気まぐれ剣士の言いたい放題
283 存在
自分が認識するから、全てのものが「存在」出来るのです。自分が認識しなければ、何も「存在」することが出来ません。
この三次元は、二元論の相対の世界です。 良いがなければ、悪いは「存在」することは出来ません。 あなたが居なければ、私が「存在」することも出来ないのです。「見るもの」がなければ、「見られるもの」も「存在」しません。
自分がが相手の「存在」を認めなければ、その相手はあなたにとって、「存在」していないのと同じことです。それは相手の「存在」を否定し、抹殺しているのと同じことですね。
愛の反対は、憎しみではなく、無関心だそうです。 つまりその「存在」を認めず、無視することです。それが最も「愛」から、かけ離れた行為だと言うことです。
我々がその「存在」を認めない限り、相手は「存在」することさえ出来ないのですから…。
自分と無関係に、あなたの外側に「存在」しているものなどひとつもないと知ることが、全ての気付きの始まりだそうです。全ての「存在」は、あなたが意識した結果として「存在」を許されているのです。そしてそれはあなたの意識を投影したものであり、あなたの一部として「存在」しているそうです。
自分の意識が変われば、自分の見るものが変わります。自分の見るものが変われば、自分の外側の「存在」も変わります。それはあなた自身を投影していますから、自らの「存在」が変化していることに他なりません。あなたの世界が変わるということは、こういうことです。
愛の反対は憎しみではなく無関心、すなわち存在を無視することだったのですね。「存在」しているとは自分が認識して初めて存在できるのです。
確かに熟睡しているときは何も存在してませんね。
次回もお楽しみに
以上
283 存在
自分が認識するから、全てのものが「存在」出来るのです。自分が認識しなければ、何も「存在」することが出来ません。
この三次元は、二元論の相対の世界です。 良いがなければ、悪いは「存在」することは出来ません。 あなたが居なければ、私が「存在」することも出来ないのです。「見るもの」がなければ、「見られるもの」も「存在」しません。
自分がが相手の「存在」を認めなければ、その相手はあなたにとって、「存在」していないのと同じことです。それは相手の「存在」を否定し、抹殺しているのと同じことですね。
愛の反対は、憎しみではなく、無関心だそうです。 つまりその「存在」を認めず、無視することです。それが最も「愛」から、かけ離れた行為だと言うことです。
我々がその「存在」を認めない限り、相手は「存在」することさえ出来ないのですから…。
自分と無関係に、あなたの外側に「存在」しているものなどひとつもないと知ることが、全ての気付きの始まりだそうです。全ての「存在」は、あなたが意識した結果として「存在」を許されているのです。そしてそれはあなたの意識を投影したものであり、あなたの一部として「存在」しているそうです。
自分の意識が変われば、自分の見るものが変わります。自分の見るものが変われば、自分の外側の「存在」も変わります。それはあなた自身を投影していますから、自らの「存在」が変化していることに他なりません。あなたの世界が変わるということは、こういうことです。
愛の反対は憎しみではなく無関心、すなわち存在を無視することだったのですね。「存在」しているとは自分が認識して初めて存在できるのです。
確かに熟睡しているときは何も存在してませんね。
次回もお楽しみに
以上