悩を味わった。

スティーブがトニーにウィンター・ソルジャーによるハワード夫妻暗殺を言えなかったのは、確証とバッキー本人が見つからなかったからだと思うけど、自分が“選べなかった”親友の手によるという事実を、スティーブ自身が直面するのを先延ばしにしたかったのかもしれない。
それは弱いキャプテン・アメリカではなく、スティーブ・ロジャーズという一人の青年の痛みとして。


この日上映終了になる映画館で見たんですが、斜め前に洒落たじい様がいましてね。麻のジャケットにスカーフ、麦わら帽にステッキと銀座のイカシたおじいさんそのもの。
エンドロールまで見てくれたなあと思いながら、トイレに行ってロビーに出たら、パンフの見本をそりゃあ熱心に読んでらした。もうパンフを買おうという人も少ないので、ゆっくり見られてた。どうかなとこっそり伺ってたら、結局買われていきましたよ。なんか嬉しかったなあ。

アメコミなぞ知らなさそうに見えて、もしかしたら若い時にアメリカに行ったこともあって、キャプテン・アメリカのコミックを見たこともあるんじゃないかと想像していた。
それより、もしかしたら戦争に行かれた世代かもしれない。第二次大戦の頃。
MCUの他の作品を見てはいなさそうなのに、この作品に興味を持ってくれたとしたら、アクションや空を飛び光線を出すヒーローたちではなく、おそらく1940年代にいたという主役のヒーローに何か感じてくれたんだと思ってる。


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