創価学会に悩むすべての人へ

創価学会問題の構造を紐解く(※コメント不可。トラックバック歓迎!)

無常・無我の否定

2006年01月06日 | Weblog
平家物語の『祇園精舎ノ鐘ノ声、諸行無常ノ響アリ。』から、「無常」(※)を何か、さみしい、後ろ向きのものに感じている人が多いのではないかと思う。
また、「無我」(※)というものを、自己を否定する、後ろ向きの思想という風にとらえる人が多いだろう。
創価学会も、まさにそこを突いている。

現代の知識人の大半の仏教観は、仏教の本義が、無我や無常といった、現実を超克した世界や、現実を諦観した世界(※)にあるかのような錯覚に陥っております。これは小乗教(※)あたりで説かれている低次元の教義に、まるで仏教の根本精神があるような誤認識から生まれるものです。(「創価学会入門」創価学会教学部編)

だが、「無常」「無我」というのは、本来、そのような思想ではない。
「無常」とは、世の中は、変化流動してとどまることがないという真理を説いたものであり、「無我」とは、欲望にとらわれることを戒める思想である。
「無常」「無我」こそが、仏教のベースとなる思想であり、これを否定してしまえば、仏教そのものからの逸脱になる。
創価学会の諸問題は、「無常」「無我」を否定するところから生じている。


※無常:世の中のあらゆる事物は、変化流動し続けているということ。
※無我:執着を離れるということ。
※現実を超克した世界や、現実を諦観した世界:「無常」「無我」の思想は、決して現実を超克したものでも、現実を否定したものでもない。「超克」「諦観」というのは、創価学会の勝手な解釈から来た批判である。
※小乗教:小乗仏教のこと。釈迦の打ち立てた仏教は、出家者による出家者のための仏教であり、在家信者は脇に追いやられていた。そのため、釈迦滅後、数百年経過して、在家による仏教が誕生した。これが「大乗仏教」である。対して、大乗仏教以前の仏教を「小乗仏教」と呼ぶ。