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末法人言

冥土、冥界、冥境、草葉の陰、黄泉、幽冥
 歳なのか?これらの言葉が気になっってきた。

葬儀とは!「序」

2014-10-26 16:46:01 | 日々の出来事

 またまた「葬式とは」?の話である。それは「死」とは「誕生」とは何か?ということにもつながってくる、と思われる。が、ここでは「葬儀・葬式」について考えてみたい。人間は個体(身体がある)である。この個体が身体であるとすれば、如何なる意味に於いても、共同性をもつ。この共同性は、利用出来る時は良い、邪魔な時には煩わしい、そのようなものでもある。そのような矛盾は、個体として身体が在るからでもある。さらに厄介なことには、人間は「心=想い」なるものもある。とりあえず、人間は「心(=想い)と身体」を持つと前提されている。どうも、人間理解も色々な時代社会によって変化するようでもある。そんな中で、この「人間は心と身体」を持つが今一番採用されている考えでもある。逆説的には「心と身体」を持つが故の苦労が、人間には常につきまとうことになる。世間ではよく「健康で長生き」が良い、と云う。確かにその通りかもしれない。ところが「健康で長生き」と心で想っても、身体がゆうことを聞かない、ということもある。心と身体は矛盾する時もある。「心身共に」は中々難しい問題でもある。
「葬式」についての話であったが、中々本題に入らない?のだが、心と身体は、先にも述べた通りなぜ葬儀なのか?と重要な関わりがあることでもあるので、今しばらく遠回りを。いずれ、仏教の四苦八苦はこの「心と身体」身体が在るとは、その環境(=空間)とその空間での共同性と、さらに大きく云えば社会とか自然、さらには「私」「我」とは何か?の問題まで含まれてくる・・・・。

つづく


無限洞 経読み隊

2014-09-16 11:26:56 | 日々の出来事
「帰宅困難地域」と称されている場でお経を読みたい!そこで無限洞の仲間と出かけた。
経を読みに・・・・・!
その時の映像である。



             表白擬き

 今、この除かれた場、真宗大谷派西願寺に於いて法要を勤修するにあたり、一言申す。
 この除かれた場は、昔から色々な交流があった。例えば、死者と生者の交流、生者と自然の交流等々である。が、しかしこの場は、あまりにも生命力のない無機質な場になってしまった。
 元々この様な無機質で空白な場は無かったのであろうか?
 否である。卑近な例で云えば、戦後社会の出発点となった場である。東京の焼け跡、そして特筆すべきは広島・長崎という場である。東京の焼け跡、広島・長崎という場の空白は埋まったのであろうか?人間的な努力によって埋まったようには想われている。もし仮に埋められていたとすれば、今このような除かれた場が生み出されていたのだろうか?
 確かに人間は戦後社会に限らずそのよう場の空白を、人間的な努力によって埋めてきたのかもしれない。が、しかしそのような人間的努力には裏がある様な気がしてならない。決して人間的な努力は無駄であり、よろしくない、と云っているのではないのだが?人間的努力は常に前向きであり、未来志向でもある。そしてそれは常に結果を要求される。当然それは過去を振り返らない。振り返ったとしてもそれは記念日的要素が強くなり、本当に振り返ったことにはならない。
 では、過去を振り返り、場の空白を埋める人間的努力の基(因)は何処にあるのか?文字通りこの場が基(立脚地)になる。東京の焼け跡・広島・長崎の場、そして今のこの場である。
 なぜこの様な死に絶えた除かれた場が生み出されたのか?それを観察するに、それの原因は元々社会にある。元々、人間的努力によって作られてきたこの戦後社会である。あまりにも生命力のない無機質な近・現代社会がである。そのような社会は人間的努力の及ばない場は、色々な理由をつけ切って捨てるしかない。それが人間的努力の社会的限界でもある。そのような社会・場で観察し人間的努力をする。
 
 今回の原発事故は起るべくして起った。それはハッキリと懺悔しなければならない。それは、正法を誹謗する者としての懺悔でもある。その自覚、懺悔を基に人間的努力をすべきであるし、改めて「共に浄土に往生を願う」である。むろん、それには除染が必要であるし、場の観察も必要である。それが人間的努力の必要最小限でもある。

帰ってきたOさん

2014-08-11 23:18:33 | 日々の出来事


(1)

「今朝オヤジが亡くなりました」
と5月の中頃だったか?○中の長男から電話が入った。
「おおー懐かしいね、○中さんか・・・・・・?」
そういえばいたよなぁ~、あの○中かぁ~、
早い時期に野菜の無人販売所を始めたひとかぁ~、
川井村区kの○中かぁ~
電話を受けながら、かぁ~かぁ~と頭の中 を、いろいろな想いが駆け巡った。
「今、どこかにいるの?」
「埼玉の〇〇市です」「家族全員で暮らしています」
「そうかぁ~」「家族全員でねぇ」
「原因は何だったの?」
「癌です。食道癌で、摘出したけど・・・ダメで・・・・」
四十代の長男の、いろいろな話を総合すると、埼玉に墓地を確保しそこに埋葬をしたい、ということであった。が、どうゆう訳か墓地に埋葬するのが、手続きの関係か何かでややこしい、さてどしたらいいのか?と云うことであった。
結局、火葬は埼玉で納骨は、故郷の○界の兜明神の麓にある墓所の墓に埋骨することになった。
「○中さんも亡くなったのか・・・・・・!

私が、○中さんと一番最初に出会ったのは、35~6年前である。
私が、寺に帰って間もない頃であった。
寺の仕事をブラブラとしている、時期でもあった。
その仕事が、何故か私にまわってきた。
区界の自宅までの送り迎えの車の中で、亡くなった弟のことを、ブツブツ話した。
「歌手志望で東京に出奔し、色々努力したが芽が出ず、日々酒浸りになり、酔って神田川に落ちて死んだ・・・・!」
「奥さんと小さな女の子が残った・・・・・・!」
「某プロダクションの経営する喫茶店でウェーターの仕事をしていたが、ただ働きであった・・・・・・!」
「遺骨を引き取りに東京までいってきた・・・・・・!」
様々なブツブツを聞かされた。

ー亡くなった弟さんと、夢を抱き東京で暮らしていた自分と重なり妙な気分になったことが思い出される。だからよけいに、○中さんは私の記憶に残ってもいる。ー
区界の○中さんの自宅では、仏壇の前に白い布で包まれた遺骨と、その脇に若い奥さんと小学3~4年ぐらいの女の子がポツンと座っていた。
ーその時のお経は、いずれタドタドしかった。ー

○中さんとは、自分がお寺で暮らし始めてからの付き合いでもある。前の代からだともっと長い。むろん確かに、寺であるから寺壇関係というものもある、住職と檀家というようなものである。
それは社会的立場上の関係でもある。
ただ、○中さんとの関係は何かそれを超えた、もっとメンタルな面の意味合いが強いものであったのかもしれない。なぜなら、自分の中でこれ程いろいろな記憶が蘇ってくる人もあまりいない。



(2)

○中さんの墓!つい最近まで土葬だった。

二十数年前の話
「父親が亡くなったんですけど?」
○中さんから電話が着た。
「〇〇日に通夜、次の日に葬儀、埋葬ということでどうでしょう?」
「えぇ~火葬は・・・・・?」
「火葬はせずに土葬で・・・・・」ということだった。

「土葬」最初にして最後の仕事であった。

「盛岡の町まで降りて行って火葬も面倒だし・・・・・
土葬にした」と云うことであった。

通夜のお経も終わり、色々聞いた話を総合すると。
「区界には戦前に入植し、その地を開墾し、今に至った。
出身は日本海側の福井県と云っていたような?」

通夜の帰り道兜明神の麓で、焚き火の炎が一点ゆらゆらと
していた。
後で聞いた話では、「○中さんの近所の若い衆が、一升瓶をそばに置き、
直径1メートル深さ2メートルぐらいの穴を掘っていた」とのことであった。
晩秋の冷たい風が吹いていた。

翌日、住職である親父と一緒に○中家に向かった。
前日同様冷たい風に、チラチラと白いものが混ざっていた。
今では珍しい自宅での葬儀であった。

葬儀のお経も終わり、いざ埋葬である。
「和尚さん、行列を組んで墓所まで行きたいんだけど・・・・?」
「行列の順番は・・・・・・?」
「知っている年寄りがみんな亡くなって・・・・」
と、近所の住人でも、年を取っているほうの人に聞かれた。

「・・・・・・・・・」
「そうかぁ~」「それがあったのかぁ~」
またまた、かぁ~かぁ~と「かぁ~」が頭の中を駆け巡った。

「よし・・・・!風も強いし、小雪も舞っているし、歩くのも
大変だし・・・・!皆さんそれぞれ車で行きましょう」
「遺体の入っている座棺は、私の車で運びます」
と、訳の分からんことを口走ってしまった。
結局、私の運転するトヨタ・ラウンドクルーザー60(当時はま
だ1ナンバーで貨物車扱い)に棺を積んで墓所まで行くことになった。
墓所までのダラダラな上り道を、軽自動車、軽トラ、普通車、
ワゴン車等々、色々な車種の車が行列を組んで上った。

徹夜で掘ったでかい穴の前で、
「和尚さん、どちら向きで埋めればいいべぇ~・・・・・」
「・・・・・・・・」
とっさに
「いい景色が見える方へ・・・・・・!」
「んだな」
と、いい景色が見える方向へ面を向け、棺を穴におろし、土を
かけ始めた。
後で聞いた話によれば、頭面北斎と云って北側に面を向けるのが
作法であるとのことであった。