経堂緑岡教会  説教ブログ

松本牧師説教、その他の牧師の説教、松本牧師の説教以外のもの。

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エマオへの道で

2014年06月27日 | 創世記1章~11章

詩編118編22~25節  

ルカによる福音書24章13~35節

イースター礼拝 2014年4月20日

       牧師 松本 敏之

 

 

 

不思議な旅の道連れ

 「ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた」(13節)。

 「ちょうどこの日」というのは、婦人たちがイエスの墓で天使たちと出会った日です(1~12節参照)。彼女たちはそのときの出来事について弟子たちに話しましたが、この二人もそれを聞いていたのでしょう。しかし彼らは、それを聞いても何が起きたのかよく理解していませんでした。確かなことは、イエス・キリストの遺体が消えていたということ。それ以前にもっと確かなことは、自分たちが望みをかけていた方、すなわちイエス・キリストが十字架にかけられて殺されたことでした。彼らは、途中から旅の道連れになった人にこう言います。

 「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました」(21節)。過去形です。それから彼らは、この道連れに、聞いた通りのことを話しました。彼らが話し終えた後、その人はこう言いました。

 「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」(26節)。実は、その人こそイエス・キリストであったわけですが、主イエスはご自分について書かれていることを聖書全体にわたって解き明かされました。

エマオに到着しました。彼らはその旅の道連れに一緒に泊まるように勧めます。夕食の折、その人がパンを取って、祈り、渡す所作を見たとき、彼らの目が開け、その人が主イエスだとわかったというのです。しかしその瞬間、主イエスの姿は見えなくなりました。彼らはふり返ってこう言うのです。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」(32節)。

 

信仰にいたる道筋

この物語は、信仰がどういうものであるかをよく語っています。一つには、それはイエス・キリストのほうから近づいてくださることによって、可能になるということです。しかし知りたくもないのに、強引にわからせるというようなものではありません。そういうことをしても信仰を受け入れられるものではない。イエス・キリストがゆっくりと共に歩んでくださる。それがわかるようになるために一定の準備期間のようなものがあるのです。

二つ目としては、その出会いは、聖書と深い関係があるということです。ここで述べられる聖書とは旧約聖書のことですが、旧約聖書がすでにキリストのことを預言し、新約聖書はそれを証ししているのです。

出会いは段階的に起こります。まず、教会や聖書との出会いがあり、その上でキリストとの出会いがある。あるとき、ふっと「あっそうか」ということになる。イエス・キリストと同時代の人はともかく、それ以降のクリスチャンは、みんなそういう出会い方をしていると言えるでしょう。パウロにしてもそうでした。パウロは、よく旧約聖書を学んでいました。そしてそこで証しされているのがこのイエス・キリストだと、ぴたっとつながったのです。

三つ目は、聖書の解き明かしを聞くことは、心が静かに燃えるような経験であるということです。彼らは、その人が主イエスだとわかったときにも、きっと飛び上がるように喜んだでしょう。しかしそれと共に、「聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていた」と思い起こしたのです。

この二人の「心が燃える」経験というのは、恐らく熱狂的な燃えあがり方ではなく、静かに心が熱くなった。私は、聖霊経験とはそういうものではないかと思います。聖霊経験(体験)とは、熱狂的なことを指すことがあり、それがないと信仰が足りないのかと思われがちですが、そうでなくてよいのだと思います。

聖書の解き明かしを聞いて、心が静かに熱く燃える。そこですでに聖霊は働いています。こちらが気づかない形で、イエス・キリストは出会ってくださっているのです。そして次のさらなる出会いを準備してくださっている。それは地味な信仰生活かもしれません。しかし後で気づくのです、確かにあのとき、私の心は燃えていたと。

 

私も共に旅をする

この二人の弟子たち、一人はクレオパという名前ですが、もう一人が誰であったのかわかりません。十二弟子の一人かもしれません。ルカという説、クレオパの妻という説もあります。すべて想像です。しかし特定する必要もないでしょう。

このもう一人の名前が伏せられていることによって、私たちは、それは自分かもしれないと思うことができるのではないでしょうか。

私たちの信仰生活にも波があります。しかし主は私たちの心が燃えていたことを思い起こさせてくださって、信仰を新たにしてくださるのです。

 「あしあと」という有名な詩があります。こういう内容です。

詩人は、自分の人生をふり返り、それがなぎさに映し出されているのを見ます。どの光景にも、砂の上に二つのあしあとがありました。わたしのあしあとと主のあしあとです。ところが、人生でいちばんつらく、悲しいとき、そのあしあとは一つしかありませんでした。詩人は尋ねました。

 「『いちばんあなたを必要としたときに、/あなたが、なぜわたしを捨てられたのか、わたしにはわかりません。』/主は、ささやかれた。/「わたしの大切な子よ。……あしあとがひとつだったとき、/わたしはあなたを背負って歩いていた。」

(マーガレット・F・パワーズ作)

3月16日、若松栄町教会の片岡謁也牧師が説教されましたが、その中でこういうお話をされました。「東日本大震災が起きた直後、仙台のエマオ・センターにみんなで駆けつけた。新潟からも会津からもいろいろな物資をもって駆けつけた。大きな困難があったけれど、不思議な力で守られ、準備が整っていった。必死の思いでみんなが熱く燃えた。そのエマオへの道を、キリストが共に歩んでくださっていたと信じている。」

私たち自身のエマオへの道を、すでにキリストは共に歩んでくださっているのです。

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語るべきことを語る(平和聖日礼拝)

2013年11月01日 | 創世記1章~11章

エレミヤ書20章7~13節

マタイによる福音書10章16~25節

2013年8月4日

牧師 松本 敏之

 

(1)現代の世界において

イエス・キリストは弟子たちを派遣するにあたって「狼の群れに羊を送り込むようなものだ」と語られました(16節)。また迫害や拷問を予告して、「人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる」(17、18節)、さらに「また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる」(22節)とまで言われました。

私たちは今、一応平和な、民主主義の日本に住んでいますので、信仰のゆえに受ける迫害とか拷問とか言われても、現実にそぐわない感じがするかもしれません。こういう言葉を読む時に、二つのことを視野に入れる必要があろうかと思います。 

それは、ひとつには、実は現代の世界においても、信仰の違い、思想の違いゆえに迫害を受けている人は、大勢いるということです。

最近では、パキスタン北西部カイバル・パクトゥンクワ州で女子教育の必要性を訴えていた、当時15歳の少女マララ・ユスフザイさんがタリバンに銃撃されたことがニュースになりました。彼女はクリスチャンではありませんが、真理を訴えて迫害を受けることがあるということの一例でしょう。その他にも表に出てこない事件が世界各地で起きています。私たちは、そういう人たちを孤立させず、連帯し、祈り、支えていく必要があると思います。

もうひとつあわせて考えたいことは、私たちの信仰が社会に嫌われる(迫害される)ほどのインパクトをもたなくなってしまった、「塩気のない塩」(マタイ5章13節参照)のようになってしまっていないかということです。

 

(2)平和メッセージ

本日の平和聖日に向けて、日本基督教団と在日大韓基督教会は、両総会議長・総会長名で、「2013年平和メッセージ」を発表しました。今年のメッセージは「命の大切さ」ということを軸にしている点が特徴かと思います。

 「2011年3月11日の東日本大震災により、神の造られた自然の前に、人間の積み上げてきたものがいかに無力であるかということを、あらためてわたしたちは知らされました。それと同時に、未曾有の大災害の中で、ひとりひとりの命がいかに貴いかということ、そしてその命を救い、つなぎ止めるために、わたしたちひとりひとりがいかに行動すべきかということを学ばされました。にもかかわらず、日本政府や経済界による昨今の急激な『原発推進政策』は、放射能によって汚染された故郷に未だ帰ることが出来ずにいる福島の人々をおいて、『人の命よりも経済が優先』とばかりに、原発を建て、動かし、売る循環へと、この国を回帰させています。より多くの利潤を手にするために、人間が制御することが出来ない力(原子力)に手を付け、その結果多くの命を危険にさらしているこの事態は、人間の傲慢と欲心が招いたものであると言わざるを得ません。」

そして、大胆にこう語ります。

 「日本基督教団と在日大韓基督教会は、このような時代であるからこそ、高らかに訴えます。ひとりひとりの命こそが何よりも大切である、ということ、そして、どんな時にも、『人の命を引き替えにするほど大切なものなどあり得ない』ということです。人の命を犠牲にしてまで選択しなければならない発電方法などあり得ないし、人の命を危うくしてまで守るべき領土などありません。人の命と生活を踏みにじったどんな侵略や国家犯罪も正当化することはできないし、人の命を国家のために捧げさせ、犠牲にさせるどんな戦争も、決して再びあってはならないのです。なぜなら、わたしたちひとりひとりの命は、創造主なる神がご自分にかたどって造られ、また、わたしたちの救い主なるイエス・キリストがご自身の十字架の死をもってあがなわれた貴い命だからです。」

 

(3)見張りの使命

教会が発するメッセージとしては、かなり政治的だと思われる方もあるかもしれません。しかし誰が政権を取ろうと、それが「国益を優先して、命を脅かす」方向へと舵取りをしようとしているならば、私たちは、それを注意深く見抜き、警鐘を鳴らしていかなければならないと思います。そして今はまさにそういう時ではないかと、危惧するのです。将来の子どもたちのためにも、その声をあげていかなければならないのではないでしょうか。

1967年に出された「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」(戦責告白)の中に、こういう言葉があります。

 「まことにわたくしどもの祖国が罪を犯したとき、わたくしどもの教会もまたその罪におちいりました。わたくしどもは『見張り』の使命をないがしろにいたしました。」

見張りの使命。それはまず、危機が迫っていることを、いち早く察知するということ、現状を正しく、深く認識するということです。しかし同時に、そこで察知したことを人々に告げなければなりません。語るべきことを語る、ということです。

火事が起こっていたら、それを見ているだけではなく、警鐘を鳴らすことをもって初めて、その使命を果たしたと言えるでしょう。

私たちクリスチャンが今の世界で求められているのは、まさにそのことではないかと思います。確かにそのようなことを本気で声高に叫び続ければ、教会は社会から嫌われるでしょう。しかし嫌われながらも、それが求められていると、逆説的に言えるかもしれません。いやその時は、嫌われても、後になって「教会はあの時、見るべきものを見ていた。そしてそれを発信していた」ということになるのではないでしょうか。

 

(4)ナチスの時代に比して

私は、今の日本の状況は、ある意味で1930年代前半のドイツによく似ていると思います。ヒトラーのナチス政権が台頭し、支持を得て、巧妙にさまざまな規制がなされ、合法的な手段によって体制が変えられ、弾圧が強まっていきます。その後、戦争へと突き進んでいくのですが、その時には、もう誰も止められませんでした。

ナチスの時代マルティン・ニーメラーという牧師がいました。第一次世界大戦に従軍し、潜水艦(Uボート)の艦長でありましたが、その後、その経験から牧師になった人です。ヒトラーの教会支配に対する抵抗運動の指導者として有名です。活動のさなか、ニーメラー牧師は、逮捕されて、1937年からミュンヘン近くのダッハウ強制収容所とザクセンハウゼン強制収容所に送られました。第二次世界大戦後、無事に解放されたのですが、彼は、戦後、こういう言葉を残しました。

 「ナチスが共産主義者を弾圧した時、私は不安に駆られたが、自分は共産主義者ではなかったので、何の行動も起こさなかった。

その次、ナチスは社会主義者を弾圧した。私は更に不安を感じたが、自分は社会主義者ではないので、何の抗議もしなかった。

それからナチスは学生、新聞、ユダヤ人と順次弾圧の輪を広げていき、そのたびに私の不安は増大した。が、それでも私は行動に出なかった。

ある日、ついにナチスは教会を弾圧してきた。そして、私は牧師だったので、行動に立ち上がった。しかし、その時はすべてがあまりに遅すぎた。」

ドイツの例を持ち出す必要もないかもしれません。日本の戦前も似たようなものであったのではないでしょうか。だんだんと不穏な空気が広がり、ものが言いにくくなり、そのうちに何も言えなくなり、戦争に突入していった。そしてその頃には、もう誰も止めることはできなかったのでありましょう。

私は、今回の参議院選挙の結果は、日本が新しい時代に入る予兆であるように思えてなりません。教育基本法が改正された数年前にも、誰かが「日本は、『戦後』から『戦前』の時代に突入した」と言いました。後から振り返って、「本当にそうだった」とならないために、私たちは、今、できる限りのことをしていかなければならないと思います。

最後に、先ほどの、平和メッセージの結びの言葉を紹介します。

 「ひとりひとりが命を受け、しかも豊かに受けるためにこの地上に来られた主イエスの思いを受け継ぎ、わたしたちは人々がそれぞれの命を豊かに育む世の中が実現することを目指します。それを阻むどんな力に対しても、わたしたちは声をあげていきます。」

 

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創世記1章~11章

2013年04月25日 | 創世記1章~11章

創世記1章~11章は、『神の美しい世界』(キリスト新聞社)として
刊行されていますので、そちらをご覧ください。

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