気まぐれ剣士の言いたい放題
287 救出
我々がが誰かに救いの手を差し伸べる時、本当に「救出」されることになるのは、助けている側の我々かもしれません。
助けられる側が弱々しくて、助ける側が勇敢で立派なのではありません。「救出」する側と「救出」される側が別々に存在しているワケではないのです。それらは同じ現象の裏表であり、本来分けることは出来ないのですね。
自分が誰かの手助けをする時、自分は同時にその相手から助けられているのです。例えば、ヒーローがヒーローになりえるのは、救うべき相手が存在しているお陰です。 ヒーローが存在する社会は、ヒーローと同じ数だけ、「救出」を待ち望んでいる人が存在することの証しであるかもしれません。
ヒーローは他人を「救出」することによって、その存在意義(アイデンティティ)を保っているに他なりません。だとすれば、誰かを「救出」することによって、 精神的に一番救われているのは他ならぬ、ヒーロー自身なのかもしれません。
厳密に言えば、私たちは誰も「救出」することなど出来ないのですね。一時の危機的状況から、物理的に他人を「救出」することは出来るかもしれませんが、 本当の意味で他人を救うことなど出来ません。 私たちが本当の意味で「救出」出来るとすれば それは自分自身以外にはないそうです。
困っている他人に出来る範囲で手を差し伸べることは構いませんが、それは相手を助けるためではなく、自分の心を「救出」するための行為だと覚えておくといいそうですよ。
私たちは本来「救出」してあげる必要もなければ、「救出」してもらう必要もないのです。誰かを「救い出す」ことに、自分の存在意義を見出す必要はありません。自分を「救い出す」ことは自分以外の誰にも出来ないのですから…。 あなたはあなた自身のために生きれば、それで良いのです。
確かに相手を助けることは自分を助けることなのかも知れませんね。気まぐれ剣士も子供を教えるとき、教えられることも多く、教えているのか教えられているのか分からなくなることがあります。実は教えることは教えられることで区別など出来ないのですね。
いかがでした。
次回もお楽しみに。
以上
287 救出
我々がが誰かに救いの手を差し伸べる時、本当に「救出」されることになるのは、助けている側の我々かもしれません。
助けられる側が弱々しくて、助ける側が勇敢で立派なのではありません。「救出」する側と「救出」される側が別々に存在しているワケではないのです。それらは同じ現象の裏表であり、本来分けることは出来ないのですね。
自分が誰かの手助けをする時、自分は同時にその相手から助けられているのです。例えば、ヒーローがヒーローになりえるのは、救うべき相手が存在しているお陰です。 ヒーローが存在する社会は、ヒーローと同じ数だけ、「救出」を待ち望んでいる人が存在することの証しであるかもしれません。
ヒーローは他人を「救出」することによって、その存在意義(アイデンティティ)を保っているに他なりません。だとすれば、誰かを「救出」することによって、 精神的に一番救われているのは他ならぬ、ヒーロー自身なのかもしれません。
厳密に言えば、私たちは誰も「救出」することなど出来ないのですね。一時の危機的状況から、物理的に他人を「救出」することは出来るかもしれませんが、 本当の意味で他人を救うことなど出来ません。 私たちが本当の意味で「救出」出来るとすれば それは自分自身以外にはないそうです。
困っている他人に出来る範囲で手を差し伸べることは構いませんが、それは相手を助けるためではなく、自分の心を「救出」するための行為だと覚えておくといいそうですよ。
私たちは本来「救出」してあげる必要もなければ、「救出」してもらう必要もないのです。誰かを「救い出す」ことに、自分の存在意義を見出す必要はありません。自分を「救い出す」ことは自分以外の誰にも出来ないのですから…。 あなたはあなた自身のために生きれば、それで良いのです。
確かに相手を助けることは自分を助けることなのかも知れませんね。気まぐれ剣士も子供を教えるとき、教えられることも多く、教えているのか教えられているのか分からなくなることがあります。実は教えることは教えられることで区別など出来ないのですね。
いかがでした。
次回もお楽しみに。
以上