経堂緑岡教会  説教ブログ

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城壁のラハブ

2014年04月25日 | 説教その他

ヨシュア記2章8~13節

ヘブライ人への手紙13章12~12

  2014年2月16日

札幌北部教会牧師 久世そらち

 

経堂緑岡教会の礼拝にお招きいただき、感謝いたします。

わたしは札幌の生まれですが、5歳の頃から東京で過ごしました。神学校を卒業後、北海道に戻って旭川豊岡教会に赴任、11年前に札幌北部教会に移りました。この間、北海道の教会で共に聖書を読み、導かれてきたことを、今日、皆様とも分かち合いたいと思います。

 

ヨルダン川の近く、エリコの町は、世界最古の都市のひとつです。何千年も昔からの文明を誇り、王が支配するひとつの都市国家として栄えました。

ヨシュアに率いられてカナンの地に入っていったイスラエルの民が、この町を攻め落とした物語は、良く知られたエピソードです。

ヨシュアは、戦いに備えて、エリコの偵察を命じました。

「ヌンの子ヨシュアは二人の斥候をシティムからひそかに送り出し、『行って、エリコとその周辺を探れ』と命じた。二人は行って、ラハブという遊女の家に入り、そこに泊まった。」(ヨシュア記2章1節)。

ところが密告する者があって捜査の手が及びます。ラハブは二人をかくまい、捜索にきた王の部下が去った後、二人に語りかけます。

「あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられる(11節)」。

ラハブの信仰の告白といってよい言葉です。そして彼女は二人に約束させます。

「わたしはあなたたちに誠意を示したのですから、あなたたちも、わたしの一族に誠意を示す、と今、主の前でわたしに誓ってください。そして、確かな証拠をください。父も母も、兄弟姉妹も、更に彼らに連なるすべての者たちも生かし、わたしたちの命を死から救ってください(12~13節)」。

そしてラハブは二人を町の外へ脱出させます。

「ラハブは二人を窓から綱でつり降ろした。彼女の家は、城壁の壁面を利用したものであり、城壁の内側に住んでいたからである(15節)」。

助けられた二人は彼女に約束します。

「我々がここに攻め込むとき、我々をつり降ろした窓にこの真っ赤なひもを結び付けておきなさい(18節)」。

スパイ・アクション映画のような活き活きとした物語の場面ですが、こうしてラハブは祖国エリコを裏切ったことになります。彼女はなぜそんなことをしたのでしょうか。ラハブとはいったい何者でしょうか。

 

ラハブが住んでいたのは城壁の壁面を利用した家でした。古代の都市は、敵の攻撃から町を守るため、城壁で取り囲まれていました。城壁を二重にめぐらして防備を固め、その二重の城壁の間を区切ってアパートのような住まいを造って空間を有効利用することもありました。ラハブが住んでいたと語られているのも、こういう住居と想定されます。

しかし、城壁に住むとは、敵の攻撃に真っ先にさらされることにほかなりません。王や貴族、有力な市民たちは都市の中心部に住んでいます。町の中心には、王や貴族のりっぱな邸や宮殿と並んで、町の守護神の神殿がそびえていたでしょう。町の守り神は、町の中心にいて王を守るものでした。そうした中心を守るため、貧しく無力な人々は、いちばん外に、周辺におかれ、危険にさらされ、盾となるのです。

城壁のラハブは、社会のもっとも周辺にいる女でした。ラハブは遊女であり、また父母兄弟など多くの一族があったと紹介されています。両親やきょうだいなど多くの家族を、ラハブの稼ぎで養っていたのでしょうか。

あるいは事情はもっと悲しいものだったかもしれません。古代社会では、貧しい人が自分の体をかたに借金をすることが行われていました。借金を返せなくなると、奴隷や遊女にされるのです。ラハブは、貧しい一族の娘として借金のかたにされ、一族が奴隷となるかわりに遊女とされたということもじゅうぶん考えられることです。

ラハブは、二重三重の意味で社会の周辺の存在でした。町のいちばん外、城壁に住み、貧しい一族を養い守るため身体を売られた遊女。けっして社会の中心ではない、なりえない、蔑まれ、退けられ、搾取され、身代わり、あるいは捨石とさせられた、もっとも弱い立場にある女…。

 

このラハブが、イスラエルと、その神のことを聞いたのです。

ラハブが聞いたのは、エジプトで奴隷であったイスラエルを助け出した神、エジプトの王が追っ手をかけたとき、王にではなく奴隷に味方して、海の水を干上がらせ王の軍隊を滅ぼした神、奴隷たちに力を与え強力なアモリ人の二人の王を滅ぼした神でした。イスラエルの神は、力ある者、権力者、王たちを守り助ける神ではなくて、王の支配のもとで苦しむ奴隷の味方となり、奴隷を助けて王に敵対し、王たちを滅ぼす神でした。

ラハブは、そういう神を知ったのです。そして彼女は、自分の町の神、町の中心にいて王を守る神ではなく、奴隷の味方となり王たちを撃ち破る神に、従おうと決意したのでした。

 

わたしたちの神、かつてイスラエルを選んで契約を結び、その神となった神は、そういう、奴隷たちの神、社会の最底辺、虐げられ、さげすまれ、打ち捨てられた人々、町の、社会のいちばん外側においやられ、捨てられた人々の神なのです。

はるか後、新約聖書も語ります。

「それで、イエスもまた、御自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難に遭われたのです。だから、わたしたちは、イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、そのみもとに赴こうではありませんか。」(ヘブライ人への手紙13章12~13節)

あのイスラエルの神の、そのひとりごイエス・キリストは、エルサレムの門の外、

ゴルゴタで十字架につけられた、町の外に追いやられ、捨てられ、殺された、だからわたしたちも、宿営の外を目指そう、栄と力、名誉や安泰、町の中心、社会の頂点ではなく、町の外、社会の周辺、そこにおられる十字架の主キリストのもとに赴こう、と呼びかけられています。

人を圧倒するような見事な文明を築く王の栄光のために、最底辺で死ぬほどの苦労を負った奴隷たち。町のへり、いちばん外側、城壁で、貧しい一家の身代わりとなって身を売る遊女。このような人々こそ、実は、イスラエルの主なる神に、もっとも近い人々。主なる神は、このような人々に味方する神。イスラエルの主なる神に、そして、その御子、十字架で死んだキリストに近づこうとするならば、わたしたちは、町の中心、社会の頂点ではなく、町の周辺、都の外を目指していかなければならない…。

聖書は、そう促します。

 

さて、やがてエリコがイスラエルによって滅ぼされたとき、ラハブとその一族は約束どおり助け出されることになります。

「ヨシュアは、土地を探った二人の斥候に、『あの遊女の家に行って、あなたたちが誓ったとおり、その女と彼女に連なる者すべてをそこから連れ出せ』と命じた。斥候の若者たちは行って、ラハブとその父母、兄弟、彼女に連なる者すべてを連れ出し、彼女の親族をすべて連れ出してイスラエルの宿営のそばに避難させた。」(ヨシュア記6章22~23節)

 

注目したいのは、ラハブの家族、親族のことです。彼らは滅ぼされるエリコの町から救い出されることになります。しかし彼らは、いったいなにゆえに救われたのでしょうか。ラハブはともかく、一族は直接イスラエルの味方をしたわけではありません。彼らがイスラエルの神への信仰を告白したとも明記されません。彼らはなぜ救われたのでしょう。

ラハブの一族が救われたのは、ひとえにラハブのとりなしによるものでした。

「父も母も、兄弟姉妹も、更に彼らに連なるすべての者たちも生かし、わたしたちの命を死から救ってください」。

ラハブは、自分だけでなく一族を救ってくれるようにとりなし、約束させていました。彼らの知らない所で、すでにラハブが彼らを救う手だてを尽くしていてくれたのです。

 

エリコが滅びに瀕しているとき、彼らは、ただ、自分の家に集まるようにというラハブのことばを信じ、そこに集まりました。 ラハブの家は、安全な町の中心にではなく、いちばん危ない城壁にありました。中には、そっちこそ危ないと尻込みした者もあったかもしれません。あのラハブが何をいうのだ、と信じなかった者があったかもしれません。

ラハブの家には、合図として赤いひもを窓に結びつけてありました。ラハブのことばを信じて、城壁のラハブの家に集まった者たちにとって、赤いひもの窓こそ、救いへの道でした。

 

この赤いひもは、キリストの十字架の血の象徴だと言った人がいます。ラハブが一族のためにとりなした救いの約束のしるしの赤いひも、それは、キリストのみわざをはるかに指し示すというのです。

キリストは、人々のためにとりなし、十字架で血を流してあがないをなしとげました。その血を信じて、そこに集まる者は、救いの約束にあずかるのです。

「それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。」(ヘブライ人への手紙10章19~20節)

町の外で血を流されたキリスト、そのことによって新しい生きる道、救いの道を開かれたキリストは、社会の周辺の人々、奴隷のイスラエル、城壁のラハブと共にある方です。わたしたちが、この方、キリストによる救いにあずかるということは、実に、ラハブのような周辺の存在にとりなされることによるのではないのか。城壁にすむ遊女ラハブのとりなしによって許され救われたラハブの一族、それは、そのままわたしたちの姿ではないのか。わたしたちの救いは、社会の周辺に追いやられた人々のとりなしによってこそ、もたらされるのではないのか。

 

わたしたちは、いま、危機の時代にあります。エリコの町が滅びるような危機に直面しています。

そのとき、王と共に身を守ろうと、町の中心に向かうのではなく、むしろ周辺に向かうとき、城壁のラハブの家、町のもっとも外側にむかうとき、そこに生きる人々の味方であるイスラエルの主なる神に出会い、またその人々にとりなされることによって、救いへと導かれるのではないか。

この国の周縁、内国植民地としての歴史をたどってきた北海道の地、あるいは基地の重荷を負わされてきた沖縄の地、また、この町の、この社会の周縁に置かれている低賃金労働者、差別されてきた人々…。

町のいちばん外側、城壁に掲げられたラハブの赤いひものところ、町の門の外で流された主の十字架の血のもとに集まるそのとき、わたしたちは生きる道に至るのではないか。

 

聖書の促しを今、あらためて聴きます。

「イエスもまた、御自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難に遭われたのです。だから、わたしたちは、イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、そのみもとに赴こうではありませんか」。

 

 

 

 

日本キリスト教団 経堂緑岡教会

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風変わりな宴会

2014年04月03日 | ルカによる福音書(2)

ルカ福音書による説教(75)

イザヤ書35章5~6節

ルカによる福音書14章12~24節

       2014年2月23日  

       牧師 松本 敏之

 

(1)おもてなし

 前回の7~11節には、宴会に招かれる側の注意が述べられていましたが、それに続く12~14節で、逆に宴会に人々を招く側、主催者側の注意について語られます。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである」。

私たちは、パーティーに招かれる時には、それなりのプレゼントやご祝儀を持っていくのが礼儀だと考えます。ですからこういう言葉を読むと、「自分たちの習慣はまちがっているのだろうか」と戸惑うかもしれません。この世界の習慣は、それはそれとして、理にかなったことでしょう。ただしそれは「持ちつ持たれつ」、「お互いさま」ということで、特に信仰とは関係がないことでしょう。ここで主イエスは別次元のことを語っておられるのです。それは非常識なことではなく、常識を超えたこと(超常識)です。

国際オリンピック委員会で、滝川クリステルさんが行ったスピーチの中の「おもてなし」という言葉が、昨年の流行語になりました。「お・も・て・な・し、おもてなし」

滝川さんの説明によれば、「おもてなし」とは、「歓待、気前のよさ、無私無欲の深い意味合いをもった言葉」ということです。彼女は、こう続けます。「それは私たちの祖先から受け継がれ、現代の日本の超近代的な文化までしっかり根付いているものです。このおもてなしの精神は、日本人が互いに思いやり、またお客様たちにも同じように、その思いやりの精神で接しているのかを説明するものです。その例をお話ししましょう。もしみなさんが何かをなくしたとしましょう。それはほとんど皆さんのお手元にかえります。現金でさえもです」。

確かにあたっている面もあります。日本は世界一治安のよいところだと言われますが、私もそういうことを実感します。しかしそれは「無私無欲」というよりは、「人のものに勝手に手をつけてはいけない」とか、「うそをつかない」という日本人の特性の一つかと思います。それはそれで誇るべきものでしょう。

私は、ブラジルに住み始めてまだ不慣れな頃から、よくブラジル人から道を聞かれました。「なぜわざわざ外国人(日本人)の私に、聞くのだろうか」と思いましたが、それはブラジル日系人たちが、「日系人は誠実でうそをつかない」という評価を作っていたからのようでした。「道を聞くなら日本人に聞け」。それは、日本人は知らなければ「知らない」と言うからです。ブラジル人は、相手をがっかりさせたくないと思うのか、知らなくても、「あっちだと思う」など何か答えようとするのです。それがブラジル人としての「おもてなし」なのかもしれません。ただそれを信用して、そちらに行くと、見当はずれで、とんでもないことになりかねません。ですから、私は私で、「道を聞くなら3人に聞け」ということを学びました。3人が同じことを言えば、まあ信用してもいいだろうということです。

ただそういうことと、主イエスがここで語られた「お返しができない人を招く」ということとは、少し違う気がします。

 

(2)計算しない

昨年の流行語で「倍返し」というのもありました。でもこれは復讐の話、「やられたらやり返せ!倍返しだ」ということです。この「倍返し」は、聖書にもあります。「カインのための復讐が七倍なら、レメクのためには七十七倍」(創世記4章24節)。「七十七倍返しだ!」

主イエスは、それとは逆に、「七の七十倍までも赦しなさい」(マタイ18章22節)とおっしゃいました。これは、490回というカウントの仕方と、77回という説の両方があるのですが、いずれにせよ、何回赦すかという回数の問題ではなく、「数えてはいけない。徹底的に赦し続けよ」ということ、計算するなということです。

私たちはいつも裏を考えてしまいます。もてなしていても、もてなされていても、計算しながらバランスを考えるのです。自分の立場はどのあたりか。本音と建前のようなこともあります。聖書は、そうした計算づくの世界から、私たちを解放しようとしているのです。イエス・キリストは、そうしたことを超えた、まことの無私無欲のおもてなしについて語られるのです。

 

(3)お返しのできない人を招く

イエス・キリストは、こう語られます。「宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」(13~14節)。

「報い」ということでは、イエス・キリストは、「あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている」(マタイ6:2)と言われました。「既に報いを受けている」というのは、「もう勘定が終わっている」という意味の言葉です。どんなによいことをしても、それは報いを受けているならば、おもてなしとは言えないのではないかということです。

「イエス・キリストは、お返しのできない人をこそ招きなさい」と言われましたが、その根拠が、意外な形で、次のたとえで示されると言えるかもしれません。それは神が招かれる宴会です。そこでは、私たちの誰もがお返しできません。だからイエスのおもてなしに、無償で招かれるのです。

今日は半沢直樹と滝川クリステルの決めゼリフを紹介しましたが、松本敏之の決めゼリフも紹介しておきましょう。

 

おもてなし イエスによれば 裏もなし

 

 「信徒の友」が4月号から川柳欄を設けるようですから、出してみたいと思います。

 

(4)招きを断る

普通の宴会では見かけないような貧しい人たちもたくさん招かれている。これは一種、風変わりな宴会です。しかしそれを聞いていた参加者の一人が、こう言いました。「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」(15節)。この言葉は率直な応答であったと思います。裏があったとは思いません。しかし、彼はこう語ったとき、自分が「神の国の食事」の場にいるということを、全く疑っていなかったのではないでしょうか。

イエス・キリストの次のたとえは、この応答に促されたものでした。

「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた。」(17節)。

この当時の宴会への正式な招待というのは二段ステップでなされたようです。あらかじめ招待状を送り、出席の返事をした人に対しては、その時間が来たら、使いを送って迎えに行くのです。そうした習慣がこのたとえの前提になっています。

ここまでは主人の計画通りです。ところが、どうでしょう。

「すると皆、次々に断った。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか失礼させてください』と言った。ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った」(18~20節)。

今でいうドタキャンです。招かれているのに、来ようとはしない人が大勢いる。それが一つのポイントです。

ここに挙げられている理由は、すべて筋が通った理由です。今日でも許される理由ではないでしょうか。最初の二人は経済的な問題です。この時を逃すと、だめになってしまう、替えることができない急な仕事が入ったということでしょう。結婚については、古代のイスラエルでは、結婚したばかりの男子は兵役も免除されたとあります(申命記20:7参照)。

問題は、その理由が許容される理由かどうかということよりも、「ここで招かれた人たちは、その招きの重要さをわかっていない、その招きを軽く見ている」ということであります。ここで病気を理由に断った人はいないのも興味深いことです。病気は断る理由にはならない。来られないかもしれませんが、病気の時こそ、イエス・キリストの招きを感謝するものでしょう。

 

(5)このたとえをどう理解するか

このイエス・キリストのたとえは、神の救いの歴史のダイジェストのように解釈することも可能でしょう。神様は、最初、アブラハムを選び、イスラエルの民を神の民として立てました。それが最初に招かれた人たちです。ところが彼らはそれに誠実に応えなかった。そこで神様は救いの対象をぐっと広げ、異邦人にまでその招きは及ぶようになったという理解です。そこで断ったのはユダヤ人であって、イエス・キリストを受け入れたクリスチャンが招かれるようになった。こうして救いが異邦人にまで広がった。めでたし、めでたし。

それはひとつの解釈でありうると思います。しかし気を付けなければならないことは、聖書の世界は、いつも「後の者が先になり、先の者が後になる」ということです。

この「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った人自身が、感激して、そう言ったときに、そこに自分はいないかもしれないということを全く想定していなかったように、私たちも、クリスチャンとして、自分はそこにいることを確信したままで、この話を聞くならば、この話を理解したことにならないのではないでしょうか。問われているのは、私たち自身です。聖書は、いつも自分に向かって語られた言葉として読むときに、意味をもってきます。

 

(6)私自身が問われている

この話はこう続きます。

「僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』やがて、僕が、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと、主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない』(21~24節)。

厳しい言葉です。ここから聞きとりたい第一のことは、神さまの人間を求める情熱の大きさということです。熱情と言ってもよいです。モーセの十戒の第二戒の説明文の中に「わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である」(出20:5)という言葉があります。以前の口語訳聖書では「ねたむ神」と訳されていましたが、私は「熱情の神」のほうがよい訳だと思います。この神のことを、ユダヤ教のアブラハム・ヘシェルという思想家は「人間を探し求める神」と言って、そういう題名の本を書きました。どこまでも追いかけてきます。その神の姿を、ルカは、こういう表現であらわしたのです。その神の熱情は、やがて15章で、より克明に記されることになります。

その神の熱情に比べて、私たち人間は、いかに冷えているか。その神の熱情を理解していない。そしてなんとちっぽけなことを理由に生きているかと思います。

神様の招きは、私たちの想定の範囲を超えて、どこまでも延びていく。広がっていく。私たちがむしろついていけない。そこで招かれた人は、「え、自分のようなものでも行ってよいのでしょうか」と思ったことでしょう。しかし実は、これがキーワードです。天国というのは、「え、自分のような者でもいてよいのでしょうか」という人ばかりが集まっているところと言えるでしょう。「自分はここにいる資格はあるけれども、なんであんな人がいるのか」と思う人はいません。これも逆説的です。ですから「なんであんな人がいるのか」ということを時々考える人は要注意かもしれません。

 

(7)私も路地にいるひとり

最後に、イエス・キリストは、厳しいまとめをされましたが、実は、「私もその資格がなく、私も路地や通りにいる一人なのだ」と気づくことこそ意味があると思います。だからその意味で拒否されている人は、一人もいないのです。

さらにこの扉は今も開いており、私たちは今も招かれ続けているということです。まだ時を逸していない。「今でしょ」ということです(昨年の流行語三つ目!)。

ここに書かれているのは、神の国の宴会のことですが、それは「あの世」のことではなく、私たちの世界のことを語っているということも忘れてはならないでしょう。この話を比喩的に理解することによって、現実と切り離して考えてはならないと思うのです。この世界における私たちの生き方が問われている。まさにこの世界において、「貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい」ということなのです。

イエス・キリストが裏のない真実な招きをしてくださっていることを知り、その招きに応えようとする時に、私たちもまことのおもてなしの精神に生きることができるようになるのではないでしょうか。

  

 

 

 

 

日本キリスト教団 経堂緑岡教会

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