千葉登戸にも空襲があった
上記の写真を見てください。昭和20年7月7日千葉市は空襲にあいました。別名「七夕空襲」と呼ばれています。 赤い斜線部分が空襲にあった地域です。
- 当日の空襲は129機の爆撃機によって、午前1:39から3:05までの84分間行われました。
- 100ポンド瞬発型焼夷弾、500ポンド収束型焼夷弾、500ポンド収束型爆弾が主流でした。焼夷弾は日本の家屋が木造であったため、爆弾が地面に当たると、粘り気の油が火の玉となって飛び出し、飛び散る爆弾です。この焼夷弾で千葉市は火の海になりました。
- 千葉市には、現在のJFGスチール東日本製鉄所付近に軍事工場(日立航空機千葉工場等)がありましたので、登戸海岸沿いにあった千葉街道は重要な軍事道路であったのです。日立工場は下記の写真でご覧下さい。(但し22年の写真です。)
- また、登戸は千葉軍事関係者が多く住んでいた関係もあり、登戸の千葉海岸沿いに焼夷弾が落とされたのです。不思議なことに焼夷弾はすべて千葉街道から1~2キロ先の海の中に落ちましたので、登戸地区の住宅街はほとんど無傷でした。
- 吉原章雄さんのお話によりますと、空襲は夜に行われたため、海はかなり引き潮になっていたようです。空襲時には波打ち際は、かなり沖になっていたそうです。波打ち際を道と間違って、アメリカは焼夷弾や爆弾を落としたため登戸は安全だったのです、見出しの写真を見てください。空襲領域が海の中になっているでしょう。
- 登戸も千葉空襲があったのです。しかし、神社もすべて残りました。がその後埋め立て工事が始まり、今の新千葉付近は大きく変わってしまいました。千葉街道なくして千葉登戸地区は語れません。
- 注:飛行機はグアム飛行場から飛び立ってきたそうです。今、沖縄で騒いでいる新型ヘリコプターは1、000キロの長距離飛行距離が可能です。兵器の問題になぜ騒いでいるのか、忘れかかってきているのが今の日本です。
- 収束型焼夷弾や爆弾とは、沢山の爆弾を束ねたもので、5,000~5、500フィートの高さでばら撒かれ、落ちてくる爆弾です。この種の爆弾はどんどん進化し、最近では落下爆弾が即爆発せず、時間が経ってから爆発する方式に変わってきています。そしていつまでも攻撃された地域に入れないようになってきているようです。私たちは悲惨な過去の戦争を忘れてはいけません。