創価学会に悩むすべての人へ

創価学会問題の構造を紐解く(※コメント不可。トラックバック歓迎!)

真面目な創価学会員が実権を持ったほうが、創価学会は危険!(下)

2005年10月27日 | Weblog
もしかして、あなたは、日蓮仏法の欠陥性を、それほど意識していないのかも知れません。
もしかして、「何だかんだ言って、南無妙法蓮華経が一番素晴らしい」と思っているのかも知れません。
だから、日蓮仏法に拘泥するのでしょう。
創価学会に拘泥するのでしょう。
それならば理解できます。

しかし、もしそうであれば、あなたは「カルト」です。
とても危険です。
もし、そういう人間が創価学会の指導者になれば、創価学会は(ますます)カルト集団になります。
なぜならば、「何だかんだ言って、南無妙法蓮華経が一番素晴らしい」と思っている人間がリーダーになるのですから。

現在の創価学会のリーダーは、「何だかんだ言って、南無妙法蓮華経が一番素晴らしい」とは、思ってません。
だから、それほど社会と摩擦を起こさずにやって行けるのでしょう。
もし、「何だかんだ言って、南無妙法蓮華経が一番素晴らしい」と思っている人間がリーダーになれば、
多少の日蓮仏法への修正があったとしても、
本質はやはり「選民思想」であり、「他宗教への侮蔑」でしょう。
「何だかんだ言って、南無妙法蓮華経が一番素晴らしい」と思っている人間は、とても精神的に危険なものを持っています。


「創価学会の幹部は腐っている。創価学会という純粋な組織を利用して、私腹を肥やそうとしている。創価学会を下から変えねばならない!」

と絶叫している創価学会員を、外部は「真面目な学会員」と考えてしまいます。
(「自民党をぶっ壊す」と叫ぶ小泉純一郎が真面目に見えるのと同じです。)
実際、真面目なのかも知れません。
ですから
「あなたみたいな創価学会員ばかりだと、もっといい創価学会になるのに。」
とアンチが讃嘆します。
しかし、そういう「真面目な学会員」ばかりで、創価学会が構成されるようになれば、創価学会はもっとタチの悪いものになるのです。

彼等は、「多少の矛盾、欠陥はあっても、日蓮仏法が最高!」と思っているのです。
そういう人間が身内にいれば、しつこく日蓮仏法の話を聞かされます。
まるで美輪明宏のように、押し付けがましく独自の宗教観を語って来ます。
本当に地獄です。
その創価学会員が「いい人」「大切な身内」なだけに、参ってしまいます。

わしはHPに、「末端の創価学会員はいい人」と書いていますが、
「いい人」と「狂信者」は背中合わせです。

「真の」バリバリ創価学会員は、自分のノルマ達成のためだけに、折伏します。
ですから、相手が一度断ったら、もう信心の話はしません。
それに、「真の」バリバリ創価学会員は、利口ですから、身内は絶対に折伏しません。
わしは、今まで、自分の身内を絶対に折伏しないで、
自分にとって「どうでもいい」人間だけを折伏する学会員を、時折、見て来ました。
そういう学会員は、日蓮仏法を信じていないのです。
信じていないから、大切な身内は折伏しません。
自分にとって関係の薄い人間は勧誘するけど、「折伏」というほど、強引な勧誘はしないんです。
なぜならば、その人にとって、布教とは「営業活動」だからです。
組織の中で「風通し」を良くするために、仕方なく「営業目標」をクリアーしようとしているだけなのです。
「営業」ですから、しつこいとかえって客が、引いて行きます。
あっさり営業をかけたほうが、相手は興味を持ってくれます。
そして、バリバリの営業マンは、身内には絶対に売り付けません。
欠陥商品である事がわかっているからです。

ですから、わしの出会った、

≪しつこい折伏はいっさいしない≫
≪身内は折伏しない≫


創価学会員というのは、本当の「バリバリ創価学会員」だったのです。
身内をしつこく折伏するのは、本当のバリバリ創価学会員では無かったのです。
ただの狂信者だったのです。

「日蓮仏法は正しい」と主張してやまない、ピュアーな創価学会員は、「狂信的」な創価学会員です。
彼等は真の「バリバリ創価学会員」ではありません。
創価学会でも、二軍、三軍です。(創価学会員はほとんど二軍、三軍ですが)

では、このわしはどういう創価学会員だったのでしょうか?
それは、後者の「狂信者」でした。
わしは本当のバリバリ創価学会員では無かったのです。
わしも二軍、三軍です。
わしは狂信者だから、信仰の純粋性を求めた。
「教祖誕生」の映画の中で、司馬に食ってかかり、仏像に火をつけた若き部下のように、わしは創価学会の執行部に食ってかかったのです。

「もっと、仏法に純粋であるべきだ!!」と。

しかし、わしは日蓮仏法を追及して行くうちに、ある事に気付いたのです。
日蓮仏法は欠陥だらけだと。
どんなに、修正しても、修正しても、修正し尽くせないほど欠陥だらけだと。
宗祖日蓮は狂者だったと。
狂者ゆえに、幕府にお灸を据えられたのだと。

日蓮仏法は、やりようによっては、上手に実践する事も可能です。
江戸時代の元政上人のようにやれば、有効でしょう。
ですが、そのやり方を創価学会員に勧めるのは難しい。
しかも、無理に欠陥ある日蓮仏法を勧めるよりも、他の宗派でいくらでもマトモな仏教信仰のあり方がある。
こう考えたら、「日蓮仏法に純粋な創価学会」という事にも、興味が無くなったのです。
わしは、狂信者だったからこそ、創価学会を離脱する事が出来たのです。
わしと同じような人間はいっぱいおります。
ネットの中にもおります。

ですから、創価学会の金権体質が気に入らないという、マジメな創価学会員さんに言いたいのです。
もっと、仏教を良く勉強してください。
そうすれば、創価学会を改革しようとか、そんな事は考えなくなります。

あるいは、「真の」バリバリ創価学会員となって、創価学会を「福祉団体」「福利厚生団体」として利用するようにしたほうがいいです。
そのほうが、他人に迷惑をかけないのです。
「真の」バリバリ創価学会員は、狂信的ではないので、他人に迷惑をかけないのです。
ネットでも、わしは「真の」バリバリ創価学会員を一人~二人知っております。

「真の」バリバリ創価学会員は、無知な人間は、自分の「営業成果」のために、犠牲にするわけですから、決して誉められたものじゃありません。
どちらかと言えば「最悪」です。
ですが、騙されるほうも、騙されるほうなのです。
自分が勉強不足だから、縁もゆかりも無い創価学会員に騙されるのです。

害が少ないのは、「真の」バリバリ創価学会員だと思います。
インターネットでも、日蓮仏法をこき下ろしている創価学会員(活動家)を見かけると思います。
そいつが、「真のバリバリ創価学会員」です。
ごくたまにしか居ませんけど、ネットにも出て来ています。
組織から離れないのは、組織の「うまみ」を知っているからです。


創価学会の執行部にも、言い訳があります。
創価学会執行部は、会員からお金を集めて「福祉」「福利厚生」「信仰」を提供しているのです。
三つとも、「商品」です。
前の二つは、かなり立派な商品です。
残りの「信仰」は欠陥商品です。
欠陥商品ですけど、苦しい時は、心の支えになります。
教義はハチャメチャだけど、≪いわしの頭も信心から≫で、
この信仰が奇跡を生み出す事もあります。
だから、名誉会長をはじめとする執行部は、
「大局的に見れば、俺達は正しい」と思っているはずです。

北海道の戸田墓苑に、わしの家の墓があります。
戸田墓苑は、見事に整備されたキレイな墓です。
ほとんどの墓は、同じ形です。
ですから、普通の墓地にくらべ、統一観があってキレイなんです。
たくさんの造園業者を入れて、常に植え込みも整備されています。
掃除も、「守る会」の婦人部がボランティアでやっています。
送迎バスも、たぶん壮年部のボランティアだと思います。
実に丁寧な送り迎えです。
こういう墓地運営が出来るのは、創価学会ならでわです。
もし、外部の人が戸田墓苑に来たら、創価学会が好きになるでしょう。

戸田墓苑は、創価学会の「福利厚生」事業の一環です。
多額の会員の金と、汗が結集したのが戸田墓苑です。
キレイな墓苑の影には、多くの創価学会員の金と汗があるのです。
ですが、創価学会員は、決していやいや、金と汗を出したわけではありません。
「キレイな墓苑」を造るため、維持するために、喜んで金と汗を出しているのです。
こういう事に対し、アンチは批判できるでしょうか?

そう簡単に批判できない部分が、創価学会にはあるのです。
創価学会員がお金を出した分、汗を流した分、
さまざまな形での「福祉」「福利厚生」が見返りとしてあるのです。

巨大組織ならではの「うまみ」があるのです。
だから、会員は喜んで「お金」を出し、「汗」を流すのです。

しかし!
問題なのは、創価学会という組織は、会員から「お金」「汗」をひっぱるために、「信心の功徳」という「ウソ」をつくのです。
本当は、信心なんて、商売道具に過ぎないくせに!

もし、創価学会が、「ウチは福祉団体です」「ウチは福利厚生団体です」という事を明確に世間に言って、宗教団体である事を放棄すれば、わしは創価学会の存在を認めます。
「福利厚生費」として、会費を徴収し、その見返りに「福利厚生事業」として、墓地運営など、色々なサービスを行うのならば、理解できるし、
あるいはわしも創価学会に入るかも知れません。

そういう団体は世の中にあります。
中小企業を対象とした福利厚生団体、自営業者を対象とした福利厚生団体など、世の中にはたくさんの福利厚生団体が存在します。
そこでは、一定の会費を支払う事で、スポーツクラブや宿泊施設が安く利用できたり、ローンが安く組めたりします。

もし、創価学会が純粋な福利厚生団体として生まれ変われば、おそらく日本最大の福利厚生団体になるでしょう。

創価学会の許し難い点は、創価学会が「宗教」を利用している事です。
宗教を「利用」しているから、「創価学会よ、純粋な宗教団体になれ!」と、わしは主張しているのではなく、むしろ、「創価学会よ、宗教を放棄せよ!」と主張しているんです。

キリスト教系では、創価学会に似ている組織として、YMCAというところがあります。
YMCAも、宗教と福利厚生団体を兼ねています。
だから、あやしい。
あやしいから、フランスでは創価学会とともに「セクト」という認定を受けているのです。
「宗教団体なのか、福利厚生団体なのか、ハッキリしないさい!」という事です。

わしは、創価学会を純粋な日蓮仏法の団体にするのは危険だと思っています。
ですから、創価学会を純粋な福利厚生の団体にしたいのです。
もし、創価学会を純粋な福利厚生の団体にしようという創価学会員がいたら、わしは協力します。
具体的には出来ませんが、知恵はお貸しします。

まず、創価学会は

「今まで、私達が信じていたのは不完全な宗教だったので放棄します!」

と宣言しなければなりません。

これを、本当に創価学会が実行できるのならば、協力します。
そして、創価学会が本尊も、南無妙法蓮華経も、全て捨てられるならば・・・

そんな事、みなさん、出来ると思いますか?
出来るわけが無いでしょう!
だからわしは、創価学会はこの世から消滅したほうがいいと思っています。

消滅しないのならば、少なくとも、今の十分の一に規模を縮小し、政治的な影響力が少なくなって欲しい。

指導者の一声で動く支持者を母体とする政党が、政権を持つというのはとても恐い事です。
これについては、わしよりも熱心に説明できるアンチがいるでしょうから、お任せします。

創価学会の危険性は、政治的な面ももちろんあります。
ですが、それよりも、

1.創価学会の執行部が、宗教を道具として信者をマインドコントロールしている事。

2.これにより、信者が精神的に病んでいる事。

3.日蓮仏法を純粋に信じている創価学会員が、創価学会を改革して実権を握れば、もっと創価学会が悪くなるという事。


こういう部分に、わしは危険性を感じています。

創価学会問題の解決策は、わしは創価学会の解体しか無いと思っています。

創価学会を解体させるには、戦闘的な狂信創価学会員を相手にしてもダメです。
彼等は、忍者みたいなものです。
敵をかく乱する事だけを目的とした兵器なのです。
どうせ彼等は、創価学会を代表して意見を述べられません。
いざという時は、「これは私の個人的見解です」と言って、逃げるだけです。
「自分の意志で動いている」と敵に思わせるところが、まさに忍者です。
創価学会の執行部の手の平で、上手に踊らされている孫悟空のような人達です。
ネットで、アンチとバトルしているのは彼らです。
上手に「兵隊」として執行部に使われているのです。

「真のバリバリ創価学会員」は、アンチとバトルしません。(仏教論は別として)
それどころか、「創価学会が腐った集団」という点では、アンチと意見が一致します。
「真のバリバリ創価学会員」は、腐っている創価学会という集団を、上手に利用して、「おいしい」思いをしているのです。
ですから、アンチも、彼等に向ける言葉がありません。
凶悪犯に倫理を説いても無駄なように、「真のバリバリ創価学会員」を咎めても無駄です。

創価学会を解体させるには、創価学会の執行部や「真の」バリバリ創価学会員を相手にしてもダメです。
彼等は「だからどうしたの?」と開き直るだけです。

創価学会を解体させるには、仏法に純粋で、上層に疑問を感じているピュアーな創価学会員を相手にする事です。
彼等は残念ながら、まだ日蓮仏法を「最高」だと信じています。
そうではないという事を理解させる事が出来れば、彼等は創価学会を抜けるでしょう。
大半の創価学会員は、彼等のようなピュアーな創価学会員です。
活動家創価学会員の80%がオルタナティブです。
15%が戦闘的な創価学会員。(いわゆる一般的に言われているバリバリ創価学会員)
5%が「真の」バリバリ創価学会員です。

日蓮仏法を破折する事で、80%の存在である彼等が抜け出させる。
そうすると、残り20%だけになり、創価学会は経済的に維持不能になります。

いくら創価学会の組織が腐っていると訴えても無駄です。
言い逃れる手段が、いくらでもあるからです。
政権一致問題は、意味があると思います。
違憲合憲という話には限界があるでしょうが、道義的に追及する事は有意義でしょう。

ですが、本当にアンチがすべきなのは、日蓮仏法が「最高の仏教ではない」という事を訴える事です。
創価学会員の中に、ネットでそういう事を言っている人がいますが、
彼等は自分の趣味として仏教を研究しているだけなので、彼等の力を借りてはなりません。
(日蓮仏法の欠陥をわかっていながら、創価学会を離脱しないのは、欺瞞です!そういう人間の語る仏教に耳を貸してはなりません)
我々非学会員の手で、日蓮仏法が「最高の仏教ではない」という事を訴えねばなりません。

ですから、わしは事あるごとに、「アンチは教義批判をやらねばダメだ!」
と主張して来ました。
誤解して欲しくないのは、
「創価学会教義が本来の日蓮教義とは異なる」という事を、いくらやってもダメです。
創価学会の教義というよりも、日蓮教義自体を批判する必要があるんです。
アンチの人達は、組織批判ばかりやらず、日蓮教義批判をやってください。

創価学会員の大半は、日蓮仏法を信じているのです。
信じているから、家族、親戚、親友、恋人に、日蓮仏法を押し付けるのです。
だから、日蓮仏法が必ずしも「正しい仏教ではない」事を教えてあげましょう。

わしのところに、「どうやったら恋人を脱会させる事ができますか?」という相談メールが来ます。
わしはこう答えます。

「基本的には、あなたが説得しても、別れになるだけだ。だけど、一つだけ手段がある。あなたは何年かけてもいいから、仏教を勉強しなさい。そして、いつか何らかの原因で、恋人が創価学会に疑問を持つ日が来る。その時、あなたは冷静に、日蓮仏法の矛盾について説明してあげなさい。そうすれば恋人は脱会する。」と。

わしは今、「仏教エッセイ」というメルマガを書いています。

http://www.mag2.com/m/0000159892.html

これを読めば、恋人を脱会させられる知識が身に付きます。
まだ、創価学会批判には及んでませんが、これから書きます。
このメルマガの存在を知っておりながら、まだ登録してない人は阿呆です。

創価学会を解体するには、
日蓮仏法を信じ込んでいるピュアーな創価学会員を脱会させる事
です。
そのためには、日蓮仏法を批判するしかないんです。

日蓮仏法を批判すると言っても、日蓮仏法の完全否定じゃないのです。
日蓮仏法は信仰してもいいのです。
ですが、
わざわざ、組織を使って、世界中に広めるほど、価値のある宗派じゃない事
をハッキリさせるんです。
せいぜい、自分が一人で、細々やって行くだけで充分なんです。
日蓮仏法なんて、他人に勧めるほどのものじゃないんです。
その事を、教えるのです。

アンチにも、一人で日蓮仏法を信仰している人がいます。
それでいいんです。
何の不自由も無いんです。
一人でやってるから、自由に「修正」がきくのです。
日蓮仏法をやるなら、「単独」でやったほうがいいのです。

難しいかも知れないけど、仏教を基礎から勉強する事。
方法がわからない人は、わしのメルマガを読む事です。
そうすれば、何冊も本を読んだだけの知識が身に付きます。
現在、創価学会員である恋人や親友にも、購読を勧めてください。
目からウロコが落ちるはずです。
これを読んで、脱会まではすぐには決断できないでしょうけど、かなり動揺するはずです。

しかし!

もし、あなたの恋人が、「真の」バリバリ創価学会員ならば、御臨終です。
日蓮仏法の矛盾点を説明しても無理です。
彼等はすでに、日蓮仏法への信仰なんかありません。
組織に居るのが「おいしい」から、居るだけなのです。
彼等を脱会させるには、創価学会よりもおいしい「福利厚生団体」を紹介するしかありません。

わしは、創価学会よりもおいしい「福利厚生団体」が生まれる事を、願っております。
日本は福祉が弱いのです。
冷たい社会です。
だから、創価学会のようなカルト宗教が幅を利かせてしまうのだと思います。
わしはカルトではない、宗教がらみではない、本当の「福利厚生団体」が生まれて欲しいです。
せめて、ホットなコミュニケーションが出来る、サークルがあれば、それが創価学会の代りの「受け皿」になると思います。

最後に、地道に創価学会問題に取り組んでいる真面目なアンチの方々に、敬意を表します。(終)

真面目な創価学会員が実権を持ったほうが、創価学会は危険!(上)

2005年10月27日 | Weblog
創価学会の弊害は、宗教異常者を輩出する事です。
創価学会員全員が、一種のプチ霊能者と同じです。
霊能者というのは、自分の見えている世界、感じている世界を「真理」だと思い、他人に押し付けて来ます。
「供養しなければならない」「祈祷しなければならない」「ああいう本尊を拝んではならない」「こういう本尊を拝まねばならない」等々。
本人は、信念で言っているのかも知れませんが、言われている方は気味が悪いです。

霊能者は商売ですから、相手が「客」にならないとわかれば、もう近づいて来ません。
しかし、創価学会員の場合は、商売ではなく、単に純粋性ですから、何年でも粘り強く、自分の宗教観を押し付けて来ます。
「この御本尊に題目を唱えねば、あなたの今の病気は治らない。」「あなたの運が悪いのは、あなたが邪宗を信じているからだ。」「日顕の本尊を拝んでいるから、いつまでも就職できない。」
赤の他人に、こう言われたならば、その人とはもう関らないようにすればいいだけです。
ですが、最悪な事に、創価学会員が、そうやって宗教観を押し付ける相手は、決まって、家族、親戚、親友、恋人、職場の部下です。
関係を断ち切ろうにも、簡単に断ち切れないのです。

そして、創価学会員は、自分のやっている宗教を絶対だと信じ込んでいますから、相手の不快感が理解できません。
「こんなに素晴らしい信心を勧めているのに、なぜわかってくれないの?」という気持ちです。
ところが、勧められた相手は、ノイローゼになりそうな苦痛を味わっているのです。
そういう「宗教」自体も薄気味悪いし、そういう宗教を、一生懸命に勧めて来る相手も気味が悪いし、こっちが嫌悪を感じているのに、それでも勧めて来る「精神構造」や、その「精神構造」を生み出す宗教団体に、とてつもない不安を感じているのです。
今、この記事を読んで頷いている人は、決して少なくないはずです。
実に、多くの人が、身内の創価学会員に勧誘されて、迷惑な思いをしているのです。
本当にこれは、社会問題です。

その創価学会員は、必ずしも、創価学会の全てに同調している完全にマインドコントロールされた人間ではありません。
こちらが「聖教新聞の座談会っていう記事、おかしいよね?」と質問すれば、
「そうだね、学会員の私から見ても、確かにおかしい」と答えるし、
「無理矢理宗教を押し付けて来る人をどう思う?」と質問すれば、
「宗教は自由だと思うよ。」と答えます。
その態度を見れば、その人は、創価学会員の中でも、かなりの良識的な部類に入る印象を受けるのです。
ですが、実際、創価学会員の大半は、そういう態度の人間なのです。
それでも、現実には、自分が「おかしい」と思っている聖教新聞を購読し、
そして、自分の身内に、宗教を押し付けている
のです。
これは、明らかな矛盾です。
この矛盾に、気付いていないのです。

週刊新潮の不買運動が、創価学会の中であります。
週刊新潮が「悪書」だから、買わないのが一番良いと思うならば、
聖教新聞が「おかしい」と思うのならば、購読を中止すれば良いのです。
ですが、「聖教新聞の論調はおかしい」と良識派ぶる創価学会員も、聖教新聞の購読を中止しないのです。

他の創価学会員が、宗教を人に押し付ける事を「行き過ぎ」と思うくせに、
自分の身内に対しては、何度も、何度も、自分の宗教観を聞かすのです。
「信教はもちろん自由よ。でもね、あなたはわたしにとって大切な人だから、しつこいくらいに聞かすの。」と、相手が精神的に限界に来ているのに、それに気付かず、押し付けて来ます。
これを本人は「押し付けている」とは気付いていません。
そういう人が、自分が「良識的」と思っている創価学会員に多いのです。
自分を「過激な創価学会員」と思っている人間のほうが、「自分はエゲツナイ事をやっている」と自覚しているから、まだいいのです。
「確信犯」よりも、「無意識」で押し付ける人間のほうが、対処しにくいのです。

創価学会の中の「良識派」という人々は、「日蓮仏法」を信じています。
それはそれは、純粋なまでに「日蓮仏法」を信仰しています。
この「日蓮仏法」というのがクセモノなのです。

『とてもかくても法華経を強いて説き聞かすべし、信ぜん人は仏になるべし謗ぜん者は毒鼓の縁となつて仏になるべきなり、何にとしても仏の種は法華経より外になきなり、権教をもつて仏になる由だにあらば、なにしにか仏は強いて法華経を説いて謗ずるも信ずるも利益あるべしと説き我不愛身命とは仰せらるべきや、よくよく此等を道心ましまさん人は御心得あるべきなり。』(法華初心成仏抄)

『元より末法の世には無智の人に機に叶ひ叶はざるを顧みず但強いて法華経の五字の名号を説いて持たすべきなり』(同上)

『されば人是を用ひず機に叶はずと云へども強いて法華経の五字の題名を聞かすべきなり、是ならでは仏になる道はなきが故なり』(同上)


「強いて」というのは、「強制的に」「無理矢理」という事です。
「無理矢理にでも信心を聞かせなさい。それが末法の布教方法です。」と、日蓮は言っているのです。

日蓮の教えに忠実であれば、あるほど、過激な信仰態度にならざるを得ません。
日蓮は、過激な思想家です。
ですが、現代人は過激な人間を嫌います。
だから、日蓮宗の人は、日蓮を「丸みを帯びた人間」として宣伝し、過激な部分はできるだけ封印しようとしています。
「日蓮は摂受を重んじていた」などと主張する研究者もいるくらいです。
とにかく、日蓮宗にとって、宗祖日蓮が過激な人間であるという印象が広まると、余計に信者を減らし、死活問題になるから、日蓮の人情味溢れる部分だけを、ピックアップして宣伝しています。
日蓮宗の坊さんの書いた日蓮本は、みな、そういう本ばかりです。
ですから、日蓮宗の坊さんの書いた日蓮本を読むと、日蓮の本質がわからなくなってしまいます。

日蓮正宗は昔から過激であり、創価学会も過激でした。
顕正会は、現在でも過激です。
過激なほうが、日蓮の教えに適っているのです。
ここを、見誤ってはなりません。

「他宗教と融和的な創価学会」という演出を、最近するようになりましたが、
実際は、創価学会は、日蓮宗や立正校正会などと比較しますと、原理主義的です。
その証拠が、最初に述べた、身内へのしつこい勧誘です。

創価学会でも、池田名誉会長をはじめとする一部の上層の人間や、極めて利口な会員は、「日蓮仏法」など手段に過ぎないとわかっています。
彼等が大切にしているのは「プラシーボ効果」であり、日蓮仏法とは「プラシーボ効果」を生み出す一つの材料に過ぎないとわかっています。
言うなれば、創価学会の保持する宗教は「真言宗」でも「キリスト教」でも良かったのです。

たまたま牧口さんが日蓮仏法と出会ったから、創価学会の宗教は日蓮仏法となった、それだけの事だとわかっています。
一部の人間が、そういう事を知っているのです。
その一部の人間こそ、「真のバリバリ創価学会員」です。
狂信的な人間は、ただの「過激な創価学会員」であり、本当のバリバリ創価学会員ではありません。
本当のバリバリ創価学会員は、過激ではありません。
なぜならば、日蓮仏法を「最高」と思っていないからです。
それどころか、日蓮仏法を「欠陥商品」だとわかっています。
おそらく、創価学会教学部のリーダー達は、日蓮仏法が欠陥商品である事を、明確に理解していると思います。
欠陥商品であると、自分達は理解していながら、「絶対的に正しい」として、会員には教えているのです。
なぜならば、それが自分達の「商売」だからです。
大白蓮華など、「欠陥」とわかってながら、あえて「日蓮仏法はパーフェクトだ!」と書いているのです。
それを純粋に信じて読んでいる末端会員が哀れです。

ですが、末端会員の中でも、極めて利口な一部の人間は、大白蓮華も日蓮仏法も、欠陥である事を承知しています。
けれども、その事は、決して口にしません。
口にしてしまう事で、組織の中で、不利になる事をわかっているからです。
わしも、そういう人間を何人か知っています。
現実に出会って来ました。
酒を飲みながら、そういう人間に対し、
「なぜ、同志にあなたの知っている真実を伝えようとしないのですか!」
と食ってかかると、
「おまえも青いなあ。世の中を知らないんだな。まあ、飲め!」
と言って、はぐらかされるだけでした。

「真の」バリバリ創価学会員は、創価学会が「実益」の場であると知っています。
職員にとっては、金儲けの舞台であり、末端会員にとっては「福祉」あるいは「福利厚生」の場です。

例えば、現代社会における老人は孤独です。
ですが、創価学会には「多宝会」というものがあります。
これは一種の老人会です。
ここに参加していれば、淋しくありません。
また、世間とは異なり、創価学会では、老人をいたわってくれます。
たまに、会員さんが訪問してくれます。
行政でも、一人暮らしの老人を、職員がたまに見回ってくれたりしますが、手薄です。
創価学会は、頻繁に誰かがやって来てくれます。

また、失業してしまった場合、再就職先を、組織で紹介してくれる事もあります。
再就職先とまでは行かなくても、つなぎの「バイト」くらいは、誰かが紹介してくれます。
病気で働けなくなった時は、公明党の議員に頼んで、生活保護を、通常より有利に勧めてくれます。

結婚が出来ない人は、組織の中で「見合い」を設定してくれる事もあります。
ですが、最近は、問題が多いという事で、組織内での見合いが少なくなりました。
しかし、男子部と女子部は、一往、タテマエとして距離を置くようになっていますが、
実際、接触する機会が多く、たまに一緒にカラオケに行ったりします。
巧みな人は、そういうチャンスをうまく生かします。
それだけの目的で、組織に出ている人間もおります。
「職場が男ばかりで、女性と出会うチャンスがまったく無い」という人間も世の中には居ますから。

わしは、こうして、創価学会を「福祉」あるいは「福利厚生」の場として、活用している創価学会員には何も言えません。
本当に、一言も反論する言葉がありません。
なぜならば、彼等は完全な「エゴイスト」ですから。
完全なエゴイストに対し、わしは何も言えません。

日蓮仏法を不完全な欠陥商品であると知りながら、
それを「メシの種」として会員に信じ込ませる職員も、完全な「エゴイスト」です。
わしは、彼等には何も言えません。
わしが、彼等に何を言ったとしても、彼等は
「ああそうだよ。私達はアクドイ事をしているよ。それが何か?」
と開き直られるだけでしょう。

池田名誉会長がもし、目の前に表れても、わしは何も言えないと思います。
ただ、「ふざけんな!」と叫ぶのみでしょう。
まともな話の通じる相手ではありません。

ビートたけし主演の「教祖誕生」という映画では、
主人公の「司馬」という、宗教団体の理事長が、二束三文で仏像を量産して、信者に高額で売り付けようとします。
それを見た、ピュアーな信仰心を持った部下が、怒って、その仏像に火を付けます。

わしは、このシーンを観てわしは、創価学会の執行部と、末端の狂信的会員にイメージがダブりました。
宗教をビジネスとしか考えていない「司馬」は、創価学会の執行部であり、ピュアーな信仰心を持った部下は、末端の狂信的会員です。
創価学会では、まだ末端の狂信的会員は、執行部のホンネがわかってませんから、怒り狂いません。
ですが、もしホンネが分かれば、怒り狂うでしょう。
そしてどうするでしょうか?
脱会するでしょうか?

わしはそうは思いません。
おそらく、末端の狂信的会員は、創価学会において「革命」を起こそうとするでしょう。
日蓮仏法を純粋に信じる「狂信的会員」が、現在の幹部を押しのけて、やがて創価学会における権力を持つ事をたくらむでしょう。

こうなれば、みなさん、創価学会はどうなると思いますか?
いい宗教団体になると思いますか?

わしは、ますます創価学会が、狂信的な組織になると思います。

現在の創価学会の指導者は、日蓮仏法を信じていません。
だから、「社会」との間に、まだ「節度」を保つ事が可能なのです。
ですが、もし、純粋に日蓮仏法を信じる人間が創価学会の指導者になれば、どうなると思いますか?皆さん。
日蓮仏法の原理的な集団になるんです。
つまり、現在の顕正会のようになるんです。
顕正会の「浅井」先生は、日蓮仏法を純粋に信じていると思います。
その結果が、あの強烈な布教方法なんです。

もし、日蓮仏法を純粋に信じる会員が創価学会の指導者となれば、創価学会は現在よりも過激な集団になるでしょう。
かつて、カトリックが腐敗し、信仰の純粋性をうたったプロテスタントが生まれ、
そのブロテスタントは、純粋なゆえに、過激であったように、
日蓮仏法に純粋な人間が指導者になれば、必ず過激になると、わしは考えています。

日蓮宗が穏やかなのは、おそらく日蓮宗のトップが、日蓮仏法を信じていないからです。
立正校正会なんて、日蓮仏法を80%捨てています。
創価学会がそれほど過激ではないのは、創価学会のトップが日蓮仏法を信じていないからでしょう。
日蓮正宗の日顕管長も、おそらく、日蓮仏法をあまり信じていないと思います。
だから、現在の日蓮正宗は、布教がやわらかいのです。
ですが、日蓮正宗の中でも、ある講は、指導者が日蓮仏法を純粋に信じているがゆえに、過激なのだと思います。

これを読んで、

「日蓮大聖人が過激な考えを持っていた事も、日蓮教学に矛盾がある事も、日蓮大聖人の布教方法が現代に通用しない事も、全て知っている。だから、将来の創価学会の指導者は、そういうところを踏まえた上で、修正的に日蓮仏法を用いて行けば良い。」

という反論をしたい人もいるでしょう。

実際、「修正的に日蓮仏法を用いる」という立場の創価学会員を、たまに見かけるようになりました。
ですが、「日蓮仏法修正主義」というのは、わしが言い出した事です。
それまでは、誰もそんな事を言いませんでした。
インターネットで、わしが数年前に言い出した事が、現在になって少しずつ広まり出したのです。
しかも、「日蓮仏法修正主義」を理解している人間は、かなり勉強している人だけです。
それ以外の創価学会員は、なぜ、日蓮仏法を修正しなければならないのかが、理解できません。
圧倒的大半の創価学会員は、日蓮仏法を純粋に信仰しています。
そういう人間を相手に、どうやって、「日蓮仏法修正主義」を説くのですか?

創価学会は昔から「日蓮仏法は完璧な宗教である」と主張して来たのです。
現在も、大半の人はそう思っています。
最初から、日蓮仏法に対し、原理的じゃなかった立正佼成会とは違うのです。

それに、創価学会では、宗祖日蓮は「本仏」なんです。

「凡夫本仏論」という事が、最近になって創価学会内で言われるようになりましたが、
これは松戸行雄と、正信会系のある僧侶と、インターネットではわしが言い出した事です。
しかも、この概念は、理解するのが難しいのです。
「欠陥のある未熟な凡夫だからこそ本仏としての価値があるのだ」というのが「凡夫本仏論」です。
ですが、普通の創価学会員は、「本仏」と言われたら「完璧」と思うでしょう。
そういう創価学会員の前で、どうやって宗祖日蓮が欠陥人間であったと主張できますか?

ですから、創価学会の現執行部、教学部は、できるだけ波乱を起こさないように、
「宗祖は未熟な人間だった」とか「日蓮仏法には欠陥がある」などと、言わないようにしているのです。
それは、会員の「レベル」が掌握できているからです。
もし、聖教新聞や大白蓮華で、「宗祖は未熟な人間だった」とか「日蓮仏法には欠陥がある」などと書いてしまえば、脱会者が続出するでしょう。

それでも、

「脱会者が出るかも知れないけど、これからの創価学会は、日蓮仏法修正主義で行くしかない」

と主張する人間がいるとしましょう。
ならば、お尋ねします。
なぜ、欠陥商品である日蓮仏法を、いつまでも後生大事に抱えている必要があるのですか?
欠陥商品とわかっている日蓮仏法を、人に勧める必要があるのですか?
どんな宗派にも欠陥はあると思いますが、少なくとも日蓮仏法よりもマシな宗派もあるでしょう。
マシな宗派が無いというのならば、自分が宗祖になって、マトモな仏教を確立すれば良いでしょう。
そして、創価学会員を脱会させて、自分の宗派に入れれば良いのです。

なぜ、欠陥だらけの日蓮仏法に、いつまでも創価学会員をしがみつかせておこうとなされるのですか?
それが、現在の創価学会の執行部のように「商売だから」という答えならば、わしも反論できません。
ですが、創価学会を純粋な宗教団体にしたいと願う人間が、なぜ、欠陥ある日蓮仏法に拘泥するのか?
それが不思議でなりません。(続)

精神分裂症と創価学会

2005年10月22日 | Weblog
「職員がメシを食うための創価学会」

これが上層の「ホンネ」である。
「仏教」も、そのための手段に過ぎない。

創価学会における不変の真理は、

1.創価学会は正しい
2.三代会長(牧口・戸田・池田)は素晴らしい


これだけである。
これ以外は、釈迦も日蓮も、ハッキリ言って、どうでもいい。

しかし、末端の会員は、この「どうでもいい」事を真理だと思い込まされている。
だから、色んな事に「矛盾」を感じてしまう。

宗教とは、キレイにマインドコントロールされる事に価値がある。
不安の充満する世の中である。
だから、「AとはBである!」「CとはDである!」と、確信を持って言い切ってくれる宗教にあこがれる。
確信ある言葉に、不安が解消される。

だが、創価学会には矛盾が多過ぎる。
なぜ、矛盾が多いかと言えば、やはり「宗教」を道具とした「経済体」だからだろう。
純粋の教義を求めている宗教団体には、これほどの矛盾は無い。
浄土真宗、曹洞宗などは、実にマジメに仏教に向き合っている。
確かに、坊主もメシを食う必要があり、「法の純粋性」と「経済」という矛盾からは、どうしても逃れられまい。
だが、浄土真宗、曹洞宗などの場合は、「法の純粋性」を求める気持ちのほうが強い。
正真証明の「宗教団体」なのだ。

創価学会を宗教団体だと思っているのは、末端の会員だけであり、上層の人間は「経済団体」であるとハッキリ自覚している。
これを自覚できない者は、出世できない。

「経済団体」だから、教義もコロコロ変えてしまう。
「大御本尊を拝まぬものは幸せになれない」などと言っていた口が、コロッと逆の事を言い出す。

こういう本性が、創価学会運営のいたる所にあらわれる。
指導と現実が、いたる所で異なる。
聖教新聞に載っている指導と、実際に、幹部を通じて流れて来る指導が異なる。
「ウラの指導」と「オモテの指導」がある。
だから、純粋な会員は、この矛盾を、どう理解したら良いかわからなくて、迷う。
キレイにマインドコントロールされたいのに、それが不可能なほど、創価学会には矛盾が多い。

「信じよう」「信じよう」と自分には言い聞かせるものの、「信じられない」という声が、心の底からこだまする。
その心の声を封印するかのように、創価学会の書物を読んだり、幹部の口先の指導を聞いて、無理に納得しようとする。

そうなると、人間はどうなるか?
精神が壊れるのである。


先日、加藤諦三の、神経症の話をした。
創価学会は神経症的な人間関係である。
池田大作が絶対的な強者であり、その他の数百万の会員は弱者である。
弱者が強者に、絶対的に服従する事で、双方の安心が得られる。
神経症者同士の依存関係である。

加藤諦三の説明する神経症は、自分の気持ちを上手に表現できないという性格的傾向に過ぎない。
だが、この性格的傾向がこじれると、ウツ病、精神分裂という、本格的な心の病いになる。
神経症は、さまざまな心の病の原因となっている。

創価学会員には、極めて神経症的傾向の強い。
という事は、いつ心の病いなってもおかしくないのだ。
創価学会の数々の矛盾に遭遇し、それでも、その矛盾を無理に自分の中で解釈し、自分の心を偽る事で、本格的心の病が噴出する。


精神分裂とは、精神機能の統一性が損なわれる病気で、現実を正しく判断する能力が妨げられ、感情の正しいコントロールや正しい意志決定が出来なくなる。
幻覚、妄想、周囲への無関心、学業不振、労働意欲の低下、急激な興奮を引き起こす場合もある。

創価学会員には、精神分裂的傾向を持っている人間が多く見られる。
幻覚、妄想まで至る人間は少ないが、精神が不安定で興奮しやすく、仕事や家事などの意欲が低下してしまう。
中にはひきこもり的になる
タイプもある。
仕事も勉強もせず、いわゆるニートで、人と接するのは創価学会の会合だけ、という人間もしばしば見かける。

これは、創価学会の教えによって、「心の声」を長く抑圧する事で、精神的な統合がとれなくなってしまう。
これが精神分裂の発生原因になっていると考えられる。

創価学会本部の周辺に、しばしば精神分裂を煩った創価学会が来て「池田先生に遭わせて欲しい」と懇願する。
彼等はマルセ(精神病)、マルキ(キチガイ)と暗号で呼ばれ、証拠写真を撮って追い返される。
精神分裂患者を生み出したのは創価学会という組織なのに、精神分裂になった会員には、創価学会は冷たい。

まあ、創価学会員が個人経営する精神病院が数多くあり、そこで患者を面倒みている(金を貢がせている)のだが・・・

創価学会を脱会した後も、精神分裂の傾向がとれない人もいる。
「創価学会にストーカーに遭っている」などとネットで頻繁に訴えてる。
これは明らかに「妄想」であり、精神分裂の症状である。

ここまでは行かないにせよ、「精神が不安定で興奮しやすい」という傾向が、多くの脱会者にも見られる。

自分のノイローゼを全て創価学会の責任として押し付けるあり方にも疑問がある。
しかし、創価学会という組織が、ノイローゼを生み出す大きな原因となっている事は間違いないだろう。

活動家である創価学会員に言いたいのは、創価学会に対し不安を感じたならば、活動を停止せよ、という事。
活動を停止する事で、今まで抑えつけていた、自分の心のフタを開ける事が出来る。
それも、中途ハンパな期間ではなく、数年は活動を停止すべきである。
活動停止して期間が短いと、まだ心の不安定さから逃れられない。
ちょっとした他人の言動に、影響力を受けやすい。
そこで活動に戻ると、大変に危険である。
分裂傾向を助長させる結果になる。

すでに脱会した人で、まだ心が不安定であるという人は、創価学会関係から自分の環境を完全に遮断する事。
インターネットで、創価学会関係のサイトを覗かないほうがいい。
ましてや、書き込みなど、しない事。
(わしのこのブログを読む程度ならばいいだろう)

ネットで創価学会問題に取り組んでいる人間が何人か居る。
だが、ちゃんと創価学会を客観視し、冷静に事実を伝えるには、精神がある程度、安定している必要がある。
精神が不安定なままでは、いたずらに感情的に、ネット上の創価学会員を叩くだけの結果となり、中立的な世間の人への「アピール」にはつながらない。
それどころか、創価学会の毒気が自分に伝わってしまい、余計に精神が不安定となる。

わしも、創価学会問題をネットでやるようになったのは、創価学会の活動をしばらく休止し、ある程度、心が安定した後である。
それでも、創価学会問題というのは、いじるだけでも心に毒であり、ストレスを解消するための、色んなテクニックを駆使している。
それで、やっと、こういう活動を持続できているのだ。

わしのように、創価学会問題を本気でやろうと思うのならば、まず、精神的にある程度落ちついて、それから「生活」の上でも、ある程度、落ちついてからのほうがいい。
特に、女性は独身のうちは、こうした事はやらないほうがいい。
女性はただでさえ感情が乱れやすい。
創価学会問題で、興奮してしまうと、それが日常生活の足を引っ張ってしまう。
男性ならば切り替えが効くが、女性は興奮を一日中引いてしまう。
これが女性の生理的特徴だ。
創価学会問題を一日中考え、ピリピリした顔をしていては、男も寄って来ない。
だから、独身女性は、創価学会問題をいじらないほうがいい。

子供が幼い主婦の人も、感情が乱れやすいので、インターネットには充分に注意してください。


P.S.わしを快く思わない人間が、残念ながら、ものすごーく多いため、このブログはコメントを受け付けていません。
ですが、トラックバックは御自由にどうぞ。
もちろん、リンクも自由です。

一本筋の通った創価学会員

2005年10月20日 | Weblog
上の人間に、言うべき事は毅然と言う。
そんな、ハタから見ると、一本筋の通った創価学会員も、
実は創価学会上層にとって、都合の良い存在だ。

なぜならば、会員が全員イエスマンだと、創価学会が「全体主義」だと思われてしまう。
もちろん、創価学会は言うまでもなく「全体主義」だ。
だが、世間に人には、そう思われたくない。
入会者が減るからだ。

だから、創価学会が全体主義ではない、というカモフラージュをする必要がある。
そのカモフラージュとして用いられているのが「一本筋の通った創価学会員」だ。

「創価学会の上の人間はおかしい」「上から来る打ち出しはおかしい」

と、歯に衣を着せず(実際には着せているのだが)、ズバリと言う会員が居る事で、「創価学会は全体主義の団体ではない」という「演出」が出来る。

だから、どんな支部や地区にも、一人は、こういう「一本筋の通った創価学会員」を飼っている。
だが、そういう会員は、幹部にはなれない。
なぜならば、創価学会という組織を、ピュアーに見過ぎているからだ。

例えば、大仁田厚というレスラー参議院議員がいる。
彼は、政治の世界をピュアーに見過ぎているようだ。
だから、彼は自民党の幹部にはなれないだろう。
せいぜい、自民党の衛兵として、用いられるだけだ。
本当に出世できるのは、「政界は汚い」という前提で、黙々と自民党と自分の利益のために働く、小沢一郎のような人物なのだ。

「一本筋の通った創価学会員」は、ピュアーだから、創価学会を批判できる。
だが、その批判が絶対に及ばないところがある。
それが、池田大作である。
池田大作だけは批判できない。
なぜならば、創価学会は池田大作という唯一の支配者を崇拝する団体だからである。
もし、池田大作を崇拝する事をしなければ、たちまち、組織から除外される。
「一本筋の通った創価学会員」であっても、池田大作だけは批判できない。

なおかつ、どんなに「一本筋の通った創価学会員」が組織で吼えても、彼は重要なセクションに居ないから、決定力が無い。
組織にとって安心なのだ。

かく言うわしも、ある程度、大きな組織のリーダーだった時、サブ役職についていたのが、この「一本筋の通った創価学会員」だった。
彼は、会合の場で、わしに文句を言ってみせるのだ。
文句を言ってみせるものの、そこには決定力が無い。
なぜならば、彼は「サブ」に過ぎないからだ。
水戸黄門みたいなものである。
そして、やはり人気というのは、「リーダー」に集まる。
だから、どんなに「サブ」が吼えても、組織の舵取りはリーダーの意志で決まる。
サブを吼えさせるのは、リーダーの独裁ではないと思わせる、カモフラージュ作戦に過ぎない。

創価学会全体もまた、「一本筋の通った創価学会員」を上手に使いながら、組織を守っているのだ。
だから、「一本筋の通った創価学会員」を見て、創価学会にはまだ改革の兆しがあるなどと考えてはならない。
「一本筋の通った創価学会員」は、「口だけ番長」であり、結局、組織を動かす力は無い。
本当に組織を動かしているのは、「創価学会は汚い」という事を承知の上で、組織と自分の利益のために、黙々と働く、一握りの「真のバリバリ創価学会員」である。

創価学会は暖かい?

2005年10月19日 | Weblog
創価学会が暖かい集団であるという意見があるが、本当にそうだろうか?

社会学者の加藤諦三の本の中に、しばしば出て来るのが「神経症的人間関係」という言葉だ。
まず、加藤諦三の用いる「神経症」という言葉は、一般のそれとはちょっと趣が異なるので説明しておきたい。
加藤諦三の「神経症」とは、「自分は人に受け入れられないのではないか?」という潜在意識下による不安から生じる、独特の性格的傾向を意味する。
「自分は人に受け入れられないのではないか?」という潜在意識下による不安は、人間同士の単純なコミュニケーションを築きにくくさせる。
「ウラオモテの無い人間」という言葉がある。
イメージとしては、落語に出て来る江戸っ子だろうか?
人前で、自分の感情を素直に表現する。
嘘がつけない。
嘘をついたとしても、しぐさで「これは嘘だ」と相手に伝えてしまう。
だから、その「嘘」には悪が無い。
「純情」とも言えようか。
水戸黄門の「うっかり八兵衛」、西遊記の「猪八戒」のような存在が、象徴的だろう。
人間は、幼い時は、誰しもがこういう傾向があったはずだ。
幼い子供には、ウラもオモテもない。
だが、いつしか「本心を見せると、失敗する」という事を覚え、良くも悪くも「大人」になって行く。
こう考えれば、「うっかり八兵衛」「猪八戒」などは、まだ子供なのだろう。

逆に、大人になり過ぎた人は、自分の本性を出さない。
ありのままの自分を出せば、人に拒絶されると信じ込んでいる。
そういう人間は、人間同士の真のコミュニケーションが築きにくい。

しかし、人は、どこかで自分を受け入れてくれる人を求める。
そういう場合はどうするか?

1.自分よりも、弱い相手に対しては、無理に従わせようとする。

2.自分よりも、強い相手に対しては、従属しようとする。


こういう二通りの手段に出る。
つまり、「対等」な関係ではない。
対等な人間関係とは、お互いに自分のホンネを見せた上で、自在に「拒絶」したり「受容」したり出来る関係である。

例えば、「今日の昼飯、ラーメン食いに行こう」と友人が言う。
だが、自分はあいにく、ラーメンという気分ではない。
どちらかと言えば、あっさりしたパスタが食べたい。
この場合、「いや、ラーメンよりも、俺はパスタが食べたいのだ」
というのが対等な人間関係。
ところが、自分のホンネを見せる事を極度に恐れる人間は、
「いいねえ、ラーメンにしよう」
と、すぐに妥協してしまう。
いわゆる、これが「神経症」である。

しかし、自分が他人に従っているばかりなのも、ストレスが溜まる。
だから、神経症的人間は、自分よりも弱い立場の人間を見つけ、
今度は、一方的に自分の欲求に付き合わせようとする。
こういう場合、付き合わされる相手も、神経症的傾向を持っている。
つまり、神経症同士の依存関係なのだ。

自分よりも弱者を支配下におく。
そうすると、その弱者が、何でも自分の言う事を肯定してくれる。
それで、自分の葛藤が解消される。

逆に、神経症的人間が自分よりも強者の下に入ると、
今度は、自分の意見を言わなくて済むから安心する。

神経症的人間同士が、支配者、被支配者の関係を築いている。
これが、加藤諦三の「神経症的人間関係」だ。
詳細は、加藤諦三の本か、HPを見て欲しい。

加藤諦三の、この説に触れた時、わしは「ああ、これは創価学会の事だな」と、ピンと感じた。
圧倒的な支配者は、池田名誉会長であり、その他の人間は被支配者である。
そして、どちらも神経症なのだ。
創価学会それ自体が、神経症的人間関係なのだと。
だから、トップダウンで、対等な関係が無いのだ。

創価学会においては、池田名誉会長が唯一の強者。
それ以外は、みな弱者である。

池田名誉会長という支配者をたたえ合う事で、会員同士は団結している。
これは、本当の人間関係と言えるのだろうか?

加藤諦三の本には「条件付きの人間関係」という言葉も出て来る。
「神経症的人間関係」イコール「条件付きの人間関係」である。
対等な人間関係とは、YES、NOを自由に言い合える関係である。
神経症的人間関係は、支配者は、被支配者に対し「NO」を言わせない。
もし「NO」とでも言おうものならば、天地がひっくり返ったが如く、罵倒される。
逆に、「YES」と答えている限り、どんな人間関係よりも、暖かく抱擁してくれる。
これは「神経症的暖かさ」であり、本当の暖かさとは異なる。
しかし、神経症的人間は、「神経症的暖かさ」と「本当の暖かさ」を区別する事ができない。
それは、「本当の暖かさ」を味わった経験が無いからである。

創価学会の中での「暖かさ」は、同じく池田大作を崇拝し、それなりのノルマをこなしてこその「暖かさ」であり、これは条件付きの「暖かさ」なのだ。
本当の暖かさとは、相手が言う事を聞こうが、聞くまいが、包み込んでくれる「暖かさ」である。

2世、3世問題の核心とは、もし、子供が脱会しようものならば、絶縁も辞さないという、親側の心理状態にある。
憲法では、信教の自由は認められている。
子供の脱会も認めるべきである。
子供が脱会しようが、法華講に行こうが、暖かく包んで行くのが「親」だろう。
健全な親とは、こういうものである。
だが、創価学会員の親には、子供が脱会しようものならば、絶縁するという人間が、少なからずいる。
わしも、実際に、脱会する事で親と絶縁になったという人を何人も知っている。
つまり、我が子に対してさえ、「条件付きの愛」だったという事である。

これを読んで、みなさんは、創価学会が「暖かい組織である」と、まだ言えるだろうか?

平成17年度任用試験について

2005年10月17日 | Weblog
創価学会においては、創価学会員の教学の実力を試す、「教学試験」というものがある。
その、最も初級の試験が「任用試験」である。
この「任用試験」のテキストが、機関紙「大白蓮華」に掲載されている。
この掲載内容に、創価学会の“現在の”教学が特徴的に表れているので、注目すべきだ。
“現在の”というのは、創価学会の教義は常に変動している。
実に、都合良く変動させている。
教義というのは、宗教の魂であり、コロコロ変わって良いものではない。
にも関らず、創価学会が教義を変動させるのは、創価学会にとって教義とは、道具に過ぎない事を示している。

今年は、創価学会の教学は、どのように変わったか?
さて、大白蓮華を見てみよう。

まず、着眼すべきは、「大御本尊建立」について書かれている。
創価学会が宗門と離脱して以降、創価学会にとって、大石寺にある大御本尊は、手の届かなくなった存在であり、大御本尊について、創価学会は、声を潜める傾向があった。
会合でも、聖教新聞でも、大御本尊は「無かったもの」として片付けようとする傾向があった。
その事については、わしがHPにも書いたし、インターネットで追求して来た。
さすがに、創価学会側も、この事は痛かったに違いない。
「創価学会は大御本尊を隠蔽しようとしているわけではない」という姿勢を見せる必要が出て来た。
その姿勢の表れが、任用試験の範囲にするという形で出たのだろう。

創価学会がインターネット上の批判を、どれほど気にしているかが、手に取るように理解できる。

創価学会の中で、大御本尊をどう定義付けるかが、これまで大きな問題だった。
任用試験の範囲に大御本尊の事を含めるというのは、この「定義付け」が完了したという事だろう。
範囲の中にすら、書いていないが、おそらく、創価学会はこのように「定義付け」しているはずだ。

《日蓮大聖人の広宣流布の大願が表れたものが「大御本尊」である。だから、板曼陀羅という物体が特別な力を持っているという事ではない。大願こそが大事なのだ。その大願は、創価学会が継承している》

と。
こういう事が、いずれ、組織でも語られるようになるから、注目していると良い。

もう一つ、試験範囲で着眼すべき点がある。
それは「五重相対」を試験範囲に含んだという事だ。
昔は、任用試験の範囲と言えば、「五重相対」だった。
だが、「五重相対」は現代仏教学に照らすと、成立しない。
その事を気に病んだか、任用試験から「五重相対」が外された事もあった。
今回は、堂々と「五重相対」が述べられている。

これは、決して「五重相対」を正統化する客観的な論法が見つかったわけではない。
末端の創価学会員で、現代仏教学の知識を有する者は、ほとんど居ない。
だから、論理的に無理のある、古典のような「五重相対」であっても、会員にとっては抵抗が無いと踏んだのだろう。
要するに「馬鹿が相手だから問題ない」と。

しかしながら、どうしても、末端の創価学会員にとって、理解し難い部分は、変更している。
それは、「久遠元初」という概念の除去である。
法華経迹門の釈尊を「久遠実成の釈尊」という事は、天台、日蓮宗を通じて常識である。
富士大石寺流では、この「久遠実成の釈尊」を超えた、「久遠元初自受用報身如来」という存在を立てる。
つまり、「久遠実成の釈尊」を化導する立場の、もっと偉大な根本仏である。
それが「日蓮大聖人」なのだ、という教理である。
荒唐無稽であり、誰にも信じられない。
だが、この「久遠元初自受用報身如来日蓮大聖人」を、創価学会はずっと主張して来た。
任用試験にも出していた。
これが、今回の任用試験では、出て来ていない。
「久遠元初」という文字が無い。

とにかく、創価学会というところは、都合が悪くなれば、昔、最重要とされていた教学も、コロッと捨てる。
まったくのごまかし集団である。

創価学会の守護神「愚痴メンバー」

2005年10月17日 | Weblog
生きるという事は、大変に苦しい事である。
苦しいから、宗教にすがる。
宗教は、難しい問題にも、すべて答えを出してくれる。
自分のプライドを捨てて、宗教を受け入れる事によって、
もう迷いはない。
安心が生まれる。
だから、宗教というのは、マインドコントロールが魅力なのだ。
マインドコントロールなき宗教は、宗教とは言えない。

だが、人は、マインドコントロールされる事に、
誇りを傷付けられたような気分になる。
だから、宗教団体側も、

「これからあなたをマインドコントロールしますよ!」

とは言えない。
本当は、宗教は「マインドコントロール」が商売なのだから、正直に言っても良い。
しかし、正直に言えば、なぜか、必ず拒絶されるから、そのようには言えない。
そこで、宗教団体の考え抜いた作戦は、
本人に自覚の無いように、マインドコントロールする事である。
これは、ニンジンの嫌いな子供に、ニンジンを細かく刻んで、何かとまぜて、知らず知らずのうちに、食べさせるのと同じ作戦である。

創価学会には、さまざまな教義や指導がある。
その教義や指導の中から、余計なものを削除して、
そして、最後には何が残るだろうか?
最後には「あるモノ」が残り、その他の教義や指導は、その「あるモノ」を真実らしく見せるための、材料に過ぎない。
教義や指導を会員に植え込もうとして、たとえ反発されても、「あるモノ」が、会員の心の中に残れば、大成功である。

その「あるモノ」とは一体何か?
それは「創価学会は正しい」という思いである。
この思いこそ、創価学会における「一大秘法」であり、残りの教義や指導など、この思いに持って行くための、材料に過ぎない。

創価学会では、教義や指導のみならず、「創価学会は正しい」という思いに会員を到達させるための、色んな材料が用意されている。
例えば、「巨大組織」というのも、その一つ。
「これだけ創価学会は拡大したのだから、正しいに違いない」と思わせる。

また、会員同士の表面的な温かさも、その一つである。
末端の会員同士には、直接の利害関係が無い。
そして、創価学会というのは、まだまだ、世間から白い眼で見られる事が多い。
白い眼で見られている者同士の、心理的結束というものもある。
だから、会員同士は、ホットな親密な関係がある。
この人間関係は、客観的には虚構なのだが、会員にしてみると
「これだけ温かい人間関係があるのは、創価学会が正しいからだ」という理屈になる。

そして、何より、信仰、それ自体というものが大きく影響している。
腹が痛い人間に、小麦粉を「良く効く薬だ」と言って飲ませると、不思議と治ってしまう事を「プラシーボ効果」という。
創価学会における「唱題」というものも、基本的には「プラシーボ効果」の域を出ないだろう。
もし、唱題が、本当に呪術的効果を生み出すのであれば、創価学会員に不幸な者は一人も居ないはずである。
実際は、世間並に不幸な人も多い。
つまり、唱題は、ほぼ「プラシーボ効果」なのだ。
だが、プラシーボ効果にせよ、自分の苦しみを除いてくれる事がある。
そういう経験を、何度もしているうちに、
「創価学会の信仰は正しい」という確信が生じる。

このようにして、会員は、何らかの材料から「創価学会は正しい」という考えを身に付けて行く。
そして、会員は、聖教新聞を購読し、あるいは友人や親戚に勧め、年一回は「財務」という名の寄付をする。
これさえ、やってくれれば、創価学会の中枢の人間は、満足なのだ。
愚痴は、いくらやってもらっても構わない。
創価学会の教義や指導、全てに対し「イエス」と言っていただく必要はない。
「創価学会は正しい」という考えさえ、持ってもらえば、総論賛成、各論反対で構わない。
「創価学会の指導には間違いが多い。でも、創価学会は根本的には正しい。」
という会員は、中枢から見れば、むしろありがたい存在である。

会社でも、社員には不平、不満が渦巻いている。
その不平、不満は、会社のシステムが改善される事で解消されるわけではない。
飲み会の席で解消されるのだ。
つまり、飲み会で、会社や上司の悪口を言わせる事で、社員に適当にガス抜きをさせ、そして、翌日は奴隷になっていただく。
こういうのが、日本の会社組織である。
上の人間は、社員を声を汲みあげて、会社のシステムを変えようなど、一切、考えていない。
そのかわり、社員にガス抜きをさせて、言う事を聞かせる。
「せめて、口だけ、文句を言っていいぞ!」という事なのである。

文句を言いながらも、奴隷になってくれる人間。
それが、会社員であり、創価学会員である。

創価学会組織に対し、不平不満を口にしながら、創価学会を総体的に支持して行く創価学会員を「愚痴メンバー」と、仮に名づけよう。
この「愚痴メンバー」が、実は、大きな働きを成している。
社会から見れば、創価学会というのは、やはり異常な集団である。
実際、会員をコントロールして、職員が儲けようとする集団だから、異常そのものである。
だから、創価学会を社会に受け入れさせるためには、創価学会が良識的集団であるとカモフラージュしてくれる存在が必要である。
そこで一役買っているのが、「愚痴メンバー」である。

世間の人間は、例えば、聖教新聞の4面座談会など読むと、
「なんだ、この品性の無い言葉使いは!」と違和感を感じる。
創価学会側からしてみれば、「やらねばやられる」という、必要迫られた理由があって、あえて暴言を使っているのだが、そんな事は、世間の人には理解できない。
世間の人に、受け入れられなくても、敵対者を叩かねばならぬという創価学会側の悲しい動機がある。
そこで、登場するのが「愚痴メンバー」である。
世間の人が、
「あの聖教新聞の下品な言葉使いは何?」と聞いて来ると、
愚痴メンバーは、自分もそう思っているので、
「創価学会員の私から見ても、あれはおかしいと思います」と答える。
そうすると、世間の人は、創価学会にもまともな人間がいるのだから、捨てたものでは無い、という期待を持つ。
だが、実際は、いくら聖教新聞の論調に問題意識を感じている創価学会員がいても、あの論調は変えられない、厳しい現実がある。

前田利家は豊臣秀吉の盟友だったが、主君、織田信長暗殺を期に、一度、決別する。
しかし、圧倒的な力を豊臣秀吉が持つや、前田利家は秀吉の前に屈する。
豊臣秀吉は、小国日本を守るために、大陸に進出する。
自分から大陸に出なければ、いつか、逆に大陸から侵略されるという危機感があったのだろう。
「やる前にやれ!」という気持ちだったのだろう。
そういう秀吉に対し、快く思わない人間がたくさん居た。
その時に、緩衝材の役割を果たしたのが前田利家だった。
秀吉が、危険な海外遠征を行い、国内では専制を行っていたとしても、
前田利家の存在が、豊臣政権を信用させた。
つまり、良識的な前田利家が居る事で、世間は豊臣政権を安心していたのだ。

前田利家のように、緩衝材の役割を果たしているのが「愚痴メンバー」である。
世間が、創価学会に対し、疑問を声をあげた時、「愚痴メンバー」は
「そうよねえ。創価学会員の私から見ても、確かにおかしいわ」と受け答える。
これで、世間の人は安心してしまう。
大変、危険な状態である。

爆弾を生クリームで包み込む。
その生クリームの役割を果たしているのが「愚痴メンバー」である。
こうした「愚痴メンバー」に、上手に創価学会への内部批判をさせ、世間から「創価学会にはまだ良識派がいる」と思わせるのも、創価学会の上層の作戦である事を忘れてはならない。

創価学会の巨大組織を維持するには、創価学会員の子供は、活動家に仕上げねばならないし、創価学会員の恋人は、無理にでも入会してもらわねばならない。
公明党が力を持ってもらわねばならない。
世間から「異常だ」「おかしい」「カルトだ」と言われる事こそ、創価学会を維持するには、どうしても必要なのだ。
だから、こうしたシステムは、指導者が変わったとしても、継続される。
カルト的なシステムを持ち続けねばならない以上、世間の目をごまかすしかない。
その時に、重要な役割を果たしているのが「愚痴メンバー」である。
「愚痴メンバー」が創価学会のオブラート役になってくれる事で、創価学会のカルト的な部分を隠蔽できる。
創価学会の隠蔽材料として、「愚痴メンバー」が利用されているのだ。

「幹部にロクなヤツ居ないよ」という創価学会員。
「無理に折伏するの、良くないと私も思う」という創価学会員。
こういう「愚痴メンバー」こそが、創価学会を維持して行く、最も重要な戦力である事を、もっともっと理解する必要がある。

「真の創価学会員」は、創価学会が維持されるには、カルト的行為も必要であると、理解している。
創価学会の本当の目的は、コミュニティー機能である。
信仰とか、そんなものではなく、創価学会は実益をもたらす集団である。
創価学会に実益をもたらすには、多少の汚い行為も必要である。
創価学会は決してキレイな集団なんかじゃない。
だから、「真の創価学会員」は、聖教新聞の論調にも文句を言わない。
創価学会員が恋人を強制入会させようとするのも「当然だ」と答える。
だから、「真の創価学会員」が口を開くと、世間受けが悪い。
そこで、「愚痴メンバー」が必要になる。

「愚痴メンバー」は、創価学会の本当の目的を知らない。
創価学会を「キレイな集団」だと思い込んでいる。
創価学会がキレイな集団だと思っているから、愚痴が出るのだ。
創価学会を「キレイな集団」だと思い込んでいる「愚痴メンバー」こそ、創価学会の強力な親衛隊である。

何よりも、適当に愚痴を言う事で、「自分は覚めている」と錯覚す事が出来る。
「創価学会は正しい」という思いで、見事にマインドコントロールをかけられているのだから、
決して覚めているわけではない。
だが、人間は、自分が愚痴を言う事で、「覚めている」と思う事が出来る。
真の催眠術は、当人に、「自分は催眠術にはかかっていない」と思わせる。

最近の創価学会批判者も、この事に気づき、「良識的」と言われている創価学会員に対し、危機感を持つようになって来たようだ。
以前は、カルト性をぷんぷん匂わす創価学会員こそ、批判の対象になっていた。
しかし、現在は、「良識的」と言われる「愚痴メンバー」こそ、実は創価学会の親衛隊なのではないかという見方が生まれている。

わしも、以前「目覚めよ!創価学会オルタナティブ」という記事を、HP上に書き、この問題性を指摘した。
創価学会オルタナティブとは、積極的に創価学会の内部批判を行っている、いわゆる「愚痴メンバー」である。
創価学会の活動家のうち、創価学会のウラもオモテも知る、真の意味での創価学会員であるのは5%も居ないと思う。
創価学会の活動家のうち、大半は「愚痴メンバー」(オルタナティブ)なのだ。
創価学会は、適当に愚痴メンバーに愚痴を吐かせながら、世間の苦情を受けさせながら、創価学会の組織を維持しているのだ。
インターネット上で、アンチとバトルをやる創価学会員など、全員が愚痴メンバーである。
真のバリバリ創価学会員は、バトルなど決してやらない。
真のバリバリ創価学会員は、自分達がカルトでしかない事を理解しているからである。

創価学会は、日本の弱い社会福祉制度を補完するために存在するコミュニティーである。
「仏教」などは、会員をひきつける道具に過ぎない。
創価学会の本質は、福祉コミュニティーなのだ。

わしは、こういうコミュニティーはあっても良いと思う。
日本の脆弱な福祉環境は、障害者や老人を孤立させる。
隣りの人間が病気で倒れても、誰も気づかない。
そういう日本の冷たい社会に、コミュニティーは必要である。

だが、創価学会の問題点は、そのコミュニティーを建設するのに、「宗教」を利用しているとことである。
「宗教的マインドコントール」によって、コミュニティーを築いているのだ。
もし、創価学会が宗教団体でなく、「創価福祉協会」のような、普通の団体としてやっていたならば、誰にも文句を言われまい。
だが、創価学会は宗教を看板にして、宗教的マインドコントロールによって、人を入会させ、活動させ、財務を納めさせる。
こうしたところに問題点がある。

この欺瞞性を打ち破るには、創価学会にとって、いかに教義が「道具」であるかを示す必要がある。
おそらく、ここから「愚痴メンバー」も、創価学会の本質を気づきはじめる事と思う。