実家にソファというものは存在しませんでした(今もない)。
子供のころ目にするソファとはお金持ちの家の応接間にあるもの、そんな認識でした。普段使われていない玄関横の薄暗い部屋にあるもの。
そんなんで、ソファに対する審美眼のようなものは一切養われることなく大人になりました。
というわけでこういう風に言われると全く反論できません。
以下引用。
老人が留守にしているあいだに二回か三回休憩時間があったと思う。休憩時間には私はソファーに寝転んでぼんやりと考えごとをしたり、便所に行ったり、腕立て伏せをしたりした。ソファーの寝心地はとても良かった。固すぎず柔かすぎもせず、頭の下に敷くクッションの具合もちょうど良い。私は計算に出向く先々で休憩時間になるとそこにあるソファーに寝かせてもらうのだが、寝心地の良いソファーというのはまずない。大抵はいきあたりばったりで買ってきたような雑なつくりのソファーだし、見栄えの良い一見高給そうなソファーでも実際に寝転んでみるとがっかりしてしまう場合がほとんどなのだ。人々がどうしてそんなにソファー選びに手を抜くのかよくわからない。
私はつねづねソファー選びにはその人間の品位がにじみ出るものだと – またこれはたぶん偏見だと思うが – 確信している。ソファーというものは犯すことのできない確固としたひとつの世界なのだ。しかしこれは良いソファーに座って育った人間にしかわからない。良い本を読んで育ったり、良い音楽を聴いて育ったりするのと同じだ。ひとつの良いソファーはもうひとつの良いソファーを生み、悪いソファーはもうひとつの悪いソファーを生む。そういうものなのだ。
私は高級車を乗りまわしながら家には二級か三級のソファーしか置いていない人間を何人か知っている。こういう人間を私はあまり信用しない。高い車にはたしかにそれだけの価値はあるのだろうが、それはただ単に高い車というだけのことである。金さえ払えば誰にだって買える。しかし良いソファーを買うにはそれなりの見識と経験と哲学が必要なのだ。金はかかるが、金を出せばいいというものではない。ソファーとは何かという確固としたイメージなしには優れたソファーを手に入れることは不可能なのだ。
村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 上』p.77より
子供のころ目にするソファとはお金持ちの家の応接間にあるもの、そんな認識でした。普段使われていない玄関横の薄暗い部屋にあるもの。
そんなんで、ソファに対する審美眼のようなものは一切養われることなく大人になりました。
というわけでこういう風に言われると全く反論できません。
以下引用。
老人が留守にしているあいだに二回か三回休憩時間があったと思う。休憩時間には私はソファーに寝転んでぼんやりと考えごとをしたり、便所に行ったり、腕立て伏せをしたりした。ソファーの寝心地はとても良かった。固すぎず柔かすぎもせず、頭の下に敷くクッションの具合もちょうど良い。私は計算に出向く先々で休憩時間になるとそこにあるソファーに寝かせてもらうのだが、寝心地の良いソファーというのはまずない。大抵はいきあたりばったりで買ってきたような雑なつくりのソファーだし、見栄えの良い一見高給そうなソファーでも実際に寝転んでみるとがっかりしてしまう場合がほとんどなのだ。人々がどうしてそんなにソファー選びに手を抜くのかよくわからない。
私はつねづねソファー選びにはその人間の品位がにじみ出るものだと – またこれはたぶん偏見だと思うが – 確信している。ソファーというものは犯すことのできない確固としたひとつの世界なのだ。しかしこれは良いソファーに座って育った人間にしかわからない。良い本を読んで育ったり、良い音楽を聴いて育ったりするのと同じだ。ひとつの良いソファーはもうひとつの良いソファーを生み、悪いソファーはもうひとつの悪いソファーを生む。そういうものなのだ。
私は高級車を乗りまわしながら家には二級か三級のソファーしか置いていない人間を何人か知っている。こういう人間を私はあまり信用しない。高い車にはたしかにそれだけの価値はあるのだろうが、それはただ単に高い車というだけのことである。金さえ払えば誰にだって買える。しかし良いソファーを買うにはそれなりの見識と経験と哲学が必要なのだ。金はかかるが、金を出せばいいというものではない。ソファーとは何かという確固としたイメージなしには優れたソファーを手に入れることは不可能なのだ。
村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 上』p.77より