花鳥風月、、2023年からの第二の日記

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フイルムの世界は生き残るかもしれない

2023年11月17日 | 日記
ヒトは一生懸命がんばる
   本能に近い頑張りを
      各ジャンルで頑張るのを、、感じる

   ハマスの病院で、新生児が保育器から出されて、、動き回るニューㇲを見た。

平和な世なら、、母や婆ちゃんの笑顔と応援で、、

      保育器の中で、、、人々のエールの中で

         育って行くだろう、、、

しかし、、戦時中の生命の誕生は、、、

      殺戮の中での抵抗のように、、、育つことさえ拒否されてゆくのか、、、?

  世界はどうして、、こんなひずみが産まれるのだろうか??

      ************++++++++++++++++++**********


     小さな身の回りの出来事から考えていく。

   働いても働いても、、、じっと手を観るのは
             啄木歌人だけではありません。

    故郷遠く、、本尾ちょっとの間の北海道を満喫して

                  北国を体験してから
                     東京に帰ろうと思っていた、、、24歳の

            有給休暇中の薬剤師現役勤務中の、世間知らずもまっすぐな性格だった。

        「名誉と栄光の為ではなく。。」というような映画や

         「クㇽㇳュㇽゲンス」の青い目に惹かれて2回も観た、、、「眼下の敵」

     戦後の破壊された世の中から、、、、私達の世代が頑張らねば、、、

     親たちの自信喪失は治らないと、、、暗黙の天の声を聴きながら

     自分なりに、、まっすぐまっすぐ、、、良い筈だと思う事をどんどんやって来た。

     疎開中の小学校一年生から、、東京に転出する5年生まで

      「右、総代、、」「入選」「優勝」「県下弁論大会一位」

     転校するまで30枚以上、、「お褒めの賞状を頂いた。」

        私が優秀というので貰えたわけではない。

      疎開地は先生の資格を持った先生は校長先生と教頭先生、、お寺の和尚さん位だった。

    あとは、、先生の資格は無くても、、先生の奥さんはインテリだからと

      奥さんらがボランティァ よろしく、、、家庭科や、お習字を教えていた。

     学校と背中合わせの場所に、
         村の診療所と、、
             役場と
            ,医師の住宅と、
              校長先生の家は

           歩いて5分以内の所にあった。

     しょっちゅう、、出っくわしては、、、挨拶をかわす中で、、

     校長先生なんかは、、、私の顔を見ると

      郵便物を持って来ては、、、「ポストに入れて来てくれと、、、」
     なかば大人のパワハラで、、私に頼むという、、、

      お友達と居るときにでも頼んでくるから…
         
         こまった。

      御隣さん同士だった。

      裏は小学校のグラウンドだった。

      こんな立地条件では、、、

   今から考えると、、、、スマホの「SNS]を持ってるのと同じぐらい

     交流があったのだった。

    子供の私は、
        知識より「五感」の鋭い時期だけに

    校長先生の姿が見えると、、
           左に歩いて行ったり、、、右に折れたりしたが

     先生は、、「お^~~い!ちょっときてくれ~~~」と呼ぶのだった。

   ポストに行くには、、、
        坂道を下って、、
         牛を飼っているオジサンの家の前の

            一日2回しか通らない「バス通りに出て」!!!!
              子供の足で、、とことこと、、自転車やの前をっ通り

                お爺ちゃんが経営していた村界隈で唯一の旅館の前を通り

           小さな橋を渡って、、、竹やぶの前を通り、、、
          芝居小屋の前を過ぎて、、坂道を登って、、、
         右にグルートカーブした山道に入り、、、廻り切ってから、、、

       小さなタバコ屋さんがあり、、切手を売っている前に、、

      赤いポストがあった。

     夕方頼まれたりすると、、、竹やぶの前に差し掛かると

    サヤサヤ,、、ザワワ、、ザワワ、、、と

      お化けが,、、、「あそ~~~ぼ^^^う~~ョ」と
        ほほをなぜてくるような
         背筋が冷たくなる想いがしたもので、、

           パタパタと靴音を立てて、、走り抜けた幼かった私は
           自分尾足音が怖くて怖くて、、、

        竹やぶを抜けると、ハア,、ハア息が切れたのだった。

        しばしば頼まれるので、、出来るだけ、、出逢わない様にして

        キャベツ畑と、、茶ノ木と、、びっくりグミの木と桜の木の間を

       すり抜け乍ら、、校庭の遊び場に向かったものだったが、、、

      日曜日には、、能く、、頼まれましたね。

      登校日の放課後は、、毎週1~3回は
      「宝探しという子供ら10人ぐらいで遊んでいると
          ちょっと、、ちょっと、、、と手招きして、、、
                 👈には封筒を持っているのだった。」

       こういう、、どうにも逃げられない御隣効果が、、、有ったのではなかろうか??

       賞状という紙に、、

        「あんたは、、頑張ったね、、、ポストに手紙入れてきてくれて」

        校長先生の考でも書いてあるんと違うかと思いながら、、、

       全然~~~ときめくものがないままに、、、
          朝礼で、、お褒めの紙を、、戴いた。

        引っ越してくる時、、、全部焼いてもらった。

       県下一位になった弁論大会の賞状だけは
        優勝カップと一緒に、、学校に預けて、、引っ越してしまった。

        東京は、、、期待していた父の生まれた市ヶ谷四谷、
          飯田橋新宿とは

       全くムードの違う、、、ドブの多い、、下町であった。

        疎開地のような自然は、、
             そばを流れる「江戸川べりをさかのぼると

             市川の国府台というところが見えて、、、

           鉄橋を渡って、、、、そこがお気に入りになった。

         6年生に転向生徒として近くの小学校に転入した。

           どういう訳か、、、選挙で、、級長になってしまった。

        誰一人知っている人が居ないのに、、、
           「級長なんて出来るわけない!!」

       しかし、、東京の下町の子の心のうちは理解しがたかった。

        毎朝、、迎えに来るのだった。

        私が黙っていると、、、

         「なんで、、仲良くしてくれないんだと、、」

          取り囲んでくる。

         自分のペースでやれることだけ、、やるという
         自分なりに、、、この、、ワカラナイ、、、生徒たちを
         どのように、、受け取れば良いのか、、、
           しばし、、マイペースを崩さないことにした。

         転校生というのは本当に、、、なるものじゃない、、、と思いながら

          3年生だった弟の教室前に、、、
          休み時間ごとに行ったのをおぼえている。
          毎回 休み時間に来る、、姉ちゃんのおかげで

           弟は虐めには逢わなかったようであり、、

          弟のクラスの生徒の顔は全部覚えていた。

          こうして、、自分の過去から考えてゆくと、、、

         「 ヒトは、、顔見知りの人に、、繋がりたいのだということになる。」

             
          

          今思えば、、東京から北大に合格したダンナさんは

          医学部の野球部ではなくて、、北大全学の野球部に席を置いていた。

          教養時代は、医学部以外の北大生と、合同合宿や、、大山登山などをしていたようである

          帰りは青森までの切符しか買えなかったそうであり、、、

           ポケットの100円玉をパチンコ台に入れたら、、、運よく出過ぎて

           帰りの切符を買えて、、、冷や汗モドキの日本旅行だったそうであるが

           医学部の学生だったら、、、きっと、、誰かがオカメ餅の子息であったりして

           どうにかなっていたのかもしれないが、、、

           戦後の普通の家庭の御子息には、、、ぎりぎりの下宿代の送金が普通であり

           バイト代で旅行などしようものなら、、

           我が家の弟もそうであったが、、、父を失ってから千葉大の医学部に合格して

          Nippon一人旅に出たが、、、旅費が無くなり

          民家で手伝いながら、、、ご飯を出してもらい、、、

           離れや押し入れのベッドに泊めてもらったと言っていた。

            皆、大学の教養時代は、、、受験の恐怖の中で突破するから、、

           夏休みには、、旅費があろうとなかろうと、、、ハジケテいることがよくわかる。


                 

          部活のおかげで、医学部以外の北大生との交流がある。
          いろいろの常識が入ってきて、、得難い経験になったという。

         その後、、教養を終わると、、
           医学部の野球部に転部している。
         この時代の部活のおかげで,ダンナさんは、、得難い知人を持つことになる。

           札幌病院の院長、、、北大外科の教授、、野球部の部員であり
          人生の晩年になって、、、助け合える友となっていったようですね。

          青山高校の同窓会にはこまめに出る、、

          植物園長や、、小樽商科大学の学長が同窓生だ、、、

           植物園長のおかげで、、北大植物園には,、しばしば行って、植物観賞をしたり

           中にあるアイヌ民族の歴史の跡を拝見したりしたものだった。

           医師になった初めの年に、、北大医学部の懸賞論文に当選して
           医学部の新聞に、「若き医師の懸賞論文」に応募して

         「績耐性赤痢に対する治療成績」とう論文と、、顔写真が出ていることで、、

           いろいろな科へ、、お誘いを受けることになったそうです。

           ありがたくこの機会を生かして、、大きな科の「第ニ外科」への入局をゆるされて

           医師への第一歩を府に出したようですね。

           しかしそのころは、、、生まれ故郷の東京に未練が残っていて

           東大出身の「杉江外科に入局」 、、杉江先生の存在感に圧倒されて

           思わず、、、入局したという、、、

              反応性の動機だったそうです。

           その後、、引退されて、、東京に帰られる時

           私は、一緒について行き、、東京に帰るのかと思って、、、

               引っ越しの支度を始めた。

           しかしダンナさんは、、北大に残ることを選んでしまったから

             母との約束はこの時点で破棄された。

              杉江先生の奥様は、本当に私のヨナ外野にも、、優しくしてくださって

             たくさんの旅のハンカチや、、お手紙や、お葉書を下さり、、、

             まるで、母のお友達のような、、、錯覚さえ起きるような

              頼れる奥さまでしたね。

             今でも、、、ひとつとして、、無くさないで、、大切にしていますね。

             杉江先生という東大の教授は、、御指導されるお立場だったのでしょうね、、
             新聞に、先生の治療して会報に向かって行く記事が、、能く出ていましたので

              切り取ってsるバムを創りました。

             多分、、、ダンナさんの世界では
            「師の影、、、3尺はなれて、、、その影を踏まず」のような

             気持ちの上では、、控えていたのでしょうけど

             東京大学は指導者を養成する大学だけに
              理屈では表現できない、、威厳がおありでしたね。

             奥様もいつも
           「地味なモノトーンの色のテーラーで、おしたてた様なスーツ」をお召でしたね。

           華美なところは全くないのに、、
               ラインが美しく、、仕立てられた
                         「モノトーン」のスーツは

                             先生の威厳のある、、自然な御振舞とお似合いでしたね。

            杉江先生は、、真摯な指導者でいらしたのでしょうね、、、きっと。
             東京大学からはどなたもあ連れにならないで赴任され、、、

            北大からもどなたもお連れにならないで、、東京に帰られてしまわれましたね。

            外野席から、、、家内をしていると、、、理屈はワカラナイのですが、、、

               品格の違いを感じてしまう方に、、、お目にかかる機会がありましたね。

            東京方面本州のさまざまの県にも、、多くの病院がありますが

               病院の品格というのが、、それぞれに感じられて、、、

              北海道の病院は、、真冬の冬将軍到来の中、、、

             品格どころではない
            「corona」やインフルエンザで、、、走り回らねばなりませんよね。

            ダンナさんのビョインも、札幌市からの依頼で
               幼い子供から、、、母を奪ってしまう事のないように
                 乳がんの早期発見の、、、検診を依頼されて久しいのですが、、

              若い先生方は、、学会や、、新しい見聞にゃ研修に忙しいので、、

                 ダンナさんは、、院長を退いてからは

               乳がん検診という、、、一見地味に見えるけど

              幼い子供から母親を奪わない様にと、、、願をこめて

               検診し始めたのですが、、、

                最近はお年寄りの献身の患者さんが多くなって来て、、、

               「先生、、、来年も来ますから、、、絶対に、、居てくださいよ」

                 そんなことを言いながら、、、循環器の外科の最前線の若き頃の患者さんが

                   今度は、、乳がんの検診で見えられて、、、

                血圧や。。循環系の静脈瘤や
                      甲状腺のがんまで、、、質問してくるので、、、

                     出来るだけ、、わかりやすく答えていると、、、

                    若い担当の助手の女性が、、急がせる様子で

                   次の患者さんおことを期にかけているというので、、、

                    乳がんと併発している病気を見付けるというシステムはないそうですね。

                   しかし、、ダンナさんの場合、、甲状せんがんなどを
                                      触診で発見してしまい

                      病理に出したりするので、、、今のヘルパさんはクラークさんという

                    事務系や、パソコンに手家👈人らしくて

                   余計なものを見つける時間を、、イライラして待てないのが伝わってくるようで

                   一人で何でもやっているうちに。

                   「婆ちゃん、、毎年検診生きてくれて、、健康でyかったね、、、

                      来年は、、私はもう、、個々にはいないからね、、、」

                    笑顔で伝えると、、、居てください、、、と言ってくれるので

                    そういわれているうちが花なので、、、
                   検診認定医の試験は来年7月で切れるから

                     もう、、講習や試験は面倒なので、、
                    勤務に行くの止そうかなと思っているそうです。
          

            彼は、、北海道でも我が町のように貢献できるように

                緊急の患者さんを助けられる、、、ドクターヘリの導入を

               医大の先生方と、、しばしば話し合って、、、消防署の幹部のかたや
               警察の幹部のかたとの話し合いに、、、欲でかけていましたね。

             農機で肘から下を切断しそうな患者さんが、、ヘリで運ばれて来て

              助けられた経験が、、印象に残っているのでしょうね。

             後日、、旭川の医科大学の学長になられた先生と

                 医局在中の時「ゴケンカイ?」とか言う、、研究グループだったそうで

              その先生は、、切断された腕や、指の細い血管を繋いで

              ちぎれた指を繋ぐという、、、血管縫合のスゴ技の医師だったそうでス、

              ダンナさんは、、そういう患者さんに出逢うと、、まず報告して

               指導に来ていただいていたそうです。

             
              指導の下に、、実地訓練で、繋いでいったのはダンナさんなので、、、

                その患者さんは、、旦那さんが治してくれたと思い込んで、、

                ずーと他の疾患でも病院生きてくれていたそうですが、、、

               指導の、、先生が居なかったら、、、僕には出来ない業だった。。と。

                  今でもひんやりすると言っていますね。

              過去を振り返ると、、どうして、、外科なんか選んじゃったんだろう、、、

              もっと楽な科があったはずなのに、、、と思うようになった時期に、

                リハビリ―のDr。を引き受けるようになって

                目から鱗だったと言っていましたね。

                 リハビリ―の先生は「癒す心の天然の感性の持ち主であり、、、」

             医師になる前に、、、この先生方の心を学ぶべきだったと、、つぶやくようになったのは

                 晩年でしたね。

                 名誉や栄光や、、権威や、、、自分自身の技に酔う事も一切なく

                 患者さん衣寄り添いながら、、、確実に心をつかんで治療に導くという、、
             「医の心の、、一番大切なものを、、リハの先生は持っていると、、、」

                ダンナさんは、、今までの自分の、、、
                  何処か???上から目線医なってしまう
                   指導的立場をとって、、、命令同様に、、、

                      本院の気持の辛い心を考える事をさけて、、

                     病気だけを駆逐することに、、まっしぐらに技を使っていた外科医の自分が

                    患者本位ンお力を呼び起こしてゆく、、本人に治療を促し
                   治癒に導く、、リハの先生の心こそ、、、伊の心だと、、、

                      目から鱗のように、、自分を鍛えなおしにかかりましたね。

                 きりがないので、、、今宵は、、これまでにしたいと思います、、、

                   若尾文子の妖艶なお声が聞こえてくるといいのですが、、、

                  80歳目前の婆ちゃんは、、、スタミナキレで、、、一時中断です。
                    日記も、、中断しながら、、、過去を吐き出しています。

                     明日は消去しようかな?
                             

                    

                 

            同窓会は小学校から大学まで、、こまめに出席して
             クラスの友とは、、誰とでも話せるという、、

            中立で、、誰の相談も受けられるという

            深くは入り込まないが、、、誰からも声をかけてもらい、、

            必要な時は助け合えるという、、、仲間が出来上がっていった。

             年賀状も、、ポストに入りきれないほど戴いては

             丁寧に、、自分からも出していた。

              いつの間にか、、、故郷の受検時代までの友の何倍もの知人が

            無言で、、ダンナさんを北海道に引きとめていたのだと、、、

           この頃判るようになった。

           勤務先の病院は勤務なので、、規則に従うという
           絶対にはみ出さない、、、目立たない、、、スタッフのすき間を埋める、、

            名誉と栄光に走らない、、、誰かから必要にされて
           向こうから声をかけられないと、、、行動を起こさない、、、

            受けの体制はつくっているが、、、言われないと行動を起こさない。

           他人の土地だった北海道へ、、東京を捨てて住んだのだから、、、

           大歓迎してくれる自民党系の友人、、、

           何かと、、先住民である、、自分を立てることを感ずかせてくるのは、、、

           地域のイロコイ性質を残している集団移動の入植者を先祖にもつ
           先任、、意識の在る、、二代目、、三代目の北海道住民だった。
             昭和の40年代に、、北海道に来て

             よそ者意識の強かった時代に

            北大を卒業したという、、、追い風が、、、ダンナさんを

            北海道人として、、再出発できる、、新たなる故郷に移住できたのだと

            この頃、、、思うのですが、、、

             なんで、、クラスの北海道出身の女医さんと恋愛して

            心底北海道人にならなかったのかしらと、、思いますね。

            女医さんと二人なら、、、北海道の無医村で、、貢献できただろうと思うと

           東京に帰るつもりの橋渡しで結婚した私の人生は

           自分である必要がないのに、、、神は、、捻じ曲げても、、縁を創ったのはなぜか??
           ルーツを調べてみると、、、

           なんと明治の時代に、、、
            群馬県の医家の長男として
                生まれたダンナの父のオジサンが

             岩見沢に開業していたということが解り、、、

            縁の濃さに、、びっくりしました。

             ダンナさんは、、名護屋私立医科大学と、、どちらに行こうかと迷ったそうです。

             名古屋には、、母方の親戚の家に宿泊して受験をしたという縁だったそうです。

            結局、、北海道人として根付くきっかけになったのは

            私の実家が病院にする計画で、親戚の医師が2人と兄弟2人四人の医師に

             私たち家族の医師と、薬剤師で、、、長男を中心に

             病院にするための発起人会「淡交会」という

             御茶を飲みながらの設計の会合を発足させたのですが

             別荘になるから、、、いつでも戻れるようにと、、家を建ててしまったのですよね、、、

            土地のローンは有るし、、、建物のローンは有るし、、、 実家に行って

              家族として実家の理事になると戴ける給料をあてにして、、、夏には、、皆で来れるようにと

            手回しが終ったところで、、、

               大学の教授から、、、自宅に電話を戴いてしまったんですね。

              次期教授になる年代の10期下の年代の医師の中に

              最優秀な人材が2人入局してきたから、、、

             未来は世界に通用する、、北海道からの心臓外科医を育てたいから、、、

              アメリカ帰りの凄腕の医師を指導者に迎えるから、、、

               君じゃないと,、その師匠となって若手を引っ張ってくれる医師の
                    向こう槌は無理だと思うので、、、医局に帰って来てくれないか、、、」というような

             電話だったそうです。

             未来は教授にならないと、、、もとはとれないどころか、、、

              正職員の公務員にもなれない医局暮らしは、、、

              開業医のお子様か、、、お金の余っているうちの坊ちゃまか

              北大教授を親に持つ人でないと、、、

              超贅沢して、、、お金儲けを忘れた人のような老後になるんだからと、、、

              反対したのですが、、、何をやれるのかz・

              若手を引っ張れる先生が来るのなら、、、それなりの助手も必要だろう、、、

              医局の、、、お役に立てるのなら、、、個人開業よりは

             自分委向いていると、、、言って、、、40歳過ぎて、、、

                 再び医局に帰って行ってしまったのです。

              家は建ててしまった、、ローンは在る、、、

              子供は物入りの年代に入ってくる、、、

              実家からは、、、疎遠になる、、、

               国家公務員の30万円無い手取りなのに、、、

             ローンを返し、、、ボーナス払いが23万円も念い2回来る。

             医局に決定ったダンナさんとは、、、他人の様で居乍ら

                ダンナ中心の人生になって行き、、、

               丸善からは本の請求書が10万円単位で来るようになり

                どうしてよいかわからに時期がありましたね。

              結局、、、50近くなって、、身体を壊して、、、療養を兼ねて

               途方の国立病院に転勤して、、単身赴任してゆきましたね。

                           つづく、、、

                   明日取り消すかもしれない、、日記の下書きです


              

   

          
       

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