ルカ福音書による説教(51)
民数記11章16~17節
ルカによる福音書10章1~16節
2011年2月27日
牧師 松本 敏之
(1)サクラメントの日系教会
去る1月16日の礼拝に、米国カリフォルニア州の州都であるサクラメントにありますサクラメント日系合同メソジスト教会の山田宗枝(もとえ)牧師が、この教会の礼拝に出席されました。山田牧師は、教会員の山田泉さんの義理の娘さんに当たられますが、平日にも教会をお訪ねくださって、2時間余り親しくお話をいたしました。
彼女の来日の直前、山田泉さんがサクラメント日系合同メソジスト教会のウェブサイトをご覧になって、ある興味深い事実を発見されました。それは、その教会の初代牧師が木原外七(ホカシチ)牧師であるということでした。木原外七牧師とは、他でもない私どもの経堂緑岡教会の前身である経堂教会の初代牧師でもあります。山田泉さんにしてみれば、自分の属する教会と、義理の娘が牧する、遠く離れたアメリカの全く関係のないように見える教会の初代牧師が同じであったというのは、興味深い偶然ということを超えて、驚くべき神の摂理のように感じられたことでありましょう。私も少なからず驚きました。
山田宗枝牧師は、そういうつながりがあるから、何か姉妹教会のような交わりができたらいいですね、とおっしゃり、アメリカに戻られた後、そうした日本での経験のことを、ご自分の教会のウェブサイトにも書きこんでおられます。
このサクラメント日系合同メソジスト教会は、パイオニア・サクラメント・メソジスト教会とフローリン日系メソジスト教会という二つの教会が合同してできたそうですが、その点でも、経堂教会と青山学院教会の二つのルーツをもつ私たちの教会と似ていると思いました。
サクラメント日系合同メソジスト教会のサイトの“A Centennial Legacy: History of the Japanese Christian Missions in North America”(百年受け継がれたもの-北米における日系キリスト教宣教の歴史)には、次のようなことが記されています。「二つの教会のうち古い方のパイオニア・サクラメント教会はアメリカで三番目に古い日系メソジスト教会である。そのルーツは、1891年にさかのぼる。何人かの宣教師たちがサンフランシスコの日系メソジスト教会から川舟でサクラメントへ来て、彼らがサクラメントの日本人居住者のために礼拝と路傍伝道をしたのが最初であった。群れ(コングリゲーション)としては、1892年、最初に任命されたキハラ・ソトシチ牧師(誤読)によって、510Lストリートの家にはじめて集められ、翌年、スーパーインテンデントのハリスの指導のもと、正式に教会となった。」
(2)木原外七牧師
私たちの『経堂緑岡教会50年史』には、初代木原外七牧師について次のような記述があります。「(木原)外七は漢学の塾に学び、25歳の時(1890年)、(※別の資料では、23歳の時、1888年)、米国に渡り、教会経営の寄宿舎に泊り、日本人教会に出席し、ハリス牧師夫妻を中心にした大リバイバル運動の中ではじめて祈った。その時の祈りは『創造の主よ、私は、仏が真の救主か、基督が真の救主かわかりません。ただこの罪人を救いうる救主よ、我を救いたまえ』という切実な祈りで、初めてイエス・キリストに罪のゆるしをねがった。1890年(明治23年)6月11日午後9時15分のことだった。」
ここで時刻まで記しているのは、メソジスト教会の創始者であるジョン・ウェスレーの回心を思い起こさせます。
「この時から、福音をのべつたえずにはおられない使命感にもえ、4年後、ハリス監督より按手礼をうけハワイ伝道に赴いた。」
この深い祈りから4年後のハワイ伝道にいたる間に、彼がアメリカで何をしていたか、それがここに明らかになりました。サクラメントで伝道活動をしていたのです。
「更に、ドルウ神学校に学び、ニューヨークに日本人教会を設立、帰朝、長倉ムラと結婚、青森を経て、朝鮮、沖縄、満州などにおける開拓伝道に従事し各地で教会を設立、金沢教会、藤沢教会を牧していた。」
その後、1930年に私たちの経堂教会を設立することになるのですが、そこからさかのぼること、38~9年前、アメリカでの青年木原外七の活動があったのです。ですから、この「姉妹教会」は、経堂緑岡教会よりもだいぶお姉さんの教会というふうに言えるでしょう。
(3)ウェスレー「世界はわが教区」
こういう伝道のスピリット、それはメソジスト教会ならではのものであると、私は思います。そのメソジスト教会の祖となったジョン・ウェスレーの有名な言葉に、「世界はわが教区」“All the World My Parish”という言葉があります。
当時の聖公会は、教区ごとに分担して管轄されていましたが、ウェスレーたちは、教区を超えて伝道しました。サーキット(巡回区)と言います。
時には、地理的には全く離れた地域が自分のサーキットに属するということもありました。この伝道方法は日本でも初期のメソジスト教会で用いられました。特に山梨や静岡など(英和女学院があるところ)ではサーキット伝道が盛んに行われました。また家庭集会を中心にした「組会」というのもそうです。一人の牧師が、さまざまな組会を巡回しながら育てていったのです。
ウェスレーの「世界はわが教区」という言葉のもとをたどれば、やはりイエス・キリストの世界的視野にさかのぼると言えるでしょう。今日、読んでいますルカ福音書10章というのは、まさにそういうことについて語っている箇所であると思います。
(4)72人の派遣
「その後、主はほかに72人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に2人ずつ先に遣わされた」(1節)。
この言葉は、実は、ルカによる福音書だけに出てくるものです。この前の12人の弟子たちの派遣(9章)というのは、マタイやマルコも記していますが、ルカは、それを超えて先のことまで視野に入れているのです。ここに後の教会の姿が映し出されているという人もいます。
72人という数字ですが、70人という写本も多くあります。70人だとすれば、旧約聖書にはその元になるふたつの記述があります。
ひとつは、先ほど読んでいただいた民数記11章16~17節にあるイスラエルの長老たちの人数であります。
「(主はモーセに言われた。)イスラエルの長老たちのうちから、あなたが、民の長老およびその役人として認めうる者を70人集め、臨在の幕屋に連れて来てあなたの傍らに立たせなさい。」
モーセの仕事を分担して担う人が70人であったということと、イエス・キリストの手足となって働く人が70人であったということと重なってきます。
もうひとつは、創世記10章にある世界の諸民族の表です。そこで世界の民族が70となっているのです。ですから、ここで、この70人(あるいは72人)は全世界に派遣されていくということを暗示しているのであろうと思います。
ルカは世界的な視野を持ち、福音書の続編として使徒言行録を書きました。その先に世界宣教があり、それはやがてウェスレーの「世界はわが教区」という精神にもつながっていくのだと思います。
(5)収穫は多い
さて、この後に書かれている言葉をすべて追っていくことはできませんが、いくつかを拾いながら読んでいきましょう。
「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」(2節)。
これから世界中に福音が宣べ伝えられていく時に、働き手が必要だということであり、そこに72人の人たちを任命して派遣していくのです。
「途中でだれにも挨拶をするな」(4節)。これは「途中で挨拶している暇がない」という意味であり、「挨拶をするな」ということではないでしょう。ですからどこかの家に入ったら、まず、「この家に平和があるように」と挨拶をします。それを受けとめる「平和の子」がいれば、その平和はそこに留まるし、いなければ自分に戻って来るというのです(5~6節)。
「しかし、町に入っても、迎え入れられなければ、広場に出てこう言いなさい。『足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ』と」(10~11節)。
9節にも「その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい」という言葉がありますが、ここでは「足についたこの町の埃さえも払い落とし」ながらも、そこで告げているのは「神の国が近づいた」ということなのです。それを受け入れる人にも、受け入れない人にも一貫して、「神の国は近づいた」と語るのです。その次の「言っておくが、かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む」(12節)というのは、弟子たちに向かって語られた言葉であって、その町の人に向かって語られた言葉ではありません。イエス・キリストの嘆き、悔い改めないところにおける厳しい気持ちが弟子たちに対して表れているのです。
(6)身を切る叫び
そういう理解からすれば、13節以下の厳しい言葉も、ひとつの読み方ができてくるのではないかと思います。
「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところでなされた奇跡がティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰の中に座って悔い改めたにちがいない」(13節)。
コラジン、ベトサイダとは、主イエスが活動されたガリラヤ地方の町々です。一方、ティルス、シドンは信仰的に堕落した町の代名詞のようなものです。裁きを受ける町として旧約聖書に何度も登場します(イザヤ書23章、エゼキエル書26章など)。
「また、カファルナウム、お前は、天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。」(15節)。
カファルナウムもやはりガリラヤ地方にあり、主イエスが特に「自分の町」(マタイ9:1)として愛された町でした。
ガリラヤの町々は、主イエスによって恵みのみ言葉を聞かされ、奇跡さえ経験しながら悔い改めようとしない。それゆえ神の裁きは、ティルス、シドンが受けた裁きよりももっと厳しい、ということです。
ただし「不幸だ」(13節)というのは、決して呪いの言葉ではありません。これは、痛い時、悲しい時に思わず口から飛び出る呻き、叫びのような言葉でした(原語でウーアイ)。主イエスは、身を切られるような思いで「ああ何と言うことだ」と呻かざるを得なかったのです。
この言葉そのものには、どこにも救いがないように見えます。しかし、私は、恵みの主イエス・キリストがこの言葉を語られたということに注目したいと思うのです。主イエスは、傍観者のように「ああ不幸だ」と言われたのではありません。この言葉の果てには、主イエスの十字架が立っています。イエス・キリストは滅び行く者を見放しにするのではなく、そこにこそ自分の行く道を重ね合わせられました。十字架上の「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)という言葉は、まさしく滅び行く者の声を担っています。そして陰府にまで下って行かれるのです。
(7)憐れみに胸を焼かれる
私はこれを読みながら、ホセア書11章の言葉を思い起こしました。神様の愛がどういうものであるか、生き生きと語られているところです。
神様はイスラエル、神の民に対して一心に愛を注がれましたが(ホセア11:1~4)、神の民のほうはそれを理解せず、自分勝手な道を歩み、今にも滅んでしまいそうになっています。しかしその次の瞬間に、神様ご自身がいても立ってもいられなくなり、こう叫ぶのです。
「ああ、エフライムよ、
お前を見捨てることができようか。
イスラエルよ、
お前を引き離すことができようか。
アドマのようにお前を見捨て、
ツェボイムのようにすることができようか。
わたしは激しく心を動かされ、
憐れみに胸を焼かれる」(8節)。
アドマ、ツェボイムは、先ほどのティルス、シドン同様、滅んでしまった町の名前です。神様は、自分が愛する者が滅んで行くのをとても黙って見ていることはできない、と言われる。これが神様の愛の姿です。神様ともあろうお方が、何だかおろおろしているように見えます。ある意味で神様らしくない姿です。全知全能の神であり、全世界の神であれば、何があっても動揺しないと考えるのが普通でしょう。
私は、この神がイエス・キリストを遣わし、そのイエス・キリストが72人を遣わしているということを忘れないようにしたいと思うのです。伝道者は、必ずしも行った先で歓迎されるとは限りません。しかしどういう状況にあっても「神の国が近づいた。平和があるように」と宣べ伝えよ、と命じられるのです。
日本キリスト教団 経堂緑岡教会 〒156-0052 世田谷区経堂1-30-21 Tel:03-3428-4067 Fax:03-3428-3377 (その他の説教もご覧になれます) |