花鳥風月、、2023年からの第二の日記

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炎天の北海道、、、札幌も、、真夏!

2023年05月27日 | 日記
早朝から、、、お布団干しています。

おとといの炎天の日に

    真冬の重たくなっていた、、毛布を干したら

      軽い軽い、、、そのままビニールに入れて圧縮して
         来年、、、未だ元気だったら、、、冬に逢いましょうね、、、

   毛布さん、、、毛布さん、、、また来年、、、!

  独り言を言いながら、、ビニールに入れて、冬片づけ!

本日は、、曇りながら、、、真夏日です。

 ドテラ、、、ちゃんちゃんこ、、、綿入れ羽織、、、

  厚手の一城絨毯、、、
    ケット類、、、

   皆皆さん、、、また冬まで、、寝ていてね、、、

   圧縮してビニーㇽの袋を十文字にガムテープで固定して

  積み上げると、、、、結構な量であるよね、。。。

  北海道の暮らしは、、12月から3月まで、、4か月は雪掻き

   4月からは、、、冬物小物をダンボールに入れてしまいます。

   ネットをたたくときに履いてる、、、毛皮の動物スリッパが2足、、

   厚手の毛糸の靴下類、、、

    長靴類、、、ブーツ類、、、
   真冬の毛糸の帽子類。。。手袋に、、マフラー、、、

    北国に住むというだけで、、、
    大きな「押入れ」が要るはずですが、、、

  我が家には、、押し入れが一個だけあります。

    ほとんどのものは、、
      二階の日本間が、、
          倉庫代わりに、、
            引き受けてくれます・
  食堂の足元に敷いて、厳寒の凍る足を、、
      寒さから守ってくれた1畳絨毯は

    ベランダで カラカラニ干して、、巻いて、、ビニールに入れて、日本間へ。

  あっちこっちに
      防寒の絨毯が有るので 、
         干して,乾かして、、
            巻いて、、ひもで縛って。。。 

    数えてみると10本になる、

    大きい絨毯は、動かせないので、、、いつの間にか、、、

       コマギレ絨毯の山になった。

    夏を迎えると思うと、、、かなりな労働の「冬仕舞いです。」

    おかげさまで、、二階にあがったり、、降りたり、、
     5月中、、冬物処分で、、、階段を、、、一日中

      降りたり、あがったり、、、
   北国を知らなかった私たち二人とも

   毎日、、毎日、、、タイ焼き君並みに働いて、、、ふと気が付くと

     80歳も目の前です。

     季節の激しい移り変わりに、、対応しているだけで

    人生は、、終了しそうです。

    束の間の夏が落ちて来て、、、

      紫ツツジ、、、レンギョウ、、カイドウ、、ムスカリ、、、

      エニシダ、、今年は藤棚を直そうと、、思っているうちに

     いつになく、、、、見事に、、花が垂れ咲き

    疎開先の、、、南紀の。豊富な自然の花の季節を思い出して
      桜の季節の、、、山ごと櫻,、、桜の小川、、タケノコ狩り、、、
        帰りたくなりますね、、、


      

     子供の頃、、、お師匠さんのおかげで
      藤娘、、、、踊らせてもらって、、
     、嬉しかったことを、、、思い出しながら、、、

      「お母ちゃんが、、、無理やりお師匠さんを家に来てもらって、、、

       踊の意味も知らんとネ、、、言われるままにまるおぼえして

       舞台の日に、、、皆と一緒に、、、きれいな衣装きせてもらって

      お母ちゃんの「人形」の私は、、、

      意味も解らないで、、、小首を傾げて,、、

      藤の花持って、、、長~~~い帯閉めて、、、

        お母ちゃんには逆らえなかった、、、っけ、、、

      昭和生まれの女の子で、、、
 
    明治生まれのインテリ母ちゃんに

    疎開先の戦後の鬱っぽい患者さん家族の為に

      診療所の2階の部屋を文化教室のの様に使って

      新宮や,、御坊、、古座から

      いろいろな芸事の師匠に来てもらって

     毎週2階で、、、お稽古やら、、、踊やら。。。ダンスやら

     カラオケの先駆者の様に、、

      蓄音機も、手回しの針とっかえのものと

     お爺ちゃんが電蓄を、、

    アメリカから引き上げるとき持ってこれたのがあり

     疎開してから、静岡のヤマハの工場から

      ピアノを取り寄せていた。

      母の弟さんが「日大中退で、、戦争に行き、、運よく帰還でき☜

      バイオリンが得意だったこともあり、、、

     2階で、、皆と合奏していたのが記憶に残っている。

      私も、、頭は素寒貧の、、、頃で、、、

        母のいう事には、、、絶対服従で、、、

      日本舞踊が、、、イッタイなんなのかもわからないで、、、

       お師匠さんのいうことに、、、絶対服従で

     手真似で覚えて、、、後は、、扇を目の前に置いて

      「結界からは控えて、、、ひたすらお辞儀をして、、、感謝!」

      5枚のレコードを、、取り換え乍ら、、、

     「浦島」やら「藤娘」「雨の五郎」「御所車」「鷺娘」。。。

      娘もやっている、、、日本舞踊を、、、村の祭りにでも踊りましょう、、、

        パン屋さんの娘さんも、、、八百屋さんの娘さんも

        准看さん希望の、、賄の姉ちゃんも、、、

        娘の私が踊っていることで、、、

        鬱々としていた、、、、戦争未亡人も、、、

      お子さん連れで、、、診療所の二階は

      毎週、、にぎやかな「文化教室だった、、、け。」
       お二階の窓からは、、、
         一抱えもする大きな「柳の樹」が。。
             しだれた枝を風に揺らして

      戦後の鬱々の時代は、、、夏とともに
       祭り太鼓、、、花火…影踏みゲーム

       お化け肝試し、、、

       戦後の落ち込んだ大人たちの気持が

          芸ごとを習い、、、発表会をして

        下手も、上手いも無くて、、、

       子供が舞台で踊ると、、、

        紙に包んだ コインが飛んでくるという、、、

      私的には、、、お母さんの、、

      おもちゃの時代が、、、有りましたね。

     昭和30年ごろ、、、

       爆撃の後の、、未だ、、復活していない父の生まれ故郷の街に

       子供の教育の為に
         両親は最後の力を振り絞って

      東京に、、は、、、帰ってこれたのでしたが、、、

       実家も財産も、、、何もない、、、
      焼け野原の後に、、バラックが建っている、、、
       江戸川の近い下町に、、、
      
       生まれ故郷とは言え、、、
     市ヶ谷、、、早稲田...女子医大が近かった実家は無くなっていて

      南紀の疎開先から、、、親戚一同、、、
      年老いた母の父にあたる、、、戦場から救い出してくれた,
     恩人でもある祖母と、、従兄、、、仕事を亡くした、、親戚筋の大工さんなど

    たくさんの、、居候として同居する、、、仲間の願いも託されての
      東京への、、故郷ガエリでしたね。

     40歳半ばを超えていた父母は
      勤務医だったこともあり、、、

     開業は、、復興の時代だからこそ
     勝手の違う下町こそ、、、地域に貢献できる開業の場と思ったのでしょうね。

       江戸川の近くの高台と言われていたが

      水害が無い地区というだけで、、、坂道なども無く

      まさに、、、下町の、、、親しみやすい商店街が出来ていた。

      山下書店、、、本屋さんが有る!!
     それだけあれば、、、10人の友達に囲まれている様な、、、

        笑いが、、こぼれた。

       昭和道り、、、という名前の商店街だった。

       友だち造りに、、、踊仲間をつくろうかな、、、と

     昭和通りの入り口から

      少し裏手に「花柳流」という看板を見つけて、、、

       入門した。

         
       そこには、「深川の芸者」さんも

       お稽古に来ており、、、

        その年の初踊には

        芸者さんと、、瀬の髙かった私は

      母の紋付をきせてもらって、、、

        二人で、「松の緑」を躍らせていただいたのを記憶している。

       疎開地の田舎の、、、我が家の二階の、、、
      出げいこのお師匠さんと違って

       男の先生だったこともあり、、、

        あっちも、、、こっちも、、、そっちも、、、一杯なおされた。

      「疎開地の、、楽しい踊と違って、、、

       足を折り曲げたまま、、、 
     重心を動かさないで、、、踊るので、、、足腰もくたびれるし、、、

      長唄は難しいし、、、

      しょんぼりしていたら、、、

       先生は「小唄」、とか、、、常磐津、、、長唄、、、

      唄をおぼえてきなさいと、、、、言い出した。

      春雨~~~の~~
       梅~~~にも、、、春~~~の

           チンとンシャン?????

      雨の五郎、、や、、御所車は「台詞もあるし、、、」

       娘道成寺は、、、面白かったけど、、、

       「山姥」などは、、、先生は「ダメダメ、、、ダメ、、、」

       腰が入ってない!!、、、膝をもっと折って、、、

       膝を動かさないで、、、重心グラグラさせないで

          そのままの姿勢で、、、廻って、、、
       

       もう、、、あきません!!

         此処rへんで、、「お母ちゃんの、、お人形は卒業させてもらおう、、、!」

       この世界、、、勉強より、、ずーと難しい!!
       中学3年生になって、、、お師匠さんに、「感謝して、、、」

        ここから先は、、名取になるつもりじゃないと

        中途半端な稽古をしては、、、
       皆さんについて行けなくなるから、、

       お稽古を辞めてきました。

         
         
        それからは、、、皆さんの発表会を見に行き

        もっぱら、、、、
          自分がやるより、、、
              ずーと楽しい

      観劇、、、歌舞伎、宝塚、、新橋演舞場、、、日生劇場、、、

       母が征くところには、、、時間が許す限り

       誘われて、、観に行きました。

       母は、、国立音楽大学を卒業していて、
       同期の友人が大学職員として勤務していたせいもあり

       江の島まで行ってしまって、、、
      音楽活動の幅の広さに

       高校生になっていた私は、、、
      いつの間にか、、、ついて行けなくなっていた。

     「フィガロの結婚」オペラを観てから
      音楽も、、芸ごとも、、、私のような、、、母の人形のような

    魂の日っていない芸事は、、、ここらへんでよいと
      何の未練も無く、、辞めようと思った。
     日舞も、歌舞伎も、宝塚も
       楽しく観れれば、、それでいいと、、、
       私的には、、芸ごとは、、母のお付き合いだった様な

    成長とともに、、、私自身は
     自分が観てもらいたいという、、、願望が、、、無いだけに、、
     母離れの成長とともに、、、
     自分の時間が必要になってきた。

     楽しかった、、、何も考えない時代よ、、、

     なんとなく、、、山のあなたの、、、空、、遠くに
     私自身の。。。幸いが、、住むと人のいう、、、

     自分の足で、、、天が呼んでる、、声を聴きに

     自分を見つめなおして、、、自分をつくり上げなければ、、、

     今のままでは、、、私は居ない、、、

     寝覚めるのが遅すぎた、、、
      強すぎる母の娘時代が、、、長すぎた。

      

    いつまでも、、「母のステッキ」の役や、、、
            「お人形の役」をしていては

      自分がやりたいことが何なのか、、、?

      ともかく、、、母を愛していた事には間違いありませんが

       母には、、「振り回されっぱなしでしたね、、、。」

     今振り返ると、、、戦場で雄々しく戦った父も
      敗戦まじかに、、日本に帰還できたのは
      父から言えば、、妻の父、、、私のお爺ちゃんが
      戦場まで、娘夫婦と家族を迎えに来てくれたから
      着のみ着のままで、、、母の父、、
       つまり祖父が町長をシテイタ疎開地で
         村の診療所が、、、七っか村、、無医村だという

       医療過疎地に貢献できる居場所まで

       外国まで来てくれて,、戦火の中を、、孫子を連れて
       疎開させてくれた、、じっちゃんが居たからこそ、、、。

       父は、、、母には、、、頭があがらなかったのかも?
       優しくて、、、頼もしくて、、、村人からは
       とても慕われた、、、「東京から来た名医」さんだもね、、
           
      
        お父さんは、、「医師」だったけれど、、、

       「音楽家の母の『我』の強さには,、、

         歯がたたなかった、、、理由が、、、

        高校生になったころ
       身に沁みて、、、解りましたね。

            

       音楽とか、、、芸術をスル人の蛾は

       「医師」の父も、、、歯がたたなかったけれど、、、

         私、、、等は、、、
         娘という名前の、、、
         母の「お人形」だと思いましたね。

        およそ、、、芸ごとに、、、才能のない私が、、、

       気が付くと、、、歌舞伎も、、宝塚も

        日生劇場も、、森繁一座にも、、、
        森繁さんや、扇千景さんや、、、森光子さんの

         舞台を観に、、、母の腰ぎんちゃくの様にくっついて

         高校生になるのに、、、母のペースで

            「御伴は、、、つらいね!!」

         

        

       布団を干しながら、、、
        なんで?、、、子供の頃を、、思い出したのか?

        疎開先には、親戚縁者、、お手伝いさん,や
         村の診療所と背中合わせの広い,、ひろ~~~~い官舎の住宅は

      庭が、槇の樹の生垣で、 物干しさおの、、、何列もある洗濯場と
         キンモクセイの大木と、、、ヤマモモの樹が有った。

       その物干しに、母は「布団をいつも、、干していた。」

      家事をする姿は、、、お手伝いさんや、、通いのおばちゃんや

       准看さんになりたいという、、、村娘が

        かいがいしくしてくれていて、、、

       私は「母に言いつけられた事だけすればよかった。

       家事をする姿の母は、、、思い出せないが、、、

        布団の手入れを、、、毎日、干してる姿が思い出された。

       ワタを取り換えるのも、、、頻繁んで

      布団の手入れだけは、自分でやっていたようだった。

        ベランダで、、、布団を干すとき、、、
       こんな広いベランダで、、、羊ケ丘を見渡して
      お布団干せる、、、私は、、、最高のリッチな気持ちになれるのですね。

       閑散とした、、、何十年も、、このあたりには店も出来ないが、、、

      別荘の維持費の要らない、、、別荘だと思えば,、、ちょっとしたもんよね。

       札幌も、、これ以上の端っこは無いという、、、郊外だと思うと

       駅前の、豪華高層マンションに住んで
      日々に、、イベントの変わる、、地下街が庭という人の生活が

       ガゼン、、、ブルジワ、、に決まっているが、、、

       私だけが手掛けた、、、野草の庭の方が、、、店よりは気が休まる。

        地下街が庭になってしまうと、、、、
               本当の都会人でないと

        商品にあふれた中から、、、、
            必要なモノだけ買うのは、、、
                    出来そうもない。


       TVを見乍ら、、、呆けない様に、、つぎあてや、
        裏の白い広告の紙を重ねて、、、ノートをつくったり

            指をひっきりなしに動かして、、、
                頭脳を守る習慣がある、、、
                   神頼みの健康法の

        動きを止めに事で、、、循環や、、、腎臓に水分を接種して、、

        腎臓を退化させない。。。。

       こんな、、生きる為だけに、、、生きてきた私に

         一生分の、、、「観て楽しむ、、、基礎を、教えてくれた母」

        思い出す姿は、、、先生みたいだった、、、が、、、

         布団を干すときだけは、、、
        「私の、、、お母さん!」という表情だった。
        私は、、母に抱きしめられた記憶がない。

        弟や、、ひとつ上の兄さんは
         母のお気に入りの子供だったのだろう

           膝に乗って甘えていた。

        私は、、、父にも、、母にも、、甘えることはできなかった。

       母が、、、干した布団をとりこむと、、、

          布団が最高の、、、母の延長のようで、、、

         ふかふかになった布団に、、、
         身体ごと、、、飛びこんで、、、幸せのマキシムに居た。

         ベランダで、、、布団を干したくなるのは、、、

         もしかしたら、、、母が私の身体に入り込んで

          布団、、、干すの、、手伝ってくれているのかもしれない、、、

          ふと、、、そんな気がした。

        私の中に、、、母が、、、時々、、住んでいる様だ。

        
  

            
    

    

      
      
   

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