ルカ福音書による説教(46)
マラキ書3章23節
ルカによる福音書9章18~27節
2010年10月24日
牧師 松本 敏之
(1)日々、従う
本日は、年に一度の教会バザーです。みんなで心を込めて準備をしてまいりました。それらの準備が皆さんに喜ばれ、神様にも喜ばれて、豊かな実りがもたらされますように、祈りを合わせ、これに協力し合いたいと思います。またバザーと知らずに来られた方も、買い物をしたり、食べたりして、どうぞ一緒に楽しんでください。
今日の聖書の中で、イエス・キリストは、こう言われています。
「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(23節)。
これとほとんど同じ言葉が、マルコ福音書(8:34)にも、マタイ福音書(16:24)にも出てくるのですが、ルカに特徴的なのは、「日々」という言葉が入っていることです。「日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」
「自分の十字架を背負って従う」とはどういうことなのか、いろいろな解釈があるでしょうが、ルカは、「日々」という言葉によって、私たちの献身というものが特別なこと、あるいは一生に一回だけのことではなくて、毎日の生活の中で自分を捧げていくことだと強調しようとしたのではないでしょうか。
「日々」という言葉から、私はバザーのことを思い起こしました。バザーを行う第一の意義というのは、それで収益をあげて、それを神様のご用のために用いていただくということでしょう。しかしそれと同時に、バザーをすることによって、私たち自身が変えられていく、献身ということを学ぶという側面もあるのではないでしょうか。もちろんバザーは、年に一回だから集中できるのであって、年に何回もあれば体がもたないということになるでしょう。しかしここで、年に一回であっても、自分を無にして働くことによって、献身の喜びを知るのです。「自分を無にして、従う」ということ、しかもそれを「日々の生活の中で行う」ということを学ぶのです。
(2)自己保身的ではなく
イエス・キリストは、続けて、こうも言われました。
「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」(24節)。
謎かけのような少し難しい言葉に聞こえますが、要は、「自己中心の考え方や生活は危険だ。そこから逃れよ」ということではないでしょうか。これは真理であると思います。「自分のことばかり考えていると、それを失い、神のため(あるいは人のため)に自分の命を差し出すと、それを得る」という。これはパラドクス(逆説)です。
私たちは、毎日の生活を形成していかなければなりません。そのためには、どうしても自分の生活を支えるために働かなければなりません。しかし、自己中心的な生活や社会のシステムは、結局のところ、自己保存的であり、内向きです。みんながそのように自己中心的、自己保存的に考えるようになれば、ものの見方が狭くなってしまい、もう一つ大きなところで社会が壊れていくのを止めることができない。結局、そのような小さな自己保存的な考え方は大きなところでの崩壊を招いていき、そして結局のところ、自分自身の命を失わせることになっていく、という警告でもあるように思います。
むしろ社会に奉仕し、社会に貢献していくことによって、別のことが見えてくる、自分の生きている意義も見えてくるのではないでしょうか。イエス・キリストは、こうも言われました。
「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのもの(着るものや食べるものなど)はみな加えて与えられる」(マタイ6:33)。
ただ今日はバザーですので、今日だけは、どうぞ「何を食べようか。何を着ようか」と、大いに思い悩んでください。何を食べようかと思い悩んで、結論を出しかねたら、まあ全部、お食べになったらいかがでしょうか(ぜいたくな悩み!)。食べ過ぎで、明日になったら動けなくなるかもしれませんけれども、イエス様も「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(?)とおっしゃっています。(そんな冗談を言っていれば、イエス様に叱られそうですが。)それらはすべて献金につながると思ってくださればよいでしょう。
(3)貪欲
イエス・キリストは、続けてこう言われます。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか」(25節)。
この言葉は、先ほどの言葉の続きとして、「自己中心」の先にあるものは、「貪欲」だということを指し示していると思います。私たちは日々の生活のことで思い悩みますが、それが十分に与えられるようになっても、悩みはなくならないものです。それを手に入れたら、また次のものが欲しくなる。それを手に入れても、さらにまた次のもの、というふうに、私たちの「貪欲」(greed)というのは、決してなくならないのです。この貪欲を、人間の七つの大罪の一つに数えた人もいます。
アメリカ合衆国のオバマ大統領も、その就任演説で 「われわれの経済はひどく弱体化した。一部の者による貪欲さと無責任さの結果だ」と語っていました。私たちの貪欲さというのは、自分に十分なものが与えられた後でも、際限なく大きくなり、そのことがかえって死を招く原因になるのでしょう。
この教会のバザーの収益は、すべて外部への献金となりますので、こうした貪欲ではないところに、原動力があるものだと思います。
(4)イエスとは誰か
さて今日、私たちに与えられたテキストは、このように始まります。
「イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、『群衆は、わたしのことを何者だと言っているか』とお尋ねになった」(18節)。
「イエスとは、一体誰か」という問いは、少し前から問われ続けていることです。8章25節では、弟子たちが問うていました。
「弟子たちは恐れ驚いて、『いったい、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか』と互いに言った。」
また9章9節では、ヘロデが問うていました。「『ヨハネなら、わたしが首をはねた。いったい、何者だろう。耳に入ってくるこんなうわさの主は。』そして、イエスに会ってみたいと思った。」
しかし、答えは与えられていません。今や、イエス・キリスト自身がこの問いを取り上げ、弟子たちが人々の見解を紹介するのです。
「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます」(19節)。
それらをひと言で言えば、イエスがメシアの先駆けだということでしょう。人々はメシアの時が来るという希望をもっていましたが、この希望を育んだのは、先ほど読んでいただいたマラキ書のような預言です。
「見よ、わたしは
大いなる恐るべき主の日が来る前に
預言者エリヤをあなたたちに遣わす。
彼は父の心を子に
子の心を父に向けさせる。
わたしが来て、破滅をもって
この地を撃つことがないように。」
(マラキ書3章23~24節)
この言葉をどのように理解するか、意見が分かれていたようです。神の国に先行して、エリヤ自身が来るということなのか、あるいはエリヤの霊をもった別の預言者が来るということなのか。イエス・キリストについても、群衆の見方はさまざまです。洗礼者ヨハネの生まれ変わりなのか、エリヤの霊を受けた別の預言者なのか、あるいはエリヤ自身なのか、いろいろな理解がありました。
しかし彼らの言葉に共通することは、「イエスはメシア(キリスト)ではなく、メシアの先駆けであろう」ということです。
(5)神からのメシア
それに対して、イエスは、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(20節)と、突っ込んで問われます。
ペトロは、こう答えました。「神からのメシアです」(20節)。
「メシア」という言葉は、ヘブライ語で「油注がれた者」ということであり、それをギリシア語にしたものが「キリスト」です。少し言い換えて、「救い主」と言ってもよいと思います。この問答も、他の福音書にはないルカの特徴を言えば、「神からの」という言葉がついていることです(マタイ16:16、マルコ8:29参照)。
これは、イエス・キリストという方は、メシアの先駆けを超えて、神ご自身から直接遣わされた方であるということが強調されているのではないでしょうか。
「イエスとは誰か」という問いは、ここでの弟子たちや当時の人々だけの問題ではなく、今日の私たちまで続いている大きな問いであります。「イエスとは誰か」という問いに答えるのがキリスト教という宗教であると言ってもよいほどです。
イエス・キリストが偉大な預言者である、あるいは預言者的リーダーである、というのは多くの人が認めることでありましょう。預言者というのは、真理を指し示す人、あるいは真理である方を指し示す人です。ところが聖書によれば、真理を指し示すイエス・キリスト自身が、同時に、指し示される真理になるのです(ヨハネ14:6等)。この方こそが私たちを救う力を持った方であり、神から遣わされた方である。ペトロはそのことを正面から、イエス・キリストに答えたのでした。
(6)苦しむメシア
それを受けて、イエス・キリストは誰にも話さないようにと命じながら、次のように語られます。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」(22節)。
これは苦しむメシア(救い主)です。人々が思い描き、待ち望んできたメシアは、そうではないでしょう。もっと強いメシアです。しかしここで示された姿は、何と弱々しく敗北的でしょうか。弟子たちもそれを聞いた時は一体、どうしてそんなことを言われるのか、わからなかったでしょう(マタイ16:22等参照)。
しかしながら、そういうお方として私たちの世界に来られたからこそ、実はもっと深い意味で、一人一人の心に届く、そして一人一人を救うことができるメシアであることが明らかになっていくのです。
(7)神の国を見る
最後に不思議な言葉があります。
「確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる」(27節)。
ルカという人は、神の国を、遠い将来のことだけではなくて、今、私たちの中に実現している、ということを強調した福音書記者です。ルカ福音書17章20節以下に、こういう問答があります。
「ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17:20~21節)。
イエス・キリストがすでに来られて、私たちの群れの中、二人または三人の人がいる中で、イエス・キリストの名前が唱えられるところで、すでにイエス・キリストも一緒にいて、神の国が始まっている、ということです。ですから、今日の27節を、これに重ね合わせるならば、やがて、この世の終わりが来るまでは死なない者がいるというよりは、むしろ今そういう形で、あなたがたが生きている中で、神の国が実現しているということが、隠されて述べられているのではないでしょうか。
これは、現在の私たちの群れの中でも同時に当てはまることです。私たちはやがて生涯を終えます。また私たちの生きている世界にもやがて終わりの日が来ます。しかしそれと同時に、私たちが今生きている中で、すでにそういう世界が実現している。私たちの群れの中に、イエス・キリストが来られて、神の国が始まっているということが、喜びの福音として告げられているのです。今この中で、天国の片鱗を、かいま見ることが許されているのだと思います。
今日のバザーにおいても、そのような神の国の、イエス・キリストの共同体の中にある群れとして、私たちもその喜びを味わいながら、イエス・キリストに従っていく献身ということを学んでいきたいと思います。
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