紅葉を求めてこの日は、左京区の上高野地域に行く。京福電鉄鞍馬線の岩倉駅周辺となる。
一箇所目が三宅八幡神社。続いて比較的近くにある岩倉実相院。ともにこのブログを始めた直後に訪れている。4月も終わりだったので桜も何もないごく普通の風景だった。この辺りは、小学校から就職した直後まで住んでいた高野という地域の北の方になる。記憶が定かではないが、中学校の頃に三宅八幡宮へ行ったようなおぼろげな記憶があるようなないような。
三宅八幡神社は創建が、教科書に出てくる遣隋使の小野妹子によると言う。奈良時代前の飛鳥時代ということだ。従ってかなり古い部類に入る。小野妹子の一族がかつてこの辺りに住んでおり、駒札にあるようにこのあたり一帯が小野郷と呼ばれていたと言う。そんな関わりがあるというのも、この三宅八幡神社によって知ることが出来た。
京都市の北の方にあるので、訪れた時点では既に紅葉は半分朽ちていた。最盛期であれば境内周辺に見事な赤色が広がるところだが、やや残念と言ったところ。特に観光客もおらず地元の人達が散歩がてらにゆったりしている状態だった。神社としては相当な由緒もあるので、参拝に訪れる人は多いようだ。石像の鳩はよく知られているという。
続いて神社からさらに北の方に走る。岩倉実相院だ。
昔からこの名前は知っていた。というのも当時住んでいた家の近くを走る路線バスの行き先が、岩倉実相院だったからだ。その路線は今現在も同じ京都バス株式会社が運行している。お寺そのものが観光地として人気もあるために、バス会社としても重要な路線ということになるだろう。京福電車も駅があるが、少し歩く必要がある。いずれにしろ便利なことは便利だ。
こちらの紅葉は文字通り真っ盛りで、見事な色を輝かせている。人も随分多く次から次へとをやってくる。山門をくぐって短い参道にも見事なもみじが咲いており、さらに本堂の室内から庭園を眺める。背後には比叡山の北側の山の稜線がくっきりと浮かび上がり、手前に敷き詰められた真っ白な砂と大きな岩。そして周りに真っ赤な紅葉が配置されている。例によって人が多いので、部屋の畳に座ってゆっくり、というわけにはいかない。何しろ車で行ったので、無料ではあるが30分以内と言われた。忙しなく本堂の中をあちこち回り、裏庭も含めて写真を次々に撮っていく。まぁしかし、たとえ時間があったとしても、こんなに人が多いのならばやはり落ち着いた雰囲気は感じられないだろう。人気のお寺でもあるのでそこら辺は仕方がない。
あくまで紅葉シーズンということで、紅葉を見て撮影するだけで終わってしまうが、本来は門跡寺院として多くの文化財を有する。本尊はお寺の創建時期とほぼ同じ頃に制作されたと言われる、鎌倉時代の不動明王像。写真で見る限り保存状態も良さそうなので、文化財指定があってもおかしくないとは思うのだが、どういうわけなんだろうか。中世紀以前ではめったにないと言われる、天皇直筆の文字が 保管されている。これは非常に貴重なものだと言われている。他にも重要文化財があり、公開日には一度見てみたいものだと思っている。
三宅八幡神社
『三宅八幡神社
この辺りは古くは小野郷と呼ばれ、小野氏の居住する地域であった。
社伝によると、推古天皇の時代、小野妹子が遣隋使として筑紫を過ぎる時、病に罹ったので宇佐八幡に祈願をこめたところ、直ちに平癒したので、帰朝後、宇佐八幡を勧請したのがこの社の起原であるといわれる。祭神は応神天皇である。俗に「虫八幡」といい、子供の疳の虫除けと神として幕末期より崇敬を集めており、特に九月一五日に行われる例祭には子供連れの参詣者で大いに賑わう。
東方には、慶長年間、石棺及び墓誌(国宝)が発掘された小野毛人の墓がある。墓誌には天武天皇五年(六七七)の年号が銘刻されているので名高い。
京都市』 (駒札より)
岩倉実相院
『実相院
もと天台宗寺門派の門跡寺院。寬喜元年(一二二九)、静基僧正の開基。寛永年間、足利義昭の孫に当たる義尊が入寺。その後、後西天皇の皇子義延親王が入寺。以来、宮門跡が続いた。客殿・御車寄など、東山天皇の后、承秋門院の薨去に際し、大宮御所の建物を賜ったもので、現存する数少ない女院御所といわれている。寺宝には、後陽成天皇宸翰「仮名文字遣」(重要文化財)、後水尾天皇宸翰「忍」他、狩野永敬をはじめとする狩野派による襖絵を多数蔵する。
京 都 市』 (駒札より)
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