経堂緑岡教会  説教ブログ

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風変わりな宴会

2014年04月03日 | ルカによる福音書(2)

ルカ福音書による説教(75)

イザヤ書35章5~6節

ルカによる福音書14章12~24節

       2014年2月23日  

       牧師 松本 敏之

 

(1)おもてなし

 前回の7~11節には、宴会に招かれる側の注意が述べられていましたが、それに続く12~14節で、逆に宴会に人々を招く側、主催者側の注意について語られます。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである」。

私たちは、パーティーに招かれる時には、それなりのプレゼントやご祝儀を持っていくのが礼儀だと考えます。ですからこういう言葉を読むと、「自分たちの習慣はまちがっているのだろうか」と戸惑うかもしれません。この世界の習慣は、それはそれとして、理にかなったことでしょう。ただしそれは「持ちつ持たれつ」、「お互いさま」ということで、特に信仰とは関係がないことでしょう。ここで主イエスは別次元のことを語っておられるのです。それは非常識なことではなく、常識を超えたこと(超常識)です。

国際オリンピック委員会で、滝川クリステルさんが行ったスピーチの中の「おもてなし」という言葉が、昨年の流行語になりました。「お・も・て・な・し、おもてなし」

滝川さんの説明によれば、「おもてなし」とは、「歓待、気前のよさ、無私無欲の深い意味合いをもった言葉」ということです。彼女は、こう続けます。「それは私たちの祖先から受け継がれ、現代の日本の超近代的な文化までしっかり根付いているものです。このおもてなしの精神は、日本人が互いに思いやり、またお客様たちにも同じように、その思いやりの精神で接しているのかを説明するものです。その例をお話ししましょう。もしみなさんが何かをなくしたとしましょう。それはほとんど皆さんのお手元にかえります。現金でさえもです」。

確かにあたっている面もあります。日本は世界一治安のよいところだと言われますが、私もそういうことを実感します。しかしそれは「無私無欲」というよりは、「人のものに勝手に手をつけてはいけない」とか、「うそをつかない」という日本人の特性の一つかと思います。それはそれで誇るべきものでしょう。

私は、ブラジルに住み始めてまだ不慣れな頃から、よくブラジル人から道を聞かれました。「なぜわざわざ外国人(日本人)の私に、聞くのだろうか」と思いましたが、それはブラジル日系人たちが、「日系人は誠実でうそをつかない」という評価を作っていたからのようでした。「道を聞くなら日本人に聞け」。それは、日本人は知らなければ「知らない」と言うからです。ブラジル人は、相手をがっかりさせたくないと思うのか、知らなくても、「あっちだと思う」など何か答えようとするのです。それがブラジル人としての「おもてなし」なのかもしれません。ただそれを信用して、そちらに行くと、見当はずれで、とんでもないことになりかねません。ですから、私は私で、「道を聞くなら3人に聞け」ということを学びました。3人が同じことを言えば、まあ信用してもいいだろうということです。

ただそういうことと、主イエスがここで語られた「お返しができない人を招く」ということとは、少し違う気がします。

 

(2)計算しない

昨年の流行語で「倍返し」というのもありました。でもこれは復讐の話、「やられたらやり返せ!倍返しだ」ということです。この「倍返し」は、聖書にもあります。「カインのための復讐が七倍なら、レメクのためには七十七倍」(創世記4章24節)。「七十七倍返しだ!」

主イエスは、それとは逆に、「七の七十倍までも赦しなさい」(マタイ18章22節)とおっしゃいました。これは、490回というカウントの仕方と、77回という説の両方があるのですが、いずれにせよ、何回赦すかという回数の問題ではなく、「数えてはいけない。徹底的に赦し続けよ」ということ、計算するなということです。

私たちはいつも裏を考えてしまいます。もてなしていても、もてなされていても、計算しながらバランスを考えるのです。自分の立場はどのあたりか。本音と建前のようなこともあります。聖書は、そうした計算づくの世界から、私たちを解放しようとしているのです。イエス・キリストは、そうしたことを超えた、まことの無私無欲のおもてなしについて語られるのです。

 

(3)お返しのできない人を招く

イエス・キリストは、こう語られます。「宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」(13~14節)。

「報い」ということでは、イエス・キリストは、「あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている」(マタイ6:2)と言われました。「既に報いを受けている」というのは、「もう勘定が終わっている」という意味の言葉です。どんなによいことをしても、それは報いを受けているならば、おもてなしとは言えないのではないかということです。

「イエス・キリストは、お返しのできない人をこそ招きなさい」と言われましたが、その根拠が、意外な形で、次のたとえで示されると言えるかもしれません。それは神が招かれる宴会です。そこでは、私たちの誰もがお返しできません。だからイエスのおもてなしに、無償で招かれるのです。

今日は半沢直樹と滝川クリステルの決めゼリフを紹介しましたが、松本敏之の決めゼリフも紹介しておきましょう。

 

おもてなし イエスによれば 裏もなし

 

 「信徒の友」が4月号から川柳欄を設けるようですから、出してみたいと思います。

 

(4)招きを断る

普通の宴会では見かけないような貧しい人たちもたくさん招かれている。これは一種、風変わりな宴会です。しかしそれを聞いていた参加者の一人が、こう言いました。「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」(15節)。この言葉は率直な応答であったと思います。裏があったとは思いません。しかし、彼はこう語ったとき、自分が「神の国の食事」の場にいるということを、全く疑っていなかったのではないでしょうか。

イエス・キリストの次のたとえは、この応答に促されたものでした。

「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた。」(17節)。

この当時の宴会への正式な招待というのは二段ステップでなされたようです。あらかじめ招待状を送り、出席の返事をした人に対しては、その時間が来たら、使いを送って迎えに行くのです。そうした習慣がこのたとえの前提になっています。

ここまでは主人の計画通りです。ところが、どうでしょう。

「すると皆、次々に断った。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか失礼させてください』と言った。ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った」(18~20節)。

今でいうドタキャンです。招かれているのに、来ようとはしない人が大勢いる。それが一つのポイントです。

ここに挙げられている理由は、すべて筋が通った理由です。今日でも許される理由ではないでしょうか。最初の二人は経済的な問題です。この時を逃すと、だめになってしまう、替えることができない急な仕事が入ったということでしょう。結婚については、古代のイスラエルでは、結婚したばかりの男子は兵役も免除されたとあります(申命記20:7参照)。

問題は、その理由が許容される理由かどうかということよりも、「ここで招かれた人たちは、その招きの重要さをわかっていない、その招きを軽く見ている」ということであります。ここで病気を理由に断った人はいないのも興味深いことです。病気は断る理由にはならない。来られないかもしれませんが、病気の時こそ、イエス・キリストの招きを感謝するものでしょう。

 

(5)このたとえをどう理解するか

このイエス・キリストのたとえは、神の救いの歴史のダイジェストのように解釈することも可能でしょう。神様は、最初、アブラハムを選び、イスラエルの民を神の民として立てました。それが最初に招かれた人たちです。ところが彼らはそれに誠実に応えなかった。そこで神様は救いの対象をぐっと広げ、異邦人にまでその招きは及ぶようになったという理解です。そこで断ったのはユダヤ人であって、イエス・キリストを受け入れたクリスチャンが招かれるようになった。こうして救いが異邦人にまで広がった。めでたし、めでたし。

それはひとつの解釈でありうると思います。しかし気を付けなければならないことは、聖書の世界は、いつも「後の者が先になり、先の者が後になる」ということです。

この「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った人自身が、感激して、そう言ったときに、そこに自分はいないかもしれないということを全く想定していなかったように、私たちも、クリスチャンとして、自分はそこにいることを確信したままで、この話を聞くならば、この話を理解したことにならないのではないでしょうか。問われているのは、私たち自身です。聖書は、いつも自分に向かって語られた言葉として読むときに、意味をもってきます。

 

(6)私自身が問われている

この話はこう続きます。

「僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』やがて、僕が、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと、主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない』(21~24節)。

厳しい言葉です。ここから聞きとりたい第一のことは、神さまの人間を求める情熱の大きさということです。熱情と言ってもよいです。モーセの十戒の第二戒の説明文の中に「わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である」(出20:5)という言葉があります。以前の口語訳聖書では「ねたむ神」と訳されていましたが、私は「熱情の神」のほうがよい訳だと思います。この神のことを、ユダヤ教のアブラハム・ヘシェルという思想家は「人間を探し求める神」と言って、そういう題名の本を書きました。どこまでも追いかけてきます。その神の姿を、ルカは、こういう表現であらわしたのです。その神の熱情は、やがて15章で、より克明に記されることになります。

その神の熱情に比べて、私たち人間は、いかに冷えているか。その神の熱情を理解していない。そしてなんとちっぽけなことを理由に生きているかと思います。

神様の招きは、私たちの想定の範囲を超えて、どこまでも延びていく。広がっていく。私たちがむしろついていけない。そこで招かれた人は、「え、自分のようなものでも行ってよいのでしょうか」と思ったことでしょう。しかし実は、これがキーワードです。天国というのは、「え、自分のような者でもいてよいのでしょうか」という人ばかりが集まっているところと言えるでしょう。「自分はここにいる資格はあるけれども、なんであんな人がいるのか」と思う人はいません。これも逆説的です。ですから「なんであんな人がいるのか」ということを時々考える人は要注意かもしれません。

 

(7)私も路地にいるひとり

最後に、イエス・キリストは、厳しいまとめをされましたが、実は、「私もその資格がなく、私も路地や通りにいる一人なのだ」と気づくことこそ意味があると思います。だからその意味で拒否されている人は、一人もいないのです。

さらにこの扉は今も開いており、私たちは今も招かれ続けているということです。まだ時を逸していない。「今でしょ」ということです(昨年の流行語三つ目!)。

ここに書かれているのは、神の国の宴会のことですが、それは「あの世」のことではなく、私たちの世界のことを語っているということも忘れてはならないでしょう。この話を比喩的に理解することによって、現実と切り離して考えてはならないと思うのです。この世界における私たちの生き方が問われている。まさにこの世界において、「貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい」ということなのです。

イエス・キリストが裏のない真実な招きをしてくださっていることを知り、その招きに応えようとする時に、私たちもまことのおもてなしの精神に生きることができるようになるのではないでしょうか。

  

 

 

 

 

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