経堂緑岡教会  説教ブログ

松本牧師説教、その他の牧師の説教、松本牧師の説教以外のもの。

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信仰に立つ

2013年08月30日 | ルカによる福音書(1)

ルカ福音書による説教(46)

マラキ書3章23節

ルカによる福音書9章18~27節

   2010年10月24日

       牧師 松本 敏之

 

(1)日々、従う

 本日は、年に一度の教会バザーです。みんなで心を込めて準備をしてまいりました。それらの準備が皆さんに喜ばれ、神様にも喜ばれて、豊かな実りがもたらされますように、祈りを合わせ、これに協力し合いたいと思います。またバザーと知らずに来られた方も、買い物をしたり、食べたりして、どうぞ一緒に楽しんでください。

 今日の聖書の中で、イエス・キリストは、こう言われています。

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(23節)。

 これとほとんど同じ言葉が、マルコ福音書(8:34)にも、マタイ福音書(16:24)にも出てくるのですが、ルカに特徴的なのは、「日々」という言葉が入っていることです。「日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」

「自分の十字架を背負って従う」とはどういうことなのか、いろいろな解釈があるでしょうが、ルカは、「日々」という言葉によって、私たちの献身というものが特別なこと、あるいは一生に一回だけのことではなくて、毎日の生活の中で自分を捧げていくことだと強調しようとしたのではないでしょうか。

「日々」という言葉から、私はバザーのことを思い起こしました。バザーを行う第一の意義というのは、それで収益をあげて、それを神様のご用のために用いていただくということでしょう。しかしそれと同時に、バザーをすることによって、私たち自身が変えられていく、献身ということを学ぶという側面もあるのではないでしょうか。もちろんバザーは、年に一回だから集中できるのであって、年に何回もあれば体がもたないということになるでしょう。しかしここで、年に一回であっても、自分を無にして働くことによって、献身の喜びを知るのです。「自分を無にして、従う」ということ、しかもそれを「日々の生活の中で行う」ということを学ぶのです。

 

(2)自己保身的ではなく

 イエス・キリストは、続けて、こうも言われました。

「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」(24節)。

謎かけのような少し難しい言葉に聞こえますが、要は、「自己中心の考え方や生活は危険だ。そこから逃れよ」ということではないでしょうか。これは真理であると思います。「自分のことばかり考えていると、それを失い、神のため(あるいは人のため)に自分の命を差し出すと、それを得る」という。これはパラドクス(逆説)です。

私たちは、毎日の生活を形成していかなければなりません。そのためには、どうしても自分の生活を支えるために働かなければなりません。しかし、自己中心的な生活や社会のシステムは、結局のところ、自己保存的であり、内向きです。みんながそのように自己中心的、自己保存的に考えるようになれば、ものの見方が狭くなってしまい、もう一つ大きなところで社会が壊れていくのを止めることができない。結局、そのような小さな自己保存的な考え方は大きなところでの崩壊を招いていき、そして結局のところ、自分自身の命を失わせることになっていく、という警告でもあるように思います。

むしろ社会に奉仕し、社会に貢献していくことによって、別のことが見えてくる、自分の生きている意義も見えてくるのではないでしょうか。イエス・キリストは、こうも言われました。

「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのもの(着るものや食べるものなど)はみな加えて与えられる」(マタイ6:33)。

ただ今日はバザーですので、今日だけは、どうぞ「何を食べようか。何を着ようか」と、大いに思い悩んでください。何を食べようかと思い悩んで、結論を出しかねたら、まあ全部、お食べになったらいかがでしょうか(ぜいたくな悩み!)。食べ過ぎで、明日になったら動けなくなるかもしれませんけれども、イエス様も「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(?)とおっしゃっています。(そんな冗談を言っていれば、イエス様に叱られそうですが。)それらはすべて献金につながると思ってくださればよいでしょう。

 

(3)貪欲

 イエス・キリストは、続けてこう言われます。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか」(25節)。

この言葉は、先ほどの言葉の続きとして、「自己中心」の先にあるものは、「貪欲」だということを指し示していると思います。私たちは日々の生活のことで思い悩みますが、それが十分に与えられるようになっても、悩みはなくならないものです。それを手に入れたら、また次のものが欲しくなる。それを手に入れても、さらにまた次のもの、というふうに、私たちの「貪欲」(greed)というのは、決してなくならないのです。この貪欲を、人間の七つの大罪の一つに数えた人もいます。

アメリカ合衆国のオバマ大統領も、その就任演説で 「われわれの経済はひどく弱体化した。一部の者による貪欲さと無責任さの結果だ」と語っていました。私たちの貪欲さというのは、自分に十分なものが与えられた後でも、際限なく大きくなり、そのことがかえって死を招く原因になるのでしょう。

この教会のバザーの収益は、すべて外部への献金となりますので、こうした貪欲ではないところに、原動力があるものだと思います。

 

(4)イエスとは誰か

さて今日、私たちに与えられたテキストは、このように始まります。

「イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、『群衆は、わたしのことを何者だと言っているか』とお尋ねになった」(18節)。

「イエスとは、一体誰か」という問いは、少し前から問われ続けていることです。8章25節では、弟子たちが問うていました。

「弟子たちは恐れ驚いて、『いったい、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか』と互いに言った。」

また9章9節では、ヘロデが問うていました。「『ヨハネなら、わたしが首をはねた。いったい、何者だろう。耳に入ってくるこんなうわさの主は。』そして、イエスに会ってみたいと思った。」

しかし、答えは与えられていません。今や、イエス・キリスト自身がこの問いを取り上げ、弟子たちが人々の見解を紹介するのです。

「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます」(19節)。

 それらをひと言で言えば、イエスがメシアの先駆けだということでしょう。人々はメシアの時が来るという希望をもっていましたが、この希望を育んだのは、先ほど読んでいただいたマラキ書のような預言です。

「見よ、わたしは

大いなる恐るべき主の日が来る前に

預言者エリヤをあなたたちに遣わす。

彼は父の心を子に

子の心を父に向けさせる。

わたしが来て、破滅をもって

この地を撃つことがないように。」

(マラキ書3章23~24節)

この言葉をどのように理解するか、意見が分かれていたようです。神の国に先行して、エリヤ自身が来るということなのか、あるいはエリヤの霊をもった別の預言者が来るということなのか。イエス・キリストについても、群衆の見方はさまざまです。洗礼者ヨハネの生まれ変わりなのか、エリヤの霊を受けた別の預言者なのか、あるいはエリヤ自身なのか、いろいろな理解がありました。

しかし彼らの言葉に共通することは、「イエスはメシア(キリスト)ではなく、メシアの先駆けであろう」ということです。

 

(5)神からのメシア

それに対して、イエスは、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(20節)と、突っ込んで問われます。

 ペトロは、こう答えました。「神からのメシアです」(20節)。

「メシア」という言葉は、ヘブライ語で「油注がれた者」ということであり、それをギリシア語にしたものが「キリスト」です。少し言い換えて、「救い主」と言ってもよいと思います。この問答も、他の福音書にはないルカの特徴を言えば、「神からの」という言葉がついていることです(マタイ16:16、マルコ8:29参照)。

 これは、イエス・キリストという方は、メシアの先駆けを超えて、神ご自身から直接遣わされた方であるということが強調されているのではないでしょうか。

 「イエスとは誰か」という問いは、ここでの弟子たちや当時の人々だけの問題ではなく、今日の私たちまで続いている大きな問いであります。「イエスとは誰か」という問いに答えるのがキリスト教という宗教であると言ってもよいほどです。

 イエス・キリストが偉大な預言者である、あるいは預言者的リーダーである、というのは多くの人が認めることでありましょう。預言者というのは、真理を指し示す人、あるいは真理である方を指し示す人です。ところが聖書によれば、真理を指し示すイエス・キリスト自身が、同時に、指し示される真理になるのです(ヨハネ14:6等)。この方こそが私たちを救う力を持った方であり、神から遣わされた方である。ペトロはそのことを正面から、イエス・キリストに答えたのでした。

 

(6)苦しむメシア

それを受けて、イエス・キリストは誰にも話さないようにと命じながら、次のように語られます。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」(22節)。

これは苦しむメシア(救い主)です。人々が思い描き、待ち望んできたメシアは、そうではないでしょう。もっと強いメシアです。しかしここで示された姿は、何と弱々しく敗北的でしょうか。弟子たちもそれを聞いた時は一体、どうしてそんなことを言われるのか、わからなかったでしょう(マタイ16:22等参照)。

しかしながら、そういうお方として私たちの世界に来られたからこそ、実はもっと深い意味で、一人一人の心に届く、そして一人一人を救うことができるメシアであることが明らかになっていくのです。

 

(7)神の国を見る

最後に不思議な言葉があります。

「確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる」(27節)。

ルカという人は、神の国を、遠い将来のことだけではなくて、今、私たちの中に実現している、ということを強調した福音書記者です。ルカ福音書17章20節以下に、こういう問答があります。

「ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17:20~21節)。

 イエス・キリストがすでに来られて、私たちの群れの中、二人または三人の人がいる中で、イエス・キリストの名前が唱えられるところで、すでにイエス・キリストも一緒にいて、神の国が始まっている、ということです。ですから、今日の27節を、これに重ね合わせるならば、やがて、この世の終わりが来るまでは死なない者がいるというよりは、むしろ今そういう形で、あなたがたが生きている中で、神の国が実現しているということが、隠されて述べられているのではないでしょうか。

 これは、現在の私たちの群れの中でも同時に当てはまることです。私たちはやがて生涯を終えます。また私たちの生きている世界にもやがて終わりの日が来ます。しかしそれと同時に、私たちが今生きている中で、すでにそういう世界が実現している。私たちの群れの中に、イエス・キリストが来られて、神の国が始まっているということが、喜びの福音として告げられているのです。今この中で、天国の片鱗を、かいま見ることが許されているのだと思います。

 今日のバザーにおいても、そのような神の国の、イエス・キリストの共同体の中にある群れとして、私たちもその喜びを味わいながら、イエス・キリストに従っていく献身ということを学んでいきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

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分かちあうパン

2013年08月15日 | ルカによる福音書(1)

ルカ福音書による説教(45)

申命記8章2~3節

ルカによる福音書9章10~17節

   2010年10月3日

       牧師 松本 敏之

 

(1)世界聖餐日・世界宣教の日

 本日、10月第一日曜日は、世界聖餐日であります。世界中の教会が、一人の主イエス・キリストのひとつのからだであることを覚えて、共に聖餐に与(あずか)る日です。 また日本キリスト教団では、この世界聖餐日を、同時に世界宣教の日と定めています。

数年前に、この教会でも礼拝説教をしていただいた小井沼眞樹子宣教師は、当時は、お連れ合いの小井沼國光牧師と共に、サンパウロ福音教会で働いておられました。その後、國光牧師がALS(筋委縮症)という難病のためにサンパウロ福音教会を辞任して帰国され、國光牧師は数カ月後に、天に召されました。その後、眞樹子牧師は再び、単身でブラジルへ戻り、今度は、かつて私がサンパウロを離れた後、働いたブラジル北東部オリンダのアルト・ダ・ボンダーデ教会で働いておられます。

オリンダとは、レシーフェという大都市に隣接した町ですが、南緯8度の赤道地帯、大西洋岸、南米大陸の地図を思い浮かべていただくならば、三角定規のような形のアフリカ大陸に向けて、とんがった地域です。

 

(2)小井沼眞樹子牧師の宣教活動

小井沼眞樹子牧師は、今年の宣教師報告書『共に仕えるために』に、このように記しておられます。

 「日本人のいない教会で、日本語をまったく使わない宣教生活を始めて1年半が過ぎました。聞いてもよくわからない、言いたいことが言えないもどかしさを味わいながらも、教会の人々との心のつながりが強まっていることを実感しています。……

 アルト・ダ・ボンダーデはブラジル社会の中でもかなり劣悪な状況の居住区です。私は昨年後半から教会学校のある少年と関わるようになり、彼を麻薬の危険から救出し、よい教育の機会を提供するために、2月にレシーフェに引っ越しました。現在、もう一人支援を必要としている青年も迎えて、3人で共同生活をしています。

 ブラジルの負の歴史的遺産は、植民地支配と奴隷制度がもたらした貧富の大差と、富裕な権力者たちの腐敗、多くの貧困層の家族文化欠損という状況でしょう。それは13歳まで育った少年の環境そのものです。私はこれまで頭で知っているつもりだったことを、一人の男の子のいのちとつながることで、初めて生身の体で学ばされている気がしています。貧困と安全でない家庭環境がどんなに人格の歪みをもたらすか、この少年は一人の犠牲者でしょう。日々やっかいな事を起こす彼を許し受け入れることができない自分と向き合うたびに、回心を迫られているのは私の方だという反省を与えられています。私自身が神の無償の愛で満たされていなければ到底やっていけない、その愛への渇望はとりもなおさず、日々キリスト信者にさせられていく体験として、私を復活のイエスに結びつけてくれます。すると困難な状況にあってもなおこころに喜びが沸き起こってきて、アルト教会の信徒たちの信仰はまさしくこれだと共感できるようになりました。この小さな共同体のためにお祈り下さい。」

 これを読んで、私は改めて小井沼眞樹子牧師は、大事な働きをしておられるなあと思いました。一人の少年のいのちにかかわるということは、社会的影響力としては、とても小さなものでありましょう。しかし眞樹子牧師が、そこで一人の少年のいのちと成長に関わっておられるということは希望のしるしであり、その事実が、どれほど多くの人を励ますことでしょう。そして私たちは、そうした宣教師たちを支えることによって、その宣教に招かれているのであり、その宣教に、直接、間接にかかわっていくのであると思います。そしてそこからまた次の人材が生まれて来るのではないでしょうか。

 

(3)群衆を解散させてください

 さて今日は、「五千人の供食」と呼ばれる話を読んでいただきました。

 この物語は、珍しく、ヨハネ福音書を含む4つの福音書全部に出てきます。受難物語を除いては、他にそういう話はありません。それほど、この話は多くの人に大きなインパクトを与え、初代教会の支えになっていったということがうかがえます。

 「使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた」(10節)。

ベトサイダという町は、ヨハネ福音書によればペトロやアンデレやフィリポの故郷でした(ヨハネ1:44)。伝道が思いのほか成果をあげたので、いい気になってしまう、という誘惑に打ち勝つためにも、あるいは疲れを癒して、次の伝道に備えるためにも、一時、群衆から離れて静かに黙想と祈りをもつのが大事だと考えられたのでしょう。しかしながら、群衆はそこまでも追いかけてくるのです。

「群衆はそのことを知ってイエスの後を追った。イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた」(11節)。

追いかけてくる人々を追い返すのではなく、喜んで受け入れられる様子がうかがえます。さて日が傾きかけてきました。彼らに夕食を食べさせるにも、それだけの食糧がありません。12人の弟子たちは、イエス・キリストに向かって、こう言いました。

「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです」(12節)。

 この時の弟子たちは、冷たく彼らをあしらおうとしたわけではりません。このままでは余計、気の毒なことになると思い、進言したのです。弟子たちの言葉から、今、彼らがいる場所が村からも遠く離れたところであったことがわかります。空腹の群衆は、荒れ野にいて、家から離れて来ている。日没が近づいているけれども今なら、まだ間に合う。宿をとることもできる。責任ある者としては、賢明な判断だと思います。早め早めの行動が大事です。

 

(4)イエス・キリストの行動

しかしイエス・キリストは、その賢明な進言に従うことはありませんでした。

「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」(13節)。弟子たちは、「そんな無茶を言わないでください」と思ったことでしょう。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり」(13節)。

もちろん食べ物を買いに行くことは時間的にも、金銭的にも不可能なことはわかっています。ここで「パン五つと魚二匹」と具体的な数字を出していることからすれば、彼らは彼らで、すでに誰かが食糧をもっていないか、調査をしていたのでしょう。そして最後の手段として、「群衆を解散させてください」と報告していたのです。賢明です。

しかし、弟子たちが言った方法しかないであろう状況の中で、イエス・キリストは別の行動を始められます。「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせない」と言うのです。そして、彼らが報告した「五つのパンと二匹の魚」を取りあげられました。天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせました。すると、どうでしょう。「すべての人が食べて満腹した」というのです。男が五千人ということですから、女と子どもを合わせると、恐らく一万人以上の人がいたことでしょう。それらの「すべての人が食べて満腹した。」そして残ったパンの屑を集めると、12籠もあった、とのことです。12という数字は、恐らく12人の弟子ということと関係があるのでしょう。この報告からして、みんながわずかなものを分けあって食べて、精神的に満足した、ということではなくて、とにかく最初よりパンが増えたということを言おうとしているのでしょう。イエス様がここで不思議な奇跡を起こしてくださったということが、今日の話の一つのポイントです。

 

(5)ついには幸福にするために

 今日は、申命記8章の言葉を読んでいただきました。ここで注目したいことは、主が彼らを決して突き放したり、見放したりはされなかった、ということです。

「あなたの神、主が導かれたこの40年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。……主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる事をあなたに知らせるためであった」(申命記8:2~3)。

 この時、神様は「食べる物がなくても精神力で耐えろ」というのではなくて、食べ物を用意しながら、その信仰を確認させられたのです。ですからこの申命記8章の先をずっと読んでいきますと、こういう言葉に出会います。

「(主は)硬い岩から水を湧き出させ、あなたの先祖が味わったことのないマナを荒れ野で食べさせてくださった。それは、あなたを苦しめて試し、ついには幸福にするためであった」(申命記8:15~16)。

 「人はパンだけで生きるのではなく、主の言葉によって生きる」ということを、パンを与えながら、教えられました。

この時のイエス・キリストも、それに通じるところがあります。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言われたのは、弟子たちの信仰が試されたのでしょう。一見、弟子たちを困らせているようでありますけれども、それで終わるのではなくて、「誰が彼らを本当に養うのか、それを味わい知れ。そしてあなたがたも、その信仰に立て」と弟子たちに、伝えようとされたのではないでしょうか。

 

(6)パンを与えることと、み言葉の宣教

最後に二つのことを、申し上げたいと思います。ルカ福音書9章というのは、イエス・キリストと弟子たちの派遣、宣教活動が語られているところです。その中に、この話があるということは、飢えている人に食べ物を分かち与えることと、み言葉を伝える宣教は切り離せない、一続きのことであるということでしょう。

教会は、その後、この物語を儀式のために用いることになるのですが、そのことはパンと魚という象徴的な言葉や聖餐式的な言葉(取り、祝福し、裂き、与えた)に表われているとおりです。そしてその際、この儀式は、「困窮している人たちの必要を満たす」という、より広い意味での宣教から切り離されることはありませんでした。

私たちの聖餐式は、毎日食べる物が十分にある中での聖餐式であろうと思います。教会の外では、肉の糧をいただき、聖餐式では霊の糧をいただく。

しかしこれが世界聖餐日として行われるということは、世界中の人々と今、一つの食卓に与っているということです。だとすれば、このイエス・キリストの食卓、聖餐式には、持てる者と持たざる者とが一緒に参加しているということです。十分に食べる物がある人と食べ物がない人が一緒に聖餐式に与っている。聖餐式が、空腹を満たす実際の食事から遠く離れてあるならば、それはいのちと切り離されたものとなります。

聖餐式というイエス様のいのちに与る霊的な食卓が、実際の私たちの肉体の食卓とくっついているのです。世界で、食事が十分にない人のことを思い起こしつつ、肉体を支える食事をも分かちあっていく、ということが、世界聖餐日の大事な意義であると思います。

 

(6)ゼロではなく、小さなものから

心に留めたいもう一つのことは、イエス・キリストが、この奇跡をゼロからなされたのではなく、ある何かを用いて始められたということです。私たちの神様は無から有を生み出すことのできるお方です。イエス・キリストも、ここで何もないところで、五千人を養おうと思えば、恐らくできたことであろうと思います。しかしそうではなくて、ある何かを用いられた。つまり五つのパンと二匹の魚を用いて、五千人を養われた。そこに差し出されたものは、ある誰かからの善意のしるしでありましょう。しかし、それを取って、祝福して、裂いて、分かちあう時に、イエス様は大きな奇跡にして、みんながそれで満足するということをなしてくださった。

私たちは、この世界の食糧難の問題、貧富の差の問題、そのようなとてつもなく大きな多くの問題を前にする時に、自分の小さな力は何の役にも立たないという、無力感に襲われるものです。しかしそこで、小さな善意が差し出される時、それをイエス様が大きな力に変えてくださるということを、この物語は示しています。

先ほど小井沼眞樹子牧師の宣教のことを申し上げましたが、彼女が一人の少年とかかわる、その子の成長にかかわる、ということは、大きな問題を抱えたブラジル社会の中ではほんの小さな働きであるかもしれません。大海の中のひとしずくのようなものかもしれません。しかし、それがイエス様に用いられていく時に、それは大きな宣教の業に変えられていくのです。何よりもまず、私たちがそうした宣教師の活動に目を向け、そして私たち自身が喜びを与えられて変えられて、共に歩んで行く決意を新たにすることができるのではないでしょうか。

 

 

 

 

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平和の実現を求めて

2013年08月09日 | 説教その他

イザヤ書2章4~5節
マタイ福音書5章9~11節
   

2012年8月12日    

                     牧師 山口雅弘 

  
イエスのイメージ
 八月第一週の日曜日は、日本キリスト教団で「平和聖日」と定められた日です。教団の諸教会が過去に犯した戦争協力の罪を深く心に刻み、再び過ちを繰り返してはならないという祈りによって「平和聖日」と定められました。もちろん、この日だけに終わりません。この日は新たなスタートの日です。神の愛と平和、そして正義の実現を求める歩み出しの日です。そのことを心にとめて、イエスの語りかけを聞きたいと思います。
 皆さんは、自分にとって「イエスは、どのような方か」と、顔かたちを含めてイメージしたことがあるでしょうか? 恐らくいろいろにイメージできるでしょう。四つの福音書もそれぞれの仕方で、「イエスはこのような方だ」ということを語り示しています。二千年の歴史を通しても、特に西欧キリスト教の絵画や彫刻、音楽、あるいは文学などにおいて、さまざまなイエスのイメージが示されてきました。そのせいもあって、イエスは髪が長く、髭を生やした白人のような顔立ちというイメージ、また背が高くスラッとしているような印象が一般的になっているように思われます。
 ところが、イエスは黒い肌をし、髪の毛はちじれ、背が低く、アフリカ系のある民族の人のようだったと言われますと、「エッ」と思う人がいるかも知れません。しかし、アフリカ系アメリカ人の中に、イエスは「黒人」のようだとイメージする人もいます。私たちは、自分のイメージを固定化しますと、そのイメージから自由になれなくなりますので、聖書に向き合う際に、時おり自分のイメージを変えてみるとよいでしょう。


ガリラヤのイエス
 私自身、聖書の学び、またガリラヤの歴史と環境や風土などの学びを通して、歴史に生きたイエスを思い描くことがあります。ここで、イエスの姿の一端を自由に思いめぐらしてみたいと思います。
 イエスが生まれ育った所は、ガリラヤの「ナザレ」という寒村でした。イエスが「ナザレのイエス」と呼ばれる由(ゆ)縁(えん)です(マタイ2章23節、他)。ナザレの村は、墓や住居の発掘調査から、五百人程度の人口だったと考えられます。
 ガリラヤ全体は、基本的に農村社会でした。ガリラヤ湖のほとりにはペトロのような漁師もいました。それらの漁師も含めて、ガリラヤに生きる90パーセント以上の人々は農民、また兼業農民でした。
 イエスはガリラヤに生きる「木工職人」、また畑を耕す兼業農民でした。聖書には「イエスは大工であった」と記されていますが、元の言葉は「家を建てる大工」を意味する言葉ではなく、「木工職人」を示す言葉です。ガリラヤには、そもそも「大工」という職業と専門職人はいませんでした。「家」を建てる時は、村の人々が協力して建てました。
 イエスは、木工職人として働きながら農業をし、他の人々と同じように自給自足の生活をしていました。イエスは小さい時から、朝早く起きて畑仕事をし、一段落ついたら「木工職人」として農具、燭台やテーブル、木のスプーンやお椀などの食器を作る手伝いをして成長したでしょう。おそらく、しなやかな手とはほど遠く、専門職人のそれと分かる手を持ち、農作業をする頑丈な体をして働いていたと思います。イエスは日焼けし、それほど背は高くないにしても、たくましい人であったと思われます。たくましく筋肉質であったとは言え、痩せて骨格が浮き出ていたかもしれません。と言いますのも、ガリラヤに生きる人々は貧しく、日常的に食べる物に事欠いていたからです。

 
平和の実現を求める旅
 
イエスは、ある時期から旅に出ます。「神の愛と平和」の実現を求めて、村々を巡り始めました。どんなに辛く苦しいことがあっても、その旅を続ける気力と体力を持っていたと思います。否、イエスは、自分を突き動かす神の生命に生かされていたのでしょう。その歩みの中でイエスは、当時の宗教的規則やタブーを破ったとして、「大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」(マタイ11章19節)と非難されました。それでも、社会の淵に追いやられる人々と「神の国の宴」を示す食事を共にしました。食事は、単に「物を食べる」というのではなく、人と人を結ぶ大切な時になりました。
 特にイエスは、失われた魂を求め、孤独な人、思い煩い・悩み苦しむ人、差別されている人、心身に病や障がいを持つ人と、共に食べ、飲み、笑い、人々の心に「生きていて本当に良かった。自分は一人ではない。神に生かされている」という思いを刻みました。イエスは、そのような具体性の中で、「神の愛と平和」を実現していったのです。そのことがまた、社会の権力者たちへの批判、また抵抗にもなりました。
 イエスは、ある時は小高い丘の上で、あるいは平地で、広場や市場で、神の愛と平和、そして生命の尊さを示し、「神の国と平和」の実現について人々に語りました。そのようなことから、イエスは、少し遠くにいる人にも声が届く大きな声を出すことの出来る人だったと思い描くこともできます。
 イエスはまた、小さい頃に父を失い、苦労しながら働き、人の痛みを知る者として人の痛み哀しみに共感する心と生き方を養ってきたという実像が浮かび上がってきます。そして、人を魅了してやまない多くの驚くべき教えと行いを示し、心も体も癒す力を持つ人でした。
 私は、社会の体制や慣習、しきたりや規則を破ってまで、「どこまでも人を愛し抜いて生きた」イエスを思うのです。当然、多くの非難を浴び、社会の体制から追いやられます。しかしイエスは、権力やしがらみに縛られない自由な生き方をします。私たちもまた、そのように生きていくことができるという道を、イエスは示しています。
 イエスもまた、私たちと同じように「弱さ」を持つ人でした。このままではローマの権力者に捕えられ十字架に付けられることを知り、思い悩みます。それでも、「互いに愛し合う世界がある」ことを語り続けました。私たちもまた、日常の中で「神の愛と平和」を実現して生きていくことができるという「招き」を与えられているのです。


平和実現への招き
 マタイ福音書のテキストは、イエスが自らの生き方と切り結ぶかたちで語った最も大切な教えの一つです。「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」と。この言葉は、「招きの言葉」で聞きましたイエスの語りかけ、「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」(ヨハネ15章12節)に固く結びついています。この語りかけは、平和を実現するために、「私はあなたを選び、招いている」という「招き」の言葉です。
 この「招き」は、次のことを示します。どんなに破れや失敗を重ねても、今、自分が一人の人間として出来ることを祈り求めていく。実践していく。破れに満ちた人と人との「関係」を回復していく。そのことによって、人の生命の尊厳が大切にされ、「平和」を実現していく。そのために、「あなたは生きていける」というイエスの招きです。


平和のあいさつ
 少し視点を変えて話したいと思います。皆さんは、イスラームの礼拝をご存じでしょうか。イスラームには「教会籍」という考え方がなく、世界中のムスリム(イスラーム信徒)は、乾いた清潔な場所であればどこで礼拝してもよいことになっています。もしモスク(礼拝堂)がある所では、一番近いモスクに行って礼拝をすればよいのです。  礼拝の時間は一日5回あり、一回の礼拝は15分位の祈りの時です。人々は礼拝しては解散していきます。モスクに入ってきた人は、見ず知らずの人と横並びになり、平等に神の前に座ります。誰かが祈りの声を挙げますと、その声に合わせて祈り、自然な形で礼拝が始まります。その礼拝の中で、神と自分との「平和」という縦の関係と、隣の人と自分との「平和」という横の関係が、確認されるようになっています。しかも、どこの人であるかは関係なく、その都度、違った人と共に「平和」を形づくり歩み出すわけです。
 礼拝が終わりますと、互いに挨拶します。その時の挨拶の言葉は、「アッサラーム・アライクム」です。「あなたに神の平和がありますように」という意味です。そのように言われた人は、「ム・アライクム・サラーム」と返します。「あなたにこそ、神の平和がありますように」という意味です。「サラーム」という言葉は、へブル語の「平和」を意味する「シャローム」と同じ言葉です。これは、礼拝の挨拶に限らず、日常的な挨拶としても言われます。「あなたに神の平和がありますように」と。
 キリスト教でも、礼拝の中で「平和の挨拶」を行う教会があります。礼拝の中、あるいは礼拝の後で、互いに「神の平和がありますように」と声をかけ合う、あるいは「シャローム」と互いに言います。「あなたに神の平和がありますように」、「あなたにこそ神の平和がありますように」と言い合うことは、いつも「平和を実現していくこと」を具体的に覚えるという意味で、大切な実践のひとつかも知れません。


「私たち」の平和
 私たちが「平和」を考える時、ともすれば、個人的な平和あるいは自分の平安を求めることが多いかもしれません。神と自分との関係の中で祈りをささげ、神の愛を受けとめ、そして平安な心や魂を与えられることを求めます。
 ただ現実には、個人の平和、私の平安というものも簡単に得られるものではありません。例えば、日常生活の中で、人とぶつかり、誤解やすれ違いによって辛い思いをすることがあります。緊張関係や争いも生じます。人間同士の関係でわずらわしいことばかり抱えると、人との関わりを持たなくて済むような、一人の場所へ逃げ込みたくなります。その現実と人間関係の中で、「平和を実現する」ことは難しいことです。
 私たちは、どこか遠い国の平和や、世界の平和というような、そして自分の生々しい日常生活と少し距離を置いた所の話なら「平和」とか「愛する」ということを言えるかもしれません。けれども、自分の身近なことになればなるほど、なかなか大変です。
 先日、ひところ流行った言葉を久しぶりに聞きました。「夫元気で留守がよい」という言葉です。見えない赤い糸で結ばれて「連れ合い」になったはいいけれど、今はもう「糸」も切れてなくなり、コードレスです。日々接する人との関係、例えば夫や妻との関係、親子や兄弟姉妹、友人・知人との関係の中においてさえ、心を通い合わせ、平和を生み出していくことが難しいというのが現実ではないでしょうか?
 私たちは、その現実の中でこそ個人の平和と平安を求めることに終始するのではなく、「私たち」の平和を実現することが不可欠であると思います。


「神の子」と呼ばれる者
 イエスのまなざしは、そのような「生の私たち」に向けられています。私たちの生命を脅かす問題や課題が山積する現実があり、その中に生きる私たちを見すえながら、「平和を実現する人々は幸いである」と語るのです。そこに、イエスの私たちへの篤い思いを感じ、希望を与えられます。
 イエスの語りかけは、このようなニュアンスを持って響いてきます。「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」「なぜなら、その人々はこの世において実に少数であるからだ。しかしその人々は、神の子と呼ばれる」。
 この言葉の前後関係から読み直しても、そのように受けとめることができます。5章の初めから始まる、いわゆる「山上の教え」を最初から読みますと、「幸いである」と言われている人々は、「心の貧しい人々」、「悲しむ人々」、「柔和な人々」、「義に飢え渇く人々」、「憐れみ深い人々」、「心の清い人々」、そして「義のために迫害される人々」です。その人々は皆、社会の片隅に追いやられていく人々です。みな、力なく弱い人々です。さらに、「平和を実現する人々は少数」です。しかし少数であっても、その人々は暗闇の中に「星のように輝いて」「神の子と呼ばれる人々」です。
 私は思うのですが、私たちが「神の子と呼ばれる」、このことはすごいことではないでしょうか? この世において、たとえ少数であったとしても、また破れや失敗に満ちた私たちであるとしても、それでもイエスは、「平和を実現しよう」と祈り求める者、「互いに愛し合う」ことを祈り求める者、そのことを忘れずに生きようとする者は「幸いである」と語りかけるのです。語り続けておられるのです。そのことに私たちは、イエスの限りない慈しみ、憐れみに満ちた「招き」があることを知らされます。


イエスの招きに応えて
 「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちがどれほど少数者であっても、いつも平和を実現することを祈り求めて生きる者は、神の子と呼ばれる」という言葉を聞いて、私たちはイエスの道につながって生きるように「今」招かれています。そして、いつもそこに立ち帰り、その「招きに応えて」歩み出すことができるのです。
 イエスは、私たちを愛し、共に生きていこうと語りかけています。ごつごつとした手を差し伸べ、日焼けした顔をしたイエスが、熱いまなざしを向けてくださるのです。 私たちは力なく、弱く、頼りない者であっても、平和を作り出すための実践をできるように祈り求めたいと思います。しかも、宗教の違いをも越えて、多くの人と手を結び合い、私たちの「今」を「平和を作り出す者」として歩み出そうではありませんか。

 祈る前に、隣近所の人と「平和がありますように」と挨拶を交わし合いましょう。
 祈り。

 

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