経堂緑岡教会  説教ブログ

松本牧師説教、その他の牧師の説教、松本牧師の説教以外のもの。

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悩み苦しみからの解放

2013年06月28日 | ルカによる福音書(1)

ルカ福音書による説教(43)

詩編4編2~9節

ルカによる福音書8章40~56節

   2010年9月19日

      牧師 松本 敏之

 

(1)病と死

明日は敬老の日です。教会では、そのことを覚えて、今日、敬老のお祝いをいたします。教会でこのことを祝う最大の意味は、やはり神様がそのお年まで守り、導き、生かしてくださったことを共々に感謝するということでありましょう。

私たちの人生は、さまざまなものに脅かされています。まず外側から私たちの生活を襲うものがあるでしょう。自然の災害があります。戦争があります。さらには家族の崩壊、失業、経済的危機なども、これに加えることができようかと思います。さきの「湖での嵐」の記事は、そのような外的な危機を象徴していると思います(8:22~25)。

私たちを内側から脅かす力もあります。「湖での嵐」に続くゲラサ人のいやし、悪霊からの解放の記事(8:26~39)では、そうした私たちを内側から、精神的に追い込んでいく力について語っていました。

 さらに私たちを脅かすものは、病と死ではないでしょうか。人間誰しも、年をとっていくにつれて、健康であった人でも、さまざまな病を身に受けるものです。そして人間誰しも、どんなに長生きをしても、いつか死を迎えなければなりません。それはすべての人間に公平に与えられる厳粛な事実です。

どんなにお金があっても、どんなに家族に恵まれた人生であっても、病は容赦なく襲ってきます。そしてその向こうには死が待っているのです。私たちの人生を襲う最大の、そして最後の力は死であります。私たちは、自分の力では、これに対抗することはできません。自然の肉体が永遠に続くことはあり得ないからです。

 

(2)地位もお金も役に立たない

今日、私たちに与えられたテキストは、その病の力と死の力に対して、イエス・キリストが向き合ってくださり、それに打ち勝ってくださったという物語です。ここでは二つの物語がサンドイッチ形式で記されています。

イエス・キリストの一行は、ガリラヤ湖の東側、ゲラサ人の地から追い出されるようにして、ガリラヤ湖の西岸へ戻ってこられました。かの地では悪霊を追い出された人を除いて、誰からも喜ばれませんでした。しかし、ここではみんながイエス・キリストの帰りを待っていました。大勢の人がイエス・キリストのもとへ集まって来ます。そこへヤイロという名の会堂長がやって来て、イエス・キリストの足もとにひれ伏し、「自分の12歳の娘がひん死の病で伏しているので、ぜひ自分の家に来てほしい」(41~42節)と懇願しました。

会堂司というのは、ユダヤ教の礼拝堂(シナゴーグ)の世話をする責任者です。宗教者ではありませんが、単なる実務担当者でもありません。集会の指導的役員であり、社会的地位も高く、財産もあり、信用もある人がなりました。しかし私たちの人生には、身分も、地位も、財産も、教養すらも、全く役に立たないことがあります。自分にくっついている肩書がすべてはぎ取られ、裸の自分になった時に、イエス・キリストは語られ、力を発揮し、生きて働かれる主であることを示されるのです。

 

(3)12歳の少女の危篤と死

この少女は、最初はまだひん死の状態ですが、主イエスがたどり着く前に死んでしまいます。死というのは、老人にだけやってくるのではありません。働き盛りの人にもやってきますし、子どもにもやってくることがあります。そこでは、私たちは無力です。死というのは、一切の望みが消え果てる限界状況です。しかしこの限界状況に立って、初めて見えてくるものもあります。他の価値観はどんなに立派なものであろうとも、死で突然終止符を打たれるのです。ですから、その死というものを視野に入れて、私たちは一体何のために生きているのか、何が本当に私たちを生かすのかということを見据える必要があるでしょう。

この父親は娘をこよなく愛していたことでしょう。しかしいくら愛していてもどうすることもできないことがあります。その現実に立って、命の根源であるイエス・キリストの前に身を投げ出したのです。神の愛から湧き出てくる永遠の命だけが、人間の愛の無力さに力を与えるのです。

この父親も、娘の命の先がもうないという現実の中で、イエス・キリストの前にひれ伏すのです。

イエス・キリストは、彼の熱心な願いに心を動かされ、そして12歳の少女のことを思い、その人の家に赴かれます。大勢の人が外で待ち構えているにもかかわらず、であります。まるであの99匹の羊を野に残して、一匹の羊を追い求めて行く羊飼いのようです(ルカ15:4~6)。

 

(4)もう一人の女の12年間

しかしそのように12歳の少女の家に行こうと出発した直後に、もう一人の別の女に出会います。もう一匹の羊と言ってもいいでしょう。それは、12年間、病を負い続け、悩みに満ち、苦しみを背負っていた一人の女性でありました。12年間というのは、先ほどの少女が生きてきた年数と同じ期間であります。

 ルカは、12歳の少女と12年間出血が止まらない女性を並べることによって、全く異なる境遇の元に歩んできたこの二人の女性が、今やイエス・キリストによって等しく恵みに与っているという不思議な摂理に目を向けようとしたのでしょう。

 この出血が止まらないという病気は、当時は汚れた病気というふうに考えられていました。人に近づくことが禁じられ、近所づきあいも、場合によっては家族との接触も断たれていた。そういう病気であります(レビ記15:25以下参照)。ですから、この女性は自分からみんなのほうへ入っていくことができない。肉体の病と同時に、宗教的断罪と社会的疎外という三重の苦しみを負っていました。

ですから彼女は、誰にもわからないようにして、こっそりとイエス・キリストの後ろから近づいて行くよりほかにありませんでした。そもそもその衣の房に触るということも大それた行為でありました。しかし治りたいという一心で、イエス・キリストに近づいて行きました。その行為を、主イエスは「信仰」と呼んでくださるのです。もしかすると、逆に「何をするのだ。下がれ」と言われてもおかしくはない状況の中でありました。

この房というのは、ガウンのような衣服に四つの房が付いていたようです。着ている人が神に属するものであるというしるしであると考えられていました。着ている人自身が、その房を見て、自分は神に属する者として生活をしなければならない、ということを思い起こさせるしるしであったそうです。

この女性の場合は、対極のところにあったと言えるでしょう。そもそも彼女はその着物を着ることはできませんし、汚れの中にあって、神様の清さを受けることなどからはずっと遠い所にある。その彼女の目の前に、今その房がある。律法によれば、触ってはならない。近づいてもならない。しかし彼女は、迷信と言われようが、愚かと言われようが、絶望のただ中で、何とかその衣に触りたいと思いました。そしてそのように隠れて行動したのです。彼女は、そうする中で、イエス・キリストは神に属するお方だ、神様の清さに生きておられる方だと悟ったのです。イエス・キリストがほめられた「信仰」とは、そういうことではなかったでしょうか。そこには力がある。そこには自分を何とかしてくださるきっかけがあると、彼女が信じたということです。ご利益と言われようが、何と言われようが、そこから自分は変わっていくかもしれない、という思いがあったのです。

 

(5)なぜ、わざわざ尋ねたのか

「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ」(46節)。

これも不思議な言葉であります。まわりの人は、「こんなに大勢の人がいるのです。誰が触ったかなんて、わかるはずがない」、あるいは「みんなが触っています」と思ったことでしょう。

愛の力が働いたということを、イエス・キリストご自身が感じた。そしてそこで立ち止まるのです。彼女の病が治ることだけであれば、主イエスの力が抜けて、その人を癒したのだから、もうそれでいい、ということになったでしょう。主イエスは早く次の場所へ行かなければならない。待っている人がいるのです。

しかし、彼女が本当の意味で新しく生きるために、そして彼女の病気が治ったということが町の人たち、共同体の中で認知されるためには、そのことが公表され、宣言される必要がありました。

彼女は自分が触ったということ、そして治ったということを知っていますが、それを言い出せないでいました。しかし隠しきれないと悟って、「私が触りました」と告げるのです。主イエスは言われました。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」(48節)。

 

(6)病と死に打ち勝つ力

そのことのために多くの時間を費やしたのでしょう。先に進み行こうとされましたが、その時に会堂長のほうから、ある人が使いとしてやってきました。「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません。」残念ながら、もう来ていただく意味はありません。しかし主イエスは、これを聞いて会堂長に言われます。

「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる」(50節)。

そして会堂長の家に足を向けられるのです。家に着いた時には、娘はすでに死んでいました。みんなで泣き悲しんでいたとあります。しかしその中の多くの人は、悲しみを盛り上げるために呼ばれた「泣き女」と呼ばれる人ではなかったかと思います。なぜなら、「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ」というふうにおっしゃった時に、人々は「あざ笑った」と書いてあるからであります。どんなにそれが信じられない状況であっても、「死んだのではない。眠っているだけだ」という言葉を聞いて、あざ笑うというのは、その娘の死の悲しみと離れたところにいた人であろうと思います。娘は、そこで霊が戻って、すぐに起き上がりました。

主イエスは、ひとりひとりの魂を心に留め、十把一絡げではなく、その都度立ち止まり、振り返り、そして命を注がれた。そうする中で、最後にはご自分の命をささげて、十字架にかかられたということができると思います。

 

(7)讃美歌「わたしに触れたのは誰か」

ブラジルにいた頃、この「出血の止まらない女」をそのまま歌にした「わたしに触れたのは誰か」という讃美歌に出会いました。最後にそれを紹介したいと思います。繰り返しのイエス・キリストの言葉(イタリック部分)は男声によって、それ以外は女声によって歌われます。

 

(くり返し)

わたしに触れたのは誰か?

誰かがわたしに触れた

わたしから力が出ていったことを感じた

わたしに触れたのは誰か?

 

1 わたしです

苦しんできた女

何の価値もない女です

12年の間ずっと

苦しみを引きずってきました

 

わたしです

ひどい痛みによって

律法によっても信仰によっても

人生の喜びから

締め出されてきた女です

 

2 わたしです

財産も使い果たしましたが

病気はよくなりませんでした

しかしあなたのうわさを聞き

希望がかえってきました

 

わたしです

いやす力をもって

来られた方のところに

押し入るように走って来た女です

わたしがあなたに触れました、主よ

 

3 わたしです

わたしの苦しみのいやしを

探し求めてきた女です

しかしこの苦痛が終わることを

わたしの体が証明しました

 

わたしです

うしろから身をかがめ

近づいたのはわたしです

心が締め付けられ

あなたの服に触れました

 

わたしの娘よ!わたしの娘よ!

あなたがわたしに触れた

わたしから力が出て行ったことを感じた

あなたの信仰があなたを救った

安心して行きなさい。

 

はい、行きます。

 

(作詞作曲:ジョアン・カルロス、

日本語訳:松本敏之)

 

 

 

 

日本キリスト教団 経堂緑岡教会

〒156-0052 世田谷区経堂1-30-21

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悪霊からの解放

2013年06月21日 | ルカによる福音書(1)

ルカ福音書による説教(42)

詩編7編1~7節

ルカによる福音書8章26~39節

   2010年9月5日

     牧師 松本 敏之

 

(1)内側から人間を襲う嵐

 主イエスの一行は、ガリラヤ湖で嵐に遭いましたが(22~25節)、ようやく無事にガリラヤ湖を渡り切って、向こう岸のゲラサ人の地方へ着きました。そこへ、「悪霊に取りつかれた男」がやってきました。その男は、「長い間、衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとして」(27節)いました。イエス・キリストを見ると、わめきながら、ひれ伏したというのです。

前回のところでは、自然が荒れ狂って嵐になりましたが、人間にもまた同様のことがあります。自然の嵐は外側から人間を襲いますが、この嵐は内側から人間を襲って、非人間化していきます。「この人は何回も汚れた霊に取りつかれたので、鎖でつながれ、足枷をはめられて監視されて」(29節)いました。恐らく凶暴で、放っておくと、まわりの者に危害を加えていたのでしょう。彼はそのように加害者でありましたが、それ以前に彼自身が、この嵐に襲われて苦しむ被害者でもありました。

 彼は墓場に住んでいたということですが、それはひとつには、まわりの人に迷惑をかけないように、まわりの人がそこへ追いやったということがあるでしょう。もうひとつは、彼自身が他のところでは落ち着かず、お墓だけが彼の安住し得る場所であったのかも知れません。それは、自分に閉じこもる姿の現れではないかと思います。しかしただ、閉じこもっていただけではなく、自分の存在をアピールしたかったのではないでしょうか。しかしうまくアピールができない。人にいやな思いをさせることだけが、彼らの存在のアピールの仕方であったのかもしれません。

 今日では、きちんとした病名がつくのかもしれませんが、聖書は、こうした事柄の背後に悪霊の働きを見るのです。イエス・キリストが私たちの世界に来られてなさったのは、その人自身と、その人に働いている悪霊を分けること、そしてその人から悪霊を追い出すことでありました。

 この時のイエス・キリストの働きも、そのような「悪霊を追い出す」働きであったと思います。この直前のところでは、嵐という大自然に働きかける力よりも、イエス・キリストの力のほうが上だ、ということを語りましたが、今日のところでは、人間を非人間化していく力に対して、それよりも上だということを語っています。

 ただこうしたことは、特別な病気をもった人についてだけではありません。人間だれしも、自分の中に、二人の自分がいて葛藤するということを経験するのではないでしょうか。そしてどちらかを選んでいる。「そんなことをやっても何の得にもならないから、やめておけ」とか、「今なら誰も見ていないから、やってしまえ」とか、そういう声と戦いながら生きているような面があるのだと思います。

 使徒パウロはこう言いました。「そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです」(ローマ7:17~18)。パウロも自分をよく洞察し、人間がどういう存在であるか、よく知っていたと思います。

 

(2)悪霊の言葉が意味すること

 さてこの人はイエス・キリストに向かって、こう叫びました。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい」(28節)。この言葉は、彼自身のうちにいる「悪霊」の叫びであると言えますが、二つの意味で興味深い言葉です。

 ひとつは、悪霊がイエス・キリストのことを「いと高き神の子」と呼んでいることです。イエスを最初に「神の子」と認め、そう呼んだのは、信仰をもった人間ではなかった。これまでのところで、まだ誰もイエス・キリストのことを「神の子」と呼んだ人はいません。弟子たちの代表であるペトロが、イエス・キリストに対して、「神からのメシアです」と最初の信仰告白をするのですが、それはずっと後のことです(ルカ9:20)。これは、どんな人間よりも、悪霊のほうが、イエス・キリストが一体誰であるかを見抜いていたということではないでしょうか。悪霊は、力の面だけではなく、知恵の面(特に神を見抜く知恵の面)においても、われわれ人間よりも上手(うわて)なのです。

 もうひとつは、悪霊が、イエス・キリストに向かって、「かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい」と言っていることです。悪霊は、自分の立ち位置をわきまえていました。人間なら、何とでもなる。人間は自分の手の内にあるようなものだけれども、神の子にはかなわないということを知っている。

マタイ福音書の並行記事では、ここに興味深い言葉が記されています。「まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか」(マタイ8:29)。「まだ、その時ではないのに」の「その時」とは、いつのことでしょうか。一言で言うとすれば、やはり恐らく「世の終わり」「終末の時」でしょう。おもしろいことに、悪霊たちは、世の終わりを、自分たちが滅ぼされる時として、わきまえていたということではないでしょうか。この当時の人々の間にも、世の終わりについてさまざまな考え方がありました。そしてそれはすべてが明るみに出る時ですから、ある意味では恐ろしい時として、考えられていたのも事実です。

 しかし世の終わりを誰よりも恐れていたのは、悪霊たちであったのです。自分たちの命は、世の終わりまででしかない。それまでは、ある意味で自分たちがあたかも支配者のように振る舞うことを許されているが、その時には、滅ぼされる運命にある。誰が一体彼らを滅ぼすのか。それは神であり、神の子です。ですからこの時、こんなにも早く神の子が登場してきてしまったので、悪霊たちはあわてたのでした。「あなたが登場されるのは、一番最後、フィナーレの時でしょう。少し早すぎるのではないですか。もう少し私たちに暴れさせてください」。

 

(3)「水戸黄門」

 テレビで「水戸黄門」などを見ていると、最初から黄門様が出てくると面白くないですね。最初の40分くらいは、悪いやつが暴れまわる。暴れまわるのは下っ端かもしれません。そのうしろに悪代官がいて、糸を引いている。顔を見せない。そして真面目に一生懸命働いている者が踏みにじられている。テレビの前のわれわれは、その外側にいる者だから、構造はわかっているわけです。それでも感情移入して見ています。

水戸黄門の印篭が出てくるのは、大体、8時45分頃です。「控えー控えー。ここにおられる方をどなたと心得るか。恐れ多くも先の副将軍、水戸光圀公にあられるぞー。頭が高い。」みんなの気持ちがいっぱい高まったところで出てくる。あれが8時半に出てきてしまうと、ちょっと早すぎる。

マタイが「まだその時ではないのに」と書いているのも、「神の子が登場するのは最後の時ではなかったですか。何でそんなに早く来てしまったのですか」というような感じです。

悪霊たちは、自分たちが神の子に負けることを知っていたので、その登場に非常に敏感であったのです。このことについても、悪霊は人間よりも敏感であったと言えるのではないでしょうか。

 

(4)レギオン

彼は「レギオン」と名乗りましたが、それは、「たくさんの悪霊がこの男に入っていたから」(30節)だとあります。レギオンというのは、ローマの軍団で歩兵6000とこれを護衛する300ないし600の騎兵から構成されていたということです。ローマの軍隊によって残虐行為を受けていたように、彼も内側からそのような目に遭っていたという理解もできるかもしれません。

 同時に、ここには、自らの元来の名前を失った人の姿があるように思います。名前はその人格を表すと言われます。かつて、日本軍は朝鮮半島において、朝鮮・韓国の人々の名前を奪って支配したことがありますが、名前と言うのは、その人のアイデンティティーにかかわり、尊厳にかかわるものです。ですからそれを奪われるというのは、自己が否定されるということであり、恐ろしいことです。彼は名前を失い、それを奪った者(悪霊)が名乗っているのです。

悪霊たちが、まだ自分たちの時だと思っているのに、実は神が勝利される時が始まっている。主イエスが来られたということは、世の終わりの時が始まったということです。悪霊たちは、いきなり神の子と出会って、あわてふためきました。何とか生き延びる道を見いだそうとして、たまたま目に触れた豚の大群を指して、「我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ」(32節)と懇願いたします。

 しかし、イエス・キリストの力は、その男のアイデンティティーを奪ったものよりも強いのです。

その悪霊たちは、「底なしの淵へ行けという命令を出さないでください」と頼みました。そこがどんなところか知っており、同時に、最後の日にはそこへ行かざるを得ないということも知っていたのでしょう。どういうわけか、イエス・キリストは、その願いを聞き入れ、彼らは豚の中に入るのです。豚の群れは崖を下って、湖になだれ込み、おぼれ死にました。

 

(5)町の人の反応

 その出来事を見た豚飼いたちは、そのことを町中の人に告げました。真相を確かめるべく、町の人たちが現場にやってくると、それまで悪霊に取りつかれていた男が正気に戻って、服をきちんと着ていたので、びっくり仰天してしまいます。

 彼らは、イエス・キリストに「この町から出て行ってもらいたい」と願いました。どうしてでしょうか。ひとつには、彼らはイエス・キリストの中に、ただならぬ力、人間の力を超えた力が働いていて、それを彼らは受け入れられなかったということでしょう。その恐ろしい力のもとにはいたくない、と思ったのです。悪霊を追い出すほどの力をもっているのは、もしかすると悪霊の頭だろうと思ったのかもしれません(ルカ11:15参照)。彼らにしてみれば、今までの悪霊と何とか折り合いをつけながら、墓の中に追いやっているほうが、ましだと思ったのです。神の力は必要なかったと言ってもいいでしょう。

 もうひとつは、彼らが豚を失うという大きな経済的不利益を被ったことでしょう。神の力が働く時、自分たちの経済的利益をも破壊されかねない。経済的犠牲を伴うことはしたくなかった。小さな問題は解決したいけれども、「今のままの生活で十分です。悪霊とも、何とか共存しているのです。それでいいのです。それを乱さないでください」ということです。

 私たちの今のシステムも、神様の力が働くと、大きく揺さぶられる。都合が悪い。何かそういう気持ちを町の人の反応は表しているように思います。

 

(6)「自分の家に帰りなさい」

 そうした中、この悪霊を追い出してもらった人だけは違っていました。彼はこの町に留まるよりも、イエス・キリストと一緒にこの町を出て行きたいと思いました。そこで新しい自分の人生を歩み始めたい。この町では、これまでとは違った意味で異質な存在なのです。しかしイエス・キリストは、それをお許しになりませんでした。

この町に留まるということが、彼にとっての召命でありました。イエス・キリストが私たちを召される時には、必ずしも同じ仕方ではない。一人一人違った使命が与えられて、違った形でお召しになります。イエス・キリストに付いて行くことを求められる場合もありますし、自分が大きく変えられたということを、自分の町で証しすることを求められる場合もあります。彼の場合には、彼が町を出て行ってしまうと、恐らく町の人は、この事件を過去に追いやり、忘れ去ることになったでしょう。しかし、彼がそこに居続けることが、「あれは本当の出来事だったのだ」という証しになったのです。

 

(7)ゲラサ人の地方

「ゲラサ人の地方」というのは、ガリラヤ湖から南東50キロとかなり遠いところのようです。ここは、異邦人が多く住む地域でありました。新約聖書の中で、異邦人伝道というのは、復活のイエス・キリストの伝道命令から、始まっていきます。ルカは、使徒言行録においてそのことを書いていくのですが、その前触れがここにあると言ってもいいでしょう。イエス・キリストの異邦人伝道というのは、この男において始まっていたのです。そうしたことが、ゲラサ人の地方という言葉の中に、含まれていると思います。

 私たちは、そのようにして始まった異邦人伝道の延長線上を生きています。そのようにして一人の人に向かって語られた言葉は、同時に私たちに向かって語られていることであり、人間を内側から作り変えて、新しく生きるようにと召されています。

 そのことを心に留めて、秋の歩みを始めていきましょう。

 

 

 

日本キリスト教団 経堂緑岡教会

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僕として生きる

2013年06月21日 | ルカによる福音書(2)

ルカ福音書による説教(67)

箴言10章6~12節

ルカによる福音書12章35~48節

       2013年6月2日

  牧師 松本 敏之

 

(1)シモベかボクか

 本日の説教題を「僕(シモベ)として生きる」としました。「ボクとして生きる」ではありません。説教看板を見た教会員から「どちらでしょうか」と尋ねられました。青年月間だから、若者言葉で、「ボクとして生きる」なのかと思われたのかもしれません。「誰が何と言おうと、ボクはボクとして生きる」ということで、意味が通じないことはないですが、その場合は「自分らしく生きる」とかにするでしょう。「シモベとして生きる」です。

数年前、ある大学の礼拝に招かれて説教をしました。聖書箇所はマタイ25章の「タラントンのたとえ」だったのですが、プログラムに印刷された聖書には、振り仮名がありませんでした。聖書朗読は学生が担当しましたが、こう読んだのです。

「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、ボクたちを呼んで、自分の財産を預けた……。」「さて、かなり日がたってから、ボクたちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。」この「彼らと」というあたりで気づいて欲しいと思いましたが、そのまま進みました。もしかして「忠実な良いボクだ」「怠け者の悪いボクだ」となるかなと心配しましたが、ここは、「忠実な良いシモベだ」「怠け者の悪いシモベだ」と大丈夫でした。

 ちなみに、最近の若者言葉に、「ボク的には……」というのがあります(「ボク的には、何々です、など」)。それを聞いた時、私は「就職試験で、『あなたはこの会社で何をやりたいのですか』と聞かれて、『ボク的には……』と答えていたら、落ちるよ」と言いました。日本語としては「ボクとしては」が正しいでしょうし、それよりも「私としては」のほうが正式でしょう。

 先週5月24日、サラリーマン川柳ベスト10というのが発表されましたが、その中の第二位は、こういうものでした。

「電話口 『何様ですか?』と 聞く新人」(吟華)。

これを聞いて、一体何がおかしいのかわからないという青年は、重症です。第一位がどういう川柳であったか知りたいですか。

「いい夫婦 今じゃどうでも いい夫婦」(マッチ売りの老女)。

ただしこれは青年月間とはあまり関係がありません。どちらかと言えば、9月頃のほうがよいでしょう。

 

(2)主を畏れることは知恵の初め

 さて先ほど申し上げましたように、経堂緑岡教会では、6月を青年月間としております。若い人たちがこれからの長い人生を歩んでいくにあたって、「僕として生きる」ということ、つまり「自分の人生には主人がおられる」ということを自覚するのは大事なことではないでしょうか。

 今日は、箴言1章1~7節をお読みいただきました。その最後に、こういう言葉があります。「主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る」(7節)。

 この「知恵」の「知」は、単に「知識」というレベルではなく、もっともっと深いこと、英語で言うと、knowledge(知識) ではなく、もちろん information (情報)でもなく、 wisdom (知恵)として知るということです。自分の人生の真ん中に主を迎えて、その方を畏れて生きる。

コヘレトの言葉12章1節には、「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」とあります。口語訳聖書では、「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」という訳でした。「創造主を心に留めること」が生きる上で根本的に大事なことなのです。

それを知らないと、私たち人間は、つい自分が自分の人生の主人だと思い込んでしまう。あるいは人間がこの世界の主人だと思い込んでしまう。私たちは、自分については自分が一番よく知っているように思っていますが、案外よく知らないものです。(他人は知っているのに、自分だけが知らないということさえあるでしょう。)自分以上に、自分のことを知っている方がおられるということは一つには恐ろしいことですが、そこに身をゆだねて、それを前提に生きるのは大いなる安心感のあることであります。私たちは自分の体についてもよく知らないし、自分の命、寿命についてもよく知らない。特に命の終わりがいつ来るのかということはわかりません。

 このたとえは、世の終わりを想定して書かれていますが、それだけではなく、私たちの人生の終わりについても同じことが言えるでしょう。

 

(3)二つのイメージ、帯とともし火

 この部分は大きく二つの部分から成り立っています。前半35~40節は、弟子たち全員(すべての人)に向けられた言葉です。後半の41~48節は、弟子たちの指導者への言葉ですが、少し広げて、上に立つ人に向けて語られた言葉として読むこともできようかと思います。

 主イエスと弟子たちは、今、エルサレムへ向かう途上にあります。彼らが今、その途上にあるということと、主がやがて戻ってくるということの両方、言い換えれば、これから十字架に向かうということと、やがて終わりの日が来るということ、この二つの視点が、イエス・キリストの教えに厳粛さと緊張感を与えています。

 前半のほうは、二つのイメージと二つのたとえが中心になっています。二つのイメージとは、腰に締める帯と、燃えているともし火です。

 「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい」(35~36節)。

昔はゆったりとした服を着ていたので、外出する時や仕事をする時は帯を締めました。そしてともし火をともし続ける。

この二つのイメージは、いつ主人が帰って来てもいいように、僕たちに準備ができているということのしるしでありました。

 

(4)給仕をする主人、夜中に来る泥棒

 そのイメージを用いて、二つのたとえのうち一つ目は、帯をめぐるものです(37節)。主人自身が帯をして、あたかも僕であるかのように給仕をしてくれる。普通はありえないことでしょうが、イエス・キリストのことを考えるとよくわかります。本当は私たちの主人であるのに、私たちに仕えるために来てくださった。主人が僕のように給仕し、出迎えてくれるということです。

 二つ目は「夜中に来る泥棒」のたとえです(38~40節)。泥棒はいつ来るかわからない。主人ですらもわからない。その家の管理を任せられている者は、泥棒がいつ来ても不意打ちにならないようにぬかりなく備えをします。泥棒のほうは何時頃が一番手薄かを調べてやって来ます。その時の警備を強くすれば、またその裏をかいてくるかもしれません。そうするとずっと起きていなければならないのでしょうか。そんなことは無理です。人間だれしも眠らなければ体がもちません。眠らないでずっと起きているということではなく、準備をして休む。きちんと準備をしているならば、安心して眠ることができます。

 

(5)上に立つ人

 もうひとつ後半の言葉(41~48節)は、指導者たちに向けられています。これは、シモン・ペトロの「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」(41節)という質問に促されて語られたものです。

人の上に立つのは、大変なことです。やりがいのあることでしょうが、誘惑も多いものです。つい自分が主人であるかのように錯覚してしまいます。

指導者というのは、実は一番上ではなくて、その上には本当の主人、つまり神様がおられて、その本当の主人から、一時的に大事なものを預かって管理する存在であることを忘れてはならないでしょう。

それを知っていながら、無視したり、あえてそれがないかのようにふるまったりすれば、その地位にいない人よりも責任を重く問われるのです。

「主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される」(47~48節)。

厳しい言葉です。そうすると、私たちは、裁かれないために、上に立つことを避けるほうが賢明ということになるのでしょうか。

 

(6)奉仕の場が広がること

阿佐ヶ谷教会の牧師であった大宮溥先生の『マルコ福音書講解説教』(上・下二巻)が、最近出版されました。私は、大宮牧師のもとで、3年間、伝道師、副牧師として働いた関係で、今その下巻の書評を書いているところです。その本の中にこういう言葉がありました。

「かつて阿佐ヶ谷教会の青年会の仲間の間で、会社に入って昇進することを願うのはエゴイズムであって、キリスト者には禁じられているのではないかという議論がされました。彼らがその当時阿佐ヶ谷教会の信徒総代であったN氏にそれを尋ねたとき、その答えは、昇進するということは自分の奉仕の場が広がることであるから、そのために努力することは間違っていないということでした。この人は、自分の地位を『奉仕の場』として受けとめていたのです」(『十字架と復活への道』36頁)。

「職場の中で自分の地位がだんだん上がっていく。それは信仰をもって生きることと矛盾するのではないか。」特に人生をまじめに、信仰をもって生き抜こうとする青年たちにとって、それは大きな問いであったようです。うしろめたい思いもあったかもしれません。しかしN氏によれば、昇進するのは奉仕の場が広がることだ、というのです。裏返して言えば、それを奉仕の機会とするのではなく、自分のためにその地位を利用するならば、その重い責任を問われることになるのでしょう。

私も実は、阿佐ヶ谷教会時代、この話を、後に日銀総裁になられた速水優さんから聞いたことがあります。この質問をされたのは若き速水さん自身であったかもしれません。私が速水さんから聞いた話は、少し言葉が違っていました。私が聞いたのは、「地位が上がることは、ディシジョン・メイキング(決断)の幅が広がることだ。それを恐れてはいけない」ということでした。その人の決断によって、影響を受ける人が多くなる、その人がより多くの人を守ることができるようになる、その人々の生活向上に役立つことができるようになる、時には命を救うことができるようになる、ということです。なかなか含蓄のある教えだと思いました。しかし逆に言えば、それができる地位にありながら、自分の身を賭してするのでなければ、一体何のための地位かということになるでしょう。それをしなかった場合には、その責任を重く問われるのです。

私が今日、特に青年たちへのメッセージとして伝えたいことは、どんなにこの世の中で上に立つ存在になったとしても、自分の上には本当の主人がおられて、その方のもとで、その方が何を望んでおられるかを探り、その意思を実現するために、私たちは召されているのだということです。それを心に留めていただきたいと思います。

 

(7)終わりの日を見据えて

今日のルカ福音書の箇所は、第一義的には、まさに「終わりの日の備えをせよ」ということですが、そこには二重の意味があります。ひとつはこの世の終わり、終末ということ、もうひとつは私たちの人生の終わりということであります。

当時のキリスト者たちは、「世の終わりがさほど遠くない時に来る」と信じていました。ですからいつその日が来てもいいように備えをするように勧められていました。

聖書の中では、時代の古いものほど、終わりの日が近いという危機感が強い感じがします。たとえばパウロの手紙などには、「定められた時は迫っています」として、「人は現状にとどまっているのがよいのです」と語ります(Ⅰコリント7:26)。しかし時がくだるに連れて、「世の終わりはそう早くは来ないかもしれない」ということになり、例えば、牧会書簡と呼ばれるテモテへの手紙、テトスへの手紙などでは、長期戦に備えて、教会の組織を整えることが大切な課題となっていきます。私は、この両面とも大切であると思います。

ここでは、「いつも目を覚まして用意をしていなさい」とありますが、マタイによる福音書にある「十人のおとめ」のたとえ(マタイ25:1~13)では、5人のおとめは油を用意しないまま眠り、賢いおとめは油を用意して眠っていました。つまり両方とも眠ったのです。先ほど申し上げたように、私たちは眠らないと体がもちません。がんばって徹夜していると、一番肝心の時に、睡魔に襲われて眠ってしまうかもしれません。ですから、終わりの日の備えにしても、「いつ終わりの日が来てもいいように」ということは、「明日、終わりの日が来てもいいように」ということと同時に、「明日、終わりの日が来なくてもいいように」ということでもあるでしょう。長期戦も視野に入れて疲れすぎないように、ということです。

ルターは、「たとえ明日世の終わりが来ようとも、リンゴの木を植える」と語ったと言われますが、そのような冷静な姿勢をもたなければならないと思います。

 

  

 

 

 

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嵐の中の助け

2013年06月11日 | ルカによる福音書(1)

ルカ福音書による説教(41)

詩編107編23~32節

ルカによる福音書8章22~25節

   2010年7月25日

牧師 松本 敏之

 

(1)イエスの船に招かれる

私たちの人生は、船旅のようなものです。私たちは、それぞれの船に乗って、この世の大海原を旅します。いずれ嵐に遭遇します。大きな嵐に遭う人もいれば、小さな嵐ですむ人もいるかもしれません。しかしどんな人であっても、多かれ少なかれ嵐に遭わない人はいません。私たちは、そうした嵐に備えて、できるだけしっかりした船で旅をしたいと願うものでありましょう。

 大きなしっかりした船とは、どういうものでしょうか。確かな仕事に、豊かな財産、それに高い地位でしょうか。嵐が来た時に、お金も仕事もなければ、真っ先に大きく影響を受けます。ですからお金を蓄えて、立派な地位を築くことこそ、ゆるがない人生を歩むことだと、普通は考えるのではないでしょうか。

そしてそのように自分でしっかり整えた船に、イエス・キリストをお迎えしたいと考える人もあるかもしれません。必要なものは、すべて何でももっている。その上に信仰があれば、「鬼に金棒」。もうどんな嵐が来ようともびくともしない。いや悪魔が来ようとも、はね返す力をもつことができる。

 しかし誤解しないようにしなければなりません。信仰をもって生きるということは、私たちが整えた船に、さらに確かなお守りのようにして、イエス・キリストをお迎えすることではないのです。そうであれば、私たちの信仰もプラスアルファのようなもの、アクセサリーのようなもの。人生の土台は、この世の確かさの上に成立しているのです。

 むしろ、イエス・キリストが乗っておられる船に、私たちが招かれているのであり、その主を信じて私たちが主イエスの船に乗り込み、共に旅をする決意をするのです。

 「ある日のこと、イエスが弟子たちと一緒に舟に乗り、『湖の向こう岸に渡ろう』と言われたので、船出した」(22節)。

 

(2)従ったがゆえに嵐に遭う

 イエス・キリストが乗っておられる船は、小さな、今にも壊れそうな船かもしれません。この時もボート(舟)でした。実際、嵐が起こり、沈みそうになりました。イエス・キリストが共におられるということは、嵐を避けることができるということではありません。イエス・キリストがいても嵐は来るのです。弟子たちの中には、この時、イエス・キリストについて来たことを後悔した者もあったかもしれません。「なんでこんな嵐になってしまったんだ。イエス様について来なければ、こんなことにはならなかったのに。」

 イエス・キリストに従ったがゆえに、嵐にもろに巻き込まれるということもあるでしょう。この世界が神様のみ旨に逆らった歩みをしているならば、神様のみ旨に従って歩もうとする者は、大きな逆風を受けることになります。イエス・キリストご自身が、そのような嵐を受け、その中で死んでいかれたのですから、そのイエス・キリストに従おうとする者が全くそのような逆風を受けないほうがおかしいのかもしれません。自戒的に思うのですが、どこかで自分をごまかしているのかもしれません。

 

(3)嵐の中で眠るイエス

弟子たちはあわてふためきました。イエス・キリストのそばにいながら、恐れとまどう弟子たちは、私たちの姿を映し出しているようです。しかしこの激しい嵐の船の中で、イエス・キリストが、あたかも何事もないかのように眠っておられます。

「渡って行くうちに、イエスは眠ってしまわれた」(23節)。

イエス・キリストは、この後、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」(ルカ9:58)と言われます。狐や鳥でさえ帰るところがあるのに、自分にはこの世界において、どこにもわが家と言えるような場所、安心して眠るところがないということです。あえて言えば、この世界にあっては、ホームレスであったのです。

ところがどうでしょう。そのイエス・キリストが、嵐の船の中で、すやすやと眠っておられる。一体どうなっているのでしょうか。「どこにも安心して眠るところがない」ということと「どんなところでも安心して眠ることができる」というのは、表面的には矛盾することでありましょう。しかし、むしろそこにこそ、イエス・キリストのこの地上での生活の秘密があったのではないでしょうか。

イエス・キリストにとって、「故郷」というのは、天でありました。天の父のふところこそ、イエス・キリストが心から憩うことのできる場所でありました。ところが、そのお方が私たち人間のために、ふるさとを離れて、この地上に来られ、(フィリピ2:6~8)、しかも寄留者として過ごされました。しかし逆に言いますと、天に属される方として過ごされたからこそ、この世のどんな嵐の中でも、びくともされなかったのではないでしょうか。

ヨハネ福音書では、こう言っておられます。

「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない」(ヨハネ8:23)。

たとえて言えば、天国発行のパスポートをもちながら、地上のビザで生きているようなものでしょうか。外国人として、寄留者として、しかしこの地上にしっかりとした場所をもって生きられたのです。

 

(4)クリスチャンの地上生活

そしてそれは同時に、イエス・キリストに従おうとする者の生活をも指し示していると思います。私たちクリスチャンも、地上に生きる者ですが、イエス・キリストのゆえに、天に国籍をもつ者とされました。フィリピの信徒への手紙3章20節には、「わたしたちの本国は天にあります」と記されています。以前の口語訳聖書では、「私たちの国籍は天にある」と訳されていました。私たちは、本国を天に置く者として、この地上を旅するのです。この地上の世界は、(上下逆さまのようですが、)天によって支えられて、すでに神様のみ手の中にあります。だから、私たちはどこへ行こうとも、神様の目の届かないところはない。私たちは、そのもとで平安を得ることができるのです。

私は、イエス・キリストが眠っている姿の中に、そういうクリスチャンとして生きる安らかさの模範を見る思いがします。

宗教改革者のカルヴァンは、この物語を指して、「人間としてのイエスは眠っておられるけれども、神としてのイエスは目覚めて活躍している」と言ったそうです。イエス・キリストは、自分の責任を放棄して眠っておられるわけではありません。弟子たちはそのことがわからず、心配になりました。「弟子たちは近寄ってイエスを起こし、『先生、先生、おぼれそうです』と言った」(24節)。

しかしイエス・キリストは、弟子たちを守られないわけではありません。その眠りは、弟子たちへの無関心ではなく、父なる神への絶対的な信頼と、すでに神様が働いているという安心を象徴しているのです。

 

(5)弱いときにこそ強い

最初に、私たちの人生は船に乗って旅をするようなものだと言いましたが、どんなに大きな船でも沈むことがあります。事実、タイタニック号がそうでありました。どんなに大きな会社でもつぶれることがあります。私たちは、そういう船自体の強さにより頼むのではなく、「イエス・キリストが共にいてくださる」、その強さにより頼むのです。使徒パウロは、「弱いときにこそ強い」と言いました。

「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」(Ⅱコリント12:9~10)。

このパウロの言葉は、クリスチャンの強さがどこあるのかということを、よく示していると思います。イエス・キリストは、この時、「先生、先生、おぼれそうです」と叫ぶ弟子たちに向かって、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と叱責されました(25節)。

ある意味では、彼らに信仰があったから、イエス・キリストを起こしたとも言えますが、彼らを覆っていたものは不安であったでしょう。しかしながらそうした叫び、弱いところから発せられる叫びを、イエス・キリストは聞いてくださるのです。

別の時に、やはりガリラヤ湖で、イエス・キリストが水の上を舟に向かって歩いて来られました。ペトロが「自分もそちらへ行かせてください」と言うと、イエス・キリストは「来なさい」と言われました。ペトロは歩き始めるのですが、強い風に気付いて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫びました。あの時も、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われましたが、手を伸べて、しっかりとペトロの手を捕まえて引き上げてくださいました(マタイ14:31)。「信仰がないからおぼれるのだ」と言って、放っておかれたわけではありません。弟子を叱責しながらも、助けてくださる。それが私たちの主であります。

 

(6)嵐を静める主

今日は、詩編107編23節以下をあわせて読んでいただきましたが、ここにも航海の話が出てきます。

「彼らは、海に船を出し

大海を渡って商う者となった。

彼らは深い淵で主の御業を

驚くべき御業を見た。

主は仰せによって嵐を起こし

波を高くされたので

彼らは天に上り、深淵に下り

苦難に魂は溶け

酔った人のようによろめき、揺らぎ

どのような知恵も呑み込まれてしまった。

苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと

主は彼らを苦しみから導き出された」

(詩編107:23~28)。

さらに、

「主は嵐に働きかけて沈黙させられたので、波はおさまった」(詩編107:29)とあります。

弟子たちの主であるイエス・キリストも詩編の「主」(ヤハウェ)同様に、嵐をおさめる力、自然をも支配する力をもっておられました。

一声お命じになると、風も波も静まって凪になりました。そして弟子たちは、「いったい、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか」(25節)と互いに驚嘆の声をあげました。

これは、7章から、ずっと続いています「イエスとは一体誰か」という大きな問い(7:19、7:49)の流れの中にあり、「自然をも支配する方である」というのが、その答えの一つとして示されているのでしょう。

私たちも、このお方を主として歩んでいきたいと思います。教会も、昔から船にたとえられてきました。「この世を旅する乗り物」ということを意味しているでありましょう。同時に教会は揺れ動く、教会も揺れ動くということを指し示していると思います。私たちも、その中で、揺れ動きながらも、変わらぬ主、イエス・キリストを信じて、そのもとにある安らかさを身につけていきましょう。イエス・キリストのもとにこそ、安らぎがあります。

 

(7)飼い葉桶で眠るイエス

少し季節外れのようですが、私は、この話とクリスマスの情景を、重ねて思い起こします。生まれたばかりの乳飲み子イエスは、飼い葉桶の中で、ただ眠っておられました。あの時、イエス・キリストは、小さく弱く、力のない姿でありました。

今日のテキストの、嵐の中で眠っておられるイエス・キリストは、助けを求めて叫ぶと、起きてくださいましたが、飼い葉桶で眠るイエス・キリストは、無力です。ただ受け身で、眠っていることしかできません。しかしながら、そこには、まことの平安がありました。イエス・キリストが赤ちゃんとして、この世に来られ、眠っておられるその姿の中に、神様のみ旨がすでに表われているからであります。そこには、人間と徹底的にかかわろうとする神様の決意が表われているからです。

「どうして今、神様は何もしてくださらないのか。今こそ助けてください」と叫びたくなるような状況もしばしばあります。一人一人の信仰生活においてもそうでありますし、教会の歩みにおいても、そうでしょう。もっと大きなレベル、国家や世界においても、そうでありましょう。そこで「主よ、助けてください」と叫びながらも、私たちと共にいてくださる主を信じて歩んでいきましょう。そうした中で、励まされ、勇気を与えられて、私たち自身が主のために働く者と変えられていくのではないでしょうか。

 

 

 

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種を蒔(ま)く

2013年06月11日 | ルカによる福音書(1)

ルカ福音書による説教(40)

イザヤ書6章6~10節

ルカによる福音書8章4~15節

   2010年7月4日

      牧師 松本 敏之

 

(1)たとえを用いて語るイエス

 イエス・キリストは、福音宣教の旅を続けておられます。前回のところで、「すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた」(1節)とありました。旅を続けるうちに、イエス・キリストに従う人々も増え続け、評判も高くなっていったのでしょう。「イエス・キリストが自分たちの町に来られるそうだ」ということになると、大勢の人が集まってきました。その大半は特別な教育を受けたわけでもない普通の民衆でした。そこでイエス・キリストは、たとえを用いてお話しになりました。

「大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がそばに来たので、イエスはたとえを用いてお話しになった」(4節)。

 

(2)わかりやすくするため

 たとえというのは、二つの面をもっています。ひとつは、ある事柄をわかりやすく説明するために、それとよく似たこと、多くの場合、身近なものを例にとるということです。新約聖書の言葉であるギリシア語では、「たとえる」という言葉は、「あるものの傍らに別のものを置く」という意味からなっているそうです。

現代の説教者も、話をわかりやすくするために、たとえを用いることがよくあります。ただ気をつけなければならないのは、あまり適切でないたとえをもってくると、かえってわからなくなることもありますし、あるいは話を面白くするために無理にもってきたようなたとえの場合には、聞いている人がそのたとえだけをよく覚えていて、あとで「今日は、一体何の話だったっけ」ということになりかねません。そういう意味では、イエス・キリストはたとえ話の名人でありました。いつもぴたっと来るたとえをお用いになりました。

イエス・キリストは、当時の民衆の生活に密着した題材をたくさんたとえに用いられました。野の花や空の鳥など自然に密着したもの、種蒔きやぶどう園での労働など農業に密着したもの、羊や羊飼いなど牧畜に密着したもの、あるいは漁、漁業に関するものなど多岐にわたっています。

共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)に記されたイエス・キリストの教えのうち、三分の一以上はたとえによるものであり、その数も、重複するものを除いて40種類以上におよぶということです。これはまさに、イエス・キリストが民衆と共に生きられたことの何よりの証しであると思います。

 

(3)わかる人にだけ語るため

 ところで、たとえにはもう一つの面があります。先ほど申し上げたこととは、いわば反対のことです。

何らかの事情で、はっきりと言うことができないために、暗号のような言葉を用いて、わかる人にだけわかるように告げたのです。「聞く耳のある者は聞きなさい」(8節)というのも、そういうことが背景にあります。イエス・キリストは、続けてこう言われました。

「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは『彼らが見ても見えず、聞いても理解できない』ようになるためである」(10節)。

ちなみに旧約聖書の言葉、ヘブライ語の「たとえ」という言葉には、「なぞの言葉」という意味があるそうです。旧約時代に、黙示文学というものがありました(ダニエル書、エゼキエル書の一部)。「黙示」というのは、「預言」の一種と言えますが、通常の「預言」がはっきりと直接に神の言葉を告げるのに対して、「黙示」というのは、なぞの言葉、隠された言葉で、神の言葉を告げるのです。新約聖書のヨハネの黙示録というのも、同じ系譜です。

私たちも、今、自分たちがしている悪いこと、ひどいことを客観的に理解するために、あえて遠い国の似たような話をたとえとして使うことがありますが、その意味がわかる人とわからない人があります。わかった場合にも、悔い改めに導かれる人と怒り出す人がいます。

 しかし、「イエスはこのように話して、『聞く耳のある者は聞きなさい』と大声で言われた」(8節)ということは、本当は、やはり拒否するのではなく、聞いて欲しいのです。ここに本音があります。

 

(4)種蒔きのたとえ

 さてこの時、イエス・キリストが用いられたのは、「種蒔き」のたとえでありました。ここでは、ある人が蒔いた種の四種類の行方について語られています。第一の種は、道端に落ち、鳥が来て食べてしまいました。第二の種は、石だらけで土の少ない所に落ちました。すぐに芽を出しましたが、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまいました。第三の種は茨の間に落ち、茨がそれをふさいでしまいました。第四の種は、良い土地に落ち、これだけが百倍もの実を結んだということです。

この四種類の種とは、さまざまな形で蒔かれた「み言葉の種」であり、その木は私たちの信仰生活を指していると言えようかと思います。11節以下でこのたとえの説明が語られていますが、それを参考にしつつ、その意味を考えてみましょう。

(a)道端に

第一は、道端に落ちた種です。道端というのは、人や車に踏み固められています。根をおろす余地がほとんどありません。心が硬くなって、福音を聞いても受け付けない人のことでしょうか。信仰をもつことに対して、全然興味をもたない場合もありますし、意識的に反抗している場合もあるでしょう。そういう種は、鳥たちに食べられてしまうと言うのです。「道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである」(12節)という説明がつけられています。

(b)石地に

 第二は石地に落ちた種です。石地は太陽熱を保存するので、すぐに発芽しますが、同時に根も焼かれてしまう。熱しやすく、冷めやすいタイプでしょうか。突然、非常に熱心に教会に通うようになったかと思うと、突然ぱたっと来なくなる人があります。信仰が内側から育っていない場合には、何か積極的な理由がなくなったり、環境が変わったりすると、どうでもよくなってしまいます。信仰がその人の生き方を左右するほどのものではなかったのです。植物は上に見えている部分の何倍もの長さの根によって支えられています。それがないと、見た目には立派に見えても続かないものです。

(c)茨の中に

 第三は、茨の中に落ちた種です。石地ではありませんので、芽も出し、根もはります。しかし茨にふさがれてしまう。茨とは、外から来る誘惑でしょう。ちょうど茨が茎をふさいでしまうように、さまざまな誘惑に負けてしまう。「人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて」とあります(14節)。「お金」は、お金持ちにとっても貧乏な人にとっても、大きな誘惑です。信仰をもっていても、なかなかこの誘惑から自由になることはできません。その他にもさまざまな誘惑があるでしょう。かつては他にあまり楽しいところがなかったせいか、教会に青年たちが多く集まり、楽しみながら自然に人生の土台を築くことができました。しかし今は、目先の楽しいところで日曜日を過ごしながら、気づいてみたら人生の意味や目標について深く考えずに「いい大人」になってしまったということが多いのではないでしょうか。この第二と第三は、実際には深く関係していると思います。

(d)良い土地に

第四は、良い土地に落ちた種です。これは「立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たち」(15節)とあります。み言葉が素直にすっと受け入れられていき、いろいろなことがあったとしても忍耐して育んでいって、実を結ぶ人、ということです。「御言葉を聞き、守る」とはどういうことでしょうか。それは、その言葉に捕えられてしまうことではないでしょうか。聞いた福音がその人のうちで、何か決定的なかかわりをもち始めるのです。同じ生活をしていても、何も感じない人と、神様が生きて働いておられることを感知する人がいるのです。

 それにしても、この土壌の違い、というのは一体何なのでしょうか。これは頭の良し悪しとは関係がないように思います。頭がよくて、どんなに理解しても、それを拒絶するということもありますし、教育を受けていない人であっても、それをすっと受け入れて、それが実を結んでいくということもあります。もちろんその逆もあります。それは神様がそこで業を起こしてくださるかどうかにかかっていると言えるかもしれません。

 ここに四つのパターンが出てくるのですが、「私はどれ、あの人はどれ」というふうに分け過ぎないほうがいいかもしれません。「あの人は石地に落ちた種だ」とやると、裁きが始まります。「自分はどれだろう」ということにもなってきます。同じ人間の中でも、いろいろな状態のこともあるでしょう。「道端に落ちた種」とは、こういう<状態>のことだというふうに、柔軟に受けとめるほうがよいと思います。

 

(5)み言葉の種を受け入れる側のこと

 このたとえが何を言おうとしているのか。いくつかの角度から見ると、いろいろなことが見えてくるように思います。先ほどから申し上げてきたのは、み言葉を受け取る側、聞く側のことです。「自分は悪い土壌だからだめだ」とお考えになる方があるかもしれませんが、むしろ、それは神様が土地を耕してくださる。神様が私たちをよい土地に変えてくださるという信仰をもちたいと思うのです。

 この当時の種蒔きの仕方としては、先に種を蒔いて、後でそこを耕したそうです。日本では、最初に土地を耕して、よい土地にだけ種を蒔いていくというのが、一般的なようです。

 さらにここでは、あまり合理的でないようですが、とにかく多く蒔かれています。驚くべきことには、全く芽が出そうにないところ、道端、石地、茨の中にまで蒔かれているのです。このことは、その後で起こる神様の業ということを考えると、大きな可能性を秘めているのではないでしょうか。

 

(6)み言葉の種を蒔く側のこと

このたとえを、種を蒔く側から見てみますと、どんな土地であっても、時がよくても悪くても、種を蒔き続けることの大切さを語っているように思います。神様の僕として、イエス・キリストの弟子として、神の言葉の種を蒔き続けるのです。

その中で実りをつけるのはほんのわずかであるかもしれません。そのことは神様のほうが十分にご存じです。宣教において間違いを犯すこともあります。いろいろなことで、ふさがれてしまうこともあります。しかしたゆまず種を蒔き続けなさい。そういうことが、この中に隠れた励ましとして現れているのではないでしょうか。その中で、いくつかの種は、豊かに実を結ぶでしょう。

私たちが今日の世界においてなすべきことは、石地であろうと、茨の中であろうと、道端であろうと、種を蒔き続けることかと思います。日本では、事実、これまでも教会だけではなく、キリスト教の学校がそのような多くの福音の種を、若い学生、生徒たちの中に、幼稚園の中に、蒔き続けてきました。その中で、芽を出して実を結ぶのは、先ほど申し上げたように、わずかでしょう。しかし逆に、成人してからクリスチャンになった人に聞いてみると、何と80パーセントの人が若い頃にどこかで、幼稚園で、中学高校で、大学で、あるいは教会学校で、キリスト教に触れているというのです。種蒔きの大切さを思います。

 

(7)イエス・キリストご自身

イエス・キリスト自身が蒔かれたみ言葉の種はその後どうなったのでしょうか。この後、弟子たちは、結局、イエス・キリストを捨てて逃げていくことになります。そのことからすれば、主イエスの蒔かれた種は、結局みんな枯れてしまった、ということになるかもしれません。

 しかし神様は、人知を超えた仕方、復活という仕方で、その死んだ種から芽を出させてくださいました。

「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ12:24)。

そのようにして、イエス・キリストの十字架と復活から、多くの実を結ぶようになるのです。私は、ここにこそ、このたとえの秘密が隠されているように思います。

 私たちの小さな業も、そのような一粒の麦として死んだイエス・キリストの業の中に生かされています。その一粒の種が大きな実を結んでいる歴史の延長線上に、私たちも生きているのです。

私たち自身、「よい土壌として、神の言葉の種を育むことができるように」と祈り、「土地を耕してください」と祈りつつ、それを実らせていきたいと思います。種を蒔く側からすれば、どんな状況にあっても、時がよくても悪くても、み言葉の種を蒔くという業に励み、芽を出したら、水を注いでいく業に引き継いでいきたいと思います。

 

 

 

 

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