経堂緑岡教会  説教ブログ

松本牧師説教、その他の牧師の説教、松本牧師の説教以外のもの。

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嫉 妬

2013年09月13日 | 創世記

創世記による説教(48)

創世記29章31節~30章24節

コリントの信徒への手紙13章4~7節

   2013年7月7日

     牧師 松本 敏之

 

(1)レアの子どもたち

 今回の箇所は、ヤコブの二人の妻レアとラケル、およびそれぞれの召し使いジルパ、ビルハという4人の女性による子産み競争のような物語です。跡継ぎとなる男の子を産むことが絶対とされた当時、多重結婚はしばしばあったようですが、そうした家族関係にはやはり無理があります。しかもここで二人の妻は姉と妹ですが、後に姉妹との重婚は律法で禁じられることとなります(レビ記18章18節参照)。

 ただしここに記されることは、後にイスラエルの十二部族となるその部族名の由来をたどる自由な「語源論的遊び」のような面があります。ですから読む側も、あまりがちがちに受け取らないで、少し遊び心をもって読むほうがよいのかもしれません。

 「主は、レアが疎んじられているのを見て彼女の胎を開かれたが、ラケルには子供ができなかった」(29章31節)。

この後レアは、6人の男の子とディナという女の子、合計7人の子どもを授かります。それに対し、妹ラケルにはここでは最後にヨセフが、その後大分経ってからもう一人ベニヤミンという男の子が与えられますが(35章16~18節)、それが難産であり、結局、ラケルはその出産により命を落とすこととなります。

 「レアは身ごもって男の子を産み、ルベンと名付けた。それは、彼女が、『主はわたしの苦しみを顧みて(ラア)くださった。これからは夫もわたしを愛してくれるにちがいない』と言ったからである」(32節)。

「ラア」と「ルベン」は、語呂合わせとしては全く違うように見えます。これだけが例外的にわかりにくいのですが、あとの名前については、そもそもヘブライ語の文字は子音だけだということを念頭に置いておくとよいでしょう。母音は符号で表すのです。例えば、Bという文字の下にaという符号がつけば、「バ」となります。ですから子音だけを拾ってみると、語呂合わせになっていることがわかるでしょう。(シャマとシメオン、ラベとレビ、ヤダとユダ)。

 ある註解書によれば、ルベンという名前から自然に思い浮かぶ語呂合わせは「ご覧なさい、息子です」(ルアー、ベン)だけれども、この著者(聖書)は、あえて別の由来を採用していると記されていました。

次の子どもは「主はわたしが疎んじられていることを耳にされ(シャマ)」ということから「シメオン」と名付けました(33節)。「シャマ」というのは、「シェマー、イスラエル」(聞け、イスラエルよ)という言葉でも有名です(申命記6:4等)。

その後、三男は「これからはきっとわたしに結び付いてくれる」の「結び付く」という言葉「ラベ」から「レビ」と名付けられます(34節)。四男は、「今度こそ主をほめたたえよう」の「ほめたたえる」という言葉(ヤダ)から「ユダ」と名付けられました(35節)。ここで一区切りです。

 

(2)それぞれの悩み

 30章に入ると、ラケルは、自分に子どもができないことから、姉をねたむようになり、ヤコブに向かって、「わたしにもぜひ子供を与えてください。与えてくださらなければ、わたしは死にます」(1節)と訴えます。

これは、夫に愛されていることを知っているからこそ言える言葉でしょう。姉は姉で愛されない悩みをもち、妹に嫉妬しましたが、妹は妹で子どもが与えられない悩みをもって、姉に嫉妬しています。その二人の嫉妬のぶつかりあいから、30章はすさまじい姉妹同士の争いになっていきます。

 このラケルの言葉に対して、ヤコブは激しく怒って、こう答えました。「わたしが神に代われると言うのか。お前の胎に子供を宿らせないのは神御自身なのだ」(2節)。このヤコブの言葉には、「自分は男としてなすべきことをやっている。私だってお前の子どもが欲しい。それを止めているのは神様なのだ」という思いが感じられます。

 今ではさまざまな不妊治療がありますが、それでも子どもを与えられるのは、やはり神様のみ手の中にあることです。不妊治療と同時に、もっと養子を迎えることが考えられてもよいのではないかと思います。それも含めて、子どもを与えてくださるのはやはり神様の業というふうに、ヤコブと共に言うことができるでしょう。

 さて、ラケルはこう言いました。「わたしの召し使いのビルハがいます。彼女のところに入ってください。彼女が子供を産み、わたしがその子を膝の上に迎えれば、彼女によってわたしも子供を持つことができます」(3節)。

これは、アブラハムの子を得られなかったサラがアブラハムに提案したこと、つまり女奴隷ハガルによって子どもを得ようというあの提案を思い起こさせます。

 

(3)女奴隷たちによる子ども

 そしてラケルの願い通りとなり、ビルハは身ごもり、子どもを授かりました。ラケルは、「わたしの訴えを神は正しくお裁きになり、わたしの願いを聞き入れ男の子を与えてくださった」と言います。「裁き」(ディン)という言葉から、「ダン」と名付けられました(6節)。ヤコブにとっては、5人目(五男)です。さらにビルハはもうひとりの子どもを産みます。「姉と死に物狂いの争いをして、ついに勝った」と言って、「争い」(ニフタル)という言葉から「ナフタリ」と名付けました(8節)。六男です。(「争い」という名前を付けられた子どもはかわいそうですね。)ラケルは、「姉との争いに勝った」と言いましたが、まだまだ争いは続きます。

姉のほうも、それに負けじと、自分の女奴隷を与えて、さらに子どもを得ようとします。不謹慎な連想ですが、何だか野球か何かの試合のようですね。最初は4対0だったので安心していたところ、相手が2点入れて、4対2になり、追いあげられた、さらに点を重ねて引き離しておこうという感じです。

果たしてレアの女奴隷ジルパも男の子を産みます。レアは「なんと幸運なことか」と言って、「幸運」(ガド)という言葉から「ガド」と名付けました(11節)。これが七男。ジルパに、さらにもう一人与えられます。レアは「なんと幸せなこと」と言って「幸せ」(アシェル)という言葉から、そのまま「アシェル」と名付けました(13節)。八男です。こういう名前(幸運、幸せ)はいいですね。レアとしては、大分引き離した形ですが、それでもまだ安心できないようで、「競争」はまだまだ続きます。

 

(4)恋なすび事件

そこで恋なすび事件が起きます。

レアの長男ルベンが、野原で恋なすびを見つけ、母レアのところに持って来ました。そこでラケルがレアに、あつかましくも「あなたの子供が取って来た恋なすびをわたしに分けてください」(14節)と言うのです。レアは「あなたは、わたしの夫を取っただけでは気が済まず、わたしの息子の恋なすびまで取ろうとするのですか」(15節)と答えました。そこでラケルが交換条件を出します。「それでは、あなたの子供の恋なすびの代わりに、今夜あの人があなたと床を共にするようにしましょう」(15節)。レアはその条件をのんで、恋なすびを与えました。愛されているラケルにとっては、夫を一晩姉に与えることなど平気なようですが、彼女には彼女なりのあせりがあるのです。

「夕方になり、ヤコブが野原から帰って来ると、レアは出迎えて言った。『あなたはわたしのところに来なければなりません。わたしは、息子の恋なすびであなたを雇ったのですから』」(16節)。

それで、ヤコブはそちらに連れていかれます。この主体性のない男は、一体なんなのかと思いますが、女性が主役の物語ということでしょうか。

この恋なすびとは、マンゴドラと呼ばれた植物であり、奇妙な形の根が人間の形に似ていることから、さまざまな時代の多くの民族の迷信の中で、魔術の道具として大きな役割を演じてきたそうです。その実は小さなリンゴのような形で強い臭いがし、昔から媚薬(催淫剤)としてよく用いられたとのことです。

媚薬は、愛されないレアにとっては、夫を惹きつけるために有用であったかもしれませんが、ヤコブに十分に愛されていたラケルにとって果たして意味があったのかどうかわかりません。彼女は、媚薬というよりは、「恋なすび」に妊娠を促す効果を期待したのでしょう。

さて、レアは夫が来てくれたおかげでまた身ごもります。彼女自身が産む子どもとしては5人目。ヤコブの子どもとしては九男です。「神はその報酬をくださった」という「報酬」(サカル)から、イサカルと名付けました(18節)。さらにもう一人与えられます。「今度こそ、夫はわたしを尊敬してくれる」という「尊敬する」(ザバル)から、「ゼブルン」と名付けられます(20節)。レアから6人目。ヤコブにとっては十男です。その後、さらにディナという女の子が与えられます。

 

(5)十二部族の名前の由来

さてラケルは、その後妊娠することになりますが、それは「恋なすび」によってではありませんでした。彼女に子どもが与えられたのは、神がそれをお許しになったからだというのです。

「しかし、神はラケルも御心に留め、彼女の願いを聞き入れその胎を開かれたので、ラケルは身ごもって男の子を産んだ」(22~23節)。

さらに「主がわたしにもう一人男の子を加えてくださいますように(ヨセフ)」と願ったので、「ヨセフ」と名付けました(24節)。その「もう一人」はベニヤミンとして与えられますが、さきに申し上げましたように、彼女はその子と引き換えに命を落とすことになります。

このヨセフの出産で「子産み競争」は一段落します。女の子のディナを加えて12人という完全数であったということが語り手の中にあったのかもしれません。

その後、部族名としてはディナではなく、男の子のベニヤミンが加えられます。この12人が十二部族の祖となり、それが地域の名前にもなっていきます。ただしレビ族は祭司の家系ということで、土地は与えられません。その代わりにヨセフの二人の子ども(マナセとエフライム)を二つに分けて、12となります。興味のある方は、新共同訳聖書巻末の「3カナンへの定住」という地図で、ご確認ください。

 

(6)不利なものを顧みる神

さて、これはきわめて世俗的な物語ですが、いくつかのことを述べてみます。

まず神は弱い者、不利な立場に置かれた者の祈りを聞いてくださる、ということが、この物語を通しても言えると思います。

夫から愛されなかったレアから、6人の男の子と、一人の女の子が生まれますが、聖書の系譜の中で、重要な意義をもってくるのは、このレアから生まれた子どもたちです。レアから生まれたユダがいなければ、モーセもダビデもいませんでした。そしてイエス・キリストも、この流れの中にお生まれになりました。

さてヤコブはレアを愛さず、ラケルを愛しました。しかしラケルがヤコブを愛していたかどうかはどこにも書いてありません。どうもヤコブの片思いであったのではないかと思います。ラケルが欲しかったのは、ヤコブの愛情ではなく、自分の子どもです。ヤコブという人は、愛する女性からは愛されなかった男性なのかもしれません。

次に「嫉妬」について。私たちはいろいろな「嫉妬」を持ちます。自分が欲しいものを持っていない時、他の人がそれを持っていると、嫉妬します。ところが他の人が持っていないのに、自分が持っている賜物、恵みには、案外気付かないことが多いのではないでしょうか。当たり前のように思ってしまう。私たちは、自分に与えられている恵みを感謝することから始めなければならないでしょう。

パウロのコリントの信徒への手紙の中の愛の賛歌を読んでいただきました。

「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない」とあります(一コリント13:4~5)。私たちが「愛」と呼んでいるものには、これと全く逆のことがしばしばあるのではないでしょうか。

 

(7)家父長制のもとにある物語

ラケルはヨセフが与えられた時に、「神がわたしの恥をすすいでくださった」(23節)と述べました。この言葉から、ラケルは逆に、子どもが与えられないことを恥と考えていたことがわかります。

今日の物語は、もうひとつ大きな枠組みで見ると、二人の女性の醜い争いというよりは、家父長制の抑圧のもとに置かれた女性たちの物語であると言えようかと思います。そういうふうにならざるを得なかった女性たちがここにいる。子どもを産むことが女が女として認められる唯一の形であった。その抑圧があるから、こういうふうに展開していったのでしょう。そういう形ではない社会、子どもがいてもいなくても、女性が一人の女性、人間として認められる社会であれば、この二人の争いもなかったかもしれません。その意味で、男性も、決してこの物語の傍観者でいることはできないでしょう。

 

 

 

 

 

 

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鍛 錬

2013年07月05日 | 創世記

創世記による説教(47)

創世記29章1~30節

ヘブライ人への手紙12章4~7、11節

   2012年7月15日

     牧師 松本 敏之

 

(1)ハラン近くの井戸

 ヤコブは、夢の中で神様に出会った後、さらに東へ進み、井戸のある所に行き着きました。ヤコブは、そこにいた羊飼いの人たちに、「皆さんはどちらの方ですか」と尋ねます。彼らは、「ハランの者です」と答えました(4節)。ヤコブは、それを聞き、ようやく旅の終わりが近いことを悟りました。

ハランとは、母リベカのふるさと、その兄、自分の叔父ラバンが住んでいる場所であり、ヤコブが目指していた場所でした。ヤコブは、さらに尋ねます。「では、ナホルの息子のラバンを知っていますか」。「ええ、知っています」。「元気でしょうか」。「元気です。もうすぐ、娘のラケルも羊の群れを連れてやって来ます」(5~6節)。

 かつて母リベカがイサクとの結婚のきっかけとなった場所も、ハランの井戸でありました。ヤコブは、母の結婚にいたるまでの物語を聞いていたことでしょう。「もしかして、この井戸だろうか」と思い、心躍らせたかもしれません。

実は、ヤコブの旅には、兄エサウから逃れることの他に、嫁探しという目的がありました。出発直前に、父イサクは、こう言いました。「お前はカナンの娘の中から妻を迎えてはいけない。ここをたって、パダン・アラムのベトエルおじいさんの家に行き、そこでラバン伯父さんの娘の中から結婚相手を見つけなさい」(28:1~2)。

ヤコブは、その目的に近づいたことを感じ、「ここへ来る娘はラケルという名前なのか。どんな娘なのだろう」と思いめぐらしたのではないでしょうか。

この後のヤコブの言葉が面白いのです。「まだこんなに日は高いし、家畜を集める時でもない。羊に水を飲ませて、もう一度草を食べさせに行ったらどうですか」(7節)。

ラバンの娘が来るというので、邪魔な人たちには退出願って、二人だけの感動的な出会いとしたかったのかもしれません。アドバイスをしながら、自分の都合のよいように事を運ぼうとするのは、いかにもややずる賢いヤコブらしいです。ところががっかりする返事が返ってきました。

「そうはできないのです。羊の群れを全部ここに集め、あの石を井戸の口から転がして羊に水を飲ませるのですから」(8節)。

公共の井戸のルールであったようです。羊に水を与える時は、全部そろえて順番に水を飲ませ、最後のものまで飲ませたら、そこでまたふたをして、それぞれ帰るということになっていた。勝手に飲んで、勝手に帰るというわけにはいかない。

もしかすると、彼らもここで美しい娘ラケルと出会い、石を転がしてやったりして、たわいもない話をするのを楽しみにしていたのかもしれません。

 

(2)ラケル登場

そう話しているうちに、向こうから当のラケルが羊の群れを連れてやってきました。

「ヤコブは、伯父ラバンの娘ラケルと伯父ラバンの羊の群れを見るとすぐに、井戸の口へ近寄り石を転がして、伯父ラバンの羊に水を飲ませた」(10節)。

かつてアブラハムの僕がリベカと出会った時には、プレゼントをたくさん持っていましたが、今のヤコブは、何も持っていません。せめて、重い石をひとりでひょいと動かして、かっこいいところを見せようとしたのかもしれません。ヤコブは、兄エサウとの比較ではひ弱そうな印象を受けますが、力は意外に強かったようです(32:25~29参照)。

「ヤコブはラケルに口づけし、声をあげて泣いた」(11節)。いきなりキスをして、泣き出すものですから、ラケルはびっくりしたことでしょう。普通であれば、「何するのよ、いきなり」と言って、ひっぱたかれそうですが。

ヤコブはその後、自分が彼女の父の甥(つまりいとこ)に当たり、リベカの息子であることを打ち明けました。ラケルもきっと、リベカのことは、家族から聞いていたことでしょう。結婚を即座に決めて家から出て行った叔母さんがいたと。

 

(3)ラバン登場

ラケルは、早速ヤコブのことを父ラバンに告げました。ラバンは、それを聞いて、ヤコブを出迎えに行きます。リベカの時と似ています(24:29)。そして口づけをし「お前は、本当にわたしの骨肉の者だ」と言うのです。この言葉は、アダムがエバを得た時の言葉を彷彿とさせます。「ついに、これこそ、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉」(2:23)。

この時は本音で心底そう思ったのだろうと思います。「遠い所から妹リベカの息子がやってきた!」と。

この出会いは、ブラジルに住む二世、三世が出稼ぎか留学で日本へ行って、初めて親戚に出会う時に少し似ています。やっぱり感激するのです。しかしそういう感激はひと月も続かない。だんだんと現実を見せつけられることになります。このことについては、後でもう一度お話しいたします。

 

(4)ヤコブの労働契約

ひと月の滞在の後、それぞれの感動も冷めたところで、ラバンは言いました。「お前は身内の者だからといって、ただで働くことはない。どんな報酬が欲しいか言ってみなさい」(15節)。

ラバンもヤコブに劣らず、いやヤコブ以上に計算高い人物です。恐らくこう切り出した背景には、彼なりの計算が働いたのでしょう。このヤコブをどうすれば、自分のところで長く働かせることができるか。娘ラケルに気があるということも見抜いていたのでしょう。ヤコブは「下の娘のラケルをくださるなら、わたしは7年間あなたの所で働きます」(18節)と言いました。

他方、ヤコブにはヤコブの計算があったと思います。今のヤコブは、故郷に帰りたくても帰れない。ここに留まるしかないのです。「7年間ここにいて働くから、ラケルさんを嫁にください」というのは、相手を満足させるに十分なものだろうと、計算しました。そして二人の計算がぴたりとあって、双方喜んでこの契約に同意します。

「ヤコブはラケルのために7年間働いたが、彼女を愛していたので、それはほんの数日のように思われた」(20節)。

恋をしている人間とは、そういうものかと思わされます。皆さんはいかがでしょうか。「そういうこともあったな」と、はるか昔のこととして、思い起こす方もあるかもしれません。

さてそのようにして瞬く間に、約束の7年の年月が過ぎました。「約束の年月が満ちましたから、わたしのいいなずけと一緒にならせてください」(21節)。

「いいでしょう」ということで、結婚式と披露宴をするのですが、ここでヤコブはだまされることになります。

ラケルには、レアという姉がいました。「レアは優しい目をしていたが、ラケルは顔も美しく、容姿も優れていた」(17節)とあります。この「優しい目」と訳された言葉は、なかなか訳すのが難しい言葉のようです。口語訳聖書では、「目が弱かった」となっていました。「優しい目」と「目が弱かった」では随分違いますが、とにかくレアは、「お目めパッチリ」の美人ではなかった。印象の薄い目をしていた。二人の姉妹が並んだ時には、ラケルの美貌が際立ったのだと思います。

 

(5)ラケルとレアの入れ替え

結婚式の夜、ラバンは、ラケルではなく、姉娘のレアをヤコブの床に送りこむのです。ところがヤコブは朝になるまで、それがレアだと気づきません。こんなこともあるのでしょうか。この当時は結婚するまで、女性は顔をベールで隠していたので、顔がわからなかったのでしょうか。

この話は、ただ単にヤコブがだまされたということよりもっと多くのことを語っています。あくる朝「なぜ、わたしをだましたのですか」(25節)というヤコブの言葉に、ラバンは「我々の所では、妹を姉より先に嫁がせることはしないのだ」(26節)と答えます。このラバンの言葉には、姉娘レアを思いやる気持ちと彼の打算とが区別できない形で一体になっています。一方で、レアの結婚のことを考え、もう一方で、ヤコブをもっと引き止めておきたいということを打算的に考えている。

私たちにもそういうことがあるのではないでしょうか。誰かを思いやる気持ちと、自分の打算が混ざり合っている。

しかしそうした人間的な思いを通して、不思議に神の計画は進んで行きます。その中にも、神の配慮、配剤があるのだと思います。神はレアを思いやると同時に、ヤコブに対しても反省の機会を与えられたのではないでしょうか。

ヤコブはかつて母親と一緒になって父と兄をだまして、祝福を奪い取りました。ここでは、父と姉娘が一体となってヤコブをだます計画をするのです。

かつて父イサクは、弟息子ヤコブと兄息子エサウがすり替わっているのを見抜けなかったのですが、今度はヤコブが妹ラケルと姉レアがすり替わっているのを見抜くことができない。今度は彼が「してやられる」のです。これを通して、彼ははじめてだまされる側の人間の気持ち、兄エサウの気持ちが、わかるようになったのではないでしょうか。

この時のラバンの「我々の所では、妹を姉より先に嫁がせることはしないのだ」という言葉は、ヤコブにがつんと来たことでしょう。なぜならば、彼はかつて兄を出し抜いたからです。ラバンは何も言い訳ができません。ヤコブは、このラバンの策略の中に、神がかかわられたことを感じとったかもしれません。

結局1週間後に、ヤコブはラケルもめとり、そのために、もう7年間働くことになります。これはヤコブの計算外のことでした。しかしここを出ていくには、時がまだ満ちていなかったのです。さらに先のことを言えば、この14年の後、ヤコブはさらに6年間、ラバンのもとで働くことになります。合計すると20年間もの歳月です。

 

(6)日系ブラジル人の出稼ぎ

さてこの物語から、さらにいくつかのことを聞きとりたいと思います。先ほど申し上げたように、この物語は、今日のブラジル日系人の出稼ぎの話に通じるものがあります。

故郷ブラジルの経済的困難の中で、彼らも故郷を脱出します。どこへ行くのかと言えば、全く関係のない国ではなく、ヤコブのように、親の出身地、親族の住む国日本へ向かうのです。

彼らも、「伯父ラバンの国」日本で似たような経験をしています。日本の景気がよく、労働力が必要な時は大歓迎されますが、景気が悪くなると、じゃま者扱いされ、待遇が悪くなります。最初の契約が無視されたり、だまされたりすることもしばしばです。日本語で言いたいことも言えず、日本語の読み書きもできず、泣き寝入りすることもあります。

ブラジルでは、信頼の代名詞であり、犯罪から最も遠いと思われている日系人たちが、日本では、犯罪があれば、まず疑われる危険な存在と見られているのは、皮肉なことです。彼らからすれば、私たち日本人はラバンのような存在でしょう。私たちは、このラバンの国において、自分たちを頼って訪ねてきた「甥」や「姪」をどのように迎えるのか。そのことが問われているのではないでしょうか。ぜひ「よく来たね。いつまでもいてください」と、温かく迎えたいものです。

 

(7)選びの器として鍛えられるヤコブ

もう一つは、神がこの20年の歳月を用いて、ヤコブに試練を与え、鍛えられたということです。ヤコブという人は、人間的に見れば、あまり好ましい人物ではありません。人をだまして、人を利用して生きている。しかしその中にも、確かに神様に用いられる何かをもっている。人を引き付ける力のようなものももっている。

私は若い頃、ある恩師から「松本さんはヤコブのようなところがありますね」と言われて、ショックを受けたことがあります。うまく立ち回って人を利用し、それでもなぜか神様の祝福を受けているというようなニュアンスであったかと思います。確かに、私は結構自己中心的な人間であるのに、不思議に多くの祝福を受けていると思いました。その後、それにふさわしく鍛えられたかどうかはわかりませんが、それなりにいろいろな経験をさせられてきました。

新約聖書に、こういう言葉があります。

「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。……なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである」(ヘブライ12:5~6)。

「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです」(ヘブライ12:11)。

このヤコブに与えられた鍛錬も非常に大きなものでした。彼は、出発した時とは、全く違った人間となって、やがて故郷へ帰っていくこととなります。

私たちは、多かれ少なかれ、さまざまな困難に遭遇します。そのときに、それは神様が私たちを愛しているしるしだと受けとめて、それに耐え、乗り越えていきましょう。それにより、新たな祝福、義という平和に満ちた実を結ばせてくださるということを信じて、歩んでいきたいと思います。

 

  

 

 

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自立

2013年04月26日 | 創世記
創世記による説教(46)
創世記27章46節~28章22節 
フィリピの信徒への手紙2章6~11節
   2012年5月13日
     牧師 松本 敏之

(1)挿入された二つのエピソード
 今日読んでいただいた最初の部分、27章46節から28章9節には、二つのエピソードが記されています。一つ目はヤコブの出発をイサクにも認めてもらうべく、リベカがイサクに話をするというエピソードです(27:46~28:5)。リベカは、
「エサウは、この土地の娘と結婚してしまったけれども(26:34~35)、ヤコブにはそうして欲しくない」と告げます。
これはかつて、イサクの結婚に際してアブラハムが求めたことでもありましたので、イサクもそれを認めざるを得なかったということかもしれません。ヤコブの嫁探しの旅ということで、イサクはヤコブを祝福して送り出すことになります。
 もう一つは、28章6節以下で、エサウの妻がこの土地の女性だとイサクが気に入らないらしいということで、もうひとり同族の女性(イサクの異母兄弟イシュマエルの娘)を、エサウがめとるという話ですが、どうも前後の関係とあまりつながりません。
この二つのエピソードはヤコブの逃亡の理由を、ヤコブが兄をだましたということに限定させたくないために、挿入されたものであろうと言われます(P資料)。
ここではその土地の人との結婚を嫌うという話になっていますが、その背景には実際の結婚というより、他民族の文化との混淆・融合を嫌ったということがあるようです。
またかつてのイサクの嫁選びと重ね合わせて、ヤコブの出発の理由の一つとして、ヤコブの嫁探しと関係させようとしたのでしょう。

(2)走り抜くヤコブ
そういうことを心に留めながら、本筋としては28章10節以下の「ヤコブの夢」というところに耳を傾けていきましょう。
このところは、直接的には、27章45節に続くものです。兄エサウは弟ヤコブにだまされたと知って怒り、いつか弟を殺してやると決意するのですが、母リベカがそれを察知して、ヤコブに早く逃げなさいと送り出すのです。
ヤコブはベエル・シェバからできるだけ遠くまで走り抜きました。ベエル・シェバから今回の舞台の「とある場所」(後のベテル)まで、約90キロもあるそうですから(マラソンの42.195キロの2倍以上)、一日で走るのは難しい距離です。何日も昼となく夜となく走ってきたのでしょう。獣や強盗に襲われる可能性もあります。たとえ宿があったとしても、かえって人目につく(エサウに見つかる)よりは野宿のほうがいいと思ったかもしれません。ここまでたどり着き、力尽きたのでしょう。そこで石を枕に野宿します。先ほど歌った讃美歌434「主よ、みもとに近づかん」も、この後で歌う讃美歌466「山路こえて」もこのエピソードに基づいたものです。
ヤコブはどんな思いで眠ったことでしょう。野宿も初めてであったかもしれません。父や兄をだまし通して得た祝福も、こんな野原では何の役にも立ちません。まだ何も手にしていません。これから先もどうなるか全くわかりません。非常に心細い思いであったことでしょう。
ヤコブは、これまではただ母の言う通りのことをしていればよかった。母のほうも、「あなたはただ私の言う通りにしていればいいのよ」と言ったかもしれません。そういう意味では、彼はまだ本当には自立していませんでした。マザコン(マザー・コンプレックス)のような男です。ファーザー・コンプレックスもありました。
 今日の物語は、そのヤコブの自立の第一歩の物語でもあります。これまで父の家で守られて育ち、「アブラハム、イサクの神」という「家の神」を漠然と信じていたでしょうが、本当の信仰にはいたっていませんでした。

(3)天から地に向かう階段
 ヤコブはその夜、不思議な夢を見ました。「先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた」(12節)。
 これは口語訳聖書では「ヤコブの梯子」と訳されていましたが、いわゆる梯子ではなく、傾斜路(高い塔の神殿のようなもの)が地上から天にそびえているようなものです。不思議な情景です。
この夢を見たヤコブの深層心理を分析すれば、それはそれでいろいろなことが言えるでしょう。しかし聖書が語るのは、そういう心理分析よりも、神がこの夢をヤコブに見せられたということ、夢を通して神がヤコブに出会われたということです。
天と地を結ぶ道は、地上から何かを積み上げていくことによって作ることはできません。それをしようとして崩されたのがバベルの塔でした(創世記11章)。いや崩されなくても、私たちは地上から天にいたることができません。言葉を変えれば、人間は神になることはできないし、自力で神のところに行くことはできないのです。
天と地が結びつくとすれば、それは一方的に天が雲の窓をあけるようにして、天から地上に道がつけられることによってのみです。ヤコブはそういう情景を見たのではないでしょうか。
そこを「神の御使いたちがそれを上ったり下ったりして」(12節)いました。
 天に属する者が、天から地上に届いた階段を上り下りすることによって地上に「天の門」(17節)が開いたのです。
私たちは、主の祈りにおいて、「み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈ります。すでに天においては成就しているみ心が地においても実現するように、み使いが行き来しているのです。

(4)キリストにおいて起きたこと
 この「天から地上に至る道」はやがてイエス・キリストによってもっと確かなものとされることになります。新約聖書はまさにそのことを語るのです。今日はフィリピの信徒への手紙の「キリスト賛歌」と呼ばれるところを読んでいただきました。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました」(フィリピ2:6~9)。
イエス・キリストは、天のふるさとから地上に降りて来られました(クリスマス)。全き人として歩まれ、十字架の死の後、陰府までくだられました(使徒信条)。しかしそこから復活し、さらに天に昇られました。そしてまた来るべき日に地上に来られます。この天と地を行き来される方のゆえに、天と地は一つなのです。
そして私たちもこの方によってつけられた道を通って、天のふるさとへ帰ることがゆるされるのです。そのことを信じるがゆえに、私たちは先に天に召された兄弟姉妹のことを思うときにも慰めが与えられます。

(5)神の三つの約束
その情景に続いて、神はヤコブに語りかけます。
「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である」(13節)。
神は、ご自分が誰であるかを告げ、こう続けられました。
「あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。」(14節)。
これはかつてアブラハムに語られた言葉の延長線上にあります(創世記13:14~16)。それを、あなたは受け継ぐのだ、と言わたのです。そしてさらにこう言われました。
 「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」(15節)。
 ここに三つの約束があります。一つ目は、「あなたと共にいる」ということ、二つ目は「あなたを守る」ということ、そして三つ目は、「あなたを必ず連れ帰る」ということです。これが、ヤコブが神から聞いた、祝福ということの具体的な形でした。
 ヤコブは、この後、非常に大きな苦労をすることになります。それは20年にも及ぶ寄留生活になるのですが、この神さまの言葉をずっと心に留めて、その期間を生き抜いてきたのだろうと思うのです。

(6)神との真の出会い
 彼は、父イサクからその神について聞いていました。何よりその神の祝福を奪い取るようにして受けたばかりです(27:28)。しかしヤコブは、まだその神と本当には出会っていませんでした。それは自分の「家の神」であると思っていました。その神と、家から遠く離れたところ、まさかこんな所に神さまがいるはずがないと思うような地の果てのようなところで出会うのです。いや、その神が彼を追いかけて来たのです。罰するためにではなく、祝福を与え、彼がどこへ行こうとも、共にいて、彼を守るという約束を告げるために。
 ヤコブはベエル・シェバから遠く離れた野原で、思いもよらず、「アブラハムの神、イサクの神」に出会うのです。ヤコブは恐れおののいてこう言いました。
「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった」(16節)。
そして祭壇を築いて神を礼拝しました。彼は夢の中で、神さまと出会いましたが、目覚めた状態で神さまを礼拝しました。ここからヤコブの本当の自立が始まっていきます。この不思議な経験が、その後の困難な歩みを支える信仰の原点になったのだと思います。
私はこの話は、少し日本に来たブラジル日系二世、三世の物語に似たところがあると思いました。ヤコブの母リベカは花嫁移民ですから移住者一世です。父イサクは移住者一世アブラハムの息子ですから二世です。ということは、ヤコブは(エサウも)母方から言えば二世、父方から言えば三世ということになります。こういう人たちを、ブラジル日系人たちは、冗談交じりに「二世半」と言います。
ブラジル日系人にとって、キリスト教は、国中の人が信じている、いわば〈家〉の宗教です。その中の何人かは、ブラジルにいた頃は、教会にも行っていなかったのに、日本でブラジル人の教会に通うようになり、それが彼らの寄留生活を支える力の源となっています。
ブラジル日系二世、三世、そして二世半の人たちも、まさかこんなところに神さまがいるはずはないと思うような地の果ての日本で、自分の故郷で聞き知っていた神さまと新たな出会いをしているのです。
「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった」(16節)。

(7)天の門
「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ」(17節)。
この「神の家」というのがベテルという言葉であり、その後、そこはベテルと呼ばれるようになりました。「天の門」というのは、地上にあって、天国とつながっているところと言えるでしょう。
昨日、松本純一さんの納骨式をしましたが、私は、そこで、「お墓というのはどういうところだろう。何のためにお墓参りをするのだろう」と問いかけ、「お墓は天を見上げる場所だ。そこが天とつながっていることを確認するためにお墓参りをするのだ」という話をしました。
お墓には、その人の最後の形がそこに納められ、そこには名前が刻まれます。しかしその人自身はいつまでもそこにいるわけではありません。そこは天へと通じるエレベーターの入り口のようなものです。
今日の言葉で言えば、まさに「天の門だ」ということができるでしょう。その情景をヤコブは夢で見、それを出来事としてはっきり示してくださったのがイエス・キリストという方であると思います。
さてヤコブは、そこに記念碑を立て、礼拝をしました。そして請願を立てます。
ヤコブは「神がわたしと共におられ、わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、無事に父の家に帰らせてくださり、主がわたしの神となられるなら」(20~21節)と言います。これは、15~17節の祝福を繰り返したような言葉です。共にいてくださること、守ってくださること、そして連れ帰ってくださることです。
もしもそういうふうに神がしてくださるなら、「わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます」(22節)と誓います。
自分がそれをすることによって、自分を認めて欲しいということではないでしょう。神さまの祝福を確認しながら、自分もそれに応えていきますという、ヤコブの信仰の言葉と言えるのではないでしょうか。
私たちもイエス・キリストを通してヤコブと同じ祝福を受けていることを感謝しつつ、それに応える誠実な歩みをしたいと思います。





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計略

2013年04月26日 | 創世記
創世記による説教(45)
創世記27章1~45節
ガラテヤの信徒への手紙3章13~14節
  2012年3月18日
     牧師 松本 敏之

(1)イサクとエサウ
 この27章は五つの場面からなるサスペンス・ドラマのようです。場面を確認しながら、物語を追ってみたいと思います。
 まず、第一場は1~4節。登場人物はイサクとその長男エサウです。アブラハムの息子であるイサクも年をとって、目がかすんできました。彼自身、自分ももう先が長くないであろうということがわかっています。そこで長男であるエサウを呼んで、最後の祝福を与えようとしました。これはひとつの儀式のようなものであったのでしょう。イサクはエサウに「今すぐに狩りをして獲物を取って来て、それでおいしい料理を作ってくれ。死ぬ前にそれを食べて、わたし自身の祝福をお前に与えたい」と言いました。それに応えてエサウは野に出ていきました。

(2)リベカとヤコブ
 第二場は5~17節。登場人物は、イサクの妻リベカと次男のヤコブです。リベカは先ほどのイサクとエサウの話を盗み聞きしました。彼女は長男エサウをあまり好きではありません。27章の始まる直前のところに、こういう言葉がありました。
「エサウは40歳のときヘト人ベエリの娘ユディトとヘト人エロンの娘バセマトを妻として迎えた。彼女たちは、イサクとリベカにとって悩みの種となった」(26:34~35)。
 恐らく、イサクと嫁たちの関係よりもリベカと嫁たちの関係のほうが難しかったのでしょう。イサクの悩みは、むしろその調停であったのではないかと思います。自分たちの伝統になじまない現地出身の嫁たちと、家系の伝統を守っていくためにわざわざ遠い所から連れて来られた妻(花嫁移民)のリベカ。何をするにも、衝突したのではないでしょうか。リベカは強いタイプの女性です。一方、イサクは26章の物語で見てきたように、柔和で、自分の意見を強く主張することはせず、相手の言うことを全面的に受け入れるようなタイプです。家庭の中では、このリベカがかなりの発言権を持っていたと思われます。
エサウを祝福するにあたっても、イサクはリベカに相談すれば、リベカに押し切られてしまうと思ったのかもしれません。「自分はエサウを祝福してやりたい。」それで、そっとエサウだけを呼んで、大事なことを行おうとしたということも考えられます。
ところがリベカは、ちゃんと話を聞いているのです。こういうのを「地獄耳」と言います。
さあ大変です。「お父さんがわたしのきらいなエサウを祝福しようとしている。」急いで、ヤコブを呼んで言いました。
「お前がその前にお父さんのところへ行って、お前が祝福してもらうのです。」
おろおろするヤコブを目の前にして、母リベカは落ち着いて言うのです。「心配しなくてもいいのよ。お前は何もかもお母さんの言うとおりにすればいいの。家畜の群れからよく肥えた子山羊を2匹取って来なさい。わたしが、それでお父さんの好きなおいしい料理を作ってあげましょう。わたしはお父さんの好みの味をよく知っているんだから。お父さんは召しあがって、亡くなる前にお前を祝福してくださるでしょう。」
それでもまだヤコブは不安です。「でも、エサウ兄さんはとても毛深いのに、わたしの肌は滑らかです。お父さんがわたしに触れば、だましているのがばれてしまいます。そうしたら、わたしは祝福どころか、呪いを受けてしまいます。」「大丈夫。そのときには、あなたに代わって、わたしが呪いを受けます。お前にはお母さんがついている。安心して、堂々とやりなさい。」

(3)イサクとヤコブ
第三場は18~29節。登場人物はイサクとヤコブです。ヤコブは母リベカに言われたとおり、料理をもってイサクのところへ来ました。「わたしのお父さん。」これは本当です。まだだましていません。
次の瞬間、イサクが言いました。「わたしはここにいる。誰だ、お前は。」ヤコブはどきっとしたに違いありません。しかし父をだまして、こう言いました。「長男のエサウです。お父さんの言われたとおりにしてきました。」イサクはまた言いました。「わたしの子よ、どうしてまた、こんなに早くしとめられたのか」(20節)。
ここでまたどきっとします。しかし今度は神さまを持ち出して言うのです。「あなたの神、主がわたしのために計らってくださったからです」(20節)。
欺瞞に満ちた言葉です。しかも、そこに神の名(主=ヤハウェ)を持ち出すとは! イサクは、この答えをまだ全面的に信用してはいません。「近寄りなさい。わたしの子に触って、本当にお前が息子のエサウかどうか、確かめたい」(21節)。ヤコブは三度目、どきっとしたことでしょう。ヤコブは進み出ました。
ヤコブは母リベカの知恵による「毛皮作戦」(16節)で、無事にこの三つ目の関門もパスするのです。「声はヤコブの声だが、腕はエサウの腕だ」(22節)。
それにしても動物の毛皮と人間の毛深い腕の違いもわからないというのは、よほどもうろくしていたか、よほどのお人好しか。イサクはまんまとだまされるのです。
ヤコブは問いかけます。「お前は本当にわたしの子エサウなのだな」(24節)。だまそうとしている人間に向かっていくら聞いても無駄であるのに、それでも確信を得ようとします。ヤコブは答えました。「もちろんです。」そしてイサクは差し出された料理を食べて、祝福します。
「……どうか、神が
天の露と地の産み出す豊かなもの
穀物とぶどう酒を
お前に与えてくださるように……」
(26~28節)。

(4)再びイサクとエサウ
第四場は30~40節です。登場人物は第一場と同じイサクとエサウです。ヤコブと入れ違いにエサウが入ってきました。もしも第二場と第三場がなければ、これが第二場となるはずでした。エサウは言いました。「ただ今。お父さんの好きな料理を作ってきました。さあ食べてください。そしてわたしを祝福してください。」イサクはまだきょとんとしています。「お前は誰なのか。」「お父さん、何を寝ぼけたことを言っているのですか。わたしですよ、わたし。あなたの息子エサウです。」
この瞬間イサクはだまされたと悟るのです。そして体を震わせて言いました。「では、あれは、一体誰だったのだ。さっき獲物を取ってわたしのところに持って来たのは。実は、お前が来る前にわたしはみんな食べて、彼を祝福してしまった。だから、彼が祝福されたものになっている」(33節)。
エサウは怒り狂います。「彼をヤコブとは、よくも名付けたものだ。これで二度も、わたしの足を引っ張り(アーカブ)欺いた。あのときはわたしの長子の権利を奪い、今度はわたしの祝福を奪ってしまった」(36節)。
「あのとき」(25:31~33)は、エサウのほうにも責任がありました。騙したとはいえ、エサウも承認済みのことでした。認めながらひっかけられたのです。しかし今度は違います。出し抜かれたのです。「お父さんは、わたしのために祝福を残しておいてくれなかったのですか。」
エサウには祝福というものが一体どういう性格のものであるのかわかっていません。ただイサクのほうでも祝福しようとするのですが、祝福の言葉になりません。「ああ/地の産み出す豊かなものから遠く離れた所/この後お前はそこに住む/天の露からも遠く隔てられて」(39節)。ただ最後にこうつけ加えられています。「いつの日にかお前は反抗を企て/自分の首から軛を振り落とす」(40節)。私は、この言葉の中にかすかに終末論的な希望の光が垣間見えているように思います。

(5)再びリベカとヤコブ
そして第五場です。41~45節。エサウは弟ヤコブが憎くてたまりません。「父の喪の日も遠くない。そのときがきたら、必ず弟のヤコブを殺してやる」(40節)。エサウはそれを心の中で言ったのですが、心の中の言葉まで、リベカには聞こえてしまう。恐ろしい地獄耳です。そしてヤコブを呼び寄せて言いました。
「大変です。エサウ兄さんがお前を殺して恨みを晴らそうとしています。わたしの子よ。今、わたしの言うことをよく聞き、急いでハランに、わたしの兄ラバンの所へ逃げて行きなさい」(42~43節)。
結局、この時がリベカと愛する息子ヤコブの最後の別れとなりました。「しばらくしたら呼び寄せる」と言っていますが、結局、帰ってこられるのは20年も先になってしまいます。
最後に「一日のうちにお前たち二人を失うことなど、どうしてできましょう」(45節)という不思議な言葉を語っています。
「二人失う」というのは誰のことを指しているのか。ふたつの解釈があるようです。ひとつはイサクとヤコブです。エサウは、イサクが死んだ時にヤコブを殺す、と言っていますのでイサクが死んだときに、ヤコブも死ぬということになります。もう一つはヤコブとエサウです。エサウがヤコブを殺すと、エサウも殺人罪に問われて死刑になってしまうということでしょう。

(6)人の思惑と神の計画
さてこの物語は一体私たちに何を告げようとしているのでしょうか。私たちは何を聞きとればいいのでしょうか。はたしてメッセージを聞くことができるのでしょうか。ここに記されていることは、よくわかる話です。私たちの世界でもしばしば起きていることです。結局、正直な人間がだまされてずる賢い人間が得をして祝福を受ける。私たちは、聖書では、やはり正しい正直者が報われると言って欲しいと思うのですが、聖書の中でも、この世でのことと同じことが起きている。
ただ、ずる賢い人間が結局は得をするのだとか、祝福を得るためには、少々ずるいことをしてもいいとかいうふうに読まないほうがいいと思います。人をだまして、人を出し抜いていこうとすること、それは罪です。そのことで私たちは、自分の悪い行動を正当化することはできません。
しかし神さまの計画は、私たちの罪の現実を貫いて、それを用いながら進行していくのです。少なくとも神が知らないまま、ことが進んでいくことはありません。
イサクがヤコブに「どうしてこんなに早くしとめられたのか」と問うたのに対し、ヤコブは「あなたの神、主がわたしのために計らってくださったからです」(20節)と答えました。
よくも抜け抜けと言えたものだと思います。しかし不思議なことに、神を冒涜し、父を欺くこのヤコブの言葉が、ヤコブの意図を超えたところで、真理を指し示しています。そこには、ヤコブですら気づいていない神の「計らい」が確かにあったのです。
イエス・キリストの逮捕、裁判、十字架において起きたのも、まさにそういうことでした。それは、すべて人間的な思惑の中で進んでいきます。人間の罪というものをまざまざと見せつけられるような出来事です。イエス・キリストはその犠牲となって十字架にかけられて死んでいくのです。あの時も神が持ち出されて(マタイ26:63等)、「この男はとんでもない男だ」と断罪されていきました。しかしそこで神の御旨が成就していくのです。
リベカはヤコブに代わって呪いを受けてもいいと言いましたが(13節)、イエス・キリストは、実際に私たちの呪いを一身に受けて十字架にかかってくださいました。
「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです」(ガラテヤ3:13)。

(7)神の介入を悟るイサク
さてイサクは自分がだまされた時に、激しく体を震わせて言いました。「では、あれは、一体誰だったのだ」(33節)。
この時、イサクが激しく体を震わせたのは、何に対してであったのでしょうか。ヤコブとリベカにだまされたことに対してでしょうか。そういうこともあったでしょう。しかしそれを超えたところで、彼は、このとき、神が介入されたこと、人間の思いを超えた力が働いたことを悟ったのではないでしょうか。エサウが怒りに打ち震え、ヤコブとリベカがしめしめと思っている、まさにその瞬間に、ただ一人イサクは聖なるものに触れているのです。
ここでヤコブは選ばれて祝福を受け、神さまの計画を実現していく器とされます。しかしそれはこの世的な意味で幸せな人生、楽な人生を送るということを意味していません。むしろその神さまの計画を担っていくために、とても大きな苦労をさせられていく。逃げ出したくなるようなことを担っていくということが、聖書でいう選びということです。
私たちの歴史も、人間的な駆け引きが折り重なって作られていくように見えます。しかしその思いを巻き込み、それを貫いて、神の思いが実現していくのです。最後に箴言の言葉を紹介しましょう。
「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する」(19:21)。





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柔和

2013年04月26日 | 創世記
創世記による説教(44)
創世記26章1~34節
マタイによる福音書5章5、9節
   2012年2月12日
    牧師 松本 敏之

(1)影の薄い存在、イサク
創世記はアブラハムとヤコブ、そしてその息子のヨセフについては多くの物語を記していますが、イサクについてはこの26章がほとんど唯一の物語です。その他のところにもイサクは登場しますが、いつも二次的な役割です。父アブラハムの息子としてのイサク、ヤコブとエサウの父としてのイサク、リベカの夫としてのイサクという具合です。イサクは、アブラハムからヨセフにいたる、いわゆる族長物語の中でも、おもしろみのないキャラクターであるかもしれません。父親のアブラハムは、ただ神の命令に促されて出発し、信仰の生涯を貫いた人でした。イサクの双子の息子であるエサウもヤコブも、対立する強烈な個性をそれぞれに持っています。イサクの妻であったリベカもまた個性があります。強い女という感じがします。こういう人々に取り囲まれて、イサクはその中でどちらかと言えば、影の薄い存在です。二代目的人物の典型です。お人よしで、温和な人物です。妻や息子にさえ、いいように騙される。しかしこのようなイサクを通しても、いやこういうイサクであるからこそ、聞こえてくる福音があると思います。

(2)アブラハムのゆえに
「アブラハムの時代にあった飢饉とは別に、この地方にまた飢饉があったので、イサクはゲラルにいるペリシテ人の王アビメレクのところへ行った。」(1節)。
イサクもアブラハムと同じように飢饉に遭い、アブラハムと同じように、エジプトに逃れようとするのですが(12章後半参照)、イサクの場合には、神さまが事前にそれを妨げられました。
「エジプトへ下って行ってはならない。わたしが命じる土地に滞在しなさい。あなたがこの土地に寄留するならば、わたしはあなたと共にいてあなたを祝福し、これらの土地をすべてあなたとその子孫に与え、あなたの父アブラハムに誓ったわたしの誓いを成就する。わたしはあなたの子孫を天の星のように増やし、これらの土地をすべてあなたの子孫に与える。……アブラハムがわたしの声に聞き従い、わたしの戒めや命令、掟や教えを守ったからである」(2~5節)。
イサクは祝福を受けることにおいても、偉大な父親の影を引きずっています。あなたの父アブラハムに約束したから、あなたを祝福する。あなたの父アブラハムが私に従ったから、あなたを祝福する。そう何度も言われて、イサクは父親コンプレックスをもっていたかもしれません。
子どもが成長する時、特に男の子にとって、父親というのはどこかで乗り越えていかなければならない存在でしょう。それは父親よりも偉くなるということではなく、そのようにして自分のアイデンティティー(自分が他の誰でもなく自分自身であること)を確立していくのです。そうした時に父親が大きな存在であればあるほど、その影も大きい。イサクも偉大な父親を持って、そこから抜け出るのに、人一倍の苦労をしたのではないかと思います。
イサクには、この神さまの声の中の「アブラハムのゆえに」という言葉が大きく聞こえたことでしょう。しかしこの中で一番大切な言葉は、「わたしはあなたと共にいてあなたを祝福する」(3節)という言葉です。24節にもう一度、神さまの言葉が出てきますが、ここでも最も大切なことは「わが僕アブラハムのゆえに」ではなく、「わたしはあなたと共にいる。わたしはあなたを祝福する」という言葉です。
信仰というものは、財産や土地のように親から子へと相続することはできません。どんなに信仰深い環境の中で育っても、最後には一人一人が神さまと出会うしかないものです。これは、本質的には、親が信仰を持っていない人の場合も同じです。私たちの信仰は、「誰かのおかげ」です。それは友人かもしれないし、教会の牧師かもしれない。子どもかもしれない。しかしそうした経験を経ながら、信仰は神様から新しく奇跡としていただくものなのです。
イサクの場合にも、彼が祝福されたのは、確かに父アブラハムのゆえでありますが、彼自身がそれを乗り越えて、神から直接、「わたしはあなたを祝福する」という言葉を聞く必要があったのです。

(3)祝福されたイサク
イサクはエジプトへは行かず、ゲラルに留まりましたが、そこで彼は父アブラハムと同じ過ちを犯します。妻(彼の場合にはリベカ)があまりにも美しかったので、そのために自分が殺されることを恐れて、妻を妹だと偽るのです。このモチーフは、12章と20章にも出てきました。
ここでも、神はことが重大になる前に介入してストップされます。そしてかえってゲラルの王であるアビメレクを通して、イサクとリベカは保護されるのです。
「この人、またはその妻に危害を加える者は、必ず死刑に処せられる」(11節)。
イサクはこうした出来事を通して、「神さまが共にいて、守ってくださる。そして祝福してくださる」ということを実感していったことでしょう。12節以下を見ますと、この後祝福が非常に大きくなったことが記されています。
しかし物語はそれでハッピーエンドにはなりません。それは私たちの人生と同じです。連鎖的に次のステップへとつながっています。人間というのは大きな祝福を受けると、あたかも自分が偉くなったかのように錯覚して、かえってダメになってしまうことがしばしばあります。例えば、実力が伴っていない芸術家がマスコミから持ちあげられると、それがかえってその人の才能をつぶしてしまうということをよく聞きます。この時のイサクにも多分にその可能性がありました。ゲラルの王から保護されて(同時に神さまの守りを受けて)、丁重に扱われ、しかも1年のうちに大資産家になる。父親も偉大な人物である。どんどん高慢になっていく条件がそろっています。

(4)意地悪をされても
しかし神さまは、イサクが高慢にならないように、新たな試練を用意しておられました。彼はアブラハムほど偉大な人物ではなかったかもしれませんが、彼の受けた試練、誘惑は決して小さくはありませんでした。
まず人々のねたみを買うのです。「井戸をめぐる争い」という部分です(15~25節)。その土地の人々、ペリシテ人たちは、イサクの最大の弱点である場所をねらいました。水を抑えるという仕方で、彼に自分が何者であるか、つまり寄留者であるということを思い知らせようとしました。
「ペリシテ人は、昔、イサクの父アブラハムが僕たちに掘らせた井戸をことごとくふさぎ、土で埋めた」(15節)。
徹底的な意地悪をされたのです。彼らにしてみれば、自分たちが受けるべき祝福を全部イサクに持っていかれているという思いがあったのでしょう。しかしここでイサクは争わないのです。埋められてはまた別の井戸を掘り返す。神がまたそこを祝福する。またその井戸も埋められるということを繰り返します。「売られたケンカは買う」という判断をしてもおかしくない場面ですが、それをしません。表向きは意気地なしのように見えますが、そこには信仰と忍耐があったのでしょう。そしてアビメレクをして次のように言わせるのです。
「あなたは我々と比べてあまりに強くなった。どうか、ここから出て行っていただきたい」(16節)。ここでもイサクは争わずに、その提案を受け入れて出ていくのです。ゲラルの谷に天幕を張って住みました。テント生活です。そこにもアブラハム時代に掘られた井戸がいくつかありました。それも埋められてしまいました。イサクはそれらの井戸を掘り直し、父が付けたとおりの名前を付けました(18節)。そういうことがいつまでも続くので、ゲラルの人たちは別の戦法に出ます。井戸を埋めてしまうのではなく、その井戸を取り上げるのです。イサクの僕たちが掘った井戸からは水が豊かに湧き出るので、もったいないと思ったのかもしれません。イサクはその井戸を「エセク(争い)」と名付けました。しかし彼のほうは争おうとはせず、もう一つ別の井戸を掘ります。そこでも争いが生じたので、今度は「シトナ(敵意)」と名付けました。仕方なくそこも去り、別の広い場所に井戸を掘りました。そこではもはや争いは起こりませんでした。徹底して譲歩し、退いて行くのです。そして最後に到達したのは、ベエル・シェバというところでした(ヘブロンの南西約45㎞)。

(5)和平を申し出るアビメレク
 さて最後の段落ですが、とうとうアビメレクのほうからイサクのところへやってきて和平を申し入れるのです。イサクは言いました。「あなたたちは、わたしを憎んで追い出したのに、なぜここに来たのですか」(27節)。
彼らは答えます。「主があなたと共におられることがよく分かったからです。そこで考えたのですが、我々はお互いに、つまり、我々とあなたとの間で誓約を交わし、あなたと契約を結びたいのです。以前、我々はあなたに何ら危害を加えず、むしろあなたのためになるよう計り、あなたを無事に送り出しました。そのようにあなたも、我々にいかなる害も与えないでください。あなたは確かに、主に祝福された方です」(26~29節)。
 イサクは、これまで一度も危害を加えようとしたことがないにもかかわらず、「敵に回すとこわい」と恐れられたのです。そしてイサクは、彼らのために祝宴を催し、共に飲み食いいたしました。翌朝、互いに誓いを交わした後、イサクは彼らを送り出し、彼らは安らかに去っていきました。

(6)徹底した平和主義
 さて、イサクという人物像に改めて注目したいと思います。私は、イサクは影の薄い人だと申し上げましたが、考えてみれば、これはこれで、かなり強い個性ではないかという気がします。徹底した平和主義です。自衛すらしていない。神が守ってくださるという信仰があったからではないでしょうか。あるいは、そのような経験をしながら、イサクの生まれつきの控えめな性格は、信仰を内に秘めた「柔和さ」へと練り上げられていったのではないでしょうか。ペリシテ人は、イサクのものを力で奪おうとしましたが、イサクはこれと争わず、徹底して与え、譲歩し、後退する。最後には、相手のほうから和平を申し出てくるのです。
 これは、イエス・キリストの「柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ」という言葉を思い起こさせるものだと思います。矢内原忠雄も、『聖書講義/創世記』の中で、次のように語っています。
「『柔和なる者は地を嗣ぐ』というイエスの言葉を、文字どおりに証明した者はイサクである。少年の時、己を焚(や)くべく薪を背負い、父に伴われて黙々とモリヤの山に登って行った彼の姿に、十字架を負うてゴルゴタの丘に登り給うたイエスの預表がある。実に『屠り場にひかるる羔羊(こひつじ)の如く、毛をきる者の前にもだす羊の如く』(イザヤ書五三の七)という預言を彷彿せしめる者は、イエスを別としてはわがイサクである。イサクは英邁ではなかった。手腕に乏しくあった。彼は平凡な人であった。しかし彼の従順にして柔和であり、己が利を争わざる無抵抗の信仰態度は、やはり旧約一等星のひとつたるを失わない。少なくとも私はイサクの柔和と平凡を愛し、彼の信仰生涯に言い難き親しみを感ずる者である。」(原文は旧仮名遣い)
矢内原忠雄は、長男に「伊作」と名付けましたが、そこにはこのような思いがあったのかと思いました。

(7)試練に磨かれた徳
ローマの信徒への手紙の中に、「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」(ローマ5:3~4)という言葉があります。「練達」という言葉はわかりにくい言葉です。口語訳聖書でも「練達」でしたし、もっとさかのぼれば、文語訳聖書でも「練達」でしたが、どうも私にはぴんと来ません。「練達」という言葉は、修業や経験を積むことによって熟練していくことを思い浮かべてしまいます。しかしこの言葉(元のギリシア語はドキメー)で、パウロが言おうとしていたものは、修業や経験で到達するようなものではなかったでしょう。迫害や苦難に出遭ってもくずおれるのでも、やり返したり、自暴自棄になったりするのでもなく、信仰により耐え抜くことによって与えられる賜物です。フランシスコ会訳聖書では「試練に磨かれた徳」と訳されていました。美しい訳であると思います。何か真珠貝が苦しみながら美しい真珠を生み出していく姿を思い浮かべます。「神に嘉(よみ)せられる品性」(柳生直行訳)という訳もありました。
 イサクの柔和な性格も、そのようにして信仰によって与えられた賜物ではなかったかでしょうか。どんなに迫害されても、意地悪されても、それを忍耐し、その忍耐が柔和さという徳を生み出し、それがイサクの個性になっていったのではないかと思うのです。それは矢内原忠雄が言うように、イエス・キリストの「柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ」という言葉を証しした姿であり、さらに「平和を実現する人々は幸いである。その人々は神の子と呼ばれる。」という言葉をも指し示していると思います。






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逆転

2013年04月26日 | 創世記

創世記による説教(43)

創世記25章19~34節

マタイによる福音書20章15~16節

   2012年1月15日

    牧師 松本 敏之

 

(1)水平の問題

 アブラハム物語を読み終えて、今日からいわゆるヤコブ物語に入ります。アブラハム物語は、神に対する「信仰」、神からの「約束」、神との「契約」、あるいは「祝福」の継承という世代間の関係、後継ぎの確保といった縦軸の問題が大きなテーマでした。それに対してヤコブ物語は、同世代の中で争う、いわば「水平」の問題に関心が強いようです。何よりもヤコブとエサウの争い、ヤコブと叔父ラバンとの駆け引き、そしてやがて妻となるレアとラケルという姉妹の関係もあります。アブラハムの物語に比べて、非常に人間くさい、いわば俗っぽい物語です。人間味がぷんぷんしている。 

逆に言えば、話としては面白いのですが、なかなかメッセージを聞きとるのが難しい面もあります。

 

(2)不妊から出産へ

 物語は、イサクの系図ということから始まります。これは25章の前半(12~16節)において、アブラハムの一人目の息子イシュマエルの系図を語ったことを受けているのでしょう。

 「アブラハムの息子イサクの系図は次のとおりである。アブラハムにはイサクが生まれた。イサクは、リベカと結婚したとき40歳であった。リベカは、パダン・アラムのアラム人ベトエルの娘で、アラム人ラバンの妹であった。イサクは、妻に子供ができなかったので、妻のために主に祈った。その祈りは主に聞き入れられ、妻リベカは身ごもった」(19~21節)。

 このイサクとリベカについても、アブラハムとサラがそうであったように、不妊ということから始まります。まさに、この人こそアブラハムの約束を受け継ぐのにふさわしい女性として、遠くふるさとのパダン・アラムから連れて来られたリベカでありましたが、肝心のその祝福を受け継ぐべき子どもが与えられないまま、時を過ごすことになりました。イサクはリベカのために祈り、その祈りを主が聞かれて、リベカは双子の子どもを授かるのです。「リベカが二人を産んだとき、イサクは60歳であった」(26節)と記されていますので、このイサクとリベカ夫婦は、約20年間、子どもを待ち続けた、ということになります。

子どもを授かるのは当たり前のことではなく、神がかかわられることだということを両親に悟らせ、その子が神の祝福を担う大切な器となるということを示されたのでしょう。命の主は、神なのです。

 私たちの命もそうでしょう。私たちがこの世に生まれてきたのは偶然ではなく、親が勝手に決めたのでもなく、最初に神さまのみ心があった。神さまのみ心のない命というものは存在しません。

医学が発達した現代においては、一昔前であれば死なざるを得なかった子どもも、障がいをもった形で生まれて育つようになってきています。今日私たちは、命の意味、尊厳、貴さについて、過去のどの時代よりも鋭い形で問われていると言えるでしょう。そういうこと、私たちの命に尊厳があるということは、科学では答えは出てきません。特に生命科学が発達した中でこそ、生命倫理、命についての深い考察が問われてくるのではないでしょうか。聖書は、どんな人であろうと、どんな子どもであろうと、その命の初めには神さまのみ心があると告げるものです。

イサクの祈りが主に聞き届けられて、妻リベカは身ごもります。そこに与えられた子どもは双子でありました。今日でも、子どもが授かることを願って治療したら、逆に、双子あるいは三つ子を授かったということをしばしば聞きますので、このあたりはちょっと現代的な感じがします。しかもこの双子は全く似ていませんでしたので、不妊治療した場合と同じく、きっと二卵性双生児であったのでしょう。

 

(3)後にいる者が先になる

 授かった双子はリベカのおなかの中ですでに争いを始めていたというのです。

「ところが、胎内で子供たちが押し合うので、リベカは、『これでは、わたしはどうなるのでしょう』と言って、主の御心を尋ねるために出かけた」(22節)。

すると、主は、こう答えられました。

「二つの国民があなたの胎内に宿っており

二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。

一つの民が他の民より強くなり

兄が弟に仕えるようになる」(23節)。

 後の双子の兄弟の関係を予言しているのでしょう。それをどう受け止めればいいのか、複雑な面もありますが、ここでは単純に、この世的に優先権をもつ順序(生まれ合わせ)が、必ずしもそのままずっと続くわけではないということを聞きとりたいと思います。逆に言えば、優先権をもたない者がそのままで終わるわけでもない、ということです。くつがえし、逆転が起こるのです。聖書は、たくさんの逆転について語っています。

 これまでの創世記の物語で言えば、4章のカインとアベルの兄弟がすでにそうでありました。聖書における「弟」というのは、自分自身の側には何も権利をもたないものと言えるでしょう。それは「寡婦」「孤児」「寄留者」にもあてはまるでしょう(申命記10:18等)。新約聖書では、「徴税人」や「娼婦」「罪人」を数えることができるでしょう。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」(マタイ21:31)と語られます。

マリアの賛歌にも「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」(ルカ1:51~53)とあります。

そういう逆転について聖書は語るのです。「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」(マタイ20:16)のです。

しかしこの逆転は必ずしも信仰のゆえにということでもありません。ここでは、特にヤコブのほうが倫理的、信仰的に優れていたために、逆に言えばエサウに何か問題があったために、劣っていたために、逆転が起きたというふうに語ってはいないことも注意しておかなければならないでしょう。神がそのように定めておられるとしか言いようのない、私たちの目には隠されたことがあると、思わざるを得ません。

「こうしてエサウは、長子の権利を軽んじた」(34節)とあります。これがエサウの非と言えば非なのかもしれませんが、それを利用するヤコブのほうがもっとひどいという気もします。

またこの逆転は、一回限りのことではないということも踏まえておく必要があるでしょう。特にクリスチャンは、注意しなければならないと思います。「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」のです。

 

(4)名前

さて、この双子の名前についてですが、兄のほうは、「赤くて、全身が毛皮の衣のようであった」ので、エサウ(毛深い)と名付けられました(25節)。またエサウはエドム人の祖となったとされますが、それが「赤い」(アドム)と語呂合わせに、また彼らの土地となったセイルが「毛皮」(セアル)と語呂合わせになっています。「赤いもの」(アドム)というのは30節にも出てきます。

 一方、弟については、こう記されます。「その後で弟が出てきたが、その手がエサウのかかと(アケブ)をつかんでいたので、ヤコブと名付けた」(26節)。

ヤコブという名前について、後にエサウは、「彼をヤコブとは、よくも名付けたものだ。これで二度も、わたしの足を引っ張り(アーカブ)欺いた」(27:36)と言うことになります。当のヤコブにとっても、あまりうれしくない名前であったのではないでしょうか。ずっと先ですが、やがて彼はその名前のコンプレックスから解放されることになります(32:28~29)。しかし元来、ヤコブという名前には、「神は守ってくださるように」という意味もあることを忘れてはならないでしょう。

 さて、この双子の二人は、やがて成長し、エサウは巧みな狩人、野の人となりました。ヤコブは穏やかな人で天幕の周りで働く人となりました(27節)。今ふうの言葉で言えば、エサウは肉食系男子、ヤコブは草食系男子という感じでしょうか。エサウは父イサクのお気に入り、ヤコブは母リベカのお気に入りです。

 ある日のこと、ヤコブが煮物をしていると、エサウが疲れきって野原から帰ってきました。そして「おなかがペコペコだ、何か食わしてくれ」と頼みます。ヤコブのほうはなかなかずる賢い。「まず、お兄さんの長子の権利を譲ってください」と言います。エサウは「ああ、もう死にそうだ。長子の権利などどうでもよい」と言って、煮物のほうを選ぶのです。ヤコブは「では、今すぐ誓ってください」と言います。入念です。そしてエサウが誓うと、ヤコブはエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えました。(肉ではなく、野菜の煮物だったのでしょうか。)

 

(5)選び

しかしどうも、この世的な考えに慣れた私たちには、まだしっくりこないということがあります。それは、私たちの世界には、神さまのご用を果たすために、特別に選ばれる人がいるということです。創世記の原初の物語では、ノアがそうでした。アブラハムもそうでした。その後の歴史で言うと、モーセがそうです。そしてサムエルがそうでしたし、ダビデもそうでしょう。そして預言者たち、イザヤ、エレミヤ、みんなそうです。新約聖書で言えば、洗礼者ヨハネ、弟子たち、そして使徒パウロ。それぞれに、神さまから特別に選ばれた人々でした。パウロはこう言っています。

「しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が……」(ガラテヤ1:15)。

 パウロは、神は、自分が生まれる前から選んで、恵みによって召し出してくださったと語るのです。

 私は、ヤコブもそういう系譜に連なる一人であると思います。ヤコブもなぜかはわからないけれども、神さまのご用を果たすために召された人物です。そのことはヤコブがエサウよりも優れているということではありません。どちらかと言えば、エサウのほうが好人物のように思えます。しかし神さまはこのヤコブのほうを選ばれるのです。どうしてかわからない。物語はヤコブを中心に、進んでいきます。ただし一つ言えることは、ヤコブはそのまますんなりと受け入れられた訳ではありません。これから先、誰よりも大きな苦労をさせられ、人間として鍛えられ、練り上げられていくことになります。

 この「選び」は、この世的な意味で「得をする」というようなことではありません。むしろ誰よりも大変なことを背負わされることもあります。人目には、あの人は神から見放されたと思える形を通して、神さまはその人を選んでいかれるということのほうが多いのではないかと思います。他でもないイエス・キリストご自身がそのように選ばれた人でした。選ばれた人であると同時に捨てられた人でした。「木にかけられた者は皆呪われている」という形で選ばれていくのです(ガラテヤ3:13)。この逆説の中に、選びということの奥義があるのではないかと思います。

 

(6)賜物

そのことは、何か特別に大きな選びということではなくても(どこからが特別というふうに線はひけませんが)、私たち一人一人もそのようにして神さまのご用を果たすために選ばれ、この世に派遣されているということも心に留めたいと思います。

とりわけ大きな使命ととりわけ大きな賜物をいただいている人もありますが、一人一人が自分に与えられた賜物を通して神さまに仕えていく。それが私たちの人生の意義であろうと思います。その賜物は、一人一人みんな違います。しかしその賜物が一体何のために与えられているかを考えていく時に有意義であると思います。つまり私たちが自分の人生を飾るためにそれを用いるのか、それとも神さまの大きな計画の中でそれを用いるために与えられていると考えるかで、生き方が変わってくるのではないでしょうか。

第一ペトロの中にこういう言葉があります。「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。……それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです」(一ペトロ4:10~11)。

 

(7)棄却

 選びについて語る時に、滅びに定められている人もいるのではないかという疑問を持ち、不安になる人があるかもしれませんが、私は滅びに定められている人はいないと思います。しかしそれでも不安な人があるとすれば、その滅びはすべてイエス・キリストが引き受けてくださっているということを、心に留めていただきたいと思います。そのイエス・キリストがおられる限り、そのよき意志を信じて、前を向き、上を向いて生きていくことができるのではないでしょうか。

  

 

 

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