花鳥風月、、2023年からの第二の日記

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サッポロは雪  11月14日

2023年11月14日 | 日記
とうとう、、、冬将軍の札幌到来です。
色々と、、、コロナの蔓延で、、、多くの人はとじこめられたり

観光事業に関しても、、、波のあるお客さんの到来には

  経済的な運営の障害に対しても、、、

        今期の首相は「経済のバランスに、、精神を傾けてくれているようですね。」

  税金の事も、、、世論では、、稼ぎまくっているという風に見える,医師の中にも
     coronaでへとへとになりながら、、、ほかの検査などの患者さんが
      病院に行くのを控えたり、、、インフルエンザが追い打ちをかけたり
     看護師さんが辞めてしまったり、、

         事務員が家族観戦を考えて辞めたりと、、、
       ふんだりけったりのなかで、

      国は、コロナで、、儲かっているのではと、、、

         勘違いして、、、税金を高くして来る。のは、、、こればかりは、、、、、!

     医師に関する誤解は、、家内にも風当たりが強い。

        ダンナさんは今は週三日、、、出勤で、、
          自前でびょいんまでタクシーで通勤の83歳ですが

           月給の半分はタクシー代と、食事代金です。

       生涯、、一年契約の更新の外科医です、
      医師の経営する病院ではなくて、、、会社の経営で医師が理事長という

      社会音痴の医師が多い部分を会社経営の本部の頭脳が、、医学以外の部分を受け持っている様なので

    この病院の医師は、理事長や理事長以外の理事以外は、、、
      ダンナさん緒様に、、医師をすることだけしていればよい」という

        雇われた存在が、、生涯続きますが、、、

           雇われた状態でも、、、
         医局長とか、、同門会長とか、、大きな外科という科で、、雑事に通じていたこともあり

        どの疾患にどの医師がスペシャリストであるとか、、
       どの医師が、、夜中でも,、起きて来て執刀してくれるとか、、

        人事権は一切ないのですが、、、医師同士の腕の方向や、、

      若い医師を動員できる先生かどうか、、、医局長時代に雑用を通してわかった事が

          個人病院だった病院が、急成長してゆく世界に知れ渡った病院いなる黎明期には

       参加していた医局の外科医の協力が、、大きな力となって、、

       雇われたまま、、4人だった外科医が20人になるまで、、、
       頼まれ👈、、院長をしていましたが、、、

         医療面では、世界に名の知れた医師が新聞一杯に報道されて、、当院に勤務してくれたりと

      どう見ても、、ダンナさん個人の力では出来ない展開が、、所属だった大学が

      協力して,、医局関連病院として、、民間の経営と、合奏して、

      巨大病院になってゆくのを
      家内は、、全くの外野として、、札幌市民として、、診つづけてきました。

       家庭的に目覚めている医師は、、副院長になる一歩手前で、、、
      病院の近くで「サテライトの個人医院」を開業して

        地域に貢献という、、
       社会性を広く持って生きて行く先生方の家庭は
       お子様方が後継者として、、つぎの世代で,
       閉医院しなくていいように

       私立医科大学に進学させる医師が、、
       どんどん、、雇用を拡大して
       経済界にも貢献していったようですね。

      外科医で、心臓外科のグループに居たダンナさんは

        腕を磨くためにも、、医局の采配で、、国立循環器病院に
      国内留学して、、外国で腕を磨いてきた先生の手技を学ぶという、、
        若い時代は、、家には何か月もいませんでした。

       北大を卒業して、外科の教授だった杉江先生は
          懐かしの故郷、、、東京の、、東大卒の教授でしたそうな、、。
        医師の家内なんて、、、、外野も外野で、ファールボールばかりが
       観える座席の外野席だから、、、、我が家の場合ですがネ、、、、。

      こんなに留守ばかりするのであれば、、、
       北海道野大学を卒業して、、友人の多い奥さんと結婚することが
         子供達の為なのに、、、何故?

           ワツィをすっ飛ばして、、、母に結婚を申し込んだのか?

          私の実家にはたらきに来るからと、、母に、結婚話をしたのか??

       母も、、外科医の父に54歳で亡くなられ、、
         内科医の兄がパニックになっていたこともあり

       札幌に、、東京の実家に帰る予定の外科医が居るから、、
                  迎えに行ってきなさいと

        なかば、、母の持ち物の娘のように、、

         母の意図する自宅の経営の為の結婚が、、戦争からの復興期の昭和10年代の
          開業医の娘の役だったのかもしれませんね。
          昭和の時代には

         目づらしくなかったのですよね。

        医家を経営してゆく為の,、医家同志の結婚って、、
             当時は有りだったのですよね、、、

           開業医の一人で医師をすることの孤独は
            全く待って、、、役目だと、、、頑張るしかない時代でした。

         法的には相続権が有っても、、、
           娘は除外されて

         スゴイ圧力で、、、娘の未来の夫とのコンビに

           経営の苦しい、上に、、不動産まで相続権を主張されたら

          23人の職員や、
             公認会計士の給料は払っていけないというのが

          戦後の復活期に、、開業を余儀なくされた、、
                   勤務医の人生のクレパスでしたね。

         父がだんだん、、無表情になってゆく晩年は

         実家を助けねばならないという、、
          暗黙の努力が、、私なりに

          受験突破しか、、、思い当たりませんでした。

          おっとりとした人に好かれた次男と、私は

            受験が重なりました、「
            年子の兄は、浪人で、私は現役でした。

          兄も私も同じ大学を受けるのでなければ、、、
          娘のお前は短大で、結婚への修行を強要されるという

         昭和の10年代の生れは、、、生きてゆけるだけでも、、
           女性は良いと思いなさいと言う、、、

            我が家の従軍した日々の、、欠損は

           軍隊並みの「男尊女卑でしたね、、、仕方ないけど、、ね。」

            父だけが、、お前は女医になりなさい、、と

           期待してくれていましたね。。

          兄と同じ大学を受験してゆくと、、、私ばかりが合格して

           母と兄は、、不機嫌でした。

         あのの通っている日大を受けることになったのは

           4年制の大学を許してもらえるとしたら、、、

             同じ大学に通うことだと、、思いましたね。

           外からの合格は難関で、、合格発表は10人以下でしたね。

           発表は自分はいかなかったのですが、、

          兄が、、うきうきして、、合格発表を見にいって、、

          掲示板を写真にとってきました。

           阿納は嬉しそうでした。

            東大一本で2年も浪人して、、日大の医学部に進学した兄は

         ヒトが変りましてね、、いつまでも、、東大にこだわっていて、、

           日大に通学しながらも、、東大受験をして、、ましたね。

             その時代には「東大でなければ、、、」という

           「東大病」がありました。

           妹は何処でもいいが、、自分は東大でなくっちゃという、、、

              可哀想な、、トップ高校卒の、、戦場帰りの兄貴でした。

           「学力だけでは、、、東大は無理でしょうね。」

            「東京を任せられるという、、スケールが大事でしょう、、、」

            うっかり、、言ってしなって、、、拳骨をもらってしまいました。

            そのあとで、、兄は布団いもぐって、、泣いていました。

           当時の両国高校で、、10番以内に居た者の、、先生からも

            東大合格は間違いないと言われながらも、、、落第!!

               8歳まで、、戦場の近くの小学校に通った兄貴は

              軍隊のような、、カリスマ的な上官殿のような、、君臨するという育ちだった。

            その上、、国語が、、いまいちで、、、

            恵という字が書けなかったりした。

             私が、、雪国という文庫本を読むと

            「 Nippon人の国語の心」が良くわかって、、勘当するよ,、、と

            文庫本を渡したら、、、ぱらぱらとめくって

             何々、、???「長いトンネルをくぐると「雪国だった。」」
            当たり前だろう、、、
            裏日本に、、トンネルの出口があっただけだろう、、、
                             というのだから

           兄の頭は東大というより、、東京工大を受けるべきだったと、、思いましたね。

            同年代の父の妹にあたる、、叔母さんお家の「お兄ちゃんは」

             同じ両国高校から、、現役で『東工大に受かりましたからね!」
    
            物理は最優秀だったのに,、工学部なら、、合格も可能だったのに、、、
            不得手な国語の在る東大にこだわるから、、、

             劣等感がひどい、、可哀想な、、兄でしたね。

            東大を落ちた理由を、、あれこれ、、言いながら、、

             だんだんしょんぼりして、、布団いもぐってしまい、、

               起きてきたときには、、、泣きボクロがあり、、、

          男のこだわりに、、、可哀想なものを感じましたね。

           すぐ上の兄は医師になる事を拒み

             「人間が、、人間を、、解剖するなんて、、、僕には出来ない、、、」

            私が正規合格で、、兄が補欠で、、私立医科大を合格しましたが、、

              兄が、、絶対に、、医師にはなりたくないと、、

            父母が、、兄を助けて、医師になってほしいと言っても

              僕は、、ICUを受験したいと言って、、文科系の科目が好きでしたね。

            どちらかというと、、、小松川の男子生徒は、、おとなしい人が多かったですね。

               すったもんだの、、、受験時代に、、

               女の子で、、受験テクに長けていて、、カッタ端から合格する妹を

              母も長兄も、、ニガニガしく。見ているのがわかりましたね

               小松川の女生徒にとって、、本命は千葉大というのは自然でした。

              当日になって、、長兄は、、二人とも、、千葉大に送ってゆくはずだったが

                今日はいけないからと、、、直前逃亡でした。

            兄も、私も、、私立大学に合格していたこともあり、、、

            妹が、、万一国立を合格したら、、、今までのように

             支配できないと思ったのだよネ、、きっと。

              前の日に、、同級生と一緒に、千葉大前の宿をとってあったのに

            「明日は、、お前たち二人を、、京王国道を通り、、千葉まで送る道を調べたから

               宿はキャンセルして、、僕が送って行くから、、、」

            約束したのに、、、ひどい裏切りだと思いました。

             落ちたっていいから、、受験番号125番という、、合格するという番号なのに、、

            私は、、ぬかったと想いました。

             兄を恨む気にはなりませんでした。

             受験上までも行けなかったこの経験は、、、

              兄弟と言えども、、、東大受験射失敗した兄の心のブラックホールは

              私ごときが推測できるような、、、軽いものでは無かったのだと

              身震いしました。

             「東大を落ち手しまった以上、、、

                  父同様に、、国のコマンドとして

                   一生、、税金を支払う道しかない、、、

                       親父がこんなものを、、、残すから、、、!」

                兄に発って、医師のなっての一年目に、、母と弟妹と、、開業施設と

               従業員を預けられた事は、、逃げ場が無かったのでしょうね。

            唯一、、自分尾道を行く為には「東大合格」という

               水戸黄門様の、、印籠のような「東大合格」だけが

                 解散に、、持ち込める、、
                説得力ある「天下の東大合格」が、、必要だったのでしょうね。

               ノイローゼ―のようになりながら、、、

                早逝した父の後をついで,、開業しながらも、、

               「僕は一生、、税金と、、お前たちの為に、、
                    金を儲けなければならない道を行なんて」

              こぼしながらも、、アルバイトの医師を週2日間雇用して

               自分尾勉強ん為に「国立がんセンター」の研究生になって

               胃カメラの指導医を許されると、、晩年は開業を閉院して

                 千葉の大病院の胃カメラ指導者として、、雇っていただき

                ひたすら、、金もうけの道から、、、脱出してゆきました。

                 戦後の開業は、、、すったもんだの、、人生劇でしたね。

                 女性は、、一生面倒を見てくれそうな所に、、嫁に出すのが

               兄にとっては使命だったのでショウウガ、、、

                戦前の昭和10年代の「富国強兵」政策の教育は

                男尊女卑の、、、はなはだしい、、男女の格差を容認する政策のもとに

               女の子が生まれると、、殺されてしまった人もいたというから、、、

             生き残れた、、私は、、インテリの親に生んでもらって、、

                命拾いが出来たのかもしれないというほど、、、

               敗戦まじかの昭和10年代に生れた女子は

                嫁に行って、、嫁として受け取る側は

                「働き手を、、もらったから、、」と、、
              肩身の狭い妻という立場だったのですよね。

             ダンナさんは、、私が社会進出のチャンスをつかむと、、

                    ことごとく、、妨害して、、

                  私物としての、、管理をしてくるという

                     兄と同じ教育を受けた医師でしたね。

                    家の中は、、ダンナさんの物で、、各部屋は

                     全部、、無断で入れるように、、、

                母がくれたピアノの部屋には、、メダカを飼っていて

             餌をやりに入ってくるという、、、クマのマーキングのような、、、

                 我が家には、、、ダンナさんの管理をシャットアウトできるのは

                 日記に、、ぼろくそ吐き出しているときだけですね。

               しかし、、息子達の大學の費用と、、日常の食事代を稼いでくれるダンナには、、

              勝ち目がありませんよね。

               全室、、ダンナさんだらけの物を、、掃除しながら、、、

               自分だけがカギを持っている、、個室が欲しいな^^^蛙、、、と

              生涯、、思いましたね。

               Nipponの女性は、、家で働かないと、、、

               勤務医の給料は、、医師の日進月歩の学問についてゆく、、維持費と

               お金持ちの子弟の多い 医師のお仲間について行くだけで

               女房の家系きり森戸、、必要な時には「お金もうけの為の、、職場復帰」
                 
               深夜調剤の急病センターでのアルバイト、、、
                100万以下の収入を、、自便の精神維持にして

                ダンナさんが「医師をすること」の

                 フアンのように、、サポートをし続けるというのが、、、

                他人の街に嫁いでしまった、、、独りぼっちの、、よそ者の、、女性の活きる道でしたね。

               道が開けそうになると、、、障害物が、、現れるという、、

               男尊女卑が、、いやなら、、、独身を通すことを勧めますね。

                あるいは、、結婚しても、、子供をつくらない、、身軽で居るという事でしょう。

                ずるいかもしれませんが、、、はじめから、、お金持ちと結婚して

              遊びも㋐洒落も上手くなり、、、
               楊貴妃のように、、
                男性の心を奪える女性の生涯を送るのも

                    美貌が必用ですし、、、私には無理な注文ですね。

                      言いたい放題,、吐き出して、、、

                      大きな声で、、、ばか~~~❕!!、、と怒鳴ったら

                 スッキリしました。

               雪の降り始めで、、、生涯雪を掻かないダンナの事が、、腹立って、、

               今日は、、、「王様の耳は、、、馬の耳、、、馬鹿の耳、、、!!」

                少しスッキリしましたね。。。おやすみなさい。。
       

          

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            、、
    北海道に嫁に来るなら、、駅前のマンションに住んで、、雪掻きの時間を失わない人生の選択を開勧めします。

       ダンナさんも、、悪い人ではないのですが、、、雪掻き女房を確保できないと
       男は、、働くのに、、支障をきたすところに、、住まない事ですね。

               54年間、、雪を掻きつづけた、、和歌山生れの、、もうすぐ80歳の老婆心より。

       バカヤロウ、、、の私!!、、人生終わってから、、気が付くなんて、、、!!


              ダンナさんの,、黒田勘兵衛ですね!!
              



                 

    

               

          

        
     

              

      息子のように、、忙しさと、、時間貧乏な過密時間を

         生きがいの精神にすり替えられて、、、やがて、、ロボットのように

             医師として働く時間が、、生きている時間として置き換わってゆく、、


     プロとしてのプライドが故に、、、いつしか、、働く事だけが人生と感じるような

       傍から見ると、、異常なまでの時間貧乏な人生を

            本人は、、かんがえるという余裕がないまま、、

       医師は儲けていると、、盲信する、、、アウトㇿーの
             誘導のまま、、、 人生は、、、

       操作されているが如く、、、まるで詐欺の巧妙さに、、気が付く時間が無かったかのごとく

       誰にも見えない、、流れによって、、、時間だけが、、、働くことで忙殺されて

        政治が読めない、、医者バカのタイプの、、理想の医師は
           政治と背かンおクレバスに飲み込まれ、、

          開業より、、閉院んで、、裸になって、、人生を終わる純粋な医師が多いと聴いている

       医師は、、達成感だけで、、、裸で、、死んでゆく。

        税金に追いかけられ、、、自己満足で、、政治にも、、世間にも、、

             働かされて、、時間貧乏で、、かんがえる事を、、奪われて行き、、

                   素っ裸で、、人生の終焉に追い詰められてゆく、、哀しい、、英雄。
               

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