花鳥風月、、2023年からの第二の日記

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手塚治虫さんの漫画を思い出すときがあります。

2023年07月08日 | 日記
物心ついたころから
  疎開地の村の診療所には
    雑誌やマンガ本がたくさんあった。

   その中に「譚海」、、、こんな字だったと???
                  記憶している。

   コンビニの、分厚いマンガのような外見だった。

   その本の中に
   「キョジンガラン ガラン」という
    少年向きの「絵小説」が掲載されていた。

      患者さんが帰った合間に
       「読んで、、」、、、と。

       父を待った。

   村の診療所の待合室は畳の部屋だった。
   戦時中だった戦場からの引揚者の父の役割は

     洪水で田畑が流れる南紀の山奥の川に
       ダムをつくるという国策の為

        町長を請け負っていた母の父が
         娘夫婦を引き上げさせる事の許可を得て
           戦場まで、先陣外科やイギリス医学をおさめて
            戦場の総合病院の院長をしていたが
        日本の敗戦色が濃くなり、、
        出陣のトラックに乗るはずの軍医の前には
        来るはずのトラックも、、、日本軍には残っていない
        玉砕が続き始めた頃、
        父母は次男三男長女と、、、
           3人の子供たちを失った。

        敗戦のイロコイ日本人には、、、
         現地の住民も、掌を返した様な、、、対応に代りはじめた。

      
        日本人は 
           生きて帰れるかどうか?
     
           その時、父の家族には、、、帰国許可書が渡された。


        日本へ帰国許可が届き
        ぐずぐずしている嫁夫婦を、
         戦場まで、母の父、、つまり祖父は迎えに行った。

       最後の連絡船であり、、、護衛船が付くので、

          窓を占めろと言うサイン!

       子どもだった兄は、    
         窓を開けて外を見たが、、、
            一隻の護衛船も無かったと言いていた。

         娘夫婦の家族を寸前の事で、日本に呼び返し
        国策であった、電気化の山村の計画のダムづくりの為の
       怪我人を予想しての、、
      診療所の外科医として
          町長だった祖父が
           娘夫婦の家族の
              帰国の手順を
                   入手できたのだと言っていました。


      戦場に行くトラックの無くなった日本は
      帰国させてダム建設の無医村での医療をすることの為の
      許可書を、村長と町長兼任の母の父、、

     つまり祖父にゆだねて
      戦死をまぬかれて、
      父母は母の故郷に帰国できたのでした。

     「氾濫する川のダムづくりの山村の診療所には
      7ヵ村が無医村の村人たちが連日診療を受けに来る
      にぎやかな、、集落となり
      父は、多くの患者さんの時間に一人で対応するという
      激務が始まったのでした。
     
         診療所の待合室には、
           サイ屋さん…と、子供達は呼んでいた
           自転車に本を積んでくるオジサンが

       月刊誌を届けに来ていました。

     大人の本も、、子供の本も、、マンガ本も有りました。

    その本の後ろの方に
    「ロック冒険記」という

       手塚治虫さんの、、、
         マンガが連載されていた。

         


     もう、、、80歳に来年はなる、、、この、、婆ちゃんが
                                 MMM
        3歳の時だから、、、76年も前の話になるね、、、(-0-)
                                  👊 ✋
   2歳の時に、左手にやけどを負ってしまった私は

    指の骨が曲がらない様にと

     患者さんが昼時になって居なくなる時間に

       右手のマッサージと、
       やけどで団子になった掌を
          指と切り離してゆく為の、
            診察 兼 マッサージにと

       父との会話が、楽しみな親娘の時間でもあった。

      「小さな右手を受け止める父の手」は

        幼い私には

      「野球のグローブ」のように見えていた。

        やがて、、マッサージで、
       父と娘の「治癒へ向かう心」が一つになってゆきました。

          一つ一つの指を切り離し、、、

        薬指と小指がくっついて、
        手のひらには肉団子のようになった皮膚が

          肉塊になっていた。

        火傷というには、、
        皮膚がくっつくだけではなくて

        焼けてしまった皮膚どうしが、、、くっついて、

       肉団子を造ってしまい、、、

        周りの皮膚が不規則に融合して

          指が「く」の字に曲がってしまうまで、、、
          引きつれてしまうんだと

       子ども心ながらに、、、

        お婆ちゃんのお裁縫を観ているように

        此処と、ここを鋏で切って、、、
        お団子はタコ足のように、周りを切って平べったくして

        皮膚が引っ張り合った、、、為に

        句の字に曲がった小指に、くっつけると

         私の左手は、、、もとの手になって、、、何でもできるようになる。

        子供心に、、、掌から指を、切り離し、、
        何でもできる手になりたいと、、、

        患者さんが居なくなる昼時過ぎに、、、
        父の診療所の待合室に

        幼い私の足が向いて行った。

        そこで出会ったのが,、、
       「巨人ガランガラン」と、、
        「ロック冒険記の漫画」であった。

       質の悪いパルプで出来た
       「ざら紙の分厚い本」は

       コンビニの漫画本にどこか似ていた。

        手塚治虫さんは、、、今でこそ、、、知る人ぞ知る

        鉄腕アトム、、人間より優れたロボットなのに
          涙が、、、僕には「涙が」ないのです、、、、。

       そして。「プラックジャック!」
        合体人造人間の少女「ピノコ」を助手に??
        どんな病気も治してしまう、、、外科医!
        旅から旅へ、、ブラックジャックの医師物語
        
        知る人ぞ知る、、、

        シルバー世代の、、、トップマンガ家だった。

       しかし、、、76年前の作品ですからね、
      「ロック冒険記」の吹き出しは
            「手書きの自筆の文字で有った。

       (まてー!、、~~~髭親父~~!!、、俺は手塚だ!!)

       、、、、、、、、、、こんな風に、、
        「吹き出し」は手塚先生の
         「自己紹介の枠」にもなっていた。

        手塚先生の無名の頃の作品で記憶に残るのは
         「月世界旅行である!!!」

        昭和20年代は、、敗戦のドサクサで、、、
        月世界旅行や、宇宙旅行や、
        銀河系の人物に似た生き物などは

        SFマンガのような域であったが

         手塚作品になると「髭親父」や「ランプ」など、

         まぜっかえしの人間味の多いキャラクターが、
         宇宙の話も、「ちゃぶ台のお話」に変えてしまう

        身近な話題として、、
         令和の宇宙飛行士並みの実感で、
                 物語が進んでいた。

               

         疎開先を去る13歳までは、
         私の先生は、手塚治虫の 漫画文庫であった。

       その後、、
        子どもだった私は17歳になった。

        手術を受けるまでには、指の骨を成長妨害させないために
       ひきつれる指の肉を切開させながら、
         父と娘の、、、
           歳を超える指の再建の話は続いた。「

           7回の形成手術と、毎日のマーサ―ジと
              リハビリ―の機能訓練で

          手の甲のサイドから見ると、

           火傷をした右手には思えないほど完治していた。

           

          手のひらを上にすると、

          「京大の名医も、父も、、他人の皮膚移植は出来ない!つかない!」

         医師の皆は断固反対したのに、、、

             母は

          自分の腕の皮膚を使って 、自分の取り返しのつかない

         娘の火傷を直したいと、、、 無理すじを通した。

           母の心を直すためにも、、、又、、、

           万にひとつの軌跡がおきるかもしれないと

         京大の近藤教授陣も、
             母校の形成外科医も、、、
                  東京に開業を果たしてからの
                     同窓の都会の形成外科の専門医も

          「他人の皮膚移植は、、受け付けませんよ。」と

          ことごとく
              同僚だった医師が
                     学術的にも成り立たない、、、と。

          頑固な母は、、、父をとうとう、、、

          「ダメに決まっているのに、、、奇跡が起るというのか?:」

          父も、母を説得するのに苦労していた。

         無口な父は、母の激しい口調に、応戦することはしなかった。

           突然、、、母の花の頭に、、親指を当てて

             母の顔を、、丸く円を描くように

           中指と親指とで、、、グルート、、顔の周辺をなぞって

               「お前さんの顔は,、、丸い、、、、」

            突然、母の、総攻撃のような質問が停まった。

         父は、何も言わずに、、、その場を立ち去った。

        残された私と母のあいだには、、、天使のお通りのような

          沈黙が続いたのでした。
             
         小学生になった時に、
         「父の友人の外科医の医師の先生」が、、
           『他人の皮膚はつかない』というけど、

            母のような頑固な思い込みの有る人は

           奇跡を起こして見せるという、、、しつこさでした。
          
              

           「この手術は、、成功しないことは99パーセントだが

            頑固な母さんの心の負担をとるのには

          「 娘の為に、、、自分の腕を切って尽くした」という

          「母さんの心を、納得させるだけの手術になるが
            手術を受けてみるかい?」

           「お前の手には、、母さんの皮膚は付かないことは確かだ。」

            「母さんの腕だけに、皮膚を剥ぎとった傷跡は残る。」

        毎日毎日、、母に自分の皮膚を使ってほしいと

           何かにとりつかれた様に言う母に

            父は降参した。

          「 母さんの心の傷が、、、軽くなり

             腕に傷が残るけど、、、皮膚だから、、、

          演奏会の時は、創が隠れるドレスを切れば良いのだから、、、」

    母さんの心を直す手術だから、、、この手術は失敗なんだよ。

     「お前は大きくなったら、、、女医になりなさい。」

      「万にひとつの奇跡」を信じて、
              、、手術に踏み切り、、、

          医師自体の中にも、、、「試してみよう、、、」という

             「有ってはならない心」が有るという

            お父さん自身の中にも、
               ダメだと解っているのだけど
                 母さんの、思いつめた心と
              万にひとつであっても
                お父さんの心の中に、

               娘の掌の火傷の引き連れをなおしたい、、、
              ダメだと判っていても、、、手術を決行すべきだと
           医学を修めた医師の心とは裏腹な、、、
         試してみたいという心に
        母の半狂乱のしつこさに、、、火をつけられたようでした。

      「 お父さんの心が解ってもらえると思うよ。」
                

              
         「決して、、、お母さんの心の治癒だけの為に

         娘のお前を、、母さんの為に使うのではないことを、いつか知ってほしい。」

       お父さんは、、
      外科医の心の闇に住む、、
      、実験の心を、悪魔だと思うけど

       今回の場合は、、、
        成長したときには

        「女医」になったお前が、、、
          医師の心に住む、、、

         奇跡を信じてやってみようという、、、

           自分の為「悪魔」が住んでいる事を知ってほしい。

              

         決して、、母さんと、、娘のお前を
         天秤に掛けたりはしない。

         お父さんの心の中の、、
         「悪魔退治の為に」、、、

         今回の手術は
         「失敗が解っているのに、、父さんにさせてほしい。」

       小学生になっていた私は

             左手で字も書けたし、
              お手玉も、カボチャも、、左手で切れたので、
        両親が深刻になっている意味が、、、ピンと来てなかった。

              「いいよ!!、お父さんが試してくれるなら、
                   実験台になってあげる!!」

              骨を守るための指の切開を続けている右手の痛覚は
            まるで、、痛覚神経が鍛え抜かれたレスラー波に
           少々の切開には、、、ピンとこないほど
          私自身は、、右手は、別の人の手のように
         父に預けた、、患者さんになっていた。

        自分の心の延長には、右手は父母のものだった。

        華岡青洲だって華岡青洲だって、、、

         お母さんと
           お嫁さんを
            マンダラゲの毒性の強さの、、、
            実験台になってもらった時期が有るのは
            有名な話である。

        戦陣外科を体験してきた父は、
        兵隊さんを救うのに、、、
         やって見なければ結果は分からないという
          戦場での外科は、挑戦して治療に当たらなければ
           目の前で、兵隊さんが死ぬのを観るだけだったという。

        やった事のない手術だって。余儀なくされることなど
        日常茶飯事に体験してきたはずの父なのに

          手のひらの、他人の身体の植皮は

             躊躇していた記憶が残っている。

         「お父さん!!「他人」と言っても、、
          「お母さんは」「同じ血で繋がっているんだよネ!」

           「付くかもしれないよ!!」

             私は本当に、、
          付くかもしれないと思っていたことは事実でした。

        「いや!、、母の皮膚と言えども、、、他人の皮膚は付かないんだよ。。。。」

         外科医として、父さんは「掌の 植皮」に メスを使う事は
           禁止されている行動に近いんだよ。

          しかし、、、今回は、、
            ありえない奇跡が、、
              理由を超えて、
                現実に起こるかもしれないという

        音楽家の、、お母さんの言う、、
          第六感が、、植皮する手術をしてほしいという
            根拠のない、、、成功に、、、
             外科医は耳を貸すのはタブーだという。

         しかし今回に限り、、、

         お父さんはタブーを超えて
          娘と母親の、、
          しかも、、掌の手術の執刀を、
          実行に移したいという、、、悪魔が命令している。

           

          絶対に、、してはいけない植皮手術なんだよ、、、と

           無口な父が、今回ばかりは、、私の意志にゆだねたいと
            小学生には過剰な説明をし始めた。

            体の中の、、拒否反応や、、移植の難しさなども
          小学生にはちんぷんかんぷんだった。
        特に、、免疫学に関しては
           昭和20年代は、、、学問そのものが
             日本は未熟であった時代であった。

     
        それでも、外科医の魂の中には、、、奇跡を信じて
        医学そのものが、、、謎の多い、、ワカラナイことの多い分野だけに

        外科医の心の中には、、奇跡を信じて執刀したいという

      医学を飲み込むことだってあるのかもしれない。

     
      医学の進歩はこうして、、謎解きの時代が続いたのだろう。

        解らないことが多いジャンルだけに、、、
         幼い時から、、、医学のパズルを解きたいと思っていた。

       女医になろうと、、、本気で考えていた時代だった。
              
       その手術は勿論失敗に終わったが、、、
        父はその日から17歳になるまで

       私の右手と付き合ってくれた。

           

       そして、、、私が19歳の時、、、
           父は、前の日に
            患者さんの内臓手術を成功させて 
              麻酔の覚めるのを待ちながら
                 早朝5時前に急逝した。

               

       娘の私の右手を完治させて、ピアノを弾く舞台を観た後
         緊張で、痙攣するようなほほを、、、して、、
           何か言いたそうでしたが、、、
             言葉にならないようでした。

       私が、母の主宰する「ピアノ教室の発表会」で
           お弟子の子供達の前で、

             母の為に、演奏をしたのは、この時の一回きりでした。

           
              「エリーゼの為に」を
                父母の長い長い戦いの勝利をたたえて
                母の為に、、、父の為に

                私は感謝の演奏を、、、一回だけ出演しました。

         そして19歳の冬の2月、、、
             父は、過労死で、、急逝しました。
        

        大勢の患者さんが父の周りで、、、
                声をあげて泣いていた。

        日大のESSの部員だった事もあり、
         英語劇で一緒に学際で盛り上がった部員の学生が
          焼香に来てくださったのに

        母も、長男夫婦も、、、学生だからと、、、
        丁寧に御礼の頭を下げただけで
         会葬御礼の葉書もお渡ししないまま
         「男兄弟の会葬者には、礼を逸する事のないように、、、」

         紙袋に、会葬御礼の一式を持ち帰っていただいていた。

        我が家は、、、男尊女卑の家庭であったことは、、、
         1人娘として、愛情を示されることはほとんどなかった。

          昭和生まれの女性は、家庭からも
           戦力には成らない、、、

          やがて「見知らぬ人の嫁に行く」
             外野扱いの多い、、、
          寂しい限りの男女差別に時代だった。

        人間として、友人や同級生の前で
         家族から、顔を立ててもらえるのは

                長男夫婦だけであった。

                次男になると、、、愛すべき母親の私物でしかないぐらい

           長男、、、、次男..
              .三女の戦争生き残りの、、、私など、、、

          戦争中に異国の戦場近くの宿舎で死んだ長女の
              紀由子、、、という名の姉さんが居たそうである。

          まつ毛は長くて、、、キューピーさんのように

             目が可愛かったそうであった。

           哀しくて、、その子がもう一度、自分のお腹から産まれて
          今度は、守り、初めての娘を もう一度、、、よみがえらせたいと

          私を産んだそうですが、、、

            私は母の嫌いな、、小姑に似ていたそうです。

           父の二人の妹の小姑は
            母は、苦手な女性だった。

           朝から晩までピアノを弾いていて
          お手伝いに子供をまかせっきりで

          演奏会などに出かける母のことを
         小姑の姉の方は、、、、

         ピアノを弾く以外に、
           何もしない人ね、、、、と言ったらしいのです。

         その女性は、父に言わせると
          しっかりした妹で、45歳で死んでしまった母親の代わりに
            家事をやり、2人の弟の世話をして、
              学問もしっかりと修めて
             東京の中学校の先生に成って、、、

               同僚の先生と結婚して

              4人のお子さんを立派に育てて

           御長男は東京工大から、世界を股にかけて飛びまわっていました。
         確かに、、、私の母は、、、お父さんと結婚してなかったら

        自己中な我儘は誰も受け止められないような

             クラシックの音楽に、生きた女性だった。

            医師は、クラシックの音楽家の

             スポンサーになるには、、あまりにも
           肉体と頭脳を患者さん時間に捧げすぎたように、、、思えた。

         クラシック音楽をスル女性は、、、
            確かに、、、秀逸なものを感じさせるが

            外科医の父には、、、手におえない
              「我の強い女性だったと振り返る。」

       
            煙草も吸っていた、、、。

           母から考えると、女性で、身体に傷のある事は
           工芸品に傷がある様な受け止め方をスル人だった。

         「お前は、、日本という男尊女卑の社会で、
           唯一、、女性の武器である「美貌」という武器が使えない。」

          「どんなに優秀であろうと、、、
              勉強が出来ても
                  日本の女性が、
                    生涯の仕事として周りから認められるのには
          女性としても、魅力的で美しくなければ
             仕事人として叩く資格はない。」
          母は、価値観が偏った女性であると、、、
              私は他人事のように聞き流しながら

           「お母さんだって、、美しい人というよりは

              キャリアウーマンんで、自分の為に生きることを優先する。」

          「手のヒラノ火傷は完治したし、、、

             お父さんに言わせると、、、
               この手の手術の傷跡は

                 イエスキリストが、人の罪を背負って
                   十字架にかかったのと同じだと思って

              お母さんのい言うことなどは

                 芸術家独特の、、、、美意識だから、、、

                女医になって、もっと、、多くの病気や創で苦しむ人が居るから
          その人たちの傷も、心も治せるように

         病気だけを、、、創だけを、、、機能だけを診る医師になるよりは

          人間の生きてきた環境や社会的な能力や、
             人間丸ごと診れる女医になって

             患者さんの心にも、身体にも、、、寄り添いながら

            医師が、患者さんを治癒してゆくのではなくて

           患者さんが、、
          「自分んで自分の病気を治すんだ」という気力を支えて

            患者さん自らが自分の病気を治すように、、、寄り添えるような

             謙虚な心の女医になれば、、、

            女性が美しい、、、というのは

               姿かたちや、、、能力だけではないのだからね。

              戦後の引揚者や、、、夫を亡くした未亡人

             傷痍軍人の働く意欲を亡くした姿、、、
           女性の美貌、、ウンヌンという時代ではないでしょう。

             東京から来た医師は、村を挙げて大歓迎されたが

               子供たちは「村中の子供からも、、大人からも、、」

             村人の自尊心を逆なでするような、、、
              恵まれた存在に見えた時代であった。

            医師の家族は、、、理由のない、、妬みと、
             本人に力がないのに、、、
                得ばかりしているように、、、見えた時代背景であった。

          いろりを囲んで、母と職員が向き合っていた時
            2歳半の私を、母は、職員の膝に預けた。

              母もすぐそばにいる目の前で

              2歳半の私を、膝から落としてしまい

              泣き叫ぶ私を、、、母は、、、

            「何しているの、、、早く抱き上げて、、、!!」

            いろりの対面側に居るから、、、自分で拾い起こせば

            こんなにひどいやけどには成らなかったのに、、、

            当時、、女中さんと呼ばれていた若い未熟な女性に

            「最後まで、、早く、ひろいあげなさい!!」

            怒鳴っていたというのです。

             ピアノの教師をしていたせいもあり

             子どものオムツは洗ったことが無いという、、、

              お手伝い任せの育児だったそうです。

           「お母さんは、、、何故?、、あの時、、、

                自分の手で、、お前を
                 いろりから救い上げる事をしなかったのかと、、、」

            大學に通う頃、、、くりことのように言う母でした。
           卒業の頃、、、、就職活動を始めねば、、、思い始めた時

            薬理の教授から
             「僕の恩師でもある、、、東京大学の医学部の薬理教室に
                2~3年勤めて来てほしい。
               東大の実験データーを大切に
                 その後は母校の、、僕の教室員として、働いてくれないかな?」

              君は、専門科目14科目のうち13個は優を取得していて
              その他に教職課程の教諭の資格も取得しているね。

            東京大学勤務の後は、、母校に戻ってきてほしい。」

           感謝でした、、、、母校に戻って消失に残れるのなら

            東大に行って、、衛生検査技師のような免許を生かして
              実験助手をするのも、、、実力が付くのではと思えた。

            「男女同権の世界に向けて、、、2年間や3年は、、、

                最下位の修行も悪くない、、と思えた。
           卒業後、、
           東大医学部の薬理学教室に勤務し始めた時は
           「公務員の3ヶ月だった。」
           4か月目からは、正規職員として、技官公務員になれるはずが
           寿退職する技官の欠員を
           おぎなってほしいという
          求人条件だったにも関わらず、
            破談になったから、、退職すると言っていた先輩は,

            辞めない事になってしまった。

            私は、教室雇いとして、残ってほしいと言われて

          「解りました、3か月間はお約束ですので、、勤務いたします。」

            ウレアーゼと、、、ヨウ素131ノ同位元素で
            体内動態の実験を始めて

             当時は、、犬の解剖が許されたので
            可哀想ですが、、、腎臓を100個ほどに外側から刻んでいって

            小さなコル便に入れて、、、Naと、Kの溶出して来るのを待って

            2倍3倍、、希釈から、、、100倍の希釈液を造り

            腎臓の、外側から、、内部までの、、
          NaとKの分布を把握したデーターを取り
             イヌリンを使って、腎臓の濾過の数字のデーターを取り

          薬物の動態を割り出したり、、ウレアーゼとの関連をデーター化したり

            コンマ以下4桁の濃度をデーター化するために

            氷点降下度の計算を応用して

             ガラス管を熱して糸のような毛細管を造り
            ミクロしかない検体を凍らして、、、融ける瞬間を

            顕微鏡でキャッチして 計算で量を測りデーターを造ってゆくという

          昭和42年ごろの実験としては、、、薬理の体内動態を
             各臓器の浸透圧と合体させて 人体の薬の行方を追う実験は
               結構、、夢中になれる仕事ではあったに違いがないが
           正規の公務員になれない教室員の月給は20000円前後であった。

           学会の前などは、、夜中まで自発的にデーターが揃うまで居残っても

          教室員の働きは、、、論文には名前は残らない。

           辞めるはずだった寿退職の流れた君は、

              「お願いだから,、、あなたなら、、
               何処にでも勤務できる若さだから
                今のうちに転職して、出て行ってほしいと言い出した。」
     
        こんなに月給の安いとこらは、、、すでに父の居ない私には重荷でもあった。

        名家のお嬢さんで、、父上さまがスポンサーで
        巷の垢の関係のない東大の職員は、、、
            お嬢様で、薬剤師の女性がふさわしいと 、、

                20000円の月給を手にして、、
          「この実験のデーターが揃ったら、、臨床薬剤師の修行に出ます。」
         退職願を出して 、半年後に、
         東京大学のゆかりの深い私立大学の臨床病院の薬剤部に異動した、

          月給は、2倍以上になって、、、さっそく労音んに加入して
          休日は近里を聴きに行くという、、、薬剤師になれたのでした。

         世の中、、、
           父の居ない事と、、、
               お金がないのは、、、
                 首が無いのと同じだという事を
              遠回りではありましたが実感したという
             世間知らずの、、若き日を、、、

           子育てが終わった50歳を過ぎてからも
          繰り返した、、人生でしたね。
         東大を辞めるという事が発表されてからは
          なんとなんと、、、考えもしなかった、、
            実験依頼を引き受けていた他科の先生から
                3人も、、結婚を申し込んでくれました。

               結婚には、、お金がかかります。
              特に東大の研究などしている先生は
            奥様になる女性の父上が、
           未来のハーバド留学の費用を出せる人か,、どうかで
          
         先生の運命も決まってしまいます。

        私は開業医の娘で、兄弟も日大の医学部卒業なので
        お金持ちと間違われたということが有るのかもしれません。

          父はすでに他界しているし、、、兄は父の後を継いで
                すでにお嫁さんが居るという条件下の、、、小姑は

             自立の為の居場所を手探りしていました。
            日本の男尊女卑、、、の構造は、、、
          したたかに、、難攻不落の城のように、、、女性の前に立ちはだかるという
          若き日の、、、世間知らずが、、世間に出た時の戸惑いを、日記に書いてみた。
         明日は、消去してしまうとは思うけど、、、思い出すことも
         就活への、、、心の統一になるはずだと御観ます。

          
             戦後の昭和生まれの、、、日本緒女性達。
            音羽信子の「ドブ」という映画を思い出すときもある・。
            私は、、父母のおかげで、身体に技術を付けることが出来た、
           アメリカに敗戦したころは
           日本は観光地は害かを稼いでいたのは
          「フジヤマ、、、芸者、、」、、、と言われたような時代だった。
         日本の男尊女卑は、、、いつまで続くのか、、、
         婆ちゃんは、、、母親だけは、、、男には務まらないと思うから
         母親の老後の居場所の保証を、、、政府が確立させれば
         子育て支援と二人三脚のように、、、
             少子化は、、、防げるのではなかろうか?

           猿之助さんと年老いた母の、、あまりにも、、政治の谷間に居る老女が
         立派に育てた子供の猿之助さんにも、、、仕事と老女の世話は出来ないという
        政治の在り方が、、、もう少し、、、子育てした主婦の老後に優しかったら

         素晴らしい役者を、、これほどの悲劇に、、
         追い込むことは無かったかもしれませんね。

         老いた両親を背負って、、、暖簾も守って、、、
          人気商売という、、、役者の厳しさは
           国が置いた老女の居場所を造っていたのなら、、、
             成り行きは違っていたかもしれませんね。

         歌舞伎の一部には、、素人が観ても、、面白いという
            猿之助歌舞伎は、、、決して、、歌舞伎の伝統を汚すものではなくて

           歌舞伎を理解できない若い人たちの、
                 歌舞伎への関心を持ち始める 
                   なくては ならない、若い人たちを
                     歌舞伎の伝統芸に向かってくる為の

                   真っ赤な鳥居のような役をしていたと思うのですがね~~
                 鳥居をくくれば伝統の神社がある様に

               神社のなんたるかが解らなくても、、、
               「赤い鳥居はくぐりたくなるでしょう??

                子どもも若者も、、、赤い鳥居は大好きだと思うのですがね、、、、
             親が死んでも舞台は欠席できない役者人生に
             老いた父母の居場所が無かった猿之助さんは、、、
          同情の余地は有る屠思いますよね。
         とかく、、日本は、、子育て終った婆さんは
           何処に行っても
             居場所がないから、、、
              年老いてゆく旦那の、、老老介護をしているうちに
             自分も年をとりすぎて、、手に負えなくなって

            一緒に死のうか、、、というのが、、、
            日本の老女の、、、楢山かもしれませんね。

             国際問題から、、、老女の居場所まで
            戦争と、北極海開拓の??砕氷船と、、、世界のデジタル化と

            紙という、、何百年も持つ記録を残しておかないと、、、
           デジタルはバージョンアップで周辺機器が無くなるから、、、
          紀元前に、スパコンが出来ていたら、、、
          量子パソコンになってしまっていて、、、VM21などは
          バカでっかいフロッピーを診る気もしないで、、、捨てるだろう。
          源氏も荷語りも、、、源平合戦も、、、蘇我入鹿の物語も
         残っていなかったKもしれないね~~~
                        

          人格は無視されることが多かった時代でした。

           
              多くの素敵な同年代のピアノの弟子を育てている母にとったら、、

            「点が動いて,、線になり、、、線が動いて面となる、、、

                現実を踏み台に、、、一瞬の時間とともに消える
                 音が一瞬が芸儒となる、、、、音楽家にとれば、
                 理屈で事を認識してゆくより、
               音叉のように響き合う、、、
               母自身、、、生きてると感じられる一瞬だったに違いありません。

              

                  母との心の会話は、、、すれ違う、、、母子でしたね。


        当時の社会では、、、
          吉岡弥生さん以外は、、普通の家からは
           女医になりたいなどというと、、、
             「女性には必要のないことだと
          
         よっぽど,、代々医師の家が続いているか?

         富豪の家でないと、、、東京女子医大に進学させる経済力は無かった。

        兄も、弟も医師になった。
      医師という職業の男の心には

         自分の学術や医術や経験が 
           目の前の患者の疾患に
            どんな医術も、、施せないとき、、、

        心が孤独になって、、、

         手術を執刀しないと、、
             納得できない、、
               、孤独な心の戦いが有ったのではなかろうか?

      私が、、失敗するということが解っている手術に応じたのは
        娘の私は,、、「火傷なんて運命」だと割り切っているのに

          親である、、「自分自身たちを攻め続けた両親」を観ている方が

          私には、、、もどかしかったのである。

          女医には成らなかったけど
          父の為に、、医学部を受験して、合格証書だけは
          父に見せることが出来た。
        考か不幸化、、一つ違いの年子の兄が
        補欠で合格、私の方が、、正規合格。
        補欠の兄は、、医師になる事を、ひどく嫌っていた。
      カンッォ~ネも、言語で歌い、語学が達者で
       パリパリの文科系の脳の傾向が目立った。
         絶対音の持ち主で、、母は、この兄を溺愛していた。
         医師の補欠合格を知った時も、
        落ち込んでしまって、、、
        「人間を解剖するぐらいなら、、、自分の方が死にたいよ、、、」
          「江戸川の蓋が空いてるから、、、思いっきり飛び込んで来たら!!」
        私は、医学部を受けたくないというこの、、年子の兄の為に
        一緒に受験してきなさいと、、、母と長男から言われて
        「仮に合格しても、、
            お前は女性なんだから
               医学部にはやれないから」と言われた。」
        父だけが、、「お前は女医になりなさい。」と、、、
                めっきり衰弱した雰囲気で、励ましてくれた。

        家族のご機嫌は、、すごく斜めで、、、
         長男が、補欠合格に払うぐらいなら、、、と
          セドリックの病院車を買ってしまい、、、

         二人とも、、医学部は辞退という事になり、、、
         どなたもぎくしゃくすることなく、、、
        医師になる役は、、

             弟に、全員の期待が寄せられました。
        弟は幼いころから、、我が家の太陽のような性格で
        父は、弟の存在で、、、どんなに心が癒された事だろう。
       家族全員が、我が家の太陽のように、、、
       幼い時から、、弟の天然の大樹の勢いを
       家族全体を、、、明るく頑張らせてくれる雰囲気を持っていた。


        国立医学部を目指す弟の為に、、、私は
        食事をつくらない母に代わって、、、
         夕食も夜食のラーメンに、、、卵を入れて、
        三つ葉を入れて、
        白魚を撒いて、、、
         兄弟の結束の時間だった。
         
        弟が、、千葉大学の医学部に合格!!!

         千葉に弟が下宿して、、家を出て行ってからは
         20歳を目の前に、、、
         男尊女卑の家庭の中で、
         父の54歳の早逝、、、
         若き医師夫婦の長男が後を継ぎ、、、
         大学生の弟の保護者同様の、責任を背負ったのだから。
         私一人だけでも、、、
           兄の肩に負担をかけてはならないと思うと

         私の居場所はどんどんなくなりましたね、、、

         当時の男尊女卑の戦後の日本では
         父の居なくなった男性家庭で
         女子が大學に行くというだけで、、、

         男が社会に出てゆくお金を
         女のお前が、、、つかっていいのか?

        「 2年後に父が夭逝することを予感していたのだろう、、、、、。
          学生結婚も、、、開業の後継ぎとして
          父が健在の内の方が、、、
           嫁になるご両親から、、、歓迎されると、、、
           先読みしたのかもしれない。
          
       兄は、怪物に近いともいえる、、
          明治生まれの「音楽大学卒業」で
        自分自身で音楽教室を主宰して、自立志向の旺盛な医師の妻という

        母が、、、双肩にかかってきたのだから、、、ね。

        どうやって守ればいいのだと!!??


        先手先手に考えて、、、
        小姑の妹の、、厄介払いに集中したというわけだと
         納得がいったのは、、、父が早逝した後、、、
          千葉eye医学部に進学した弟に、、、
         集中的な応援をしたかったのだと思いましたね。

        医学部に進学しなかった年子の兄は、父の無くなった後
         ドイツの外資系の会社に赴任してゆきましたね。

               父の死、、、
  、
         責任感で、、、押しつぶれそうになった兄が、、、

       父の診療所に、回転式の二重造影のレントゲン室をつくったり、、、
       時代について行こうと、、、診療の傍ら、、、
        憧れだったがんセンターの研修生になって
         胃カメラの専門医を許された時

         「賞状を私に見せて、、言いました、」

         「これを許されたからには、、、母も、弟の応援も出来る、、、と思わないか?」

      「親父が、、こんなもの残すから、、、どうしていいかワカラナイで、、、

     苦しんだんだぞ、、、!」

       大丈夫! 弟は、、、カミソリみたいな兄と違って
         大ナタを振るう、、ダイナミックな男だから、、、


       

          現実は、、、計画どうりには行きませんでしたね。

          日本の男尊女卑は、、、根が深い!!

        母と約束したことなんて、、、

               その場限りの、、、言葉だったという事ですね。

           同じことを父に言ったのだとしたら、、、

           二人とも、実家の支柱になるべく、、、帰郷していたかもしれませんね。

         これからの女性は、、、
            本当に、、、
              男女同権になれるのだろうか?

         



          54歳の、、冬の早朝、、5時前、、、

            私は兄の、密やかな声で、、起こされた。

          「お父さんおてゃまだ暖かい、、、すぐ起きて、、握っていろ!」

          母は起こさなかったようだった。

           私と、年子の兄と、、、弟は、父の手を握っていた。

          暖かかった手が、、、つるつるになって、、冷たくなっていった。

         医師になって一年目の兄は、、
       心臓マッサージを、、、
      いつまでも、、、いつまでも、、

         続けていた。

     私と、、後日医師になって、日本のCTや画像診断の開発に携わり
       日本の医学会の戦後の復活期の団塊の世代の一人として
         昭和時代の日本の医学の歴史に貢献できるKトをやってのけた

         当時高校生の弟と、、、兄は 4人兄弟だけを起こした。

          母も、、お嫁さんも、、、父が死んでゆく旅路には

           ソート寝かせておいたのは、、、兄の、、心が

            東大受験を失敗する前の状態に戻っているようで、、、

        未来の医療人だけに、、、
            荘厳な父の死という、、、
                ブラックホールの体験を

                   手を握らせることによって

             医師となった兄は、父に、、弟妹は引き受けた!!と

            心で叫んでいたのかもしれない。

        
           

     
     
    

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