☆椅子☆椅子☆椅子☆

家具のことやらデザインのことやらイロイロと。思いつくまま。

2014年03月22日 08時29分38秒 | Weblog

美の壺の再放送を見ました。
テーマは「棚」。
シャルロット・ペリアンの棚や建築要素としての棚、司馬遼太郎記念館やコルビュジエの棚など内容満載でした。

札幌で棚というと渡辺淳一文学館でしょうか。

番組では長岡勉氏や中村好文氏の建築なども紹介されていました。
その両氏の建築で、棚に座っている子供や中村氏自身の姿が印象的でした。

座る、ということを考えるとき必ずしも椅子という道具でなくてもいいんですよね。

日本で椅子が発達しなかったのも、座るということないしは場所が建築に固定していたからかもしれません。
そういう意味では椅子が発達するためには座ることが建築から自由になる必要があったとも考えられます。

そういえば川添登氏の論文でこんな箇所がありました。
「かつて雲水は、笠をかぶり、杖一つもって放浪の旅に出かけた。笠は屋根―すなわち建築の道具化された極限値であり、杖はイスの極限値であった。日本人の死の理想は、山水の自然の中に埋没していくことに求められていたとともに、タタミの中で安楽に大往生をとげることであった。したがって、この両者は相補の関係にある。そして、ここに日本人がイスを否定していった歴史の根源を見出すことができる。それは家具を空間化し、ついて空間を家具化していくプロセスであった。ハコが環境デザインのファニチュア・デザインに投影されたものであるとした意味は、イスの否定の中に求められる。逆に、イスをインテリア・デザインの中央においたヨーロッパが、産業革命をなしとげた理由は、ツクエがプロダクト・デザインの、インテリア空間における投影であるとした理由を解明するであろう。」
(ジャパンインテリアデザイン64年5月号)

また大橋晃朗氏の文章にもこんなのがありました。
「スペインの民芸も、名も知らぬ岩石も、大量に生産される段ボール箱、廃棄された自動車の座席も、芸術化したハイ・デザインも、全ゆるものが家具の形をとって、並列的に私たちの前にある。ずっと以前から生活のすべてが記号的選択に他ならなくなっているのは、ここからも想像し得るだろう。」
(ジャパンインテリアデザイン80年2月号)

建築から自由になった座るための道具としての椅子はさらにシンボル性が高まることによって発展したと考えることができるのでしょう。

台から玉座へ。

まさに大橋晃朗氏の椅子の世界です