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オリジナル作詞活動 シンガーソングライターYOKI特集・「きみの笑顔」

2023-09-29 06:53:36 | オリジナルな作詞活動
オリジナル作詞活動 シンガーソングライターYOKI特集・「きみの笑顔」
 
常日頃「写真と短歌で綴る世界文化紀行」「軽井沢レイクガーデン薔薇撮影」等でお世話になっています浅間山明鏡止水(通称kenちゃん・Kenさん)です。ブログは元々自作の詩&曲を掲載する目的でしたが、思いのほかいろんな事に挑戦することになってしまいました。そこで今回は三週間にわたり自作の作詞と作曲家&歌手をご紹介したいと思います。今週は女性シンガーソングライターYOKIさんをご紹介します。




私は嫁さんの笑顔が大好きです。ある日嫁さんの笑顔を眺めていました。すると突然詩が出て来ました。「きみの笑顔」です。すぐにあくる日、You Tubeのお友達「YOKIさん」に伝えましたところ気持ちよく作曲を引き受けてくださいました。素晴らしい作品となりました。YOKIさんに感謝です。笑顔はみんなの「宝物」です。ある人にとっては「お父さん、お母さん」、「最愛の人」「娘や息子」・・・。それではお聞きください。



歌に寄せて・短歌
「笑顔こそ周りを照らすマジシャンで きみの明るさ僕を楽しく」


「きみの笑顔」作詞*kencyan / 作曲&歌*yoki #オリジナルソング


「きみの笑顔」
作詞kencyan 作曲YOKI 唄YOKI ウクレレ演奏YOKI

1
きみの笑顔は世界一
きみの笑顔は僕を楽しくする
きみの笑顔は優しい
周りの人を明るくする
きみは笑顔の天才だ
2
きみの笑顔は世界一
きみの笑顔は僕をやる気にさせる
きみの笑顔は美しい
周りの人を虜にする
きみは笑顔のマジシャンだ
3
きみの笑顔は世界一
きみの笑顔は僕を穏やかにする
きみの笑顔は品がある
周りの人が癒される
きみは笑顔のドクターだ

きみの笑顔は僕の宝物、僕の幸福(しあわせ)
笑顔を通じてお互いに支え合っている


YOKIチャンネル
https://www.youtube.com/channel/UCllH1IH3V_K9T73JcPDXJSQ
https://www.youtube.com/channel/UCRN4vPaog5-19N0AY1Ph8BA


参照
https://search.yahoo.co.jp/image/search?ei=UTF-8&fr=wsr_is&p=笑顔

※9月30日(土)10月1日(日)はお休みです。

オリジナル作詞活動 シンガーソングライターYOKI特集・「サルビアの花の丘」

2023-09-28 09:18:53 | オリジナルな作詞活動
オリジナル作詞活動 シンガーソングライターYOKI特集・「サルビアの花の丘」
 
常日頃「写真と短歌で綴る世界文化紀行」「軽井沢レイクガーデン薔薇撮影」等でお世話になっています浅間山明鏡止水(通称kenちゃん・Kenさん)です。ブログは元々自作の詩&曲を掲載する目的でしたが、思いのほかいろんな事に挑戦することになってしまいました。そこで今回は三週間にわたり自作の作詞と作曲家&歌手をご紹介したいと思います。今週は女性シンガーソングライターYOKIさんをご紹介します。



秋の大山を背景に、10万株のサルビア・スプレンデンスが丘一面に広がります。
10月には秘密の花園に大山とコスモス畑が広がり、菊のトピアリー展や秋バラ、紅葉と見どころ満載です!


YOKIさんには「出会い」「きみの笑顔」「オーロラのラブストリー」「夢を諦めたくない」「自分の道」等々素敵な曲を作ってもらい歌って頂きました。改めてYOKIさんと知り合った経緯を思い出しました。YOKIさんのお母さんがご健在の頃一緒に歌われた「ふるさと」に感動しまして、ある詞をプレゼントしました。それにYOKIさんが作曲してくださいました。これがYOKIさんとの最初の接点、出会いだったなと思い出しました。その曲名は「サルビアの花の丘」です。素敵な曲です。是非お聴きください。



歌に寄せて・短歌
「サルビアの母と歩いた赤絨毯 いつか夢見る花回廊も」


「サルビアの花の丘」 作詞:kenちゃん 作曲*歌:yoki


「サルビアの花の丘」
作詞:kenちゃん 作曲*歌:yoki

花回廊の奥に広がる花の丘
春はチューリップ、夏はユリやバラ
秋はコスモス、サルビア
そして冬にはサザンカなど
四季の花が園内を覆いつくす

花が大好きだった母
サルビアの花の丘を見て大喜び
鮮やかな緋色100万本のじゅうたん
秋晴れが続き、大山がきれいで
母の喜ぶ姿が凄く嬉しかった

またいつかサルビアの丘を
ふたりで廻ろうと
妹と約束しました
母のように明るい
あのサルビアにあうために


参照
https://search.yahoo.co.jp/image/search?rkf=2&ei=UTF-8&fr=wsr_is&p=

オリジナル作詞活動 シンガーソングライターYOKI特集・「君のいない幸せなんて」

2023-09-27 06:45:23 | オリジナルな作詞活動
オリジナル作詞活動 シンガーソングライターYOKI特集・「君のいない幸せなんて」

常日頃「写真と短歌で綴る世界文化紀行」「軽井沢レイクガーデン薔薇撮影」等でお世話になっています浅間山明鏡止水(通称kenちゃん・Kenさん)です。ブログは元々自作の詩&曲を掲載する目的でしたが、思いのほかいろんな事に挑戦することになってしまいました。そこで今回は三週間にわたり自作の作詞と作曲家&歌手をご紹介したいと思います。今週は女性シンガーソングライターYOKIさんをご紹介します。




人生で初めて「黄昏」を迎えています。この道を通った人でないと分からないことをしみじみ味わっています。今年の8月共に私が76歳嫁さんが79歳を迎えました。嫁さんは特別の入院歴もなく、身体も元気で、歯も8020運動を絵に描いたようにしっかりしていて身体的には大丈夫ですが、あれだけ元気に活動していた彼女が1時間前の記憶がなくなったり、日一日と過去の記憶が薄れて行くのを見ると寂しいし辛いです。この歌はそうした記憶が弱くなって行く嫁さんに、まだ元気なうちにどうしても贈りたいと思い作りました。そしてこれからも元気に楽しい日々を送って貰いたいと思います。この曲はじいじにお願いし2023年1月25日に出来上がって来ました。今回も優しくて素敵な曲を提供して下さいました。そしてその曲をYOKIさんがカバーしてくださいました。改めて感謝申し上げます。それではお聞きください。



歌に寄せて・短歌
「君思う元気な姿いつまでも 幸せこそは二人でひとつ」


「君のいない幸せなんて」作詞*ケンちゃん♪作曲&ギター伴奏*じいじさん/by yoki


「君のいない幸せなんて」
作詞kencyan 作曲じいじ 唄YOKI ギター演奏じいじ

君のいない幸せなんて
それ以外の人生なんてありえない
このいのちすべて捧げて君を愛す
だから僕を一人にしないで
いつも僕の傍にいてほしい

君のいない愛なんて
これ以上の人生なんてありえない
このいのちすべて捧げて君を守る
だから僕を一人にしないで
いつも僕の傍にいてほしい

僕を一人にしないで
いつも僕の傍にいてほしい

YOKIチャンネル
https://www.youtube.com/channel/UCllH1IH3V_K9T73JcPDXJSQ
https://www.youtube.com/channel/UCRN4vPaog5-19N0AY1Ph8BA


参照
https://search.yahoo.co.jp/image/search?rkf=2&ei=UTF-8&fr=wsr_is&p

オリジナル作詞活動 シンガーソングライターYOKI特集「過ぎし夏の日の思い出」

2023-09-26 06:58:07 | オリジナルな作詞活動
オリジナル作詞活動 シンガーソングライターYOKI特集「過ぎし夏の日の思い出」

常日頃「写真と短歌で綴る世界文化紀行」「軽井沢レイクガーデン薔薇撮影」等でお世話になっています浅間山明鏡止水(通称kenちゃん・Kenさん)です。ブログは元々自作の詩&曲を掲載する目的でしたが、思いのほかいろんな事に挑戦することになってしまいました。そこで今回は三週間にわたり自作の作詞と作曲家&歌手をご紹介したいと思います。今週は女性シンガーソングライターYOKIさんをご紹介します。




昨年BSNHKで「過ぎし夏」をテーマで歌コンをやっていました。聴いていますと無性に作詞をしたくなり、こういんさんに作曲をお願いして発表して頂きました。そしていつもお世話になっているYOKIさんがカバーをしてくださいました。嬉しかったですね。そして何と作曲してくださったこういんさんがギター演奏をして下さいました。この詩は女性からの立場で書きましたので、YOKIさんは素敵に表現してくださいました。聴けば聞くほど「過ぎし夏の日の思い出感」がばっちりで、素晴らしい曲に仕上がっています。こういんさん、YOKIさん、ありがとうございました。感謝とお礼申し上げます。



歌に寄せて・短歌
「去っていく夏の陽炎見る度に あなたへの想い愛は変わらず」


「過ぎし夏の日の思い出」作詞kencyan 作曲&ギター伴奏板谷こういん 歌YOKI


「過ぎし夏の日の思い出」
作詞kencyan 作曲板谷好員 ギター演奏こういん 唄YOKI
1
美しい夏の陽炎(かげろう)が 
遠くに去って行くも
あなたへの想いは 
私の愛は変わらない
二人が歩いた
思い出の海岸を
今夜もひとり
さびしく 歩いている

過ぎし夏の日の思い出
私はあなたを忘れられない

2
頬をかすめる秋風に 
元気な姿を思い出す
私は今でもあなたが
愛おしく恋しくなる
昨夜の夢の中で 
会ったときの姿は
私の心のなかに 
強く残っている

過ぎし夏の日の思い出
私はあなたを愛している


YOKIチャンネル
https://www.youtube.com/channel/UCllH1IH3V_K9T73JcPDXJSQ
https://www.youtube.com/channel/UCRN4vPaog5-19N0AY1Ph8BA

参照
https://video.unext.jp/title/SID0025334

オリジナル作詞活動 シンガーソングライターYOKI特集・新作「僕たちのラブストリー」

2023-09-25 08:00:40 | オリジナルな作詞活動
オリジナル作詞活動 シンガーソングライターYOKI特集・新作「僕たちのラブストリー」

常日頃「写真と短歌で綴る世界文化紀行」「軽井沢レイクガーデン薔薇撮影」等でお世話になっています浅間山明鏡止水(通称kenちゃん・Kenさん)です。ブログは元々自作の詩&曲を掲載する目的でしたが、思いのほかいろんな事に挑戦することになってしまいました。そこで今回は三週間にわたり自作の作詞と作曲家&歌手をご紹介したいと思います。今週は女性シンガーソングライターYOKIさんをご紹介します。




僕たちは日曜日朝10時に放映されるBS日本テレビ「小さな村の物語~イタリア編」が大好きです。特に嫁さんは映像のBGMとナレターの三上博史の語りが好きです。ある日見ていましたら、三上さんのナレーションに瞬間的な閃きがありまして作詞することが出来ました。この作詞は私がcookieに対する想いでもありますが、YOKIさん家族へのプレゼント曲でもあります。そこでいつもお世話になっているYOKIさんに連絡しましたら快く引き受けて下さいました。23年9月15日出来たばかりの新作です。そしてギター演奏はじいじが引き受けて下さいました。お二人には感謝申し上げます。是非お聴きください。



歌に寄せて・短歌
「黄昏の年を重ねた愛の詩 深い絆のラブストリーも」


「僕たちのラブストリー」オリジナルソング 歌YOKIギター演奏じいじ


「僕たちのラブストリー」
作詞kencyan 作曲YOKI  唄YOKI ギター演奏じいじ

1
僕たちにはいつも笑いがあった
僕たちにはいつも愛があった
たまにはけんかもするが
それもたいしたことはない
僕たちのラブストリーは今も続いている

2
僕たちにはいつも家族がいた
僕たちにはいつも友達がいた
たまにはいざこざもあるが
それもささいなことだ
僕たちのラブストリーは今も続いている

3
僕たちにはいつも信頼があった
僕たちにはいつも勇気があった
たまには不機嫌なこともあるが
それも心配することはない
僕たちのラブストリーは今も続いている

僕たちのラブストリーは今も続いている
僕たちのラブストリーはこれからも続いていく

YOKIチャンネル
https://www.youtube.com/channel/UCllH1IH3V_K9T73JcPDXJSQ
https://www.youtube.com/channel/UCRN4vPaog5-19N0AY1Ph8BA


参照
https://dailynewsagency.com/2013/12/30/the-prettiest-and-most-delightful-6pl/

「エコルド・パリ派まとめ5」

2023-09-22 06:11:27 | 写真と短歌で綴る「世界文化紀行」
「エコルド・パリ派まとめ5」

1928年、パリのある画廊で開催された「エコール・ド・パリ展」が語源だといわれています。印象派のようにグループ展を開いたり、キュビスムのようにある芸術理論を掲げて制作したわけではなく、「パリ派」とはいっても、一般に言う「流派」「画派」ではありません。ピカソとマティスは、パリ派の双子のリーダーと形容されました。キース・ヴァン・ドンゲン、マリー・ローランサン、モーリス・ユトリロ、アメデオ・モディリアーニ、レオナール・フジタ、マルク・シャガール等がいます。


「モーリス・ド・ヴラマンク」1876年~1958年21
フランスの画家、モーリス・ド・ヴラマンク(1876〜1958)は、独学で絵を学び、20世紀初頭にアンリ・マティスやアンドレ・ドランらとともに、「フォーヴィスム(野獣派)」で一世を風靡。その後、セザンヌに傾倒し、形態のボリュームを強調した構成力のある作品を描いた。第一次世界大戦後はパリ郊外にて、厚塗りの情感溢れる大きな筆致で対象を描き出し、次いでパリから100km以上離れた小村リュエイユ=ラ=ガドリエールに住まいを移し、抑制された色調や、スピード感あるタッチで田園風景や妻が活けた花束などを描き続けました。



「モーリス・ド・ヴラマンク」
「厚塗りの情感溢れる筆致こそ 傾倒した野獣派の凄み」



「束ねられた麦のある畑 」1950年
参照
https://bijutsutecho.com/magazine/news/exhibition/16729

「パブロ・ピカソ」1881年~1973年22
パブロ・ピカソは、生涯の大半をフランスで過ごしたスペイン出身の画家、彫刻家、版画家、陶芸家、舞台装飾家、詩人、劇作家である。20世紀で最も影響を与えた芸術家の一人で、ジョルジュ・ブラックと共にキュビスムの創立者である。代表作は、キュビスム黎明期の「アヴィニョンの娘たち」(1907年)や、スペイン市民戦争におけるドイツ軍のゲルニカ空爆を描いた「ゲルニカ」(1937年)である。ピカソ、アンリ・マティス、マルセル・デュシャンの3人は、20世紀初頭の視覚美術に革命的な発展をもたらし、絵画のみならず、彫刻、版画、陶芸など幅広い美術分野に影響を与えた。ピカソの死後、80年代にアート・ワールドで新表現主義が流行り始めると、晩年のピカソの作品は注目を集めることとなりました。



「パブロ・ピカソ」
「視覚美術の革命的な発展に 影響与えた芸術家こそ」



「泣く女」1937年
本作は、1937年に描かれた「泣く女」シリーズのなかでも最も有名な、イギリスのテート・ギャラリーに所蔵されている作品。写真家であり絵も描いた愛人ドラ・マール(本名、アンリエット・テオドラ・マルコヴィッチ)をモデルにした、有名な作品の一つ。ドラ・マールをモデルに描かれた作品には《ドラ・マールの肖像》など油彩に限らず他にもあるが、最もよく知られるのはこの《泣く女》である。ただし「泣く女」をモチーフとした作品には100種類以上のバリエーションがあるといわれる。
参照
https://www.musey.net/54

「ジョルジュ・ブラック」1881年~1955年23
ジョルジュ・ブラックは、フランスの画家。パブロ・ピカソと共にキュビスムの創始者のひとり。ピカソよりも画家としてのキャリアでは劣ったが、絵画における発明の才はピカソも一目を置いた。第一次世界大戦を挟んで画風は一変するが、生涯に渡って絵を書き続けた画家である。仲間から「白い黒人」と描写されるほど体格が良く、また好んでスーツを着るハンサムであった。



「ジョルジュ・ブラック」
「キュビスムの絵画における才こそは ピカソも一目置いた存在で」



「Still Life: Le Jour 」1929年
参照
https://www.art-frame.net/single/8705

「ジョアン・ミロ」1893年~1983年24
ジョアン・ミロ・イ・ファラー(1893年4月20日-1983年12月25日)はスペイン・バルセロナ出身の画家、彫刻家、陶芸家。具象と抽象のあいだをいくような独特な画風が知られる。一般的にはミロ作品は、オートマティスム系のシュルレアリスム作家と解釈されており、無意識を利用した子どものような自由にドローイングや故郷カタルーニャの世界観を表現しているという。また、ミロはブルジョア社会を支える方法として、従来の伝統的な絵画技法に批判的な態度を示し「絵画の暗殺」を宣言する。1975年に故郷バルセロナに設立されたジョン・ミロ財団美術館や1981年にパルマ・デ・マヨルカに設立されたマヨルカ島のジョアン・ミロ財団美術館に作品が多数所蔵されている。



「ジョアン・ミロ」
「どきも抜く具象と抽象あいだいく シュルレアリスムの独特な画風」



「農園」1922年

「荻須高徳」1901年~1986年
東京美術学校(現・東京藝術大学)を卒業した1927年、本場の油彩画を学ぶためにパリに渡った荻須は、パリの街絵を歩いて絵を描くなかで、建物の歴史の重層性や人びとの息遣いにふれ、それらに強く惹かれるようになる。個展の開催やパリ万国博覧会への出品など、画家としての足場を固めてゆくものの、1939年には第二次世界大戦が勃発、翌年にドイツ軍のフランス侵攻によりパリが陥落したため、荻須は帰国することとなる。戦後、フランスの友人の尽力により、荻須は再びパリに渡る。戦後の美術界の主流は抽象画ではあったものの、具象画を手がけてきた荻須は自己の表現を大きく変えることはなかった。1956年にフランス政府からレジオン・ドヌール勲章を受章し、1978年にはパリ市主催で回顧展が開かれるなど、国際的な評価を受けるようになりました。


「荻須高徳」
「パリを愛し街並み描いた彼こそは 最もフランス的な日本人」



「バーとたばこ屋」1976年
参照
https://www.fashion-press.net/news/77503

※9月23日(土)24日(日)はお休みです。

「エコルド・パリ派まとめ4」

2023-09-21 08:25:03 | 写真と短歌で綴る「世界文化紀行」
「エコルド・パリ派まとめ4」~

1928年、パリのある画廊で開催された「エコール・ド・パリ展」が語源だといわれています。印象派のようにグループ展を開いたり、キュビスムのようにある芸術理論を掲げて制作したわけではなく、「パリ派」とはいっても、一般に言う「流派」「画派」ではありません。ピカソとマティスは、パリ派の双子のリーダーと形容されました。キース・ヴァン・ドンゲン、マリー・ローランサン、モーリス・ユトリロ、アメデオ・モディリアーニ、レオナール・フジタ、マルク・シャガール等がいます。<


「佐伯祐三」1898年-1928年16
佐伯は画家としての短い活動期間の大部分をパリのモンパルナス等で過ごし、フランスで客死した。佐伯の作品はパリの街角、店先などを独特の荒々しいタッチで描いたものが多い。佐伯の風景画にはモチーフとして文字の登場するものが多く、街角のポスター、看板等の文字を造形要素の一部として取り入れている点が特色である。作品の大半は都市風景だが、人物画、静物画などもある。



「佐伯祐三」
「独特のパリ街角を荒々しく 旺盛に描く都市風景を」



「テラスの広告」1927年
佐伯祐三のアトリエから程近い、ポール・ロワイヤル通り周辺のカフェを描いた作品です。右上の"UZO SAHEKI/ A PARIS/ NOV 27/ HOTEL DU MARCHE"という文字から、この作品は2度目のフランス滞在時期である1927(昭和2)年の11月に制作されたことがわかります。画面を踊るいくつもの黒い文字は、作品全体の中で装飾的に再構成され、画面に動きを与える要素として重要な役割を果たしています。この作品は、佐伯の没後開かれた1929年の第4回一九三〇年協会展の特別陳列に出品されました。
参照
https://www.artizon.museum/collection/category/detail/192

「アンリ・ルソー」1844年~1910年17
19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍したフランスの素朴派の画家。20数年間、パリ市の税関の職員を務め、仕事の余暇に絵を描いていた「日曜画家」であったことから「ドゥアニエ(税関吏)・ルソー」の通称で知られる。ただし、ルソーの代表作の大部分はルソーが税関を退職した後の50歳代に描かれています。



「アンリ・ルソー」
「いつの世も戦争体験悲惨さで 画家の感性影響受ける」



「戦争」1894年
ルソーが本作《戦争》を描いたのは、1870年のフランコ・プルシアン戦争や1871年のパリ=コミューンより20年以上経過した後のことであった。彼は依然としてこれらの出来事の影響を大きく受けていた。中央では、しかめ面をした女性が剣とたいまつを持っている。ローマ神話の戦争の女神ベローナのようなこの女性は、モンスターのような馬に乗っている。暗い地面は死体の山で覆われており、カラスがその死肉をついばんでいる。木々は黒く焦げたようであり、雲は赤い。逸話や物語の要素を使わずに、ルソーはイメージで出来事を伝えている。多数のギザギザした形や、特に色の選択が、このイメージに寄与している。希望を表す緑は皆無であり、哀悼と地の色である黒と赤が画面を支配している。
参照
https://www.musey.net/16947

「シュザンヌ・ヴァラドン」1865年~1938年18
ルノワール、ロートレックらの画家のモデルを務めながらも独学で絵を描き始め、エドガー・ドガに師事した女性です。ヴァラドンは、サーカスの曲芸師として活躍していたのですが、空中ブランコから転落し、重症を負ってしまいサーカスを退団。その後、母親の洗濯婦の仕事を手伝い、画家たちへ洗濯物を届けて回っているうちに、画家たちのモデルも務めるようになります。



「シュザンヌ・ヴァラドン」
「シュザンヌは多くの画家のモデルにも ドガに師事して天賦を発揮」



「自画像」1898年
参照
https://www.tabitobijutsukan.com/

ヴァラドンは、ルノワールのモデルを務めてもいます。ヴァラドンはルノワールの恋人でもあったと言われています。
「ブージヴァルのダンス」1883年

ピエール=オーギュスト・ルノワール ボストン美術館蔵(アメリカ ボストン)

ヴァラドンはルノワールの他、ロートレックのモデルも務めました。
ロートレックはルノワールとは対照的にヴァラドンを厳しい生活を生きる女性のモデルとして描きました。
「二日酔い」1888年

アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック フォッグ美術館蔵(アメリカ マサチューセッツ州ケンブリッジ)

「アンリ・マティス」1869年~1954年19
アンリ・マティスは、フランスの画家。野獣派(フォーヴィスム)のリーダ-的存在であり、野獣派の活動が短期間で終わった後も20世紀を代表する芸術家の一人として活動を続けた。自然をこよなく愛し「色彩の魔術師」と謳われ、緑あふれる世界を描き続けた画家であった。彫刻および版画も手がけています。



「アンリ・マティス」
「色彩の魔術師マティス野獣派は 緑あふれる世界を描く」



「リュート」1943年
参照
https://media.thisisgallery.com/20221068

「ジョルジュ・ルオー」1871年~1958年20
ジョルジュ・ルオーは1871年パリに生まれ、ステンドグラス職人修業を経て画家に転向。進学したエコール・デ・ボザールでアンリ・マティスと出会い、ともにギュスターヴ・モローに師事。黒く太い輪郭線や厚塗りが特徴的な油彩画や、版画作品などを多く残した。ルオーが描いたのは、疲れ果てた道化師の姿、暖かな光を放つ秋の夕暮、そして、苦しみの果てにうつむくキリストだ。人間が抱える苦しみや悲しみに向き合い、その果てに見出される生命の輝きを表現しているとして高く評価されてきた。



「ジョルジュ・ルオー」
「人間が抱える苦しみ向き合いて いのちの輝き画家は表現」



「秋の夜景(部分)」1952年
参照
https://bijutsutecho.com/magazine/news/exhibition/17107

「エコルド・パリ派まとめ3」

2023-09-20 06:30:39 | 写真と短歌で綴る「世界文化紀行」
「エコルド・パリ派まとめ3」~

1928年、パリのある画廊で開催された「エコール・ド・パリ展」が語源だといわれています。印象派のようにグループ展を開いたり、キュビスムのようにある芸術理論を掲げて制作したわけではなく、「パリ派」とはいっても、一般に言う「流派」「画派」ではありません。ピカソとマティスは、パリ派の双子のリーダーと形容されました。キース・ヴァン・ドンゲン、マリー・ローランサン、モーリス・ユトリロ、アメデオ・モディリアーニ、レオナール・フジタ、マルク・シャガール等がいます。<


「アレクサンダー・アーキペンコ」1887年~1964年11
アレクサンダー・アーキペンコはキエフ出身アメリカ人前衛芸術家、彫刻家、およびグラフィック・アーティスト。キュビズムに影響を受けた独創的な彫刻スタイルで最もよく知られる。1887年、当時ロシア帝国であったウクライナの首都キエフで誕生。彼はウクライナ人として人々の記憶に残りたいと思っていたという。そして1964年にニューヨークで亡くなるまで、常にウクライナ人としての自身のルーツに誇りを持っていたといわれる。芸術家としてのアレクサンダー・アーキペンコは、キュビズムの流れに多大な影響を受けていたが、中でも特に影響を受けたのがパブロ・ピカソの作品である。アーキペンコは特定の人物ではない女性像の彫刻を制作する際に、単純化の形式を通して幾度もピカソの手法を取り入れている。



「アレクサンダー・アーキペンコ」



「シバの女王」1961年リンデン彫刻庭園
参照
https://ja.wikipedia.org/wiki/

「フアン・グリス」1887年~1927年12
パリでは同じスペイン出身のピカソと出会い、1908年にはピカソを通じて、ジョルジュ・ブラック、ギヨーム・アポリネール、アンドレ・サルモン、そしてマックス・ジャコブと知り合い、活動を始めました。キュビスムの絵画を始めるのは1911年以降のことです。この間グリスはピカソやブラックの制作を冷静に見つめ、そこに提起される造形的問題と可能性を研究して、キュビスムの新しい方向性を模索し始めました。ここで絵画は、客観的事実から出発するのではなく、画家の創意から出発する創造的なものとなりました。この作品はまさにこの時期、1912年末から14年までの間に制作されたもので、パピエ・コレやトロンプ= ルイユといった手法が使用され、現実の再構成としての画面がつくられました。



「フアン・グリス」
「新しい方向目指し模索する 造形的なキュビスム絵画」



「新聞と開かれた本」1913年
参照
https://www.artizon.museum/collection/category/detail/165

「ペール・クローグ」1889年~1965年13
芸術家として、紙のドローイング、イラスト、ポスターから、舞台装置のデザイン、彫刻、記念碑的な絵画まで幅広い分野にわたって活動した。1930年にノルウェーに戻ってからは、オスロの国立芸術デザイン大学で教鞭を執った。1946年には国立芸術アカデミーの教授に任命され、1955年から1958年までは同アカデミーの所長を務めた。ニューヨークの国連ビル内にある国連安全保障理事会室の壁画を制作。その他にも、オスロ大学の物理・化学棟やオスロ市庁舎など、多くの公共施設に大きなフレスコ画を描いている。コペンハーゲン国立美術館には6点の作品が収蔵されている。



「ペール・クローグ」
「見つめよう国連壁画今の時期 再建目指して未来への希望」



「国連安全保障理事会会議場の壁画」年
安全保障理事会の会議室でまず目を引くのは、ノルウェーの画家、ペール・クロフが描いた油彩壁画です。 そこには灰から飛び立つ不死鳥が描かれ、第二次世界大戦からの世界の再建を象徴しています。 下方部分の暗い不吉な色の上に、よりよい未来への希望を象徴した明るい色でさまざまなイメージが描かれています。

「モイズ・キスリング」1891年~1953年14
モイズ・キスリング(1891-1953)は、ポーランドの古都クラクフの裕福な仕立屋の息子として生まれました。明るく鮮やかな色彩で、異国的な情感の女性像を描くことで知られるエコール・ド・パリを代表する画家のひとりです。地元クラフクの美術学校で、印象派の影響を受けたユゼフ・パンキェヴィッチ(1866-1940)に師事。その後、1910年にパリへ出て画家として本格的に絵を描き始めました。パリへ出た当時、第一次世界大戦開戦前ということで生活は苦しかったといいます。しかしキスリングと同郷の画商、アドルフ・パスレルや東欧出身のユダヤ系の支援に恵まれるなど、経済的な困窮はなかったのだそうです。



「モイズ・キスリング」
「モデルたち嫉妬の渦に巻き込んだ 逸話の残るキキの艶姿」



「モンパルナスのキキ」1925年
参照
https://artmuseum.jpn.org/mu_monparunas.html

「オシップ・ザッキン」1890年~1967年15
ロシア出身の彫刻家 オシップ・ザッキン(1890年7月14日 – 1967年11月25日)。日本ではあまり知られていないようですが、日本国内にはたくさんの作品が点在しています。オシップ・アレクセーエヴィチ・ザッキン(Ossip Zadkine)は、ピカソやブラックらによる「キュビズム」から着想を得た彫刻を制作した彫刻家としてパリを中心に活躍しました。なお、ザッキンはレオナール藤田とも親交があり、藤田の勧めもあり、二科会外国会員として二科展に出品を続けた親日家としても知られ、多くの作品を日本でも見ることができます。



「オシップ・ザッキン」



「三美神」
参照
https://sdart.jp/archives/882

「エコルド・パリ派まとめ2」

2023-09-19 07:06:03 | 写真と短歌で綴る「世界文化紀行」
「エコルド・パリ派まとめ2」~

1928年、パリのある画廊で開催された「エコール・ド・パリ展」が語源だといわれています。印象派のようにグループ展を開いたり、キュビスムのようにある芸術理論を掲げて制作したわけではなく、「パリ派」とはいっても、一般に言う「流派」「画派」ではありません。ピカソとマティスは、パリ派の双子のリーダーと形容されました。キース・ヴァン・ドンゲン、マリー・ローランサン、モーリス・ユトリロ、アメデオ・モディリアーニ、レオナール・フジタ、マルク・シャガール等がいます。<


「ジュール・パスキン」1885年~1930年6
ブルガリア出身の画家。パリに出てエコール・ド・パリの時代には派手な生活を送り、 藤田嗣治 とも交流。第1次世界大戦を逃れてニューヨーク滞在していた際には 国吉康雄 と知り合っています。第1次世界大戦後にパリに戻って活動を続けましたが、アルコール依存と鬱の結果、自殺してしまいました。



「ジュール・パスキン」
「奔放な生活送る自由人 画風愛され自殺するも」



「花束をもつ少女 」1925年-1926年
参照
https://www.tabirai.net/sightseeing/column/0005088.aspx

「エルミーヌ・ダヴィド」1886年~1970年7
パリ生まれ。エコール・デ・ボザールに次いでアカデミー・ジュリアンに通い、版画や象牙による細密画などを学び、1905年に画壇にデビュー。1907年にパスキンと出会い、渡米後の1918年に結婚。1920年アメリカ国籍を取得。その後モンマルトルに居を構えました。1930年にパスキンが悲劇的な最期を遂げた後も数多くの展覧会へ出品、個展も開催しました。版画付の挿絵本文化が花開いた19世紀末から20世紀にかけてのパリで、挿絵画家として飛躍。油彩画では、緑を主調としてパリやその近郊の風景などを描きました。当時数少ない女性芸術家の一人です。


「エルミーヌ・ダヴィド」
「挿絵本文化の花咲くパリ画壇 個展も開くパスキン夫人」



「セルピーニ通り」
参照
http://www.museum-kiyosu.jp/archive/ecopari/artist/

「ディエゴ・リベラ」1886年~1957年8
ディエゴ・リベラ(1886年12月8日−1957年11月24日)はメキシコの画家。フリーダ・カーロの夫。リベラの最も大きなフレスコ画は、メキシコにおけるメキシコ壁画運動創設の起爆剤となりました。1922年から1953年の間に、リベラはメキシコシティ、チャピンゴ、クエルナバカ、サンフランシスコ、デトロイト、ニューヨークで壁画制作を行いました。1931年に回顧展がニューヨーク近代美術館で開催されました。


「ディエゴ・リベラ」
「キュビズムの影響受ける壁画画家 民衆のため芸術興す」



「アラメダの日曜日の夢」
参照
https://www.artpedia.asia/diego-rivera/

「マルク・シャガール」1887年~1985年9
マルク・ザロヴィッチ・シャガール(1887年7月6日-1985年3月28日)はロシア出身のユダヤ系フランス人画家。初期前衛芸術運動の代表的な画家であり、また、エコール・ド・パリの中心的な人物です。キュビスム、フォーヴィズム、表現主義、シュルレアリスム、象徴主義などさまざまな前衛芸術スタイルと土着のユダヤ文化を融合した。また絵画、本、イラストレーション、ステンドグラス、舞台デザイン、陶芸、タペストリー、版画など、さまざまなジャンルで活動を行っています。


「マルク・シャガール」
「愛の画家妻への敬愛一途にて 愛や結婚作品数多く」



「誕生日1915年」
参照
https://www.artpedia.asia/marc-chagall/

「レオ・マイケルソン」1887年~1978年10
エコール・ド・パリのメンバーでもあった彼は、西ヨーロッパやソ連、アメリカでも展覧会を開きました。"永遠なる移民"また"永遠なる学生"と描写されることもありますが、それは彼が常に新しいスタイルを取り入れたからでありました。 彼はどこでもスケッチが出来るように、常にパステルを携帯していました。彼の友人であったマルク・シャガールはミヘルソンに関して、彼が知る中で最も色彩に優れている画家だと語っています。

「レオ・マイケルソン」
「色彩に優れた画家ミケルソン 永遠なる学生と描写されるも」


「画家レオ・ミケルソンの肖像1922年」
参照
https://ja.wahooart.com/@@/8LJA97-Lovis-Corinth-(Franz-Heinrich-Louis)

「エコルド・パリ派まとめ1」

2023-09-18 07:27:27 | 写真と短歌で綴る「世界文化紀行」
「エコルド・パリ派まとめ1」~

1928年、パリのある画廊で開催された「エコール・ド・パリ展」が語源だといわれています。印象派のようにグループ展を開いたり、キュビスムのようにある芸術理論を掲げて制作したわけではなく、「パリ派」とはいっても、一般に言う「流派」「画派」ではありません。ピカソとマティスは、パリ派の双子のリーダーと形容されました。キース・ヴァン・ドンゲン、マリー・ローランサン、モーリス・ユトリロ、アメデオ・モディリアーニ、レオナール・フジタ、マルク・シャガール等がいます。


「モーリス・ユトリロ」1883年~1955年1
ユトリロは、エコール・ド・パリの画家のなかでは珍しく生粋のフランス人でした。彼の作品のほとんどは風景画、それも、小路、教会、運河などの身近なパリの風景を描きました。ありふれた街の風景を描きながら、その画面は不思議な詩情と静謐さに満ちています。特に、壁などの色に用いられた独特の白が印象的です。第二次世界大戦後まで余命を保ちますが、作品は、後に「白の時代」といわれています。


「モーリス・ユトリロ」
「風景は不思議な詩情静謐さ 独特の白印象的も」



「モンマルトルのノルヴァン通り」1910年
参照
https://www.artpedia.asia/maurice-utrillo/

「キース・ヴァン・ドンゲン」1877年 – 1968年オランダ2
ロッテルダムの美術アカデミーで学んでいたヴァン・ドンゲンは、20歳の頃に初めてパリに滞在、2年後にモンマルトルに移住して、アトリエを構えました。オランダ時代から力強い筆致の作品を描いていたヴァン・ドンゲンは、すぐに新印象派に関心を抱き、やがて濃密で表情豊かな色彩でフォーヴィスム(野獣派)の画家たちの一員となります。華麗でありながら内的な表情を感じさせる色使い、画面に現れる女性の身体の優美さや官能性、それらはやがてヴァン・ドンゲンの代名詞となりました。



「キース・ヴァン・ドンゲン」
「華麗かつ退廃的なパリ美人 優美さの中官能性も」



「楽しみ」1914年
ヴァン・ドンゲンが多く描いたのは、ファッショナブルでモダンな女性たちです。シンプルだが繊細に対象の内面を表現していく描線、乳白色の肌を引き立たせるビビッドな色遣い。パリという大都会で生きる女性たちの心の内側を照らし出すような、猥雑な街の空気を映し出すような、独特の雰囲気を醸し出しています。
参照
https://artexhibition.jp/topics/news/20220713-AEJ890415/

「マリー・ローランサン」1883年~1956年3
セクション・ドールやピカソ、ブラックと関わりのあるキュビストとしてパリ前衛芸術シーンの重要な画家として評価されています。ソニア・ドローネーやマリー・ボロビーフ、フランシスカ・クラウゼンと並んで女性キュビストの一人として知られます。初期作風は、特にジョルジュ・ブラックやパブロ・ピカソが大きな影響を受けています。独特な抽象絵画をともなった女性ポートレイトや女性グループの注文絵画を描き、エコール・ド・パリの女流画家として活躍。死ぬまでフェミニンをテーマにした作品制作を探求しました。そのパステルカラー調とおだやかな作風から、日本人受けする前衛芸術家の一人です。いわさきちひろの絵と似ていますが、いわさきの画家としての活動の原点が彼女でとされています。


「マリー・ローランサン」
「フェミニンをテーマに描く女流画家 パステルカラーのおだやかな作風」



「キス」1927年
参照
https://www.artpedia.asia/marie-laurencin/

「アメデオ・モディリアーニ」1884年~1920年4
1906年にパリに移動し、パブロ・ピカソといった当時のパリの前衛美術家たちと出会い、活動を始める。モディリアーニのスタイルはカテゴライズするのが難しく、一般的に表現主義か独自のスタイルとみなされている。日本ではマルク・シャガールや藤田嗣治らと同じく、パリ滞在の外国人作家として「エコール・ド・パリ」に分類されて紹介されることが多い。貧困のうちに35歳という若さで死去。モディリアーニは生存中は受けいれられず、死後に評価が高まり、現在のアート・ワールドにおいて、パブロ・ピカソと並んで最も高額なモダニズム作家の1人となっている。2015年11月9日、1917年作の「赤いヌード」はクリスティーズ・ニューヨークで1億7000万ドルで落札された。


「アメデオ・モディリアーニ」
「独自性引き伸ばされた顔や体 不遇な画家は死後に評価も」



「赤い肩掛けを着たジャンヌ・エビュテンヌ」1917年
参照
https://www.artpedia.asia/amedeo-modigliani/

「レオナール・フジタ」1886年~1968年5
藤田はパリのモンパルナスに住み、そこに集まった若手芸術家たちと交流し、刺激受ける中で自分独自の作品を模索していきました。はじめはパリの風景や、ピカソらのキュビズム絵画に影響を受けた作品、アンリ・ルソーの素朴で新鮮な画風に影響を受けた作品を描いていました。そして1920年ごろに、「乳白色の下地」の技法と、日本画で用いる面相筆や真書と呼ばれる、書道で用いる筆を使った細い輪郭線で裸婦を描くスタイルを確立しました。これが絶賛され、「乳白色の下地」を使って描く裸婦像は藤田の代名詞に。この乳白色の下地の特性を生かせるように、その作品のほとんどを藤田はキャンバスから手作りしていて、支持体には目の細かい麻布を使っていました。細く、長い輪郭線を引くためには下地が重要な役目を果たしていたからです。


「レオナール・フジタ」
「裸婦像は乳白色の肌と呼ばれ 細く流れる線描の技術」



「カフェにて」1949年
参照
https://omochi-art.com/wp/leonard-tsugouharu-foujita/