創価学会に悩むすべての人へ

創価学会問題の構造を紐解く(※コメント不可。トラックバック歓迎!)

ブログ中断のお知らせ!

2006年02月15日 | Weblog
当ブログ「創価学会に悩むすべての人へ」は、
創価学会問題に悩まれている、さまざまな立場の人へ、
問題解決の方策を示す目的で開設しました。

このブログ自体は、昨年10月の開始ですが、
それ以前に、アルクブログとさるさる日記を使用して、
ブログを書いて来ました。
それら全ての記事と、HP「創価学会員駆込寺」、
及びメルマガ「目からウロコの仏教入門」をお読みいただければ、
「創価問題解決の方策」については、必ず、おわかりになると思います。

ですから、一度、このブログに関して、更新を中断させてください。
あまり記事の数が増えすぎると、
過去の記事が読まれなくなるのではないかと危惧しております。

ブログの悲しさは、
新しい記事は読まれても、
古くなった記事は読まれないということです。
ですが、この「創価学会に悩むすべての人へ」は、
過去の記事すべてを読んでいただきたいのです。

また、食べ物も、積め込み過ぎると、腹をこわします。
一度、時間を置いて、消化させる必要があります。
これは、このブログも同じです。
毎日、このブログをお読みになっている人もいるでしょうが、
そろそろ、消化不良になっているはずです。
同じ味に、飽きているかも知れません。
ですから、とりあえず、中断させてください。

わしの新しい文章を読みたいという人は、
メルマガ「目からウロコの仏教入門」をお読みください。
常に新しい記事が配信されます。
創価学会問題を考える人は、仏教を無視できないと思います。
仏教など、自分に関係ないなどと思わず、ぜひ、読んでください。
http://www.mag2.com/m/0000159892.html

メールマガジン「生き方を変えることば」というのも配信しています。
毎日数行の、わしの語録をPCや携帯電話にお届シマス。
http://www.freepe.com/ii.cgi?misakimuga

創価学会問題に、現在、お悩みのかた。
以下のサイトを注意深く読めば、解決策は必ず見つかるはずです。

HP「創価学会員駆込寺」
http://park5.wakwak.com/~soka/

HP「創価学会独立独歩」
http://shunpo.ld.infoseek.co.jp/

ブログ「世の中はウソが多いから生き辛い」
http://blog.alc.co.jp/d/2000570

日記「(旧)創価学会に悩むすべての人へ」
http://www4.diary.ne.jp/user/485270/

もし、わからないことがあれば、
「創価学会のことで悩んでいる人のための相談室」へどうぞ。
http://synapse66.fc2web.com/counseling2.htm

以上ですが、このブログを更新することになりましたら、
ML「創価学会員独立会議」でお知らせします。
それまで、このブログはチェックしに来なくても大丈夫です。
http://www.medianetjapan.com/10/meeting/soka/ml.htm

なお、ブログが更新されたかどうか、自動的にわかるツールもあります。
ものすごく、便利なので、使ってみてください。
http://www.bloglines.com/

独善的な性格

2006年02月15日 | Weblog
熱心に創価学会の信仰をしている人は、
なぜか自分勝手な人が多い。
宗教や、政治に絡んだ話をするときばかりではない。
あらゆることがらにおいて、
「自分の考えこそが正しい」という思いこみで話をして来る。

デリケートさに欠落し、
言いたいことをズケズケ言ってくる。

こういう性格だから、
周囲には疎まれるのであるが、
当人は、なぜかそのことに気づかない。

創価学会の信仰を、
熱心にやればやるほど、こうした性格的傾向を強めて行く。

創価学会の信仰が、
このような性格をもたらす原因は2つある。

一つは、創価学会の思想の問題点。
創価学会とは、自分達が正しくて、
他の人は間違っているという集団である。
この考え方が、創価学会の会員にも、伝染して来る。
そうなると、上記のような性格が育まれる。

もう一つは、スピリチュアル的な問題点。
創価学会の本尊としている、かの日蓮式曼陀羅を、
創価学会のスタイルで信仰することによる霊障により、
精神的な不安定や、人格の障害をもたらしている。

この「創価学会の思想の問題点」と
「スピリチュアル的な問題点」の2つが融合して、
独善的な性格が生み出される。

関連↓
http://shunpo.ld.infoseek.co.jp/shinbutu.htm

仏教史上における創価学会の存在意義

2006年02月11日 | Weblog
創価学会は、生まれるべくして、生まれた宗教団体である。
江戸時代の寺檀制度と、明治時代の廃仏毀釈によって、一度は死んだ仏教を、戦中戦後、再び魂の篭ったものとして、生まれ変らそうとしたのが、創価学会である。
(少なくとも、そういう名目の上に結成された。)
 
現在でも、創価学会や立正佼成会などの新興仏教教団だけが、若者の信者の精神的拠り所として機能している。
伝統仏教宗派は、未だ半分、死んだままである。
心の拠り所となる仏教寺院も、観光化している所は別として、かたく門を閉ざして、参拝者も迎え入れず、中に通すのは、葬儀屋と弁当屋と法事の参列者だけである。
 
これに対しては、反論する者もあろう。
真言宗のお寺は、霊場として、御朱印マニアを迎え入れ、浄土真宗のお寺は、老人信者を相手に、毎月説法を行う。
禅宗の寺は定年退職した暇なオヤジを相手に参禅会をする。
だから、伝統宗派の寺が、まるで大衆に、門を閉ざしているわけではない。
けれども、そこに若者の姿が無い。
 
創価学会には、若者の姿がある。
この時代に、若者が仏教を求める場合、創価学会に行くしか無いというのが現状である。
本屋や図書館に行けば、仏教書がいくらでも置いているが、確かに文章の上で素晴らしいと感じても、書物は相談相手にはなってくれない。
真に悩める者は、目の前に生身の人間を求めるのだ。
 
創価学会では、若者達が、どうしたら、今の世の中を変えて行ける事ができるか、どうしたら苦難を乗り越えて行く事ができるかという事を、面と向って語り合うわけである。
お寺を含め、世の中のどこにそんな場所があるだろうか?
 
創価学会が様々な問題点を抱えているにせよ、このような意義をもって登場したという事を、仏教関係者をはじめ、社会全体が、深い反省を伴って考えるべきである。

政教混交

2006年02月10日 | Weblog
教団と言うものは、上から指令を出すと、パッと下まで届き、全体が生き物のように動き出す。
だから、為政者にとって、何とかして味方につけたい存在である。
 
日本最大の政党である自民党は、創価学会の協力がなければ、政権を維持できない。
そのために、自民党が創価学会に気を使い、色々便宜を図ろうとする事は当然である。
 
このようなことから、創価学会は自民党を味方につけること目論んでいた。
このことは、1969年に刊行された、藤原弘達の「創価学会を斬る」の中で、すでに指摘されている。
 
選挙になると、創価学会では、誰を支持するかと言う検討がなされる。
そして、「○○氏を支持すべし」と言う結論が出れば、学会活動それ自体が選挙活動の場となり、創価学会員は、必然的に、その候補の支持をせざるを得ない状況になる。
それでも、末端の会員であれば、「○○氏は嫌いですので、私はしばらく活動を休みます」と拒絶することは不可能ではない。
しかし、「地区部長」「支部長」などの、責任ある役職がついている場合は、そのような事は許されない。
 
国民が、政治に関るには、自分が政治家になるか、あるいは、選挙で、自分の考えを反映してくれそうな候補者を選ぶ事である。
大半の人は、後者の立場なので、選挙と言うものは、自分が政治と関る唯一の道であり、民主主義の原点である。
なのに、自分の意思で候補者を選べないと言うのは、これは「民主主義」と言えるのだろうか?
 
公明党議員はもちろんだが、自民党議員の大半は、創価学会の組織票によって当選している。
自公の連立政権は、果たして民主主義の上に誕生したと言えるのだろうか?

主婦が主戦力

2006年02月07日 | Weblog
夫が活動しない分だけ、創価学会では、仕事を持たぬ主婦に期待される。
創価学会では、やたら主婦を持ち上げ、讃嘆する。
人は誉められるとうれしいので、余計に頑張る。
このようにして、創価学会の主戦力は、主婦となっている。
 
主人が会社勤務で、学会活動ができない人は、そのぶんは奥さんがしっかり活動すればそれでよろしい。(池田大作「指導メモ」)

集団的狂騒的エクスタシー

2006年02月05日 | Weblog
創価学会では、勤行をし、自分で教義を勉強する事は、「広宣流布に進む信心」とはみなされない。
「広宣流布に進む信心」とは、「学会活動」である。
平易に言うと、布教行為と、布教のための作戦会議がそれである。
この学会活動によって、宿業が消え、幸福になれるというのである。
基本的に、創価学会員には、絶えず、学会活動を持続して行く事が求められている。
 
どんなに一生懸命に活動しても、生活が向上しなかったり、創価学会に関するさまざまな情報を知ったり、自分が経験すると、疑問というものが沸いて来る。
疑問が沸くものの、集団で行動するということは、それだけで喜びがある。
目に見えた功徳が無くても、創価学会に問題点があったとしても、集団で行動することが、会員の喜びとなって行く。
 
哀れなのは生活に疲れはてて、だまされて入会した大衆である。ワラをもつかむ心理で信心し、甘言と小利益に目がくらみ、熱心に唱え、踊ったりして、集団的狂騒的エクスタシーに没入する。そして悩みも苦しみも、しばし忘れ、あたかも麻薬中毒症の患者のように、感覚をマヒされ、生活上の苦悩も一瞬感じなくなる。しかし、実際の生活は悪くなる一方で地獄の生活を続けなければならないのである。(折伏教典」昭和43年版)
 
だが、何らかのキッカケで、活動から足が遠のくと、酒が抜けたように冷静になってしまう。
その時に、今まではあまり深く考えられなかった創価学会への疑問が、どんどん、自分の中で膨らんで行く。
それが脱会に結び付く。
だから、創価学会では、活動を休んではならないと指導する。
 
活動について、注意しなければならないことは、エンジンを止めてはいけない。車もエンジンを止めると、再び動かすのにたいへんである。原稿なども、やめると書けなくなるものだ。たえず組織について、着実に活動をつづけていることが大切である。(池田大作「指導メモ」)